平らな深み、緩やかな時間

114. 『芸術と客体性』マイケル・フリードについて

コロナウイルスの影響で、さまざまなところで自粛や停滞が起こっていますが、その反面、新しい発見もありました。
実は2年ぐらい前から私の家の近所にコーヒー専門の小さなお店ができて、週末に時間があるとそこでコーヒーを飲みながら本を読むことが、ささやかな楽しみでした。しかしこの状況ですから、そのような小空間でマスクを取ってコーヒーを飲むわけにいきません。お店の方でも紙コップによる持ち帰りとコーヒーのマメ売りが基本になってしまいました。
私はどうも紙コップのコーヒーが味気ないと思っていたので、豆を買ってきて自分で入れて飲むことにしました。私は生来の不器用ものなので、自分で入れたコーヒーをおいしいと思ったことがありません。しかし、そんなことも言っていられないので、お店の方に入れ方を教わって、やってみることにしました。
そうすると、どうでしょうか、意外とおいしく飲めるのです。でも、入れ方がいい加減なので、お店のような味で飲めるのが四回に一回ぐらいという感じです。そうすると、うまく入れられた時がうれしかったり、ちょっと濃かったり、薄かったりしたときにそれはそれで味が楽しめたり、後悔したり、と何となく楽しみが増えた感じです。
そのコーヒー屋さんも、おとといあたりから自粛を解きましたが、まだまだ安心してゆっくり飲める状況ではありません。もうしばらく、自分で入れたコーヒーを飲むことになりそうです。私の近所に住んでいる方がいたら、いつかお店をご紹介したいですね。

さて、今回はマイケル・フリード(Michael Fried、1939 - )の『芸術と客体性』を取り上げます。
マイケル・フリードは、アメリカの美術評論家です。前に紹介したロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )の学友だったということで、名前だけはこのblogで触れたことがあります。このフリードが書いた『芸術と客体性(Art and Objecthood)』(1967)はたいへんに重要な美術批評の論文だと言われているので、せっかくクラウスのことを取り上げたので、今回はフリードのこの論文について書いてみよう、というわけです。
その『芸術と客体性』ですが、重要な論文だと言われているのに、日本語訳で読めるのは『批評空間』という雑誌の『臨時増刊号 モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平』(1995)のなかで、川田都樹子(1962 - )と藤枝晃雄(1936 -2018)が翻訳したものだけだと思います。このような論文が25年前に出版された雑誌でしか読めない、というのも困った状況ですが、その一方でこのインターネットが普及した国際化の時代に、日本語で書かれたものしか読めない自分自身の進歩のなさにも嫌気がさします。そうは言っても、日本語で読んでも難解な論文を、原文で読んだら何年かかるのか・・・、その挙句にとんでもない勘違いをしそうですから、日本語に訳されたものを丹念に拾って読む、ということを続けることにしましょう。
それはともかく、この手の美術評論は頭の良い人の書いた難しい論文ですから、どうしても私たちは、というか私は敬遠しがちです。その事情に加えて、この論文の掲載された『批評空間』が、まさに難しさが本の形になったような雑誌でした。毎度のことですが、ちょっと横道にそれてもよいですか?この『臨時増刊号 モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平』が出版された頃の私の受けた衝撃について書いておきたいので・・・。
私が働きだしてからしばらくたった頃、『批評空間』という難しそうな雑誌を本屋で見かけるようになりました。調べてみると1991年頃に創刊されているのですが、浅田彰(1957 - )と柄谷行人(1941 - )という、当時の飛ぶ鳥を落とす勢いだった気鋭の学者二人が中心になっていたので、私も何回か手に取ったことがあります。しかし基本的な知識が欠如していたわけですから、内容を理解できるはずがありません。そのうちに、自分にとっては縁のない雑誌だと思い込んでいたのですが、ある日、気が付くと臨時増刊号として現代美術批評の特集号が発行されているではありませんか。それが『臨時増刊号 モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平』という1995年の特集号だったのです。このとき、私は初めてクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)の『モダニズムの絵画』(1960)を読みました。抽象表現主義の絵画やその後のミニマル・アートの絵画など、学生時代にさんざん追いかけていたのに、このアメリカ絵画の主要な論文すら読んだことがなかったのです。しかし、この本はその紹介にとどまりません。グリーンバーグに学んだフリードによる『芸術と客体性』やグリーンバーグの後のモダニズム批評におけるフリードとT. J. クラーク(Timothy James Clark、1943 - )の論争、クラウスやフリード、ベンジャミン・ブクロー(Benjamin H. D. Buchloh)らによるディスカッション、クラウスの『視覚的無意識』の部分訳や、浅田彰とアメリカのコンセプチュアル・アートの代表的な作家ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth, 1945 − )との対談まで掲載されています。それから日本側では岡崎乾二郎(1955 - )や松浦寿夫(1954 - )、田中純(1960 - )らが討論を重ねながら、私たちにとってなじみのないアメリカの美術評論の現状を浮き彫りにしていきます。いまでは『グリーンバーグ批評選集』が翻訳出版されていますし、クラウスも『視覚的無意識』のほか、数冊が翻訳されていて、少しはグリーンバーグ以降のアメリカの美術評論の現状が理解できる状況ですが、当時はとにかく何もわからず、どこから読み始めていいものやら、皆目見当がつかないぐらいの衝撃的な雑誌でした。
こんなふうに、さまざまな批評が掲載されている中で、フリードによる『芸術と客体性』が掲載されているのは、やはりこの論文を知らなくては、その後のアメリカ美術の批評が理解できないくらいの重要な論文だからでしょう。私にはその後のアメリカ美術の批評の流れまで言及することは不可能ですから、とりあえず『芸術と客体性』という論文から読みとれることと、そこから今の美術の現状について少しだけ考えてみる、ということを試みてみましょう。

