平らな深み、緩やかな時間

100.中村雄二郎『魔女ランダ考』と市川浩『<身>の構造』

 2019年の最後のblogとなりました。
前回、学生の頃に話題になっていた日本の思想家について書きましたが、そのなかでも芸術とかかわりが深そうで、興味を持って読んだ本を二冊紹介します。前回も『共通感覚論』で取り上げた中村雄二郎(1925 - 2017)の『魔女ランダ考』(1983)と、市川浩(1931 - 2002)の『<身>の構造』(1984)です。私は彼らの本をつぶさに読んで、その思想に触れた、というわけではなくて、何となく面白そうだったので手に取ったという程度の読み方ですので、もっと深く読みたい人は、彼らの著作を追いかけてみてください。

 さて、「92. 2019年、夏。若い美術家の方へ。」のなかで、私の学生時代の1980年頃の気分について、モダニズムの行き詰まりのような息苦しさがあったことを書きました。しかし、これは私のような考えの浅い人間にとっての感じ方であって、中村雄二郎や市川浩のような哲学者、思想家にとっては、いまの時代を生きていくうえでの明確な問題点や課題があったようです。そして、それらの原点、原因となるものはいったい何だったのか、ということも論じていました。中村雄二郎はそのことを繰り返し書いていましたが、例えば『魔女ランダ考』のなかでは次のように書いています。

 演劇と学問(あるいは知)、遊びと真面目(あるいは仕事)の二分法では、学問や知というものは真面目で厳粛で禁欲的であり、感情や好みを排したものでなければならなかった。このように要約すると一見極端にみえるけれども、ひるがえって考えてみるに、知や学問というものは或る意味ではそのような性格を持たざるをえないともいえ、世界的にみると古代ギリシアと西欧、とくに近代西欧では、知や学問はそのようなものとして発達したのであった。そしてそこでは知や学問は、すぐれて普遍性と精密さを備えるようになり、人類全体に大きな影響力と支配力をもつようになった。西欧の近代哲学と近代科学によって代表される<近代の知>とは、まさにそのようなものであったということができる。
 ところで、そのような近代の知あるいは近代の学問を基礎づけたのは、ほかのなによりもデカルト主義の心身二元論であった。すなわち、よく知られているように、<知的禁欲の人>デカルトは、自己意識(コギト)の立場から出発して、思い考えることを本質とする精神と空間的拡がりをもつことを本質とする物体とを、二つの実体として峻別した。そしてこのような二つの実体の峻別は、現在から考えるとなんでもないような着想、いや形而上学的な独断にさえみえるけれども、実はそれは、人類の知と学問の歴史のなかで画期的なことであった。
― 中略 ―
 このようにしてデカルト主義の二元論は、精神と物体との実体的な峻別によって曖昧なものを追いはらい、まさに一石二鳥の効果を収めることができたのであった。まことにこの精神と物体とのデカルト主義の二元論は、意識的自我の自由と自然界や事物の対象化をもたらすものとして西欧近代を貫く大きな原理となり、思想的にも政治的にも、また科学的にも技術的にも多くの革新をもたらした。それは西欧の近代を人類全体にとって特別な意味をもったものにした、ということさえできる。
 けれどもやがてそのような<近代の知>は、一方では認識する主体と認識される対象、つまり見るものと見られるものと引き離して冷ややかに対立させ、自我の存立の基盤を失わせるとともに、他方では世界の人工化と自然の破壊をもたらすことになった。学問や知はたしかに詳細、精密にはなったものの、多様で変化する現実の重層性をよく捉えることができなくなった。そのような事態から知の在り様をふりかえってみるとき、近代の知が排除したもの、あるいは失ったもののうち、原理的にいってもっとも基本的なものはなんであったか。それはまず、イメージあるいはイメージ的全体性として捉えることができるだろう。
(『魔女ランダ考』「Ⅱ 演劇的知とはなにか」中村雄二郎)

