ティム・バートン監督の最新作『ビッグ・アイズ』を鑑賞しました。ティム・バートンといえば『チャーリーのチョコレート工場』や『アリスインワンダーランド』など、ファンタジーな世界観に定評のある監督ですが、今回は珍しく実話に基づいた作品です。妻であるマーガレット・キーン(エイミー・アダムス)の作品を自分が描いたと偽って発表し、世間を騙し続けたウォルター・キーン(クリストフ・ヴァルツ)の盛衰を中心に描いたのが本作になります。※あくまで主役はマーガレットですが……
前半は前夫と別れたマーガレットがウォルターと出会うまでのメロドラマ的な展開で始まりますが、そこから名声を求めてウォルターは徐々に変貌していきます。内気なマーガレットも横暴なウォルターに反発し始め、夫婦関係(協力関係?)は険悪なものに……。最終的に娘と妻へのドメスティックバイオレンス(『シャイニング』のジャックニコルソンみたいに!)にまで至るウォルターから逃げて、マーガレットは娘を連れハワイに移住。そこで夫と絵画の利権を争う訴訟を起こし、実際に「ビッグ・アイズ」を描いたマーガレットが勝訴するシーンで物語は幕を閉じます。
1.二重の母親としてのマーガレット
マーガレットは終始娘のジェーンと行動を共にします。冒頭の前夫から逃げ帰るシーンに始まり、日曜画家として公園で絵を描くシーンや夫ウォルターから逃げるシーン、訴訟することを決意する瞬間まで……離婚後もジェーンの親権を頑なに手放さなかったことからも、マーガレットが娘に対して並々ならぬ愛情を注いでいたことがわかります。(母親としては当たり前なのかもしれませんが)
最後のエンドロールでは、実際のマーガレットとジェーンが仲睦まじく写っている写真が流れるのですが、その写真からもマーガレットの深い母性愛が滲み出ていました。
マーガレットにはそうした「ジェーンの母親」としての側面もありながら、同時に「ビッグ・アイズという作風の母親」という側面もあります。
マーガレットが自身の作風「ビッグ・アイズ」をウォルターに奪われていく最中で「我が子を失ったよう」という表現をしています。自分が画学生の頃から変えていなかった作風ですから、我が子並みの愛着も湧くというものでしょう。「私は、自分の最も深い感情を子供たちの瞳で表現しています。目は心の鏡ですから。」と述べるマーガレットの確固たる理念からも、その画風への深い愛着が読みとれます。
対してウォルターはと言えば他人の画風を用いてでも画家としての名声に拘った(=自身の画風が無い)人物になりますが、同時に愛情のない人間としても描かれています。義理の娘ではありながら、ジェーンやマーガレットに対する愛情は薄く、自身の画風に対する理念(=生みの親としての愛情)も無いウォルターは、父親としても画家としても偽物でした。
作品のコピー(キッチュ)を積極的に販売するウォルターの姿勢からも、絵画に対する愛着よりもビジネスとしての成功(=名声の獲得)に重きを置いているように感じられます。「コピーを売る」という行為自体が偽物のウォルターを暗示しているようでした。(個人的には同時期のアメリカン・ポップアートが歩んだ「Brillo Box」を代表とする複製芸術時代の到来が感じられて良かったですが……)
話自体も面白いですが、マーガレットの「母性」を非常に感じる映画でもありましたね。
2.ティム・バートン的世界観
先日東京で「ティム・バートンの世界展」という展覧会がやってましたが、彼の作品には彼特有のファンタジーな世界観が表現されています。先述した通り、今回の作品は実話がベースになっている点で従来の作品とは少し性格を異にしています。
しかし、彼の世界観は本作でも基本的には崩れていません。それはマーガレットの「ビッグ・アイズ」という作風そのものが、彼の世界観にかなり重なるからです。(もちろん、マーガレットの神経衰弱で一般人の顔が「ビッグ・アイズ」に見えてしまうという多少の脚色はあるものの)
ティム・バートン『フランケン・ウィニー』
マーガレット・キーン《Tomorrow Forever》
そういえば奈良美智の作品も眼の大きい子供が主題として描かれていますね。あと、かわいい系じゃなければ日野之彦も眼が異様に大きい画風でした。マーガレット・キーン~ティム・バートン~奈良美智~日野之彦……「大きい眼」という題材は世代や地域を越えて通じるものがあるのかもしれませんね。(「眼は口ほどにものを言う」なんて言い回しもありますし……)
奈良美智《Cosmic girl》
日野之彦《花に埋まる》
そういえば私の弟の作品も眼が大きかったな……
多田恋一朗
