平らな深み、緩やかな時間

52.『オルセー美術館展』『チューリヒ美術館展』

休日でしたが、少し早起きをして、国立新美術館まで行ってきました。
いまさら、オルセーの名画でもないだろう、と思ってはいたものの、会期の終わり頃になって、やはり覗いてみてもいいかなあ、今行けばチューリヒと一緒に見られるし・・・、などと考え直しました。
どちらの展覧会も混雑するだろう、と思ったので、早めに家を出ました。美術館の前に来ると、オルセー美術館展の券だけが外の券売所で売っていたので、美術館の方に話を聞くと、やはりオルセー美術館展が混雑するとのことでした。それでは、ということでオルセー美術館展から先に見ることにしました。会場は混雑していたものの、待ち時間もなく入場できました。見終わって外に出てみると、入場制限で待っている方の長い列ができていました。やはり、すごい人気…。日本人は、ミレーなどの自然主義から印象派の頃の絵が好きですね。

『オルセー美術館展』について。
オルセー美術館には名画がたくさんあります。
しかし、さまざまな機会に見てきたものが多く、また、今の自分には興味が持てない作品も正直に言ってあります。それに今回は、フランスの近代に人気のあった作品、つまり後から認められた作品ばかりではなくて、同時代に人気のあった作品も展示されています。「歴史画」のコーナーの作品が、主にそれにあたります。「歴史画」というジャンルそのものが、いまの私たちにはわかりにくいものですが、オルセー美術館をちゃんと紹介するならば、こういう作品群も必要でしょう。
とはいえ、チューリヒ美術館展も見たいので、これらの作品を気持ちの中でパスしながら進んでいきます。これはすぐに見終わってしまうかな、と思ったのですが、奥に入っていくとセザンヌの作品が思ったよりも多く展示してあって…、ということもあって、結構ていねいに見ることになりました。
展示にも、工夫がありました。
先ほど触れたように、歴史画や風景などジャンルごとに並んでいるので、違う作家の見ごたえのある作品を見比べることも可能です。オルセー美術館の質と量の中から選ばれた作品だから、そうなるのでしょう。例えば有名なセザンヌの『首吊りの家』が、ピサロの出来の良い風景画と並んでいます。ピサロ独特の柔らかな空間の魅力はさりげないものですが、セザンヌの厳しい硬質な空間と比べると、その持ち味がよくわかります。さらに一緒に並んでいたルノワールの風景画と比較すると、ルノワールの柔らかさがいささか甘すぎて、とりとめのない感じがするのに対し、ピサロの風景は柔らかだけれど渋く、複雑な味わいがあり、絵画空間としての平面的な抵抗感を感じさせることに気がつきます。ピサロはセザンヌの尊敬を得ていた数少ない画家ですが、ただ人柄のよい画家だったというだけでなく、その作品の質に理由があったことが、再認識できます。
他にも、例えば裸婦のコーナーを見ると、ミレー、クールベ、ルノワールらの女性を描いた絵が並んでいます。この中では私にとって、クールベの作品が群を抜いて光って見えます。その肉体描写の触覚性や存在感などが、他の画家たちとは違って見えるのです。すごく実感がこもっていて、偏執的なこだわりのようなものすら感じます。そして裸婦の部分以外の画面は、あまり気にしていないようにも見えます。クールベの作品は、そういうアンバランスなものを感じさせることが、多々あります。
それから、ミレーは他にも有名な作品が展示されていましたが、画集や写真ではなくて、こうして本物の作品を見ると、その描写に甘さがあるような気がしてなりません。これはかなり罰当たりな感想になりますが、ミレーは描写力よりも主題の選び方にセンスがある画家、というのが私の評価です。クールベはその逆ですかね…。
それから、静物画のコーナーに、セザンヌと並んでモンティセリの作品があったのはうれしいことでした。あまり見る機会のない画家ですから…。展示の案内板(解説)に何も書いていないので、多くの人が素通りしていましたが、両者の作品が並んでいることに意味があるのです。その理由は、このブログの7月13日付の文章を、よかったら参照してください。

なかなかいい気分で、オルセー美術館展を見終わりましたが、セザンヌに関しては、この後のチューリヒ美術館展でうれしい再会をします。それは予想を超えた喜びでした。


『チューリヒ美術館展』について
スイスの美術館だけあって、スイスゆかりの画家たちの作品が充実していました。そして、それ以外の作品もかなり良い作品を選んでいます。こちらも混雑していましたが、オルセー美術館と比べると、まあまあの人出というところでしょうか。時代が現代に近くなると、敷居がすこし高くなるのかもしれません。