 これを読んでいただくには、すこし説明が必要ですね。『魔女ランダ考』は副題として、「演劇的知とはなにか」というタイトルが付されています。あとで見ていくことになりますが、「魔女ランダ」とはインドネシアのバリ島に伝わる宗教的な演劇の主人公です。そして中村は、この劇をモチーフとして演劇的な知について考察していきます。なぜ、「演劇的知」に注目するのか、といえば、ここに引用したように「演劇的知」が「近代の知」が失ったものをもっていると考えられるからです。それが「イメージあるいはイメージ的全体性」なのだ、というわけです。
それでは逆に、「近代の知」がなぜ「イメージ的全体性」を失ってしまったのでしょうか。そのおおもととなるのが、デカルト(René Descartes、1596 - 1650)の二元論です。デカルトの自己意識(コギト)という考え方が、「思い考えることを本質とする精神と空間的拡がりをもつことを本質とする物体とを、二つの実体として峻別した」というのですが、それはどういうことでしょうか。これは市川浩の『<身>の構造』でも課題となっているものですから、すこし詳しく見ていきましょう。デカルトと言えば、「我思う、ゆえに我あり」という一節が有名で、これがいわゆる「コギト(・エルゴ・スム=ラテン語訳)」と言われます。この一節がどのような文脈で書かれているのか、確認してみましょう。

 さて、前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように、従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探究のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。かくて、われわれの感覚がわれわれにときには欺くゆえに、私は、感覚がわれわれの心に描かせるようなものは何ものも存在しない、と想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な問題についてさえ、推理をまちがえて誤謬推理をおかす人々がいるのだから、私もまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、私が以前には明らかな論証と考えていたあらゆる推理を、偽なるものとして投げすてた。そして最後に、われわれが目ざめているときにもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまた現れうるのであり、しかもこの場合はそれらの思想のどれも、真であるとはいわれない(夢の思想には存在が対応しない)、ということを考えて、私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis. というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。
(『方法序説』「第4部」デカルト著 野田又夫訳)

 読んでいただいて、いかがでしょうか。引用のはじめの部分で、実生活では不確実だとわかっていることでも、ときとして従うことが必要である、と言っているところなど、デカルトもいろいろと苦労したんだろうなあ、という気がし親近感が湧いてきます。要するに、「長い物には巻かれろ」ということですよね。ちなみに、私はいつもそうしています。
そして肝心な部分ですが、感覚も幾何学も(デカルトは数学者でもあり、その才能に恵まれていたそうです)ときにデカルトを欺き、または誤るので信用できない、と言っています。そのように、それらを疑っている自分の思考だけが信用できる、とデカルトは言っています。もともと『方法序説』はフランス語で書かれたので、私の参照した中公文庫の翻訳ではその有名な部分だけフランス語が付されていました。これが「私は考える、ゆえに私はある(=Je pense, donc je suis.=我思う、ゆえに我あり)」ですね。この一節から、身体的な感覚からも切り離された思考(精神)のみが確かに存在するものとされ、ほかのあらゆる事象よりも優先されるようになったのです。
 しかし、デカルトに親近感が湧いたところで、少々ツッコミを入れてみましょう。例えば、精神と身体がそんなにきっぱりと切り離して考えられるものなのか、とか、そもそも考えている自分だけが確かな存在だ、などというのは、ちょっとジコチューな考え方じゃないか、などなど・・・。私たちにとっては、軽い違和感のようなものですけれど、それが後の時代の哲学者や思想家にとっては、大きな課題となっているのです。
その一方でデカルトに由来する二元論によって、その後の世界は「思想的にも政治的にも、また科学的にも技術的にも多くの革新をもたらした」ことも事実です。その世界の革新によって、人間は引き返すことのできないほどの進歩を遂げ、私たちはその進歩による利便性をあらゆる場面で享受しています。人間の身体を切り開く外科的な医療技術などは、まさに人の身体を物として見なすことによって可能になった技術ですが、その治療によって重い病から立ち直ってみれば、技術の進歩に感謝しないわけにはいきません。しかし現在の私たちは、その軽い違和感のままに突き進んだ進歩がもたらした重大なひずみの只中にあって、それを見逃すわけにはいきません。80年代には中村雄二郎や市川浩がその著作によって警鐘を鳴らしていたのに、その後の世界はこの点においてほとんど無策でした。ですから、例えばいまになって環境問題という側面からスウェーデンの少女に象徴される若い人たちによって大人たちが突き上げられるのも、無理からぬ話だと思います。私もだめな年寄りの一人として、今さらですが彼らの著作を読み直し、そこに新たな意味を見出して、芸術や思想として昇華させることで、ささやかな改革を組織したいものです。
だいぶ横道にそれましたが、それたついでにもうひとつだけ付け加えておきましょう。デカルトはこのように、「近代の知」のおおもととして特にポスト・モダンの思想家から標的にされることが多いのですが、デカルトが生きた時代を考えると、彼が自分の信念に誠実に生きた学者だということが分かります。私は世界史に疎い人間ですが、それでもこの時代が中世のキリスト教的な価値観に覆われた時代であったことは容易に想像できます。デカルトは、地動説をとなえて異端審問にかけられたガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564 - 1642)より30歳ほど年少ですが、没年は8年ほどしか違いません。デカルトもガリレオのように無神論者として裁かれる危険性はあったのです。私たちは現在の科学が大昔のガリレオによって端を発していることに尊敬の念を抱きますが、哲学におけるデカルトも同じように偉大な人なのです。

