このところ、とんでもない事件のことが、連日、新聞記事となっています。
新型コロナウイルスに関すること、オリンピック・パラリンピック開催に関することなどが紙面の大部分を占めているために報道が控えめですが、次の新聞の社説を読んだだけでも前代未聞の事件であり、民主主義の根幹を覆すような悪質な行為であることが読み取れます。不愉快なニュースですが、大事なことなのでご参照ください。
愛知県の大村秀章知事に対するリコール(解職請求)運動を巡る署名偽造事件で、署名を集めた団体事務局長の元県議・田中孝博容疑者ら4人が、地方自治法違反の疑いで逮捕された。
田中容疑者らは昨年10月、広告関連会社に依頼し、佐賀市内でアルバイトを使って有権者の氏名をリコール運動の署名簿に書き写させ、署名を偽造したとされる。
リコールは、地方自治法に基づき、有権者が自治体の首長の解職や議会の解散を直接請求できる制度だ。容疑が事実なら、民意をゆがめる悪質な行為だと言える。
署名活動は、2019年の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展を巡り、芸術祭実行委員会の会長を務めた大村知事への反発から、美容外科医である高須克弥氏の主導で始まった。河村たかし名古屋市長も支援した。
約43万人分の署名簿を県内各自治体の選挙管理委員会に提出したが、このうち8割が無効とみられている。リコール成立には約86万人分が必要で、結果的に成立しなかったものの、約43万人もの賛同が得られたような形になった。
田中容疑者は逮捕前、取材に対して「署名が順調に集まらず焦っていた」などと語っていた。
地方自治法では、署名が必要な数に達した場合は、選管が署名の有効性を審査するとあるだけで、達しない場合は詳しく調べる規定がない。そのため、十分な確認は行われず、不正は発覚しないと考えたのではないか。
勝手に名前を使われ、署名簿に住所や生年月日まで書かれたことに不安を感じた人もいるはずだ。すでに亡くなっている人の名前も8000人分あった。元の名簿を誰がどのように入手したのか、という疑問も解消されていない。
田中容疑者は、次期衆院選に日本維新の会の候補として愛知5区から出馬する予定だった。高須氏や河村市長からの選挙応援を期待していた可能性もある。
(『読売新聞 社説』5月21日より)
県選管に提出された約43万筆のうち、実に8割以上が無効だったという信じ難い事件だ。延べ数百人にのぼるアルバイトを使い、県内の有権者の氏名などをリコール署名用紙に書き写させた疑いがもたれている。
人集めなどは広告関連会社に依頼したというが、印鑑の代わりに指印を押したり、名簿を仕分けたりする行為を含む偽造の全てを、4人で企て実行したのか。他に関与した者はいないのか。捜査を尽くし、真相を明らかにしなければならない。
元県議で事務局長の田中孝博容疑者は、逮捕前の取材に「予定通り署名が集まらず、焦りがあった」と話した。その時点で自分たちの主張が社会に届いていない現実を悟るべきだったのに、なぜ偽造に走ったのか。詳しい動機の解明も待たれる。
納得できないのは、街頭に立って運動を率いた河村たかし名古屋市長や、請求代表者の美容外科経営の高須克弥氏らの態度だ。河村氏はこの逮捕で「私の関与がなかったことがはっきりする」と述べ、高須氏も自身の潔白を繰り返す。厚顔無恥ぶりにはあきれるばかりだ。
当事者として一連の経緯を検証し、結果を説明して謝罪するのが、リコールの呼びかけに応じたスタッフや有権者に対する当然の責務ではないか。
日本維新の会の言動も問われる。田中事務局長は2月まで同党の衆院愛知5区支部長で、次期衆院選への立候補を表明していた。他にも運動にかかわった維新関係者がいる。同党副代表の吉村洋文大阪府知事は「(容疑者は)厳正に処罰されるべきだ」とコメントしたが、そんなひとごとのような態度で済ませられる話ではない。
(『朝日新聞 社説』5月21日より)
この民主的な手続きを悪用した大事件は、そもそも『あいちトリエンナーレ2019』から始まりました。なぜ、美術展がこのような醜い事件の原因となったのでしょうか。私は『あいちトリエンナーレ2019』を見ていませんし、この件に詳しいわけでもありません。しかし、一通りのことを知っておくべきだと考え、少々この件について調べてみました。私のわかる範囲で、この一連の流れを追いかけてみます。
そもそも『あいちトリエンナーレ』とはどのような展覧会だったのでしょうか。まずは「トリエンナーレ」という言葉の説明から見ていきましょう。
トリエンナーレ(伊:triennale)は、3年に一度開かれる国際美術展覧会のことである。「トリエンナーレ」の原意はイタリア語で「3年に一度」である。英語では triennial(トライエニアル/トライアニアル)と呼ばれる。