さて、『芸術と客体性』という論文ですが、ペリー・ミラー(Perry Gilbert Eddy Miller,1905 – 1963)というアメリカの歴史研究家が書いた『ジョナサン・エドワーズ』の伝記から引用された一節が、はじめに書かれています。ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards、1703 - 1758)は、アメリカの有名な神学者、思想家だそうですが、なぜこの引用が論文の初めに書かれているのか、ということについては後で触れましょう。その引用文の後の論文の出だしの部分は、次のようになっています。

ミニマル・アート、ABCアート、プライマリー・ストラクチュアズ、特殊な客体(スペシフィック・オブジェクツ)などと様々な呼称で知られる企ては、大いにイデオロギー的なものである。それはひとつのポジション(位置・立場)を宣言し占有しようとしている―そのポジションは、言葉で定式化し得るものであり、また実際にその主導者たちの幾人かによって定式化されてきた。このことが、一方でそれをモダニズムの絵画や彫刻から区別しているのだとすれば、また他方では、このことがミニマル・アート-私はむしろリテラリズム(訳注;literal=直示的、字義どおり。literalism=(一般に芸術では)直写主義、直訳的表現。)の芸術と呼ぶのを好むのだが-と、ポップ・アートやオップ・アートとの重要な相違となっているのだ。そもそも初めからリテラリズムの芸術は、趣味の歴史のなかの一つのエピソード以上のものに相当してきた。それはむしろ感性の歴史―ほとんど感性の自然史に近い-に属している。またはそれは孤立したひとつのエピソードではなく、一般的に広まったひとつの状況の表れなのだ。リテラリズムの芸術が、自分が占めたいと切望するポジションを定義づけたり位置づけたりする時、それがモダニズムの絵画とモダニズムの彫刻、その両方との関係においてであるという事実によって、その状況の深刻さが裏付けられる。(思うにこのことが、それが宣言している内容をひとつのポジションと呼ぶに値するものにしているのだ。)特異なことに、リテラリズムの芸術は、自らをモダニズムの絵画だともモダニズムの彫刻だとも考えていない。しかし他方で、それらの特殊な保有に動機づけられている、否、もっと悪いことには、その双方に関わっているのだ。そしておそらく明確にでも直接的にでもないが、それはモダニズム絵画や彫刻に取って代わりたいという野望を抱いている。だが、いずれにしてもどちらか一方を足掛かりにして、みずからを独自の芸術として確立したいと切望している。
(『芸術と客体性』マイケル・フリード著 川田都樹子、藤枝晃雄訳)