 それでは『魔女ランダ考』のはじめの章でもある、「魔女ランダ考」という論文の中身を見ていきましょう。インドネシアのバリ島は、その芸能が優れていることにおいて80年代のころから注目されていました。そのなかで中村雄二郎が注目した「魔女ランダ」は、ヒンドゥ教の叙事詩『マハーバーラタ』から筋を取られた演劇のひとつです。魔女ランダと対をなすのが聖獣バロンという化け物で、この両者の対決がガムラン音楽の奏されるなかで展開していくのです。この劇のあらすじはこんな感じです。

 ある王子が魔女ランダのいけにえにされることになりました。ここに至る前にも、いくつかの寸劇の場面が、ときにコミカルに演じられます。そしていよいよ魔女ランダの棲む森の木に縛り付けられ、王子が死を待つことになりました。それを哀れに思った主神シヴァが、王子に魔法をかけて彼を不死身にします。そして魔女ランダが現れて、王子を殺そうとしますが、不死身ですから殺すことができません。ランダはとうとう自分の敗北を認め、逆に自分を殺してくれと王子に頼みます。そうすれば天国に行けるからです。王子は望み通りにランダを殺しました。するとランダの妹分の魔女カリカがあらわれて、自分も殺してくれと王子に頼みます。王子がそれを拒んだので、二人は闘うことになります。しばらく戦ったのち、形勢不利になったカリカは魔女ランダに変身して形勢逆転しようとします。それを見て、このままではかなわないと思った王子が、聖獣バロンに変身します。両者は力が互角で、戦いの決着がつきません。その間に王子の従者の男たちが現れますが、ランダの魔力にかかってトランス状態になり、自分の身に剣を突き立てようとします。バロンとランダが終わりのない戦いを続け、男たちが剣を突き立てようとトランス状態になっている中、寺院の僧侶が現れて(この劇は寺院の広場などで演じられるそうです)、聖水をかけて彼らを正気に戻します。そして白衣を着た僧侶が男たちを救い出し、かわりにいけにえを捧げて劇が終わります。

 単純な筋ですが、変身譚も織り交ぜられていて何だか釈然としません。死生観も私たちの社会とは違っているようですし、何よりも終わり方がはっきりしないので、何を言いたいのかよくわかりません。そのことについて、中村雄二郎は次のように書いています。

 さて、ランダRangdatoとバロンBarongの関係についていえば、両者は、たしかに好敵手よろしく、なにからなにまで対照的な存在である。まず、ランダが女性で、左手の魔術=悪しき魔術を使うのに対して、バロンは男性で右手の魔術=善なる魔術の使い手である。また、ランダは夜であり、病気や死をもたらす暗闇である。それに対してバロンは太陽であり、光であり、病を癒すものであり、悪の反対物である。このようにバロンとランダとでは、善と悪、光と闇の二元的な対立関係にあるといっていい。けれども、さきにもふれたように、その対立関係は、キリスト教的な意味での善と悪、光と闇の関係とは同じでない。というのは、バロンもまた、根本的には怪獣として、ランダと同じく事物の暗い、大地的な側、つまり天上とは反対側に属しているからである。他方、ランダも死の原理を体現しているだけでなく、同時に死をとおして再生を司っている。このようなランダやバロンの性格は、バリ・ヒンドゥにおける―インド・ヒンドゥにおいてよりもいっそう強化された―シヴァ神や女神スリの両義的な性格に対応している。すなわち、シヴァは主宰神でありながら、もっとも邪悪な魔術を平気で使うし、その妻の女神スリは、豊穣の女神であるとともに、死の女神ドゥルガでもある。
(『魔女ランダ考』「Ⅰ 魔女ランダ考」中村雄二郎)

 このように、「善と悪、光と闇」をはっきりとさせ、後者を排除していくのがキリスト教に根付いた西欧の価値観だとすると、魔女ランダの演劇においてはまったく違った「両義的な」価値観が示されています。前回も触れたこの頃の思想書には、例えば文化人類学者・山口昌男(1931 - 2013)の『文化と両義性』(1975)という本がありますが、これは中村や市川の本に先駆けて「中心と周縁」などの両義的な価値観がいかに文化を活性化させるのかを論じています。当時は「両義的な」価値観の必要性を説いた本が、数多くありました。
 さて、さきに私は、「インドネシアのバリ島は、その芸能が優れていることにおいて80年代のころから注目されていました」と書きましたが、もちろんバリ島は観光地として、その前から今に至るまで有名です。しかし、この頃は文化的な側面からバリ島が注目されていたと思います。この魔女ランダの「バロン劇」は、たしかテレビ番組でも紹介され、バロン劇が演じられる夜の村落の様子が放映されていました。それと同時に、バリの音楽のガムランやケチャも取り上げられ、それが西欧音楽にないような細やかなリズムに裏付けられていることや、それらの芸能が村落共同体の在り方と密接につながっていることなど、興味深い話が次々と紹介されていました。私はバリ島に行ったことはありませんが、その当時、バリ島でもっともすぐれていると言われていたプリアタン村の芸能団が来日したので、演目の違う二日ほどを見に行った憶えがあります。考えてみると、私たちの芸術や芸能は専門性が高められ、日々の生活の場所や時間から切り離され、どこに行っても同じクオリティーで表現できることが前提となっています。それに比べると、バリの芸能は共同体の人や場所、時間と密接につながっています。そのあり様が、中村雄二郎のような学者たちを引き寄せたのでしょう。
 『魔女ランダ考』は、魔女ランダの劇をきっかけとして「演劇的知」について、あるいは「子供」や「女性」など男性中心の原理では語られることのなかった話題を取り上げた本ですが、そのひとつひとつについてここで紹介することはできません。魔女ランダに関わることにしぼって「バリ島の<パトスの知>」という章から、「パトス」に関する文章を引用してみたいと思います。ここで中村雄二郎が言うところの「パトス」というのは、受動、受苦、痛みなどの受け身の感情や状態のことを言っているようです。「パッション」のような情熱的で能動的な感情ではなく、また「エートス」のような意志的な態度、倫理的な感情ではないもの、というところでしょうか。

 <パトスの知>のパトスとは、ただいわゆるパッションつまり情念だけではなく、受動、受苦、痛み、病いなど、いわば人間の弱さにかかわるものを指し、したがって<パトスの知>とは、能動の知、アクションの知である近代科学の知と正反対のものである。人間の強さを前提とする近代科学の知が蔑視してきたものだといってもいい。私たち近・現代人は、近代科学の分析的な知、機械論的な自然観にもとづく知によって、事物と自然とをひたすら対象化し、事物や自然の法則を知ってそれを支配しようとしてきた。そうすることによって、人間の支配圏を拡大し、運命の必然に抗して自由の王国をうち立てようとしてきた。そしてたしかに、そのような近代科学の知にのっとった近代文明は、世界的な規模で人類の生活に大きな変革をもたらした。
 しかも近代科学の知と近代文明は、もたらしたものが大きかっただけでなく、人間の営みのなかで、ただ一つ永続的かつ無限に発展するものと見なされてきた。そして現在未解決の問題も、やがては必ず科学によって解決されるものと考えられた。近代生理学や近代医学は、まさにそのような能動的で楽天的な科学的知の所産であり、そこでは痛みや苦しみをなくし、病を排除することができると確信された。
― 中略 ―
 科学の知が冷ややかなまなざしの、視覚の知であるのに対して、パトスの知は身体的、体性感覚的な知である。パトスの知では、視覚が働くときでも、体性感覚と結びついて働くから、その働きは<共通感覚>的であることになる。またこの場合、身体とは生きられる身体、活動する身体のことであるから、パトスの知はここに<パフォーマンス>とも結びつくのである。活動する身体にのっとった共通感覚によって感じとられ、読みとられるもの、それがなによりも徴しであり、シンボルでありコスモスであった。そしてこれらのいろいろの性格のすべてからいって、パトスの知は、すぐれて<演劇的な知>なのである。
 おそらくこのようなものとして<パトスの知>について、永い間私がさぐりつづけてきたために、バリ島の生活と文化、とくに<魔女ランダ>と<プーラ・ダレム>が私に対して並々ならぬ衝撃を与えたのであろう。
(『魔女ランダ考』「Ⅰ 魔女ランダ考 バリ島の<パトスの知>」中村雄二郎)

