平らな深み、緩やかな時間

115.『不在の絵画』倉重光則・高島芳幸 パンフレットより

以前のblog「112.・・・、國分功一郎について」で私は、哲学者の國分功一郎(1974 - )がNHK・BS1スペシャル「コロナ新時代の提言」というテレビ番組に出演した折に、興味深い問題提起をしていたことについて触れました。國分はその番組の中で、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben、1942- )とドイツの首相メルケル(Angela Dorothea Merkel、1954 - )に関することを話していました。
それはこういうことです。アカンベンはウイルス感染防止のためのとはいえ、死者を十分に弔えない状況になっていることに触れて「人は生存することのみを目的としていてよいのか」ということを問いかけたのでした。一方のメルケル首相は「移動の自由を制限することがいかに人間にとって重大なことなのか」ということを東独における自らの経験に照らして語ったうえで、それでも今回は移動を制限せざるを得ない、と訴えたのです。
彼らの重たい言葉を受け止めながら、國分は感染防止のための科学的な知見の大切さを認識しつつも、それが第一義に置かれていることに違和感を持つことが大切ではないか、という自らの思いを語っていました。
この國分の言っていることの真意について、意外と理解しづらかったのではないか、と私は思います。感染防止を第一に考えるべき時に、そのための科学的知見を重視することに違和を感じる、ということは一見すると矛盾しています。とくにこの番組が放映された自粛期間中に、國分の発言を十分に理解することは、私には難しかったのです。
しかし今となってみれば、まさに國分の言っていたことが問題となっています。感染防止の専門家会議が唐突に廃止となり、その会議の果たした役割や専門家のメッセージの伝え方など、その難しさが専門家会議の当事者からも訴えられています。人間が生きることの中には、科学的な生命の維持というほかに、その土台となる経済活動や生きるために必要な精神的モチベーションなど、さまざまなことが含まれます。それを自然科学的な知見というひとつの意味だけで覆ってしまってはいけなかったのです。このことは、このblogでも何回か取り上げたマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )の「新実存主義」の考え方とも共通していると思います。
ただ、誤解のないように断っておくと、國分にしろ、マルクス・ガブリエルにしろ、自然科学的な知見を軽視しろ、と言っているのではありません。盲目的にひとつの意味が社会を覆ってしまうことの違和感、それは危険性と言っても良いのかもしれませんが、そのことを彼らは指摘しているのだと思います。例えば「自粛警察」と言われた人たちの動きなど、その危険性が現実の形になったものだと思います。ひとつの意味に捕らわれて、心の中に余裕がなくなった時に人間は客観的な判断ができなくなります。とくにその意味が自然科学的な知見というゆるぎないものであったり、そこから生じた正義感に基づくものであったりすると、自分自身で客観的な判断をすることが難しくなります。
実は私の中にも「自粛警察」的な要素があり、それが私の心の中の小さな真面目さと関わっていたらしいことに気づき、その恐ろしさについてあらためて認識しました。しかし幸いなことに、私の心の中の大部分を占めているのが「いい加減さ」や「なまけ癖」であり、それらが私に「自粛警察」的な行動をとらせなかったのだと思います。人の気持ちの微妙な難しさについて、あらためて考えてしまいます。

さて、このように非日常的な状況になると、私のような者でもいろいろなことを考えます。
おそらく、平穏な日常で、それほど生命の危険を感じることがなく、また移動の自由も制限されていないときなら、一人の哲学者のこのような言葉に気をとめることもなかったでしょう。しかし、この非日常の危機的な状況下において、私は國分の言葉の意味を噛みしめることになったのです。
今回取り上げる二人の作家ですが、実はこのような意味の問い直しを日ごろから繰り返し行っている作家たちです。その二人の作家、倉重光則と高島芳幸が、昨年開催した展覧会のパンフレット『不在の絵画』を私に送ってくれました。そこで、あらためて彼らの作品について考えてみたいと思います。
最初にお断りをしておきますが、私は残念ながら昨年の5月に千葉県の「ギャラリー睦」で行われたこの『不在の絵画』という展覧会を見ていません。したがって、パンフレットのテキストや写真、それから彼らの作品を見た経験からこの文章を書いています。

それではまずこの二人の作家について、画像で彼らの作品が見られるサイトのアドレスを掲載しておきますので参照してみてください。
〇倉重光則
http://kurashige.org/product.news.html
※倉重さんの公式サイトです。
〇高島芳幸
http://atelier-k.main.jp/exhibition.html
http://www.tokyoartbeat.com/event/2017/3ADF
※高島さんのまとまった参照ページがわかりませんでした。この二つのページの写真は、今回のパンフレットに掲載された作品に近いものです。

それから倉重光則については、私は昔、論文を書いています。それも紹介しておきます。
http://ishimura.html.xdomain.jp/text/2001倉重光則論.pdf
同じく、高島芳幸については、つぎのblogで取り上げています。
『69.「絵について語ること①」高島芳幸、高橋圀夫、さとう陽子』
「ブログ検索」で「このブログを検索」にチェックを入れて「高島芳幸」で探していただくと見つかると思います。

これで、彼らの作品に関する基礎的なイメージをつかんでいただけたでしょうか?
倉重光則はネオン管を使った光の作家、というイメージがありますが、彼はいわゆる「ライト・アート」の作家とは異なります。倉重の場合は光の効果そのものが作品のモチーフではありません。彼にとってネオン管は、言わばデッサンの用具のようなものであって、それは空間の中に引かれた光の線、もしくは光の点、あるいは光の塊なのです。
倉重の作る光の四角形は、光によるドローイングです。彼は光の線が人間の目を幻惑することをよく知っています。その現象を利用して、倉重は線の一部を切断し、私たちに想像上の四角形を描くことを促します。私たちはその断続的な線によって、現実の四角形がそこになくてもイメージの中で四角形を感じるのです。そしてイメージの中の四角形は、完璧な図で示された四角形よりも強く、また生き生きとした生命感を持ったものであることに気が付くのです。
ですから倉重の作品は、「描く」ことの意味を根本から問い直す作品でもあり、そのことによって「絵画」の意味を問い直してもいるのです。パンフレットに書かれた彼の言葉を引用してみましょう。

空白の紙面に向かって、ワタシはよく考えます。絵画すること、何によって絵画にするのか、何が絵画になりえるかと・・・。
まず始めに正方形を(正方形に近いもの)のワク(正方形という絵画の枠組)から始める、何回も繰り返し描く、ワクの生産。
無意味と思いつつもそれをやり続ける意志。正方形から正方形へと無限に反復すること。
絵画における機能とは、ちょうど岸壁に打ち寄せては引いていく波のようにワタシに働きかけてくる。その波をワタシは作品に押し返す。この「立ち返り」こそが絵画における機能とよべるものである。空白の時空をはかり、その表面を横に横にすべること。そのことが意志を意志することになり、差異の享楽を知ることになる。それが絵画することだろう。
(『「不在の絵画」パンフレット』「配置 配分 配列」倉重光則)

倉重は絵画の意味を確認するために、何回も繰り返し正方形を描きます。この行為を彼は「立ち返り」とよぶのですが、それではその「立ち返り」を作品として表現するためにはどうしたらよいのでしょうか?繰り返し描いた正方形を展示しただけでは、それは行為の痕跡を人に見せただけであって、「立ち返り」の行為そのものを表現したことにはなりません。そこで彼は断続的な正方形を、その一部が金属で一部が光で、残りの部分が見る人の頭の中のイメージで作り上げられるような、そんな正方形を表現するのです。そのような「不在」の正方形こそが、彼が「立ち返り」と呼ぶ行為を見る人と共有できる表現なのです。倉重の作品において、私たちはイメージの中で正方形を繰り返し描きます。そして、その心の中の描く行為こそが「絵画」ではないのか、と気がつくのです。これがまさに「不在の絵画」です。


一方の高島芳幸は、木枠に布を張って絵を描く、という既成の絵画の様式を繰り返して問い直している作家です。以前にも書きましたが、それは1960年代末のフランスの芸術運動「シュポール/シュルファス(支持体/表面)」の作家たちと共通するところがあります。ただ、「シュポール/シュルファス」の作家たちが理詰めで絵画という制度を解体して、その後は個々の表現活動に移行していったのに対し、高島は絵画への問い直しを継続しています。そしてその「行為」の中で自分の感覚を研ぎ澄まし、新たな「絵画」の意味を見出しているのです。
高島の文章を読むと、その過程をドキュメンタリーとして見ているような気がして、とても興味深いです。パンフレットに掲載された彼の「制作メモ」の一部を引用してみましょう。

見ている時間、視線は布の表をなぞり画布の端の皺を巡り、ときに裏に向かう。ときに布目を徹り、目の前の画布は身体に入り込む。その時間が絵画を生んでいく。見る対象との距離・関係、対象の中の距離。時間が空間を孕む、いや空間が時間を孕むとも。時間の流れ-視線は、空間の深度、層を多様化させ、パラレルな空間をも同時に予見させる。時間の内に無限の絵画がすでに用意されている。

キャンバスを見る時間。カクという行為が為される時間。カカレタシカクを見る時間。それらの時間の中で繰り返し網膜上に映し出された形や色や質感とそれぞれの関係は、変化を続ける。それらを受け、カクという行為は為される。移動する筆と残される筆跡は、一瞬一瞬の支持体と筆とメデュームとの出会いの中に、予想を裏切る新しい現実も画面に加えていく。視覚も一瞬毎にその画面を受け取り調整・更新し、一回性の連続として次の行為を促す。

画面の上で為される行為は、時間の流れと共に視覚との絶えることのない互いの応答の連続として画面上に蓄積し、絵画は成っていく。色彩や形の美しさ、筆触のリズムや激しさからくるイメージを掬い上げるだけでなく、画面の向こうに、画面の外に何を見ているのか。見ようとしているのか。画面上に残された筆跡や色・形や素材を感覚しながら、次の瞬間身体に封印し、それらすべてを手放す。そして、新しい現実の中に次の点・線を引いていく。「今」という一回性の現実を重ねていくのだ。
(『「不在の絵画」パンフレット』「制作メモ」高島芳幸)

高島の作品をご覧になればわかりますが、彼は木枠に布を張り、そのほんの一部に木炭で、あるいは絵具で短い線、もしくは点のようなものを描きます。その木枠と布が、ときに折り曲げられ、ときに皺がよった紙である場合もあります。とにかくそれらは絵画を描く際の生な素材、画家の行為を待ち受けている布や紙なのです。そこに少しでも「描く」という行為が加えられれば、たちまち布や紙は「絵画」と呼ばれるものになり得るでしょう。もちろん、高島はそのことがよくわかっていて、そこに加えられるべき「描く」行為がどのようなものであるべきなのか、感覚を研ぎ澄ませているのです。
高島がパンフレットの「制作メモ」で書いていることは、まさにその「描く」行為を言葉でデッサンしているかのようです。
はじめに引用した段落において、高島はキャンバスや紙が彼の行為を待ち受けていることを感受します。布の目の細部や素材と自分との距離感、そしてキャンバスと自分とを含んだ空間そのものの相貌など、実はふだん私が大切にしなければならないと思いつつ、いざ描きはじめるとなるとおざなりにしてしまっていることを、高島は大切に受け止めようとするのです。そのとき、高島のイメージの中ではすでに「絵画」が用意されているかのように存在するのでしょう。それはまだ「不在の絵画」ではあるものの、イメージの中では「用意された絵画」でもあるのです。
そして感覚を研ぎ澄ませた高島にとっては、絵画は「空間」の問題であるばかりでなく、それは「時間」の問題でもあるのです。「描く」という行為の時間が「見る」という行為の時間へと受け継がれていく、その過程は敏感な者だけが描くことの出来るドキュメンタリーです。「描く」という行為は絵具というメディウムが布という素材・支持体と出会う場であり、それを筆という用具を介して、あるいは眼という感覚を通じて高島は感受するのです。その様子が描かれているのが、ふたつめに引用した段落です。
その絵画と自分との交感を積み重ねていくことが、「絵画を描く」ということです。それは連続した行為でありながら、ひとつひとつの「描く」行為は一回性のものです。このことも私がふだんおざなりにしていることです。絵を描くときの「慣れ」が描く「行為」を主導してしまう時、いつもの代わり映えのしない、これといった発見のない絵が出来上がってしまいます。高島が書いているような、「次の瞬間身体に封印し、それらすべてを手放す」ということがなかなかできないのです。そのことを記述したのが、三つめの引用段落です。

この二人の文章は、作品の意味を説明したり解説したりするのではなく、「絵画」そのものを、あるいは「描く」という行為そのものを言葉として書き留めたものです。その文章への向き合い方は、彼らの作品ともぴったりと重なります。倉重も高島も、自分の表現行為や制作活動の意味をしっかりと自覚しています。そればかりか、それを言葉で紡ぐことの出来る稀有な美術家なのです。


