K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

ギャスパー・ノエ『LOVE【3D】』

2016年09月06日 | 映画
鑑賞したのは4月なのでいつの話だよって感じの更新ですが、今年は観た全作の感想をまとめようと思ってるのでがんばります。※これから映画の更新が続くかもしれませんがあしからず!

ギャスパー・ノエ監督の『LOVE【3D】』の感想をば!「愛は善悪を越える。」というキャッチコピー通り、悪事を無力化する主人公マーフィーの深い愛情に圧倒される作品でした。



<Story>
一月一日、早朝。電話が鳴る。マーフィーは目覚める。傍には若い妻オミと二歳の息子ギャスパー。
彼は留守番電話を聞く。エレクトラの母だ。心労で声がやつれ、娘から連絡はなかったか知りたがっている。
エレクトラはずっと行方不明なのだ。母は、娘に何かあったのではないかと心配している。
いつまでも雨のやまない一日、マーフィーはアパートにいて、彼の生涯最大の愛を思い返す。エレクトラとの二年間を。
いつまでも続くはずだった、駆け引きに満ち、時に行き過ぎた、過ちだらけの、焼けつくような情熱の日々を…。(オフィシャルサイトより)


基本的にはバロック音楽を背景にセックスを描写するシーンが中心ですが、この映画はそれだけではありません。この映画のタイトルが"Sex"ではなく"Love"を標榜しているのも納得の深い愛をテーマにした映画です。

主人公のマーフィーは、共通の女友達オミとの浮気が妊娠で発覚し、彼女エレクトラに捨てられた過去を持つ青年。それにも関わらず、エレクトラのことを引きずり、周囲にも当たり散らす姿に、最初は「自業自得だろこのバカ!」と苛立ちを覚えますが、次第にその行為が、マーフィーの愛情の深さの裏返しであることに気づいていくわけです。このマーフィーの横暴さはとんでもなく強い執着がゆえだったのです。



ではその強い執着の源とは一体なんなのか、それこそが「美しい出会い」に当たるわけですね。事実、エレクトラとの出会いの回想シーンは鳥肌が立つほど感動的に描写されます。美化された出会いと愛情、そこでようやくマーフィーのメンヘラ度合いに妥当性が付与されるわけです。



過去の回想シーンでは、マーフィーのアメリカ性が執拗に強調され、フランス人のエレクトラに対して頻繁に"Protect"という単語が使用されます。
アメリカはフランスから自由を輸入しましたが、マーフィーが責任のない自由(エレクトラ以外の女性とのセックス)を発端として破滅していくのは実にサルトル的な表現でしょう。エレクトラという名前も真っ先に浮かぶのは「エレクトラ・コンプレックス」であり、確かにエレクトラは母子家庭で育った分、父性的愛情(絶対に裏切らないという絶対的な愛情)をマーフィーにも求めているようにも感じられます。しかし、マーフィーはエレクトラの求める愛情に結局応えられなかったわけです。

結局マーフィーは子供なのです。だからこそ、エレクトラの求める父性的な愛情を満たせなかったし、自業自得の過去を受け入れられずに息子ギャスパーと妻オミという現実に向き合えない。精神的に大人になる前に、子持ちの大人になってしまった青年。マーフィーが幼い息子に向かって"I am lost"と対等の目線で語っているシーンが印象的です。マーフィーはギャスパーに自己投影をしているわけです。
ラスト、膝を抱えて浴槽に浸かっているシーン、あれはまさに胎児さながらの格好で、失意の過去から目覚めなければならないことを示しているようでもあります。赤くなった背景は川端康成の「眠れる美女」さながら、胎内へと帰り生まれ変わらなければならないという暗喩のようでもあります。
エンドクレジットで流れるバッハの「ゴルドベルク変奏曲」もまた元来睡眠導入のための曲ですから、それは叶いもしない愛情に身を落とす全世界の男たちに向けたレクイエムにほかならないでしょう。セックスシーンの構図やシーンは素晴らしく、画作りは完璧に近い。紛うことなき傑作です。



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