冒頭の「ミニマル・アート、ABCアート、プライマリー・ストラクチュアズ、特殊な客体(スペシフィック・オブジェクツ)」に加えて、「リテラリズム」とさまざまな呼称が書かれていますが、いずれもドナルド・ジャッド(Donald Clarence Judd 1928 - 1994)やロバート・モリス(Robert Morris、1931 - 2018)らの、主に箱型のシンプルな立体作品に当てはまるものだと思います。そしてそれぞれの呼称によって、同じ作品でも注目点が違ってくるのです。
私はこういう美術用語に詳しい人間ではありませんが、わかる範囲でその違いを書いてみましょう。まず「ミニマル・アート」という呼称ですが、「ミニマル」と言えば「最小限」ということですから、表現の禁欲性に比重が置かれている感じがします。アメリカの現代絵画が抽象表現主義からカラー・フィールド・ペインティングを経て「ミニマル・アート」へと至る、絵画の平面性への追究の結果至ったもの、というイメージが私にはあります。
次に「ABCアート」ですが、これはアメリカの美術史家であり美術評論家でもあるバーバラ・ローズ(Barbara Rose,1938 - )が使った用語だと言われています。ローズは「ABCアート」について、例えばカシミール・マレーヴィチ(1879 - 1935)の正方形絵画やジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.、1912 - 1992)のシンプルな音楽、M・カニングハム(Merce Cunningham,1919 -2009)のモダン・ダンスの振り付けなどから影響を受けたものだと分析していたようです。余計なことですが、ローズは1960年代にミニマル・アートの作家だったフランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )と結婚していようですね。そのステラはこの『批評空間』の日本の論者たちのなかでは、モダニズムに翻弄された気の毒な美術家、というふうに評価されていました。たしかにそういう面もあるけれど、彼の芸術をもうすこしポジティブに評価しても良いのではないか、と個人的には思います。後期のいささか混乱して見える作品も、版画作品などの平面で見ると、やはりオリジナリティがあって面白いなあ、と思います。それに常に最先端にいて注目されている中で、努力し続けた作家だと思います。
それから「プライマリー・ストラクチュアズ」ですが、primaryは「基本的な」という意味ですが、それ以外にprimary colorと言えば原色のことを指すのだそうです。「基本的な構造物(Structures)」と言っても、「原色で彩られた構造物」と言ってもイメージがぴったりと合います。いずれにしろStructuresですから表現の立体性に比重が置かれた言葉のように感じます。
最後に「特殊な客体」ですが、この"Specific Objects"という言葉は、批評家でもあったドナルド・ジャッドの論文のタイトルでもあります。「明確な物体」と翻訳されることもありますが、それはジャッドが抽象表現主義の複雑さを乗り越えようとして、明確、明快な作品を作ることを心掛けたからでしょう。一方で「特殊な」という意味合いとしては、ジャッドらの作品が絵画でも彫刻でもない、つまり既成の表現カテゴリーを越えた特殊なものである、ということを主張しているのです。これは新しい芸術なのだ、という高揚感があったのでしょうね。それがフリードから見ると「モダニズム絵画や彫刻に取って代わりたいという野望を抱いている」というふうに受け取ることになったのでしょう。
いずれの呼称も、そのように作品を呼ぶ人たちの「イデオロギー=社会的な立場や思想」が感じられます。それではフリードが呼ぶところの「リテラリズム」はどうでしょうか。「リテラリズム」は訳注でも書かれている通り「字義通り」という意味です。つまりここでは、ジャッドらの作品の簡素な表現が「物体そのもの」を差し出しているように見える、という意味で使っているのだと思います。「物体(客体)=Object」そのものの表現が、この論文のタイトル『芸術と客体性』の「客体性(Objecthood)」へと向かっているのです。彼らはむき出しの物体を差し出しているだけだ、ということを強調したいのでしょう。そのリテラリズムの表現について、先ほども触れたように「モダニズム絵画や彫刻に取って代わりたいという野望を抱いている」という、否定的な言い方をしていることから、フリードがこの論文によってそれを批判したいのだろう、ということが分かります。
それでは、リテラリズムはどのような理由によって否定されているのでしょうか。
ここで、ちょっとずるいのですが『芸術と客体性』の本文でそれを解読すると説明が長くなるので、フリード自身がそれを要約した文章を書いているので、それを利用してみましょう。その文章というのは、この『批評空間』に掲載された彼らのディスカッションのために、マイケル・フリード、ロザリンド・クラウス、ベンジャミン・ブグローがそれぞれ『ミニマリズムとポップ以降の美術論』という短文を書いているのです。フリードの場合、『芸術と客体性』がそのディスカッションの主要な対象になることがわかっていたようで、『芸術と客体性』を要約しながら自分の考えを語っています。その要約部分ですが、例えば次のような文章です。

1967年の初頭に書き上げたこの評論は、のちに「カラー・フィールド・ペインティング(色彩による場の絵画)」と呼ばれるようになった動向とアンソニー・カロの彫刻に焦点を当て、それらの最新の展開を論じた一連のエッセイを、新たにまとめなおしたものだったんです。このふたつの作品群は、当時の私にとって、そして今現在も、美術の根幹をなすような作品に思えました。つまり、私たちの時代のなかで、最も重要かつ卓抜した絵画・彫刻と思えたわけです。一方でこの評論は、ミニマリズムに対する私の強い反感、つまりドナルド・ジャッド、ロバート・モリス、カール・アンドレ、トニー・スミスらの作品に対する反感から生まれたものだったともいえます。事実、私はそれをはっきり言明していますし、この評論にざっと目を通しさえすれば、それは誰の目にも明らかなことです。ただこの点については、次のことを明確にしておきたいと思います。つまり、まずもってそうした反感が単純に私のなかに沸き起こったという事実、そして私自身が見たり感じたりしたことを表現するため、適切な言辞を探してゆく過程で、ミニマリズムに対するある種の反論、たとえば「即物主義(リテラリズム=ミニマリズム)の美術は、かつても今も、本質的に演劇的(シアトリカル)である」、というような告発的反論を展開してゆくことになったという事実です。もう少し厳密にいえば、そうした反論は、密接に関連した次のふたつの観点を説明するために生まれたといえます。ひとつは、私が心から称賛する何人かの画家や彫刻家たちの作品と、ミニマリズムの作品の間には、現実に極めて重要かつ根本的な違いがあるという点です。もうひとつは、ミニマリズムの作品を前にすると、誰しもその特性からして、非凡な演出がなされた「舞台装置」のなかへ、必ずや引き込まれてしまうという点です。(この演出にかけて、モリスやアンドレは真の巨匠であったといえるでしょう。)彼らの作品、彼らのインスタレーションは、ある種の「高揚感」をあたかも確実に体験させるかのようでした。そして私は、この確かな効果、確かすぎるゆえに私にとっては本質的に非芸術としか思えなかった効果を解析したいと考えたんです。こうして私は、自分が尊敬するアーティストが生み出した徹底的(ラディカル)に抽象的で反演劇的な美術と、表面上は抽象的でありながら、実際には即物的かつ演劇的でしかないと思えたミニマリストの美術を、対照的に捉えてゆくようになりました。このようにはっきり優劣を定めて両者を区別したわけですが、ある意味で私は、強力な主張を投げかけてきたミニマリズムを、結果的には議論に値する問題として取り上げたともいえるでしょう。
(『ミニマリズムとポップ以降の美術論』マイケル・フリード著 杉山悦子訳)

長い引用で申し訳ないのですが、『芸術と客体性』の本文よりも数倍わかりやすく書かれています。しかし内容が分かりやすくなった分だけ、フリードの言い分が理解できるようになったか、と言えばそうでもありません。彼が言っていることはかなり微妙で、内容が理解できても簡単に賛同するわけにはいきません。それでは内容を追っていきましょう。
はじめにフリードは、『芸術と客体性』を書いた動機を明かしています。それはフリードが評価する「カラー・フィールド・ペインティング」やアンソニー・カロ(Anthony Caro, 1924-2013)の彫刻に焦点を当てることだったのだと書いています。彼らの作品はモダニズムの芸術として高く評価できますし、この点について異論を持つ人はあまりいないでしょう。
その一方でフリードはミニマリズムの作品に対して「強い反感」をもっていて、それはなぜかと言えば彼らの作品が「本質的に演劇的(シアトリカル)である」からだと言っています。この「演劇的」という言葉が、わかりにくいのではないでしょうか。ジャッドやモリスの作品を見ると誰しもが「非凡な演出がなされた『舞台装置』のなかへ、必ずや引き込まれてしまう」とフリードは書いています。これはどういうことなのでしょうか。私の解釈は、次の通りです。
例えばあなたが、ミニマル・アートの作品が展示された会場に行ったとします。普通の展覧会ならば、絵画は壁に飾られ、彫刻は台座の上に載せられていますから、あなたは会場内の作品の前に立ち、作品を一望して注意深く鑑賞し、次々と作品をめぐることになります。しかし、このミニマル・アートの作品会場では、そうはいかないのです。作品と言ってもただの物体ですから、それは美術館の床や壁とそれほど相違があるわけではありません。つまりあなたはその会場に入った時から、作品と地続きの空間を意識することになります。絵画でも彫刻でもないそれらの作品は、インスタレーションとしてあなたを取り囲み、いわば舞台装置の中に迷い込んだような気分にさせるのです。そして絵画作品のように一望のもとに作品を理解することができませんし、また彫刻作品のようにその表面をながめながら作品の核心へと迫ることもできません。なにしろミニマル・アートの作品はながめてもながめても物体の表面が連続しているだけですから、その鑑賞には始まりも終わりもないのです。
このように、身体的にその空間にいるだけで舞台装置の中に迷い込んだような気分にさせ、視界の中に作品が見えるだけで鑑賞を強いるような仕組みになっている、それが「ミニマル・アートが演劇的だ」という理由なのです。フリードは『芸術と客体性』のなかで、それをこんなふうに言います。

「結局のところ人は常に諸事物に取り囲まれている」
「リテラリズムの芸術作品である諸事物は、ともかく観者に直面していなければならない」
「それらは観者の空間の中に位置づけられているだけではなく、その人の行くてを阻むように位置づけられている」
「リテラリズムの芸術と理論にとっての中心である終わりの無さの呈示は、本質的に終わりの無い、もしくは不確定な持続の呈示なのである」
「リテラリズムの時間への没頭-もっと正確には経験の持続の没頭-は、典型的に演劇的だと私は言いたい」
「あたかも演劇が観者に対面し、そのことで、単に客体性の終わりの無さだけでなく時間の終わりの無さによって、観者を隔離しているかのようである」

このように、フリードによればミニマル・アートの芸術は、その展示室に鑑賞者が入るや否や作品と対面することを強要し、その行く手を阻むように作品が設置されていて、役者の迫力ある演技のように作品に没頭し続けることを要求する、というのですが、残念ながら私はそこまで強烈な作品に出会ったことがありません。インスタレーションの作品が、鑑賞者の目を引きつけるように設置するのは当然のことですし、それを演劇的だといって批判するのはいかがなものか、と正直に言って思います。
なお、念のために言っておきますが、ここで「演劇的」という言葉が悪いことであるように使われていますが、私の感じで言えばそれは「演出過多」とか、「わざとらしい」とか「押しつけがましい」と言った方がよかったのかな、というふうに思います。演劇が好きな方、もしくは演劇関係の方は気を悪くしないでください。
ちなみにフリードは「自分が尊敬するアーティストが生み出した徹底的(ラディカル)に抽象的で反演劇的な美術と、表面上は抽象的でありながら、実際には即物的かつ演劇的でしかないと思えたミニマリストの美術を、対照的に捉えてゆくようになりました」と書いていましたが、例えばフリードの敬愛するカロの彫刻とミニマル・アートの作品と、それほどきれいに分けられるものなのかな、と疑問に感じます。カロの大がかりな作品は、演劇的だと言われればそういう気もしますし、逆にジャッドやモリスの作品でも、自律的で彫刻的だと思うものもあります。
実はフリードが「対照的に捉えてゆく」と書いたこの両者の相違は、その作品の外観や内容よりも、それらの作家たちがモダニズムの美術論に対してどういう態度を取り、どういう位置にいたのか、ということに関わるのではないか、というふうに感じます。もう少し言えば、その作家がグリーンバーグの美術論に対し、どのように考えて行動したのか、ということです。
ちょっとわかりにくいでしょうか。それでは例えば、フリード自身のグリーンバーグとの関係は、どのようなものだったのでしょうか。フリードはこう書いています。