(中略)
世界各地から美術家を集める招待展から、世界規模あるいは国内限定の公募展など形態もさまざまである。
こうしたものは国際交流や町おこし、観光客の集客、多様な国の多様な芸術に住民が触れることを目的としている。ただし国際美術展では、世界の他のビエンナーレやトリエンナーレと出品する作家の顔ぶれやテーマが似たり寄ったりになっているという批判もある。
(ウィキペディアより)
このように3年に一度開かれる展覧会のことをトリエンナーレと言います。
そして『あいちトリエンナーレ』は、構想段階では「愛知国際芸術祭」としていたものが、2010年にトリエンナーレとして第1回展が開かれました。2013年、2016年と続けて開催され、2019年が第4回展となったのでした。この展覧会で芸術監督に就任したのが、ジャーナリストの津田大介(1973 - )でした。津田は美術の専門家ではありません。私も彼の書いた新聞のコラムなどを読んでいたので、彼がリベラルな考え方をもったジャーナリストであることは知っていました。おそらく、津田が就任した時点で、現代美術と社会的な問題との接点がアクティブな形で展示されることが期待されていたのだと思います。このことから、今回の騒動の責任が津田監督にあるような誤解も生じていたようですが、このことについては後で触れることにします。
この『あいちトリエンナーレ2019』の中で、展示中止などの話題となったのが芸術祭内の企画「表現の不自由展・その後」という展示です。この展示は、2015年の『表現の不自由展~消されたものたち』という展覧会を原型としているのですが、津田監督がこれをトリエンナーレに取り入れるように提案したようです。この際に、実行委員会で話し合った結果、もとの展覧会には出品されていたのにトリエンナーレでは拒否された作品があったようで、そのあたりの話が『現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由』という本に詳しく書かれています。著者はアートプロデューサー、ジャーナリストで京都芸術大学大学院教授の小崎哲哉(1955 - )です。彼はトリエンナーレの実行委員会の中でも作品を検閲するような動きがあったことは問題だ、と指摘しています。詳しく知りたい方は、『現代アートを殺さないために』を読んでみてください。
そして、展覧会は開催されますが、その3日後には「表現の不自由展・その後」が展示中止となってしまいます。そのいきさつを、『現代アートを殺さないために』から読み取ってみましょう。
あいちトリエンナーレ2019で、芸術祭内の企画展「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」)が開幕後わずか3日で展示中止になったことは、この年の日本のアート界において、最大のニュースだったと言えるだろう。もしかすると史上最大かもしれない。アートメディアばかりでなく、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、ネットニュースなど、あらゆるメディアでこれだけ報道されたアート展、いやアートに関連する事件は、いまだかつてなかったのではないだろうか。
従軍慰安婦をモチーフとした「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やすシーンを含む映像作品が、まずはツイッターなどで問題視されて「炎上」し、抗議の電話(電凸)がトリエンナーレ事務局や愛知県庁に殺到し、果ては「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」という脅迫ファックスまで送り付けられた(容疑者は数日後に逮捕され、有罪判決を受けた)。トリエンナーレ実行委員会会長の大村秀章愛知県知事と津田大介芸術監督は、開幕3日目の2019年8月3日に緊急記者会見を開いて展示の一時中止を発表し、「断腸の思いだが、観客や作家スタッフの安全を重視した」と語った。
(『現代アートを殺さないために』「Ⅱ 黒い羊」小崎哲哉著)
このような状況だったのですが、あろうことか、展覧会の関係者からも展示の中止を求める声が上がりました。それが実行委員会会長代行の河村たかし名古屋市長の発言でした。
