
我が母校の田辺高校が甲子園に登場するらしい。
これはまたどうしたことか。
田辺高校は地元では田高(でんこう)と呼ばれていたので、田辺高校と聞いてもどこか他所の高校のような感じがしてピンとこない。
私の頃の田高は、戦前の旧制田辺中学校(でんちゅう)の学舎をそのまま使っていて、板張りの兵学校の風情が残っていたから、明治大正期の気負った学びの雰囲気があった。
紀南の伝統校ではあったが、校舎だけではなく全ての設備が耐久限度を超えていてボロボロの状態であった。
校舎の外壁の板張りはあちこち剥がれ落ちて土壁が見えていたし、教室の漆喰壁も腰板の上は土壁が朽ちて隣の教室が見えていた。
木製窓のガラスには気泡のある明治期の板ガラスが割れずに残っていて、そこだけが少し歪んだ曇った光を投げかけていた。
校舎の壁に白ペンキで
『君はイタリア映画「自転車泥棒」を観たか』
と立看よろしく大書してある風情のある高校であった。
夜間高校が併設されていたから土方をして生活費を稼ぐ下宿生や、留年を繰り返して成人になったおっさん高校生などもいて楽しく賑やかであった。
そんな趣のある高校も卒業の年に現在の場所に移転して建て替えられた。
だから私はあの古き良き学舎の最後の卒業生ということになる。
私の頃の田高の運動部は、勝ち負けに拘らない(?)という妙な大らかさがあったように思う。
私のやっていたボート部も、戦前の「漕艇部」の部名を掲げていて、試合に勝つことよりも個人の心身の鍛錬に重きを置いていたように思える。
野球部も明治期に創設されていて、戦前はそれなりに強かったという事になってはいたが、何せ県内に野球部が旧制和歌山中学(現桐蔭高校)と旧制田辺中学しか無かった時代の話で、これはボートも同じで、私の頃も県内にはボート部が二校しかなかったから、桐蔭と県大会を戦い、勝てば優勝、負けても準優勝ということで、どちらもボート強豪校ということになっていた。
私の頃の野球部は、毎日懸命に練習はしていたが、大体は一回戦で敗退していた、選手や関係者は怒るだろうが田高生には一回戦で負けることが田高の誇り(?)というようなおかしな空気さえあったように思う。
地方の伝統校は人口が少ないので偏差値が都会校のように高くならないが、とびきりの奇人変人や超優秀な逸材が紛れ込んでいることが多い。 大体は周りと歩調が合わず退学になってしまうのだが、私の頃の田高にはそういう生徒が多くいたように思う。
時代は変わり、田高も普通の生徒の多い普通の高校になっているのかも知れんね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます