最近、小熊英二(1962- )という社会学者の書いた「社会を変えるには」という新書(講談社)を読みました。美術とはまったく関連のない本なのですが、末尾に興味深い一節があったので引用してみます。
私は本書で、とくに目新しいことを書いたつもりはありません。紹介した考え方も、ポスト工業化社会論は以前からありますし、ギデンズやベックも、彼らと相互批判しているハーバーマスやブルデューも、あるいはサルトルやフーコーも、みんな弁証法と物象化と現象学を使いまわして自分の考えを述べています。その弁証法や現象学は、古代ギリシャから原型があるものです。
ですから当人たちは、おそらく、自分の考えがまったく新奇なものだとか、人類史上で自分が初めて言ったことだとかは、思っていないでしょう。私からみても、うまい応用だな、よく考えたな、とは思いますが、新奇なものだとは感じません。
しかし、新奇なものではなく、昔からあるものの使いまわしだからこそ、お互いに基盤になっているものを共有して議論ができ、それが蓄積になっていくのが、ヨーロッパ思想の強みです。近代日本(だけではありませんが)の議論が、「これが最新の画期的な思想だ」と主張する人が出てきて、すぐに忘れられていき、同じような議論をくりかえしているありさまをくらべると、土台を共有しているとは思います。
しかし日本でも、「追いつき追いこせ」とばかりに「最新西洋思想」の輸入合戦をやる、という時代はもう終わっています。それで説教したり、権威になっていばれる、という時代でもありません。そろそろ、「最新」を追いかけるのはやめて、どういう社会をこれから作っていくのか、土台を共有した対話をしてもいいと思います。
(「社会を変えるには」小熊英二著 p515-516 )
この一節のどういう点が興味深いのでしょうか。それは社会学に限らず思想とか哲学とか言われるものにとって「共有して議論ができ、それが蓄積になっていく」ような土台が重要であることを指摘していることです。一見、新奇に見える最新の思想も実はその原型があり、いわばその原型からの応用である、と小熊英二は言っています。そのうえで、そういう土壌のない日本では無意味な「最新西洋思想」の輸入合戦に陥りがちであり、そこから抜け出して「土台を共有した対話をしてもいい」のではないか、というのです。
さて、最後の「どういう社会をこれから作っていくのか」というところを「どういう芸術をこれから作っていくのか」、あるいは「どういう芸術をこれから論じていくのか」と置き換えてみてはどうでしょうか?また、「最新西洋思想」という言葉を「最新西洋モード」と読み替えてみてはどうでしょうか?じつはずいぶん前からこういうこと、つまり目新しい西洋モードを追いかけまわしていていいのか、ということは美術の世界でも言われていましたが、なかなかその先の一歩が踏み出せていない、と私は思います。
日本の現代美術に目を向けてみましょう。私の粗雑な理解では、明治以降まさに「最新西洋思想」を「追いつき追いこせ」ということの繰り返しでした。そのなかで、1970年代の「もの派」あたりが日本独自の美術の動向だと論じられたり、1950-60年代の「具体美術」の中に日本特有の特徴がある、などとして海外で企画展が開催されたりしてきたようです。最近では「アニメ」「オタク」というモードが海外にアピールできるものとしてみなされているようですが、それは結局「これが最新の画期的な思想だ」ということの裏返し、つまり根本的な意識は変わっていないような気がします。もしも日本で報道されているように、海外でもそれらが新しいモードだと本当に見なされているならば、洋の東西を問わず美術の世界でこそ、「土台を共有した対話」が必要だということではないでしょうか。
これに関連して、もっと具体的な話があります。主に映画評論で知られる四方田犬彦(1953- )が「ニューヨークより不思議 」(河出文庫)という本の中で、世界的な現代美術家の荒川修作(1936 – 2010)について書いているのです。「アラカワのなかの日本」という文章なのですが、これがなかなか痛烈です。短い文章なので、全文引用したいところですが、とりあえず内容がわかるところだけ書き写してみます。
