「なお、題名の"Двойник"ドイツ語の"Doppelgänger"は、もともと、同時にちがった場所に現れる人物のことで、多分に民間伝承的な奇怪な要素を含んだ言葉であって、日本語には翻訳しがたいものの一つである。従来『二重人格』『分身』等の訳語が使われ、心理学的要素に重点をおくか、相似関係に重点を置くかによって訳語が異なってくるわけであるが、訳者の好みによって心理学的意味に重点をおき、あえて『二重人格』のままにしておいた。」
(ドストエフスキー作、小沼文彦訳『二重人格』あとがきより引用)
英語でいうと"The Double"という本作品。上記小沼文彦氏も述べているように原題の「Двойник」というロシア語は訳するに難しく、日本では小説のタイトルが『二重人格』、昨年公開となった映画が『嗤う分身』と、綺麗に訳語が異なっております。
個人的には既に「ドッペルゲンガー」という単語そのものの意味が浸透した昨今においては、単純に『ドッペルゲンガー』というタイトルでも良いのでは無いかと思っていますがどうなんでしょう?(ドッペルゲンガーに会ったら死ぬ、という変な尾ひれ付きではありますが※「地獄先生ぬーべー」でおなじみ←)
因みにタイトルに関してもう少し言及しますと、ロシアの映画サイトでは映画でも原題をそのまま使用しているようです。しかし奇妙なのは英語圏でのタイトルが民間伝承的なドッペルゲンガーの要素のない"The Double"を使用しているという点です。(英語圏にはちゃんと"Doppelganger"という単語があります。※ネットで軽く調べただけですが……) 映画の内容的には「二重人格」の要素はあまり無かったような気もしますが、タイトルからして既に曲者のような作品になります。
つまり、この作品は解釈の仕方によっては、心理学的要素に富んだものにもなりますし、ドッペルゲンガー的神秘性に溢れたものだと捉えることも可能なわけです。
「二重人格」というキーワードからは今敏監督の「Perfect Blue」(1998年)やダーレン・アロノフスキー監督の「ブラック・スワン」(2010年)が想起されますが、今回の映画『嗤う分身』には「二重人格」的な要素は殆ど無く、まさしく「ドッペルゲンガー」そのものの話になります。作品内では主人公と相似な存在「ドッペルゲンガー」が実体として存在しており、その「ドッペルゲンガー」との立ち位置を巡って主人公が争うという構成になっているのです。
それに対して、小説版の『Двойник=二重人格』の方が心理学的な要素が強い(訳者の好みが影響しているのかもしれませんが…)です。小説ではかなり幻想的な表現が訳に用いられており、まるで主人公の独りよがりな妄想が犯人だったと読めそうな仕立てになっていました。読後感は『ブラック・スワン』の鑑賞後の印象とかなり近しいですし、実際に岩波文庫の文句にも「自分という幻覚」と記載されています。
※個人的には原題の意味が「ドッペルゲンガー」になっていることから「Двойник」は相似関係で解釈するのが良いのかなと考えていますが。
ただ、「Двойник」という単語をどちらの意味で解釈しようとも、この作品に内在する本質は同一のように思えます。双方とも現在の自分に満足出来ないフラストレーション、即ち現状と理想が乖離していることへの不満が発露した形として「Двойник」が描出しているためです。(映画冒頭の"You are in my place."という台詞が本質を物語っているよう)
主人公は出世欲が強いものの特に才能のない小役人で、想いを寄せる女性も居るのですが、なかなかアプローチができない冴えない男です。そして、突如出現(主人公の認識としては「転勤」という形で)したドッペルゲンガーに彼の叶わない願望を悉く叶えられてしまいます。仕事も要領よく(さぼるところはさぼる、というか主人公を利用する)こなして上司に取り入り、主人公が想いを寄せていた女性もものにしてしまい、挙句主人公を侮っていくようになります。どんどん自身の目的に近づいていっているドッペルゲンガーの所業に、主人公は次第に自分の存在価値、存在可否に疑念を抱くようになっていき、最終的に映画では自傷行為に及ぶことで、小説では精神錯乱に陥ることでその幕を閉じます。
「現状に満足できないフラストレーション」というのは現在でも(というか時代・地域を超えて普遍的な)多くの人々が悩んでいる問題です。そういう意味でこの作品は現在でも十分通用しますし、ドストエフスキーの先見性(人類の進歩の無さ)につくづく感嘆する(呆れ返る)ばかりです。
小説は冗長な表現が多くてちょっと退屈かつ時間を要しますが、映画はカットのテンポがよく、演歌も巧みに挿入(!)されていてとても見やすいので、お時間の無い方は是非ご覧くださいませ。
「ペンをおくに当たってお願いいたしますが、他人がこの世に占めている存在の場所からそれらの人々を締め出し、それに取って代わろうとする彼らの奇妙なる要求や下劣なる空想的要望は、驚愕と軽蔑と憐憫に値いするばかりでなく、さらに精神病院にも値いするものであることを、これらの人々にお伝えください。さらにまたかくのごとき態度は法律によってもかたく禁ぜられているものですが、小生の意見によれば、それはまったく正当なことであります。なんとなれば、人は誰でも自分の位置に満足すべきものであるからです。すべて物事には限界というものがあります。そこでもしもこれが冗談であるならば、不作法きわまる、不道徳きわまる冗談と言わざるをえません。なんとなれば、あえて断言いたしますが、自分の位置云々という上記の小生の思想は、純道徳的なものであるからであります。」