彼らの言葉を読んでいて、私は詩人の谷川俊太郎(1931 - )の『定義』(1975)という詩集を思い出しました。その中の「コップへの不可能な接近」という詩の一部を参照してみましょう。

それは底面をもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それは或る一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満している時、我々はそれを空と呼ぶのだが、その場合でもその輪郭は光によって明瞭に示され、その質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位としても用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。
(『定義』「コップへの不可能な接近」谷川俊太郎著)

これがだいたい詩の前半部分です。コップの定義なのに、何やら傷害事件を彷彿とさせる部分があるところなどが45年前という時代を感じさせます。今では、コップのガラスの破片が凶器になる、というイメージはあまりないような気がします。それにコップをはじいて合図をする、というのはどういう合図なのでしょうか。それはともかく、「コップ」という言葉を使わずにコップを語ることは、これほど技術が必要なものなのか、と感心してしまいます。
しかしこの『定義』という詩集には、これとは逆に「りんご」という言葉を連呼しながら、「りんご」という言葉が指し示すものはいったい何なのか、ということを追究した詩もあります。

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。
花咲くりんごだ。実るりんご、枝で風に揺れるりんごだ。雨に打たれるりんご、ついばまれるりんご、もぎとられるりんごだ。腐るりんごだ。種子のりんご、芽を吹くりんご。りんごと呼ぶ必要もないりんごだ。りんごでなくてもいいりんご、りんごであってもいいりんご、りんごであろうがなかろうが、ただひとつのりんごはすべてのりんご。
(『定義』「りんごへの固執」谷川俊太郎著)

これも詩の前半部分です。こんなふうに、さまざまな状況、さまざまな修飾語で語られるものが、すべて「りんご」という同じものを指し示している、という点がとても興味深いです。「りんご」という言葉で指し示される概念を、いったい私たちはどのように了解しているのでしょうか。そしてさらに考えてみると、「コップ」にしろ、「りんご」にしろ、あるものを概念として形作り、それを了解するということは、なんと複雑でややこしいことでしょうか。「コップ」や「りんご」という、一般的で単純なものですらこうなのですから、もっと難しいもの、抽象的なものだったらどうなるのでしょう。
おなじく『定義』の中から「メートル原器に関する引用」という詩を引用してみましょう。

メートル原器は白金90パーセント、イリジウム約10パーセントの合金でつくられており、その形状はトレスカ断面と呼ばれるX形に似た断面を持つ全長102センチの棒であって、この両端附近の中立面を一部楕円形にみがき、ここに各三本の平行な細線が刻んである。1メートルは、パリ郊外の国際度量衡局に保管されている国際メートル原器(1885年の地金製)が標準大気圧、摂氏零度で、572ミリ離れて平行に置かれた、直径が少なくとも1センチのローラーで均斉にささえられたときの、中央の目盛線の間の長さと定められていた。日本のメートル原器はこれと同時につくられたナンバー22で、その長さは1920年から22年に行われた定期比較で1メートルマイナス0.78ミクロンという値が与えられていたが、日本は1961年計量法を改正してメートルを光の波長で定義したので、メートル原器はその任務を終わっている。 *平凡社刊・世界大百科事典による
(『定義』「メートル原器に関する引用」谷川俊太郎著)

これは『定義』という詩集に入っていますが、どうやら平凡社の世界大百科事典の引用、つまり丸写しのようです。これはたしかに「メートル原器」を言葉で表現したものですが、はたしてこの文章は「表現」なのでしょうか、それとも単なる「説明」なのでしょうか。さらに考えていくと、この詩が訴えているものは「メートル原器」そのものの定義ではなくて、「詩」という表現そのものの定義であるような気がします。つまり私たちは、この文章を一編の「詩」として認識してよいのでしょうか、ということです。

ここに至って、はたと気が付くことがありませんか?
それは「詩」とは何なのか、「絵画」とは何なのか、「言葉」が指し示す概念とは何なのか、「描く」という行為とは何なのか、というとてもラディカル(根本的)な問いかけを、谷川俊太郎も、倉重も高島も、私たちに投げかけているということです。それも理屈ではなく、説明でもなく、表現として直接、彼らは私たちの知覚に訴えかけているのです。彼らは分野こそ違えども、芸術家として高いレベルでの問いを投げかけているのです。