日本には前衛美術などなくったっていいんだ。シュルレアリスムだって、ダダイスムだって、みんな日本製はちゃちな、幼稚な偽物じゃないか。あんなものは芸術でもなければ何でもない。歴史から抹殺されてしかるべきものだ。それなのにどうしていまになってわざわざあんな日本の恥を海外で披露しようとするのか。アメリカが1910年代の絵画を絶対に外に公開しようとしないという事実を考えてみたことがあるかい。連中は知ってるんだぜ。もしあの時代の、稚拙なフランス絵画の模倣みたいな作品の存在が知られてしまえば、今日のニューヨーク画家たちの面子にまでかかわると計算しているからなんだ。
(「ニューヨークより不思議/アラカワのなかの日本」四方田犬彦著 p191)
荒川はこのように癇癪を破裂させていたのですが、その相手は戦後日本前衛美術の回顧展をオックスフォード近代美術館で企画したキュレーター・海藤和だそうです。これは1987年、ながらくフランスに住み、ジャポニズム絵画で名を挙げた画家の自宅の集まりでのことだそうです。その画家の名前は記されていませんが、今井俊満あたりを指しているのでしょうか・・・。これに続けて荒川は「ニューヨークでのおれの一枚の絵の値段がどうなってもいいというのかい。日本という国はどこまでも浮世絵と芸者の国に留めておくべきなんだ!」と喋り続けたそうです。この乱暴な言葉の裏には、荒川がアメリカで孤軍奮闘してきた苦い事実があるのでしょう。
面白いことに、四方田は「こと映画にかぎれば、小津安二郎にせよ、成瀬巳喜男にせよ、ヨーロッパでの発見研究が先行して本国での再評価がなされるという状況がこのところ続いていたので、なぜ美術畑ではそう神経を尖らせる必要があるのか」と荒川に尋ねてみます。それに対して荒川は、「無責任なことをいうな!」「ぼくがドイツの画商からこれまでに何回名前を変えろといわれたか、知っているかい。」とたたみかけます。つまり、日本人でなければ容易に西洋世界に入り込み、絵の値段もつり上がるのに!というわけなのです。なんだ、芸術の話ではなくて、金の話か、と切り捨てる前に、考えてみましょう。この荒川が体験した巨大な壁は、どうして存在するのでしょうか。東洋、もしくは日本への蔑視、というものがあるのかもしれません。しかし、それならば映画の世界でも同じはずです。
そこで、映画監督の小津や成瀬にあたるような芸術家が、美術の世界にはいないのか、と単純に考えてしまいます。そして気がつくことは、小津や成瀬の作品のすばらしさもさることながら、「ヨーロッパでの発見研究が先行して本国での再評価がなされるという状況」があるということ、つまり小津や成瀬の作品がヨーロッパで共有される状況がある、ということです。さらにそれが日本で共有されるという地続きの状況が、「本国での再評価」を生んでいるのです。小津や成瀬がそのように共有されている土台、それはいったいどのように形成されたのでしょうか。映画のような新しい表現方法において、昔からそのような土壌があったわけではないでしょう。昨今の映画を見たり、論じたりする人たちによって、そのような土台が形成されたと考えるべきです。たまたまヨーロッパに、そのような見識の高い人がいたのか、それとも彼らを紹介する優れた仲介者が日本にいたのか、映画のことにくわしくない私にはわかりません。
しかし、例えばこの本を書いた四方田犬彦ですが、この人は旅行記であればアジアや中東、評論であれば映画や漫画など、あまり人が論じていないようなことに目を向けて本を書いています。そして私たちが見たこともない新しい地平を見せてくれるのです。彼の活動は「共有される土台」がない、などと嘆いている間に、とにかく論じたり、書いたりしてみればよいではないか、と身をもって示してくれているように思います。
ちなみに、この「ニューヨークより不思議 」という本ですが、これはよくあるニューヨークというメジャーな都市について論じたものではなく、そこに集まる異邦人たち、それもアジア系の人たちのことを書いたものです。余談ですが、この本の中の「国際的アーティスト」の章で取り上げられているのが、郷ひろみです。彼がなぜニューヨークにいるのか?という皮肉な問いは、郷ひろみ自身にではなく、ニューヨークという先端都市を夢見る私たちすべてに投げかけられているような気がします。それはどういうことか?と知りたい方は、この文庫本を読んでみましょう。