『芸術と客体性』を書いたもうひとつの目的、そしてそれに先立つフランク・ステラ論『形式としての形態(Shape as Form)』を書いた目的は、同時に「歴史」と「理論」に関わるものだったといえます。抽象絵画や抽象彫刻を論じた私の著作を、一度でも読んだことがある人なら気づいているはずですが、私は60年代全般を通じて、クレメント・グリーンバーグの美術評論に多大な影響を受けていました。彼は1940年以降の同時代美術に関し、今日、世界的に評価されている最も重要な評論家です。しかし、モダニズムが美術にどのように作用するかを理論化した彼の評論は、既に1966年の時点で、私にとって納得のゆかないものになっていました(たとえば『モダニズムの絵画』や『抽象表現主義以降』など)。とりわけ次のようなグリーンバーグの考え方には、賛同できなくなったんです。「モダニズムは美術に還元作用(リダクション)をもたらす、それによって美術は、不要な因襲を徐々に捨象してゆき、最終的には超時代的な還元不能の核心(絵画において平面性およびその限界)に到達する」、という考え方です。こうした考え方には、「この核心こそが絵画の本質でありつづけてきた」、という意味が言外に含まれることになります。そしてそれは、私にとって非歴史的な発想としか思えなかったわけです。私はこれに代わる別の理論的仮説を打ち立てたいと考えました。単なる相対主義へ分散してしまうことのない理論、しかも悪質の本質主義とでもいうべきものへ向かってしまうことのない理論を、何とか見出したいと考えるようになったんです。こうした試みに際し、概念的な基盤なったのはヴィトゲンシュタインの後期の哲学でした。また、哲学者スタンリー・キャヴェルとの友情が、こうした発想を媒介してくれました。つい最近、私は漸くこうした思索の一部を試験的に発表したんです(『モダニズムはいかに作動するのか』)。ですから、ここではその内容には触れませんが、要するに、このとき書いたことはすべて、今から思えば『形式としての形態』や『芸術と客体性』において、既に私が論じていたことだったということです。というわけで、このふたつの評論は、グリーンバーグの考え方に対し、少々複雑な関り方をしていたといえます。少なくとも私たち双方に「頑迷なフォーマリスト」というレッテルを貼って満足しているようなコメンテーターたちが、一般に考えているほど、それは単純な話ではなかったということです。
(『ミニマリズムとポップ以降の美術論』マイケル・フリード著 杉山悦子訳)

このように、グリーンバーグの理論的な限界を感じながら、それを補強、もしくは補正しようとしたのがフリードの立ち位置だったのだろうと思います。前に紹介したロザリンド・クラウスははっきりとグリーンバーグに反発し、グリーンバーグの評価しなかったものを評価しようとしました。
結局のところ、グリーンバーグに学んだ彼らは、その理論を根幹としながら自らの道を模索したのでした。それからドナルド・ジャッドも、グリーンバーグが導いた抽象表現主義以降の平面性への道を進みながら、途中で独自の理論を打ち立てようとしたのです。
私たちからすると、彼らの相違点よりも共通するところを見つけ出す方が容易だったり、興味深かったりするのかもしれません。少なくとも、フリードが「演劇的」という観点からミニマル・アートの作品とカロの作品を峻別しようとしたことは、ちょっと無理があったのではないか、と思います。私たちには、フリードにとって明確であったそれらの区別がほとんどつかないのです。それは作品の鑑賞能力の違いというよりも、彼らの理論的な立ち位置を認識していた者としていない者との違いでしょう。