そしてこのような、詩人と美術家に共通する問いかけには、どんな意味があるのでしょうか。
私はこのことについて、少し理屈っぽい説明を試みてみます。
それはこのblogでも何回か取り上げてきた、1980年代にさかんに語られたポスト・モダニズムの記号論的な解釈による説明です。ごく簡単に言うと、次のようなことです。
モダニズムの絵画がグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)の絵画論に導かれて平面へと向かったことは、このblogで何回も確認しました。その結果、到達したのがミニマル・アートの完全な平面です。つまり芸術作品は、何も描かれていない平面とほとんど同じものになってしまったということです。それを私たちは「絵画」と呼んでよいのでしょうか、あるいはそれを芸術「作品」として認めてよいのでしょうか、という問いかけが、当然のことながら生じてきたのです。そのときに記号論の研究者たちが言ったことは、「絵画」とか芸術「作品」とかいうものは、実は私たちの概念の中にあるのだ、ということです。作品そのものをどんなにしげしげと見ても、そこにはただの平面があるだけで、私たちの問いに答えるような要素はありません。それを「絵画」であると規定するもの、それを芸術「作品」であると認めるものは、作品の手前側、つまり私たちの視線の中にあるというのが記号論の理屈です。私たちの視線そのものが、そこに意味を紡ぎ出すということなのです。
そのことについて、もっとも的確に語っている文章を引用しておきましょう。

この記号(意味)作用のシステムの中で、ミニマル・アートのいわゆる《還元》-それ自体以外のなにものも意味しないという事実-はレヴィ=ストロースのいう《記号(意味)作用のゼロ度》にも比定することができるだろう。それは記号(意味)作用の不在ではなく、それ自体としてはとくに記号(意味)作用を伴わず、しかも意味の不在(無意味)に対立する概念である。いいかえれば、それ自体以外のなにものも意味しない物体とは意味の不在ではなく、意味する不在なのだ。

今日の表現の質をポジティブに定義しようとすれば、そのひとつはここから定義することができるだろう。それはいわば表現のゼロ度ともいうべきものであるように思われる。いうまでもなく、このような表現のゼロ度が実現されるレベルはもはや作品の背後、《深さ》にはないだろう、しかしまた、それは物体それ自体においてでもないだろう。それはむしろ見ることの表面として実現される。そこに今日の批評の言語の困難と苦渋が生まれる。

-画廊に置かれた材木は、構成としてもイメージとしても意味づけられているのではない。事物が作品化されているのは明らかであるが、実質的にはそれに依存された表現がとり出されているのでもないし、またそれが作者のイメージに従属しているのでもない。事物が事物のままではなく作品に変えられた表現をさし出している

-それぞれ異なった色彩を有する三つのモノクロームは、相互関係であるようでいて、そうでもない、それぞれが作品として見るものの前に現れ出るものである。モノクロームは、画面のなかの造形的関連をとり払うため観念的に塗られているのではない。塗られているより、複合した色層の重なりが作品となるのであり、それみずからが表現力をもっている。現前するという意味でこの客体としての作品は、目の前に現れる部分のみが表現となる視覚的な働きをなしている。

作品(あるいはむしろ×作品)は、もはや、それ自体において意味をになうのではなく、《美術》という記号(意味)作用の一項となる。いいかえれば、《美術》という記号(意味)作用のシステムはもはやひとつの作品の中に、あるいはひとつの《作品》として完結的に見出されるのではなく、それを見ることの中に、《見る》ことのディスクールとして求められなければならないだろう。作品=創造に対して、それを見るとうい関係をテクスト=引用として捉えること。
(『紙片と眼差とのあいだに』「記号学の余白に」 宮川淳著)