 このように、能動的な積極性だけに注目していては見落としてまう「知」の在り方に注目する態度は、少し前に私がblogで取り上げた「81.『中動態の世界』國分功一郎、『芸術の中動態』森田亜紀」における「中動態」とも関連しているのかもしれません。ここで中村が言っている「パトス」は、ただ受け身で待っているものではありません。たとえば演劇などで活動する身体によって感受される何かであるわけですから、もしかしたら「パトス」よりも「中動態」の方がその概念を表すキーワードとして、適切なのかもしれません。80年代に中村雄二郎や市川浩が提起した課題が、実はつぶさに見ていくと、違った概念で、それもより的確な形で探究されているのだとしたら、これはたいへんに興味深いものです。昔はこんなことがあったけど、今はもう・・・、などと嘆くばかりではなく、私たち自身が目を曇らせることなく、いま語られている重要なことに反応して、注目しなければなりませんね。自分への反省を込めて、付け加えておきましょう。


さて、今回取り上げるもう一冊、市川浩の『<身>の構造』に話を移します。この『<身>の構造』の「身」は、「み」と読みます。そのことについて、市川浩は次のように書いています。

 ここで「身体」ではなくて「身(み)」という言葉を使いましたのは、「身体」という言葉はどうしても「精神」という言葉と対立するものとして考えられるし、英語のボディとマインドを連想させます。そうすると、ヨーロッパ流のマインド―ボディという二分法に拘束されたものの考え方と、それにもとづいた理論の歴史をひきずってしまう。しかしこういう二分法でとらえた身体というのは、われわれの身体の具体的なあり方ではないのではないか、という感じを前からもっていたわけです。そこで前に書いた本では『精神としての身体』という折衷的な表題をつけたわけです。
(『<身>の構造』「<身>の構造とその生成モデル」市川浩)

 ここでも中村雄二郎と同様に、デカルト主義の二元論、二分法の乗り越えが課題となっています。そして著者は「身体」のかわりに「身(み)」という言葉をつかい、その意味の広がりをふんだんに利用して、多岐にわたる話題を解きほぐしていきます。それがあまりに多岐にわたるので、私の理解力では要約できません。ずるいようですが著者の書いた「あとがき」から引用してみます。

 心身二元論を超え、皮膚のうちにとざされた身体という固定観念をとりはらうことは、私のかねてからの関心であった。<身(み)>というキイ・コンセプトに着目したのもそのためである。<身>は、自然的存在であると同時に精神的な存在であり、自己存在であるとともに社会的存在であるわれわれの具体的なありようを的確に表現している。しかし皮膚の限界を超える身体は、<身>という概念によってもおおいつくせない拡がりをもつようである。
 諸学の発展とともに、また地球規模での文明論的情況の進展とともに、身体は、さまざまのレヴェルで錯綜する関係の網目、あるいはむしろ交通(柄谷行人氏の用語を借りれば)において生成し、それらの諸交通を暗黙の地平として包み込んでいることが、ますますあきらかになりつつあるといえよう。一言でいえば、身体の問題は、皮膚の限界を超える超身体の問題へと拡大する。
(『<身>の構造』「あとがき」市川浩)

 そう、この本は身体に関する本だと思って読むと、そればかりではありません。例えば、人間は他者と共生して生きていく存在ですが、その共生のレヴェルが幼児期の生理的なレヴェルから心理的な共生のレヴェル、さらに文化的共生のレヴェルと共生の度合いが拡大していきます。それが市川の身体論とどのように関わっているのか、その説明を見てみましょう。

 こうした中心化と広い意味での非―中心化による身の自己組織化に応じて、さきにのべましたように、意味と価値を持った環境が分節化されます。もちろんじっさいは、われわれはすでに意味をもった歴史的世界へ生まれでるのであり、すでに分節化され制度化された文化的世界を受け容れながら、それを再分節化し、集合的に再構成してゆきます。そのとき世界の分節化のいわば照り返しとして、同時に身みずからが潜在的に分節される。つまり身が身で世界を分節化するということは、身が世界を介して分節化されるということにほかなりません。このような共起的な事態を<身分け>と呼びたいと思います。
 <身分け>は意識レヴェルの分節化だけを意味するのではなく、反射的な反応のように意識されない身による世界の分節化のレヴェルを含み、われわれは前意識的なレヴェルでも、身で分けた世界の分節的風景というものを生きています。前意識的なレヴェルでの風景は、反射的な反応をひき起こさせる物理的な刺激だけではなく、歴史のなかで集合的に形成され、環境のうちに沈殿した神話的・歴史的な風景でもある。そのような風景によってわれわれの身はひそかに分節化されており、そこに風土論が成立する根拠もある。
(『<身>の構造』「<身>の構造とその生成モデル」市川浩)