彼は「平和の少女像」について「相当多くのほとんどに近い日本国民が(反日作品だと)思っている」などと言って展示の即刻中止を申し入れました。それに対して大村知事は、毅然とした態度で「憲法21条でいう『検閲』と取られてもしかたがない」「国の補助金をもらうんだから国の方針に従うのは当たり前だという人がいるが、税金でやるからこそ、公権力でやるからこそ、表現の自由は保障されなければならない」と明言したのだそうです。このやりとりの確執が、現在の県知事リコール運動と、その不正署名の事件へとつながっていくのです。この先の話は冒頭の新聞記事でも紹介しましたし、美術の話ではなくて政治の話になってしまいますので、ここではトリエンナーレのことに限定して話を進めていきましょう。
そしてさらにひどい状況になりました。文化庁が、展覧会への補助金を不交付とする、という暴挙に出たのです。
一方、あいちトリエンナーレのあり方検証委員会(以下「検証委」)が「中間報告」を提出した翌日の9月26日に、文化庁は補助金約7800万円の全額不交付決定を発表した。菅義偉官房長官が、騒ぎが起こった直後の8月2日に「補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と述べているが、それを受けたものである。大村知事は、決定は違法で不当だとして文化庁に不服の申し出を行い、国(文部科学省)を相手に取り消しを求めて提訴する方針を示した(半年後に県と国は「手打ち」をした。この件は重要なので後で詳しく議論したい)。
(『現代アートを殺さないために』「Ⅱ 黒い羊」小崎哲哉著)
この時は安倍政権の時代で、官房長官が菅義偉・現総理大臣でした。彼の「補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」という発言は、全く中身のない空疎なものです。その一方で、取りようによってはまともな応答にも聞こえる、という意味でよくできたものの言い方でした。このように尻尾を出さない物言いによって、総理大臣にまで昇りつめてしまう、というのも何とも情けない話です。こんなことだから新型コロナウイルス感染という非常事態においても、総理大臣が何を考えているのか私たちにはまったく伝わらない、という困った事態になってしまうのです。
話が横道にそれました。さらに、この文化庁の補助金不交付の問題について、小崎は次のように詳しく書いていますので、読んでみましょう。
意外な事態が訪れたのは9月26日のことだ。前述したとおり、検証委の「中間報告」が提出された翌日、そのタイミングを見計らったかのように(というより、どう考えてもそのタイミングを見計らって)文化庁が文化資源活用推進事業の補助金7800万円を全額不交付するという決定を発表したのである。理由は以下の通り。
補助金申請者である愛知県は、展覧会の開催に当たり、来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上、補助金交付申請書を提出し、その後の審査段階においても、文化庁から問い合わせを受けるまでそれらの事実を申告しませんでした。
これにより審査の視点において重要な点である、①実現可能な内容になっているか、②事業の継続が見込まれるか、の2点において、文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。かかる行為は、補助事業の申請手続において、不適当な行為であったと評価しました。(後略)
不交付に当たって、文化庁は補助金の採択を決めた審査委員会に諮っていない。理由は「事務的審査に関わることだから」。審査委員の一人が抗議して辞任したが、TBSが10月5日と6日に行った世論調査によれば、文化庁の決定が「適切だった」と答えたのは46%。「不適切だった」「答えない、わからない」は、それぞれ31%、23%だった。
付言すれば、政府参考人として国会に呼ばれた文化庁長官の宮田亮平は、いつ決裁したかを問われ、「私は決裁はしておりません」「随時、状況の報告や不交付決定の報告を受けてまいりました」とい答えている。つまり、不交付決定のプロセスには加わっていない。他方、宮田に質問した参議院議員の福山哲郎は、「柴山(昌彦)前大臣は、メディアへのオフレコで、自分が大臣時代から(不交付は)決まっていた(中略)と発言している」と述べている。
宮田は、「お飾り」でしかないことを自ら吐露する結果となったわけだが、金属工芸家である宮田の前任者で美術史家の青柳正規は「長官は、単なる一般公務員のトップでしかない」と指摘しつつ、「(宮田長官は)何も話さないで辞職するのが一番いい。政治家も緊張し、一般の人も『一定の責任を取った』と受け止めたでしょう。」と語っている。「だってトップは、何か起きたときに辞めるためにいるんだから」
いずれにせよ、多くの論者が指摘しているように、文化庁の主張は「後出しジャンケン」である。論理的であるとはまったく思えない。
(『現代アートを殺さないために』「Ⅱ 黒い羊」小崎哲哉著)
このことの顛末が理解できますか?