この宮川淳(1933 - 1977)の『紙片と眼差とのあいだに』(1974)という本を、私は何回繰り返して読んだことでしょうか。宮川は私が学生の頃、日本の美術評論家の中で唯一、ポスト・モダニズムの思想家として名前が挙がっていた人でした。彼は私が高校生の頃に亡くなっていますから、もちろん生前の宮川のことは著作でしか知りませんが、彼の影響力は当時も残っていたと思います。
そしてここに書かれていることは、先ほど私が要約して書いたこととほぼ同じだと思います。最終的に宮川は、「作品=創造」に対して「テクスト=引用」という関係を提唱し、自分自身で引用の切り貼りのみによる書物『どこにもない都市 どこにもない書物』を作成しています。この本は清水徹(1931 - )の文章を宮川がコラージュする、という形で出来上がっていますが、その試みの面白さはともかくとして、当時の若者であった私にしてみれば、何とも先の見通しが暗くなるようなものでした。もちろん、宮川の言わんとすることはとても魅力的であるし、重要であるとも考えたものの、その先にあるものが創造の否定であり、残された方法論は引用だけである、というところが気がかりでした。この結論はどう見ても希望の持てる話ではありません。私は表現の袋小路に入ったような気分になり、それを乗り越える力もなかったのです。

ところが倉重や高島のやっていることは、その当時から30年ほど経っているものの、ラディカルな「絵画」への問い直しを継続しながら、それが生き生きとした芸術表現としっかりと結びついています。谷川俊太郎の現在について私はよく知りませんが、その後も詩人として活躍し続けていることは周知の事実です。ラディカルな芸術への問いかけを重ねてきた彼らが、その後は何かの引用ばかりに終始してきたわけではないし、創造力を失ったわけでもありません。
それは、おそらくこういうことだと思います。宮川は抜群に頭の切れる研究者でしたが、彼が示して見せた思考の道筋を実際に表現者が歩いてみると、そこにはまた別の風景が見えてきた、ということなのではないでしょうか。思い出してみると、その当時は「創造」ではなくて「引用」だ、という話以上に「絵画の終焉」ということが話題になっていました。以前にもこのblogで「絵画の終焉」論について取り上げましたが、そもそも「絵画」を問い直すことだけでも、これほどの可能性を表現者が示しているのですから、絵画が終焉するわけがありません。
宮川はこの著作において「もはや作品の背後、《深さ》にはない」と書きました。そしてそのことによって「今日の批評の言語の困難と苦渋が生まれる」と書きましたが、その部分もいまならば更新されるべきものなのかもしれません。なぜならば、例えば倉重や高島の表現活動を丹念に追いかけて言葉を紡いでいけば、そこには自ずから新しい「批評の言語」が生まれてくるはずだからです。

モダニズムからポスト・モダニズムの時代にかけて、それぞれの芸術はその意味をラディカルに問われました。それは表現者にとって厳しい時代ではありましたが、倉重や高島の作品を見ると、明らかにその問いかけへの乗り越えが見られます。そこには問いがラディカルであったからこそ研ぎ澄まされたもの、豊かになったものがあると思います。私は詩や文学について詳しくはありませんが、谷川の『定義』にあたるような「詩」への問いかけ、「言葉」への問いかけがそれぞれの詩人の方法でなされたのではないでしょうか。そしてその結果、いまの「詩」があるのだと思います。
これから表現活動を本格的にはじめようとしている若い方々も、彼らと同じ経験をする必要はありませんが、少なくともそういう問いかけがあり、それを乗り越えた人たちがいることを認識しておいた方がよいと思います。そうすれば先人たちを追い越して、どんどん先へと進めるはずです。残念ながら巷を見ると、そのラディカルな問いかけの軌跡を知らないで、もっと幼稚な方法で似たようなことをしている例も見受けられます。何をやってももちろん自由ですが、ちょっともったいないような気がしてしまいます。

それにしても私にしたって、学生の頃にこのようなことに気が付いていればよかったのです。しかし、そんなことは誰も教えてくれません。思い起こせば私の知っている大学の先生たちは、そんな会話すら成立しないような、不勉強な人たちの集まりでした。言い過ぎていたらごめんなさい。でも、数十年かかったものの、いまの私には表現活動の袋小路など存在しないことがわかっていますし、いま、まさに表現活動を続けている身近な作家たちが、そのことを教えてくれます。
もしもいま、当時の私のような気分で悩んでいる学生の方がいたら、決してあきらめないでください。こんなふうに、同伴して走っている表現者があなたの周囲にもきっといるはずです。
そして私ももっと勉強してのろのろと歩いていきますので、よかったらときどきblogをのぞいてみてください。

画廊もそろそろ開きはじめましたが、展覧会を見て歩くにはもうしばらく、という感じですね。そんなときにこのような素晴らしいパンフレットを送っていただき、本当にありがとうございました。
まずは、ご報告まで。

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