そしてここで少し現代に目を向けてみましょう。
現代の美術表現を見ると、フリードが批判したはずの「演劇的」な作品の花盛りではないでしょうか。
これはうる憶えの話ですが、ずいぶん前に滝の絵を得意とする日本画家が、世界的なビエンナーレで大きな賞を取りました。それは暗闇の中に白い滝が浮き出るような空間演出をされたものだったと思います。その画家も、その展示をプロデュースした評論家も、いまや日本の美術の大御所です。もちろん、私は遠いヨーロッパで行われたその展示を見ていませんが、見事な演出だったのだろうということぐらいは予想がつきます。うる憶えの情報の上に、実見もしていない話ですから、架空の話として読んでいただくくらいがちょうとよいと思いますが、それにしてもこの話の作品演出の方法は、何か違っていませんか?
私はその日本画家が、そのような演出に作品を使われることを了解したことについてがっかりしました。それはどういうことかと言えば、例えばあなたが伝統的な彫刻作品を模索していて、その結果みごとなオオカミの彫像を何体か制作したとします。そこに演出力に長けた美術評論家が来て、あなたの作品を大きな会場で暗い闇の中で展示したらどうだろう、と提案したとしましょう。展示に迫力が出るように、オオカミの目に蛍光塗料でも塗って、暗闇からオオカミの群れが目を光らせて浮かび上がってくるようにしたらどうだろう、というのです。あなたの彫像はみごとなものですから、その演出で大きな賞が取れるのかもしれません。
これは意見が分かれるところかもしれませんが、私はそのように作品を展示することに反対です。それは彫刻の展示というより単なるディスプレイであり、そのような疑似自然的な展示はインスタレーションとも言えません。その展示方法が、あなたの作品のディテールや木の質感や鑿の微妙なタッチや顔料の微妙な色合いなど、その作品の生命力である微細な表現を見るのにふさわしくないことは明らかです。
しかし、いまの美術の現状を見ると、いかに注目を集めるのか、ということに終始していて、そんな価値観はお構いなしです。私はこの『芸術と客体性』という評論がすべて正しいとは思いませんし、疑問点さえ明らかにしましたが、現在の美術の、いかに作品を演出するのか、ということにしか興味がないような現状を考えると、いまこそこの評論が問うことに対して、作家も評論家もキュレーターもきちんと向き合ってみたらどうだろうか、というふうに思います。
ということで、いまだからこそ『芸術と客体性』の「演劇的」というキーワードについて、考えてみませんか、と私は言いたいのです。

さて、最後になりますが、フリードがミニマル・アートの作品を演劇的だと批判した時に、鑑賞者が作品を見るときの時間について問題にしていたことを、少しだけ考えておきましょう。フリードは『芸術と客体性』の最後のところで、ミニマル・アートの作品を鑑賞するときの「時間の終わりの無さ」について言及した後で、次のように書いています。

それは人が事実として、ノーランドやオリッキーの絵画もしくはデイヴィッド・スミスやカロの彫刻を全くの無時間のうちに経験するからではなく、どの瞬間にあっても、作品それ自体が完全に明示的であるからである。(このことは彫刻にとって真実である。三次元であるからにはそれは無数の視点から見られ得るという明白な事実にもかかわらずである。その人が立っている場所からだけそれを見たからといって、カロのある作品についての人の経験は不完全になるわけではないし、それどころか、カロの最良の作品の掌中にあっては、ある人の彫刻の見方は、いわばその彫刻自体によって陰らされてしまう-つまり、一部分でしかない現在としてだけその彫刻について語ることは、あからさまに無意味なことになるのである。)人が一種の瞬時性として経験するのは、この連続的で全体的な現在性であり、それはいわば永続するそれ自体の創造に等しい。それはあたかも、もしも人がより限りなく鋭敏でありさえすれば、あらゆるものを見、作品をその深さと豊饒さの全てにおいて経験し、それによって永遠に確信させられるのに限りなく短いたった一瞬で十分な長さであるかのようだ。(ここで以下のことは言及しておく価値がある。つまり、興味深さという概念には、その客体に向けられる連続的な注意という形式の中に、はかなさが暗示されており、一方、確信という概念にはそれが無いのである。)モダニズムの絵画と彫刻が演劇を打破するのは、それらの現在性と瞬時性の効力によってなのだ、ということを私は主張したい。実際、演劇を打破する必要性に直面して、絵画と彫刻以外の現代のモダニズムの芸術、最も明白には詩と音楽が憧れているのは、とりわけ絵画と彫刻の状態である-つまり連続する永遠の現在の中に存在しているという状態、実際、そのような現在を分泌もしくは構成しているという状態である-ということを、私は自分が知っている範囲をはるかに超えて示唆したいという思いにかられているのである。
(『ミニマリズムとポップ以降の美術論』マイケル・フリード著 杉山悦子訳)

フリードは、モリスの作品を鑑賞する「時間の終わりの無さ」について詳しく語りながら、カロやデイヴィッド・スミス(David Smith, 1906 - 1965)の彫刻に関しては、みごとにその「瞬時性」について語っています。その両者の違いについては納得しがたいものがありますが、フリードのこの「瞬時性」へのこだわりは、実は彼が乗り越えようとしたグリーンバーグから引き継いだものです。私は数週間前のblogでロザリンド・クラウスの『視覚的無意識』を取り上げ、そこでクラウスがまとめたグリーンバーグ的な芸術鑑賞の見方、その時間の概念について、つぎのように要約しました。