 ややこしい文章で、私もうまく理解できているわけではありませんが、もうすこし単純に語ってみましょう。私たちはこの世界に生まれ出て、自己を意識し始めるや否や、自分とそうでないもの、つまり自己と世界とを区別します。それが自分自身の<身>を中心とした「分節化」、ということなのですが、気づいてみるとこの世界は、自分自身と同じようにさまざまな人々によってすでに分節化されていました。それに私自身が、親と兄弟、それ以外の他人、というふうに生きていくために他者を分節化していましたし、子供のうちは「手を触れると危ないもの」、「行ってはいけないところ」、などと漠然と物や場所を分節化していたことを思い出します。そして自分以外の人々も、自分と同様に世界を分節化していることを知り、その分節化と分節化が絡み合い、「共起的」にそれが生じていることを知るのです。言ってみれば、自分の<身>を中心として分節化を始めた時には、すでに自分自身が分節化の網の目の中にいて、自分の<身>も分節化される存在であったのです。これらのことを市川浩は<身分け>と言ったのでした。
 この<身分け>は、自分たちが意識できているものに限らず、無意識のものや、自分の先祖や共同体によって共有されてきた「分節化」も含みます。ユング(Carl Gustav Jung、1875 - 1961)なら、それらを「集合的無意識」とか「普遍的無意識」とか言うのかもしれません。
 このように考えると、身体論どころではなくて、この世界のあり様を<身>という概念から解きほぐす、ということになります。このように、話題は多岐にわたっているのですが、そのなかで芸術はどのように語られているのでしょうか。『<身>の構造』のなかでは、市川はこんなふうに芸術に触れています。

 それともう一つ気になっていたのは、芸術の問題です。芸術にとって感覚は、世界とまじわり、世界を開示する基盤であるはずです。したがって芸術は身体の問題を抜きにしては考えられない。芸術作品が持つ多義的な豊かさは、もの的なもの、そしてそれをさまざまのレヴェルで受けとめる身体的感応ぬきにしては考えられない。これは身が世界と感応し、相互に分節化し合う関係です。これを<身分け>と呼ぶことにします。<身分け>で問題になるような身体はこれまで考えられてきたような“客体としての身体”ではない。具体的な生きられる身体です。そこでわれわれに体験されるがままの“現象としての身体”をとらえてみる必要があるのではないか、と考えたわけです。
 しかし、“現象としての身体”をとらえることによって、意識に現れる身体はとらえられるけれども、意識に現れない身体はとらえきれないわけですね。つまり現れない身体を含めた“構造としての身体”が問題になる。一言でいえば<錯綜体>の問題です。
(『<身>の構造』「錯綜体としての身体」市川浩)

 前半の<身分け>については、もう触れたので大丈夫だと思いますが、最後の<錯綜体>が問題ですね。これは理屈で語ると難しいことになりますが、要するに私たちが芸術作品に触れること、芸術作品を制作することによって体験していること、そのことを指した言葉です。私たちは芸術作品に触れた感動を頭で、つまり理屈で理解しているわけではありません。そしてそれがすぐれた芸術作品の場合だと、視覚や聴覚といった限定された感覚器官だけではなく、精神と身体をフル稼働させてそれを味わっているような気分になります。例えばよい音楽に全身で浸っているような、あるいは全身で戦慄を感じているような、そんな気分になることがありますが、そういった現象を引き起こす身体が「錯綜体」なのです。それが「意識に現れない身体」であり、わけのわからない何ことかが「錯綜」している、ということなのです。市川の言葉を引いてみましょう。

 芸術作品は多元的・重層的な曖昧性をもっています。これは一種の錯綜体だと思うのです。だからこそわれわれは芸術作品に対する場合、身をもって知るようなとらえ方をしなければならない。頭で理解することはできないし、できたとしても、それは芸術作品を一次元化することでしかない。身の錯綜体でもって錯綜体としての芸術複合体に感応しなければならない。
(『<身>の構造』「錯綜体としての身体」市川浩)