文化庁は、このトリエンナーレの展示内容が「実現可能な内容になっているのか」という審査ができなかった、なぜならこんな騒ぎになりそうな展示だということをトリエンナーレ側から申告がなかったから、だからお金は出さない、と言っているのです。これは「表現の不自由展」の展示が適正な内容だったのか、という判断もせずに、あるいは判断を意図的に避けて、騒ぎになってしまったことだけを問題視してお金を出さない、という「後出しジャンケン」をしているのです。これでは事前に書類を申請しても、その催しがスキャンダルになってしまえば「スキャンダルになりそうだって書いてないじゃないか」と後から文句を言って、自分たちでは何も判断せず、責任も取らずにお金だけ出さない、ということが可能になってしまう・・・、これはまったく論理的ではない、と小崎は言っているのです。
またちょっと話が外れてしまいますが、そういえばつい先日、私は東京都がウイルス感染の非常事態宣言延長時に、娯楽施設の制限が緩和される中で、なぜか美術館や博物館の閉館が決まってしまい、そのことに対して文化庁がちゃんと文句を言っている、という話をここで書きました。しかし、東京都は文化庁長官がコメントを発しているのにもかかわらず、態度を変えませんでした。このことも、このトリエンナーレの一件を考えると、文化庁が政治家や役所からいかになめられているのか、を表しているような気がします。
一旦交付すると決めたお金を、世間の風向きが変われば会議で諮ることもなく引っ込めてしまう、という情けない組織ですから、軽く見られても当然です。国全体が文化を軽視している上に、文化庁長官が名ばかりのお飾りだというのでは、どうしようもありません。
話を戻します。ちなみに小崎が先の引用文の末尾で「(半年後に県と国は「手打ち」をした。この件は重要なので後で詳しく議論したい)」と書いていましたが、これは2020年3月に文化庁が前年の決定を覆して6661万円を支払うことで決着した、ということを指しています。なぜ、不交付だと言っていたお金が支払われたのか、なぜ金額が減額されたのか・・・、これは愛知県と文化庁の双方が顔を立て合った「手打ち」であったわけで、これでは「表現の自由(不自由)」について、誰がどう判断したのか、まったくわかりません。極めて日本的な、ある意味では平穏な決着がなされてしまったのです。
ところでここで、本質的な問題である「表現の自由」について、この事件において私たちはどう考えたら良いのでしょうか。
多分、私たちの誰もが「表現の自由」は必要である、ということについて異を唱えないと思います。しかし、その表現が誰かを理不尽に貶めたり、誰かの尊厳を不当に傷つけたりするようなものであるならば、それは「表現の自由」に値しない、ということになります。例えば、街頭で不当な差別を煽るような言葉を発したり、チラシを配ったりするような活動がしばしば問題になりますが、そんなことは許されるものではありません。
それではこの「表現の不自由展」の場合はどうでしょうか。報道で何回も取り上げられた「平和の少女像」について考えてみましょう。小崎はこのことについて、次のように書いています。
結論から言えば、同展への批判は、大部分が無知に由来する誤解か、悪意あるいは悪ふざけによる言い掛かりである。ほとんどの批判者は作品を実見していない。見ないままに、妄想や思い込みによって感情的で攻撃的な反応を示した向きが多いと思われる。
例えば、キム・ソギョン+ウンソン夫妻の「平和の少女像」は、慰安婦そのものを写したものではない。正式名称は「平和の碑」。朝鮮美術文化研究者の古川美佳によれば「人権の尊さを象徴する時代のアイコン」であり、作家は「悲しい歴史を記録し、おばあさんたちを癒し、平和を願うための像」と述べている。ふたりがいわゆる「反日」であるわけもなく、それはヴェトナム戦争の際に韓国の兵士に虐殺されたヴェトナムの民間人を慰霊し、自国の非道を謝罪する「ヴェトナム・ピエタ」と題する母子像をつくっていることからも明らかだ。