グリーンバーグの絵画の見方は、「それらを全体としてとらえる」という見方であり、その見つめる時間は「即自的同時性」という時間になるのだ、と彼は言っています。要するにいっぺんに全体をながめることが大事で、部分的に画面を追いかけたり、画面の中で視線がさまよったりする時間は「宙吊り」にされる、つまり考慮に値しない時間の使い方だ、ということなのです。絵の前に立つときには、不意にぱっと絵が現れたかのように、全体を一瞥することが大切で、先入観をもってジーっと絵を凝視してしまったりすると、「眼差しがついにはぼんやりと自分に戻ってきてしまいがちである」、簡単に言えば目の前の絵を見ているようでいて見ていない、それでは結局のところ自分の思いがはねっかえってしまうだけだからだめなのだ、とグリーンバーグは言っているのです。

このように作品を鑑賞するときに「それらを全体としてとらえる」ということは、フリードがグリーンバーグから学んだことなのです。クラウスはこの見方を切り捨てようとしましたが、フリードはこの「時間」の捉え方に関しては師の教えを継承しています。そればかりか、美術作品の演劇性を打破するための重要な概念となっているのです。
私は前にこのグリーンバーグの時間の概念に触れて、ちょっと否定的な気持ちを持ちました。こんなふうに「即自的同時性」という時間を守って、いつも作品をながめられるものだろうか、というふうに疑問に思ったのです。しかし、フリードが言うように、「一種の瞬時性」として、あるいは「連続的で全体的な現在性」として作品をながめる、という捉え方をすれば、たとえ立体的な作品であっても明快に全体をながめることも可能なのかもしれません。
美術作品はもともと不動のもの、したがって音楽におけるほど時間の概念が重要ではないもの、だと思われがちですが、そうでもありません。制作の方法によっては作品の中に時間の概念をこめることはいくらでもできますし、作品の鑑賞時においても時間の概念が重要であることが、これでわかりました。
そうそう、うっかり忘れるところでしたが、この『芸術と客体性』の論文のはじめに、ペリー・ミラーの次のような文章が引用されています。後半部分だけ書き写しておきます。

連続性、すなわち時間は存在するのだから、「私にとって確かなことは、世界はあらゆる瞬間ごとに新たに存在するということ、つまり事物は瞬間瞬間に存在することを止め、瞬間瞬間に更新させられるということである」。永遠に確かなことは、「もしも、我々が、神が最初に世界を創造するところを見たとしたら、その時に我々が見たであろう神の存在の証と同じものを、我々はあらゆる瞬間に見ている」ということだ、と。
-ペリー・ミラー『ジョナサン・エドワーズ』
(『芸術と客体性』マイケル・フリード著 川田都樹子、藤枝晃雄訳)

この世界が「瞬間瞬間に更新させられる」という潔い考え方が、いかにも清教徒による新しい国の思想家らしい認識だと思います。更新された「瞬間」というものへのフリードのこだわりは、こういう伝統からきているのかもしれません。
いずれにしろ、どこかで美術作品における時間について、まとめておきたいな、と思います。

さて、もうすこしアメリカの美術批評について読み込めたら、グリーンバーグ以降、モダニズムの美術理論はどう継承されたのか、あるいは乗り越えられたのか、書いてみたいと思います。
それにしても、グリーンバーグのモダニズム理論を弟子にあたる人たちが批判したり、継承したり、乗り越えたり、ということが明確に語り合えることがうらやましいですね。私などは、自分がどのような位置にいて、何をしているのか、何をするべきなのかということすら、明確に言えません。これでは美術理論の議論に加わることができません。次に展覧会をやるときには、絵の良しあしはともかくとして、そのあたりをもう少し明確にしてみたいです。

ぼちぼちと画廊が開きはじめ、知人から展覧会の案内も入ってくるようになりました。
職場も再開しはじめて、時間的に厳しくなってきましたが、blogの書き込みはコンスタントに継続していきたいと思います。まだまだ大学は眠っているようなので、学生の方はよかったら一緒に勉強していきましょう。

次回は身近な作家の活動について書きたいと思っています。

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