映画の冒頭で提示されるアンディ・ウォーホルの「いい作品でなければあんなにたくさんの人々に愛されない」という評も自然と納得されます。
マーガレット・キーン《The First Grail》
前半は前夫と別れたマーガレットがウォルターと出会うまでのメロドラマ的な展開で始まりますが、そこから名声を求めてウォルターは徐々に変貌していきます。内気なマーガレットも横暴なウォルターに反発し始め、夫婦関係(協力関係?)は険悪なものに……。最終的に娘と妻へのドメスティックバイオレンス(『シャイニング』のジャックニコルソンみたいに!)にまで至るウォルターから逃げて、マーガレットは娘を連れハワイに移住。そこで夫と絵画の利権を争う訴訟を起こし、実際に「ビッグ・アイズ」を描いたマーガレットが勝訴するシーンで物語は幕を閉じます。
1.二重の母親としてのマーガレット
マーガレットは終始娘のジェーンと行動を共にします。冒頭の前夫から逃げ帰るシーンに始まり、日曜画家として公園で絵を描くシーンや夫ウォルターから逃げるシーン、訴訟することを決意する瞬間まで……離婚後もジェーンの親権を頑なに手放さなかったことからも、マーガレットが娘に対して並々ならぬ愛情を注いでいたことがわかります。(母親としては当たり前なのかもしれませんが)
最後のエンドロールでは、実際のマーガレットとジェーンが仲睦まじく写っている写真が流れるのですが、その写真からもマーガレットの深い母性愛が滲み出ていました。
マーガレットにはそうした「ジェーンの母親」としての側面もありながら、同時に「ビッグ・アイズという作風の母親」という側面もあります。
マーガレットが自身の作風「ビッグ・アイズ」をウォルターに奪われていく最中で「我が子を失ったよう」という表現をしています。自分が画学生の頃から変えていなかった作風ですから、我が子並みの愛着も湧くというものでしょう。「私は、自分の最も深い感情を子供たちの瞳で表現しています。目は心の鏡ですから。」と述べるマーガレットの確固たる理念からも、その画風への深い愛着が読みとれます。
対してウォルターはと言えば他人の画風を用いてでも画家としての名声に拘った(=自身の画風が無い)人物になりますが、同時に愛情のない人間としても描かれています。義理の娘ではありながら、ジェーンやマーガレットに対する愛情は薄く、自身の画風に対する理念(=生みの親としての愛情)も無いウォルターは、父親としても画家としても偽物でした。
作品のコピー(キッチュ)を積極的に販売するウォルターの姿勢からも、絵画に対する愛着よりもビジネスとしての成功(=名声の獲得)に重きを置いているように感じられます。「コピーを売る」という行為自体が偽物のウォルターを暗示しているようでした。(個人的には同時期のアメリカン・ポップアートが歩んだ「Brillo Box」を代表とする複製芸術時代の到来が感じられて良かったですが……)
話自体も面白いですが、マーガレットの「母性」を非常に感じる映画でもありましたね。
2.ティム・バートン的世界観
先日東京で「ティム・バートンの世界展」という展覧会がやってましたが、彼の作品には彼特有のファンタジーな世界観が表現されています。先述した通り、今回の作品は実話がベースになっている点で従来の作品とは少し性格を異にしています。
しかし、彼の世界観は本作でも基本的には崩れていません。それはマーガレットの「ビッグ・アイズ」という作風そのものが、彼の世界観にかなり重なるからです。(もちろん、マーガレットの神経衰弱で一般人の顔が「ビッグ・アイズ」に見えてしまうという多少の脚色はあるものの)
ティム・バートン『フランケン・ウィニー』
マーガレット・キーン《Tomorrow Forever》
そういえば奈良美智の作品も眼の大きい子供が主題として描かれていますね。あと、かわいい系じゃなければ日野之彦も眼が異様に大きい画風でした。マーガレット・キーン~ティム・バートン~奈良美智~日野之彦……「大きい眼」という題材は世代や地域を越えて通じるものがあるのかもしれませんね。(「眼は口ほどにものを言う」なんて言い回しもありますし……)
奈良美智《Cosmic girl》
日野之彦《花に埋まる》
そういえば私の弟の作品も眼が大きかったな……
多田恋一朗
映画の冒頭で提示されるアンディ・ウォーホルの「いい作品でなければあんなにたくさんの人々に愛されない」という評も自然と納得されます。
マーガレット・キーン《The First Grail》
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