 このように、優れた芸術作品は「多元的・重層的な曖昧性」を持っていて、私たちはそれを「錯綜体」として「身をもって知る」=「感応」するのです。それは絵画や彫刻だから視覚で味わい、音楽だから聴覚で味わう、というふうに限定されたものではありません。それらはもともと「多元的・重層的」なものなのです。このことから考えると、最近のテクノロジーを駆使した多元的な芸術表現は、どこまで必然性があるのだろう、と疑問に思ってしまいます。絵が動き、音が出て、立体的に画像が見え、空間的なディスプレイの中で体験型の表現形態が観客を楽しませる、という類のものです。それは表現形態として多元的であるのかもしれませんが、案外とそれは視覚や聴覚がふつうに感応しているに過ぎないのではないでしょうか。どんな芸術形態であっても、「身の錯綜体でもって錯綜体としての芸術複合体に感応しなければならない」ということでなければ、芸術としての感動は訪れないのではないでしょうか。

 ところで私は、さきの「皮膚の限界を超える身体は、<身>という概念によってもおおいつくせない拡がりをもつようである」というこの本の一節から、短絡的にジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)の彫刻を想起してしまいました。ジャコメッティの彫刻は「皮膚」にあたるような表面がありませんし、それは作品の具体的な物質性を超えて私たちに迫ってくるような気がするからです。それで調べてみると、市川浩は興味深いことに『<身>の構造』の前著、『精神としての身体』の中で、ジャコメッティを含めた彫刻芸術について、次のように書いています。ちょっと長いのですが、文脈が分かるように引用しますので、最後のそのことについて考えておきましょう。

 ところでさきにのべたように、具体的身体においては、他者の対象身体と主観身体とを判然と区別することはできず、他者の対象身体は、たえず主観身体へと超出しようとする。身体が魔術的であるのは、主観的なものと対象的なものとの、このさだめがたい混淆にある。身体は対象としてとらえられる受動性であるが、われわれが他者の身体をとらえるやいなや、ほとんど意識にのぼらない原初的なレヴェルにおいてであれ、われわれは同時にその主観身体性にとらえられ、対他身体としての自己をみいだす。「あらがいがたい微笑」という表現は、この<対象的=主観的>な両義性のうちにある他者の身体の魔力をよくあらわしている。
 他者の対象身体が、対象化され、確然としたかたちをもっているにもかかわらず、皮膚の限界内にとざされていないのはこのためである。これは彫刻家をなやます難問である。彫刻家は皮膚の限界内にとざされていない身体を、表面のある確定したかたちとして提示しなければならない。爛熟期の彫刻は、しばしば表面の表現可能性を追求することによって、この問題を解決しようとする。その結果それは逆説的に彫刻としての生命を失うのである。
 ふつうの表面の探求は、二つの方向でおこなわれる。一つは表面のもつ表現性をできるだけこまやかにとらえるために、より微妙な、よりなだらかなモドゥレが好まれ、面と面のつながりが重視される。その結果彫刻は、低浮彫り(パ・ルリェフ)に、そして絵画に接近し、あいまいな弱々しい印象をあたえる。もうひとつの方向では、極度に誇張されたモドゥレが痙攣する表情を彫像にあたえ、表面を、はげしい感情表現の単なる記号と化してしまう。この場合も彫刻は、量塊(マッス)としての表現性を失い、内実のない表面の連続にすぎないという印象をあたえる。
 ロダンとジャコメッティは、この身体の両義性に彫刻的な解決をあたえようとしたが、それは一見逆の方向にであった。かれらは身体が皮膚のうちにとざされていることをみとめず、<表面>という観念を否定した。あるいは<表面>という観念をまったく新しく定義しなおしたのである。この再定義は彫刻によってなされたから、それを言葉で表現することは、比喩的にしかできない。
 ロダンの彫刻では、マッスは表面によって限定されているのではない。表面は、うしろから押しだしてくるマッスの切っ先にほかならず、マッスは表面に限定されない空間をかたちづくっている。反対にジャコメッティの彫刻では、目にみえるマッスは最小限にきりつめられ、ほとんど表面をもたない裸形の<原マッス>ともいうべきものが、表面をこえたひろがりを造形する。その針金のような肢体は、ほとんど無限の潜在的線描で充実された可能的なマッスを空間に現出させる。それはふつうに考えられている不透明で惰性的なマッスではない。というのもジャコメッティにとっての人体は、決して充満しているマッスではなく、いわば透明なコンストリュクシオンだったからである。こうしてロダンは表現主義的なデカダンスの手前で、ジャコメッティは(しばしば現実におこったように)自己否定のデカダンスと境を接する地点で、彫刻の生命をとりもどしたのである。
(『精神としての身体』「第一章 現象としての身体」市川浩)