さて、そんなことを考えつつ、東京都現代美術館の「MOTコレクション」をふらりと見に行くと、やはり「追いつき追いこせ」の輸入合戦の延長線上にあるのでは・・・、という感想を否めません。あるいは、「目新しい」ものとして自分の個性をことさらに強調する傾向もあるような気がします。その傾向で気になる点は、それらが個人の内面のきわめて狭い世界を指向しているように見えることです。いずれにしろ、「土台を共有した対話」を形成する気配はうすいようです。
そんな中で美術について、もう少し正確にいうと「絵画」について、「土台を共有した対話」を可能とする作品を作り続けている作家がいます。展示会場の初めの部屋に置かれている中西夏之の作品です。
彼の作品が、「MOTコレクション」の他の作家たちと違うのは、彼が「絵画」について普遍的に考えようとしていることでしょう。最先端の美術の動向とか、個性的な表現とか、そういうことを考えている作品とはまるで違っているのです。
例えば昔のものになりますが、1985年の中西夏之展カタログに書かれた本人の言葉を引用してみましょう。
人は最初どのように絵をかくのだろうか
最初の人はどのように絵をかいただろうか
(中西夏之展・北九州市立美術館のカタログ「painting 1980-1985」 p99)
どうして、このようなことを考えるのでしょうか?そんなことを考えても仕方がないし、だいいち本当のところはわからないじゃないか、というふうに言いたくなります。しかし、この問いは絵を描く人間にとって、あるいは絵を見るのが好きな人にとって、実はとても大切な問いなのではないか、と私は思います。
考えてみると、絵を描くということはとても不思議なことです。何の変哲もない平面に線や形をかいて、何かの図像を表したり、架空の空間を表したり、という行為・・・これは人間に特有のことです。言葉を発したり、道具を使ったり、人間には他の動物には見られない不思議な点が多々あります。絵を描いたり、鑑賞したりすることも、その不思議なことの一つです。
人類最古の絵画として考えられているのは、おそらく石器時代の洞窟画でしょう。それを描いた人たちは洞窟の壁面をどのように感じながら、絵を描いたのでしょうか。洞窟の「壁面」とはいうものの、それは厳密には「平面」とは言えず、ごつごつとした岩群が目前に屹立しているだけのものです。そこに彼らは何を感じて、狩りの対象である野牛らしきものの形などを描いたのでしょう。その行為は神秘的なもののようにも感じられるし、必然的に起こったことのようにも感じられます。
たぶん、中西夏之は絵画を描くにあたって、そんなところまで遡行して考えたかったのではないでしょうか。壁にかかった絵を鑑賞するという当たり前の光景がありますが、もしも「壁」とか「絵画」とかいう概念が発生する前にすでにその光景の原型があったとしたら、その事実をどう考えたらよいのでしょうか。
尚、画布の左縦の垂直に見える縁は延長すると直線に限りなく近づこうとしている弧線、巨大な円の一部であると考えるべきだろう。
そうすることで限りなく巨大な円<中心が画布の縁をなす弧線から限りなく遠くにある円>の外際に画布が接し、描き手もその強大な円の外の際に位していると認識せねばならない。
(「緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」中西夏之著 p76-77)
私たちの佇む空間に架空の巨大な円を描き、その縁の弧線が接する、大地と垂直に屹立する平面が「絵画」である・・・・そんなイメージでしょうか。なぜ、そのような面倒な空想をするのか、と学生の頃の私にはまったくわかりませんでした。しかし壁にかかった絵を鑑賞するという当たり前の光景について、「絵画」とか「壁」とかいう概念が発生する以前に遡ってそれを説明しようとするとき、この空想もわからないではない・・・、いまはそう考えています。