ドストエフスキー作、小沼文彦訳『二重人格』
(ドストエフスキー作、小沼文彦訳『二重人格』あとがきより引用)
英語でいうと"The Double"という本作品。上記小沼文彦氏も述べているように原題の「Двойник」というロシア語は訳するに難しく、日本では小説のタイトルが『二重人格』、昨年公開となった映画が『嗤う分身』と、綺麗に訳語が異なっております。
個人的には既に「ドッペルゲンガー」という単語そのものの意味が浸透した昨今においては、単純に『ドッペルゲンガー』というタイトルでも良いのでは無いかと思っていますがどうなんでしょう?(ドッペルゲンガーに会ったら死ぬ、という変な尾ひれ付きではありますが※「地獄先生ぬーべー」でおなじみ←)
因みにタイトルに関してもう少し言及しますと、ロシアの映画サイトでは映画でも原題をそのまま使用しているようです。しかし奇妙なのは英語圏でのタイトルが民間伝承的なドッペルゲンガーの要素のない"The Double"を使用しているという点です。(英語圏にはちゃんと"Doppelganger"という単語があります。※ネットで軽く調べただけですが……) 映画の内容的には「二重人格」の要素はあまり無かったような気もしますが、タイトルからして既に曲者のような作品になります。
つまり、この作品は解釈の仕方によっては、心理学的要素に富んだものにもなりますし、ドッペルゲンガー的神秘性に溢れたものだと捉えることも可能なわけです。
「二重人格」というキーワードからは今敏監督の「Perfect Blue」(1998年)やダーレン・アロノフスキー監督の「ブラック・スワン」(2010年)が想起されますが、今回の映画『嗤う分身』には「二重人格」的な要素は殆ど無く、まさしく「ドッペルゲンガー」そのものの話になります。作品内では主人公と相似な存在「ドッペルゲンガー」が実体として存在しており、その「ドッペルゲンガー」との立ち位置を巡って主人公が争うという構成になっているのです。
それに対して、小説版の『Двойник=二重人格』の方が心理学的な要素が強い(訳者の好みが影響しているのかもしれませんが…)です。小説ではかなり幻想的な表現が訳に用いられており、まるで主人公の独りよがりな妄想が犯人だったと読めそうな仕立てになっていました。読後感は『ブラック・スワン』の鑑賞後の印象とかなり近しいですし、実際に岩波文庫の文句にも「自分という幻覚」と記載されています。
※個人的には原題の意味が「ドッペルゲンガー」になっていることから「Двойник」は相似関係で解釈するのが良いのかなと考えていますが。
ただ、「Двойник」という単語をどちらの意味で解釈しようとも、この作品に内在する本質は同一のように思えます。双方とも現在の自分に満足出来ないフラストレーション、即ち現状と理想が乖離していることへの不満が発露した形として「Двойник」が描出しているためです。(映画冒頭の"You are in my place."という台詞が本質を物語っているよう)
主人公は出世欲が強いものの特に才能のない小役人で、想いを寄せる女性も居るのですが、なかなかアプローチができない冴えない男です。そして、突如出現(主人公の認識としては「転勤」という形で)したドッペルゲンガーに彼の叶わない願望を悉く叶えられてしまいます。仕事も要領よく(さぼるところはさぼる、というか主人公を利用する)こなして上司に取り入り、主人公が想いを寄せていた女性もものにしてしまい、挙句主人公を侮っていくようになります。どんどん自身の目的に近づいていっているドッペルゲンガーの所業に、主人公は次第に自分の存在価値、存在可否に疑念を抱くようになっていき、最終的に映画では自傷行為に及ぶことで、小説では精神錯乱に陥ることでその幕を閉じます。
「現状に満足できないフラストレーション」というのは現在でも(というか時代・地域を超えて普遍的な)多くの人々が悩んでいる問題です。そういう意味でこの作品は現在でも十分通用しますし、ドストエフスキーの先見性(人類の進歩の無さ)につくづく感嘆する(呆れ返る)ばかりです。
小説は冗長な表現が多くてちょっと退屈かつ時間を要しますが、映画はカットのテンポがよく、演歌も巧みに挿入(!)されていてとても見やすいので、お時間の無い方は是非ご覧くださいませ。
「ペンをおくに当たってお願いいたしますが、他人がこの世に占めている存在の場所からそれらの人々を締め出し、それに取って代わろうとする彼らの奇妙なる要求や下劣なる空想的要望は、驚愕と軽蔑と憐憫に値いするばかりでなく、さらに精神病院にも値いするものであることを、これらの人々にお伝えください。さらにまたかくのごとき態度は法律によってもかたく禁ぜられているものですが、小生の意見によれば、それはまったく正当なことであります。なんとなれば、人は誰でも自分の位置に満足すべきものであるからです。すべて物事には限界というものがあります。そこでもしもこれが冗談であるならば、不作法きわまる、不道徳きわまる冗談と言わざるをえません。なんとなれば、あえて断言いたしますが、自分の位置云々という上記の小生の思想は、純道徳的なものであるからであります。」
ドストエフスキー作、小沼文彦訳『二重人格』
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