 文の内容に入る前に、カタカナ表記のフランス語?がよくわかりません。間違っていたら、どなたか教えてください。たぶん、「モドゥレ」は「肉付け」、「コンストリュクシオン」は「構造、建築」というほどの意味だと思うのですが・・・。「デカダンス」は「退廃」でよいと思います。
 さて、市川の文章を読むと「他者の対象身体と主観身体とを判然と区別することはできず」とはじめから切り込んできますが、私は鈍感なせいか、うーん、そうかな?と思ってしまいます。私は極端に他者への思いやりが欠如した人間だと自覚していますから、一般的なことは言えませんが、「他者の対象身体と主観身体とを判然と区別」できないことは、まずありえません。しかし、優れた彫刻家がモデルの骨格や構造を見透かしたうえで、表面の皮膚をどのように表現したらよいのか、と思い悩むであろうことは理解できます。また、市川があげている彫刻の悪しき例、表面の細部にこだわり過ぎた作品や激しい表現のつもりがマッスを失った作品について、具体例をあげることはできませんが、それもわかる気がします。そしてロダン(François-Auguste-René Rodin、1840 - 1917)やジャコメッティが彫刻に求めたリアリティについて、市川が何を言いたいのか、とてもよくわかります。
 ロダンの彫刻は、しばしば形の誇張が見られますし、ポーズも演出が過ぎる程に大げさです。ときに文学的な内面表現に傾斜しすぎではないか、と思うこともありますが、それでもロダンの作品を存在感のあるものにしているのは、作品の内部から充溢してくるようなマッスのリアリティだと思います。彼の作品を、その文学性を超えて普遍的なものにしているのは、形としての充実感があるからでしょう。例えば彼の彫刻のやや大きな手、太い指先は本物の手指よりも本物らしく、その存在感を主張しています。
 一方のジャコメッティですが、彼にとって形をとらえるということは、その透明な構造を把握することに他ならない、と市川は言っているのだと思いますが、それは彼の絵画においても言えることです。そしてジャコメッティの場合は、他者と主観との区別を超えた境界の越境というよりは、見えている世界そのものが越境し合い、影響を与え合っているのだと私は思います。ジャコメッティにとってモデルを描く、あるいは彫刻を作る、ということはその対象となるものとその周囲の空間とのせめぎ合いを表現することなのです。彼がもっとも腐心したのは、自分とモデルとの間にある距離感の表現ですが、彼はモデルの鼻先が描ければ、あとはうまくいくのだ、としばしば言っています。一時期、彼の彫刻はマッチ棒のように小さくなってしまいましたが、それはモデルの周囲の空間を作品に取り込んでいった結果であり、そのとき彫刻自体はそのせめぎあいの表現の起点であればいい、というところまで彼はたどり着いたのではないか、と私は推測します。だから、作品は小さくても作品が取り込んでいる空間はとても広く、小さい作品であってもその中には人体を表現するうえで必要なものが十分にそなわっているのです。


 さて、このように30年以上前の本を読み解くと、さすがに今、具体的に芸術表現に反映できることはありませんが、中村雄二郎があれほど執拗に突き崩そうとした「デカルト主義の二元論」は、いまでは意識されないほどに再び私たちの社会に浸透しているような気がしますし、市川浩が切り込んだ「身分け」による空間意識は、私自身、長い間忘れていました。先にも書きましたが、今さらですが彼らの著作を読み直し、そこに新たな意味を見出して、芸術や思想として昇華させることで、ささやかな改革を組織したいものです。そしてこれから何事かを考え、何事かを表現する方たちには、ぜひともこの程度のことは前提として、さらに先に進んでいただきたいと思います。
 そして、この長い文章を最後まで読んでいただいた方がいらしたら、心より感謝いたします。デカルトから始まる長い近代思想のことを考えると、年末も新年もあまり意味を成しませんが、2020年以降もこのblogに眼を通していただけるとうれしいです。

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