巨大な円が、目前の平面と接する場所として「絵画」を語ることは、「絵画」の発生が必然的なものであり、また普遍的なものである、という認識に基づいているように思われます。そうだとすれば、時代や場所を超えて、誰もが「共有する土台」のもとで「絵画」について語り合うことが可能でしょう。中西夏之の絵画は、いわばそのための「装置」なのではないでしょうか。彼がしばしば制作するインスタレーションの作品も、そのような「装置」として見れば、絵画作品と共通するものだと考えられます。
その中西夏之の作品の特異性を考えるうえで、先日、新作展のあったゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932- )と比較してみたいと思います。この新作展を見て、さすがに力量のある作家だな、と思いました。しかしその反面、作品に深く入り込めない物足りなさを感じてしまいました。それはなぜかというと、あくまで私見ですが、リヒターの作品は抽象表現主義以降の絵画をひじょうにうまくまとめていると思うのですが、その作品の方法論の方が、どうも先に立って見えてしまうのです。これはどこかで引用したかもしれませんが、例えば美術評論家の藤枝晃雄(1936- )はリヒターについてこのように言っています。
リヒターとかサイ・トゥオンブリーとかブライス・マーデンも、あれは絵画というものを作家も評論家も見るほうもそうだけど、描くことを細分化してきたものですよ、この30年間。リヒターはただ明るい、一見強力に思われる色を現代美術の認識論的な教科書として塗ってるだけでしょ。文法というのがすでにありすぎるわけね。
(「武蔵の美術 NO.110 特集・現代絵画」鼎談記事より p60)
たしかに彼らは「描くことを細分化」してきましたが、そのこと自体、意味があったことだと私は思います。抽象表現主義からミニマル絵画へと時代が変わっていく中で、彼らの仕事をすべて切り捨ててしまうのはどうなのかな、と思います。しかしリヒターに関して「文法というのがすでにありすぎる」と言いたい気持ちは、わかる気がします。作品は良いのに、時間をかけて鑑賞しても感銘が深まっていかないもどかしさ、といったらよいのでしょうか。
中西夏之の作品にも、当然、方法論はありますし、実際に彼は制作のメモを何回も公開しています。しかしそれは「絵画」を思考するための方法論であって、できるものならもっと知りたい、とさらに彼の絵を見入ってしまう・・・・そんな気持ちにさせるところが、リヒターとの差異のような気がします。
ところで、これが今年(2015年)最後のblogの書き込みになると思います。
ここで、秋の小田原ビエンナーレ展のパンフレットに掲載した拙文を載せておきます。
「芸術の終焉」、「絵画の終焉」・・・仮に賢い人たちが、そういうことを言ったとしても信じない。自分自身が実感できること以外は、何の意味もない。
そして、自分の認識や感覚が過不足なく画面に定着できるまでは、絵を描き続けよう。何よりも、そういう作品を自分が見たいと思っているから・・・。
結局のところ、そんな単純な原理で日々制作を続け、何とか生き延びている。
(「小田原ビエンナーレ」パンフレットより)
この文章を書いたのは今年の春ですが、かなり気分はネガティブでした。今回のテーマである「土台を共有した対話」どころではなくて、とにかく「自分が見たいと思っている」絵を描いているだけだ、というのですからお話になりません。しかし、「芸術の終焉」、「絵画の終焉」と言い立てる人たちは賢く、また手強くて、ときに滑稽なくらいに独りよがりにならないと、自分の描きたい絵も描けない現実があります。
そんなギリギリのところで生き延びている私ですが、来年の3月になんと「dialogue(対話)」と題した展覧会を開催します。展覧会のタイトルが皮肉にならないように、制作に励まなくてはなりませんが、このblogも「土台を共有した対話」の一助になるように、ささやかな試みを継続していきたいと思っています。
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