この展覧会の目玉の一つは、モネの大きな睡蓮の絵です。しかしこれは、モネの絵としては、ちょっと大味な感じがしました。もう少し密度のある作品だと思っていたので・・・。
それから、スイスにはセガンティーニやホドラーなど、自然主義から発して象徴主義的な方向へと向かった画家たちがいますが、これはスイスの画家たちに共通する傾向なのでしょうか。厳しくも美しい自然の中で暮らしていると、そういう精神的な方向に向かうものなのかもしれません。個人的には、彼らがもっと自然主義的なところにとどまりながら、多くの絵を残してくれるとよかったな、と思ってしまいますが…。
それから、ココシュカの作品が何点か来ていました。馬鹿げた話ですが、私はココシュカの絵を見ると、なぜかシンガー・ソング・ライターのトム・ウェイツを思い出してしまいます。両者に共通するのは、もう少し普通に描いて(歌って)ほしいなあ、というところです。ちょっと思わせぶりなラフな表現が、見ていて(聞いていて)気になるのです。もっとすっきりと見たい(聞きたい)と思ってしまいます。ちなみにココシュカなら、今回展示してある中では風景の作品、トム・ウェイツなら1~2枚目のアルバムが好きです。
ところで、本日の一番の衝撃は、セザンヌのサントヴィクトワール山です。晩年の、最も興味深い時期の作品が一枚展示されていました。この絵の前でいつまでも佇んでいたい、と思う作品です。本当に不思議な作品です。塗り残しの多い、未完成にも見える作品ですが、見ているうちに、リアリズムの極限のような作品に見えてきます。描いているセザンヌの息遣いが伝わってくるような感じがするのは、彼の他の作品にも共通するところですが、その度合いが尋常ではありません。「リアリズムの極限」といった意味は、セザンヌの絵が現実の山のように見える、ということではありません。セザンヌが現実の山を前にして絵を描いている、まさにその時間と空間を共有しているような感じ、と言ったらいいのでしょうか、とにかく彼の認識している映像を、そのまま見ている気がするのです。この絵に比べると、他の絵はどれもこれも作為的で、意味のない意匠をこらしているような気がしてきます。例えば横に並んでいるゴッホの作品でさえ、その色彩表現がただの思いつきのように見えてしまいます。そういう意味では、この絵は爆弾のような作品です。「爆弾」といえば、梶井基次郎が檸檬に託した幻想を思い出してしまいますが、まさにこの絵一枚が、今日見てきた絵のすべての意味を無化してしまうとしたら…。それは爆弾のようなものです。
このセザンヌの仕事の意味を、もっともよく理解していたのが、ジャコメッティではないでしょうか。シュールレアリズムの作家として興味深い仕事をしていたにもかかわらず、単純にモデルと向き合う仕事に回帰してしまった彼の軌跡は、セザンヌ的な態度への回帰であったともいえます。若いころの彼の作品が好きな方には、晩年の仕事はすこし頑なに過ぎるように見えるかもしれませんね。その是非はいろいろと意見があるのでしょうが、それはさておき、今回の出品作品の、広場を横切る人の彫像などは、針金のような細い形であるにもかかわらず、ものすごくリアルで、思わず微笑んでしまいます。広場を横切るときに、悠然とではなく、ちょっと前のめりに歩いてしまう…、その姿が普遍的と言ってもいいくらい、それらしいのです。べたべたとした粘土の質感が残っているのに、細部までよくできていて、人物の表情まで感じさせます。
それから、この展覧会ではアルベルト・ジャコメッティの叔父にあたる、アウグスト・ジャコメッティの抽象画が展示されていました。抽象画、と言いつつも、真夏の日差しの中の花畑のようにも見えます。もともと装飾の仕事をしていた人らしいのですが、だからこそユニークな作品が描けたのかもしれません。国立新美術館の「ニュース3」で研究員・山田由佳子さんが紹介記事を書いていて、短文ですが参考になります。ジャコメッティは父親も著名な画家だし、血筋の濃い人だったのですね。

ところで、その「ニュース3」に美術館別館のアートライブラリーの紹介記事がありました。山岸さん(故・山岸信郎氏)の旧蔵資料が閲覧できると書いてあったので、試しに行ってみたところ、休日はお休みでした。残念…。


どちらの展覧会も名品が多い展覧会なのに、感想が偏っていたかもしれませんね。どうもすみません。

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