(『現代アートを殺さないために』「Ⅱ 黒い羊」小崎哲哉著)
意外な事実ですが、皆さんはどうお読みになったでしょうか。このような誤解による日韓の感情的な行き違いは、他にもあるような気がします。何とか冷静になれないものでしょうか。
そして、私もこの像の実物を見ていないので、偉そうなことは言えないのですが、この像のブロンズ製のコピーについて言えば、人権を象徴する像にしてはどことなく無機質な感じがしてしまいます。そして木彫りの像を写真で見た時には、木彫と彩色という、近代彫刻ではほとんど省みられなかった表現が意外と面白いと思いましたが、その芸術的な価値については、やはり疑問符がつきます。こういうことは道徳的な問題、政治的な問題とは別なことだと考えるべきだと私は思います。ピカソのゲルニカのように、反戦という思いが作品の魅力となる場合があることも私は知っていますが、この「平和の少女像」には当てはまらないと思います。そしてこの像に反日の感情を込めて抗議をする人たち、その抗議に対して像の展示を中止することで異を唱えた人たちの、いずれも具体的な彫像の頭越しに争っているように見えます。小崎の解説はそのことを明らかにしていると思います。
ちなみに、小崎の考える現代美術にとって重要なことというのは何なのでしょうか。興味深いので書き写しておきましょう。
先に記したとおり、「インパクト」「コンセプト」「レイヤー」が現代アートの3大要素である。インパクトとは観る者の感覚に訴えかける要素、コンセプトとは作家の思いやメッセージ、レイヤーとはコンセプトを様々な方向から理解させるための仕掛けを重ねた「層」のことを指す。『現代アートとは何か』から引用しよう。
良いアート作品には「既成観念の打破」のような大きなコンセプトに、様々な解釈が可能な動機や、別の主題を含んだ小さな仕掛けが重ね合わされている。演劇や小説における脇筋や、音楽におけるモチーフのようなものだが、これこそがレイヤーである。「layer」は層や地層を意味する英語。知的・概念的な要素と感覚的な要素、特に前者が、層を成して作品に組み込まれ、大きなテーマと響き合って作品に深みを与える。といっても、これでは何のことかわからないだろう。
そこで、レイヤーがもたらす効果から逆に考えてみたい。アーティストが作品に組み込んだレイヤーは、鑑賞者に様々なことを想像、想起、連想させる。想像、想起、連想の結果が作品全体のコンセプト理解に役立つ。デュシャンが言うように、創造的行為はアーティストだけでは果たされない。「鑑賞者が、作品の内なる特質を解読し、解釈することによって作品を外界に接触させ、かくして自らの貢献を創造的行為に加える」。そのために補助線的な役割を果たすものがレイヤーである。レイヤーをいかに構築するかがアーティストの腕の見せ所であり、その巧拙が作品の質を左右する。一般的に、良い作品はレイヤーが多く、深く、すなわち豊かである。豊かなレイヤーは、作品そのものを豊かにする。
(『現代アートを殺さないために』「Ⅱ 黒い羊」小崎哲哉著)
私は小崎ほど現代美術について突き詰めて考えたことがありませんし、この定義で言えば私の作品など現代美術(アート)の範疇に入らないのかもしれません。デュシャンが例に取られているように、この小崎の見方はコンセプチュアルな傾向に比重がかかりすぎているように、私の立場から見るとそう感じます。
ともあれ、小崎がここで言いたかったことの一つは、例えば「平和の少女像」一つをとってみても、頑なに自分の狭い解釈で見てしまうと、とんでもないことになる、と言うことだと思います。もう少し広い視野で作品を見れば、小崎の言い方で言えば、もっとレイヤーの重なり具合を注意深く見れば、さらに色々なことが見えてくるはずです。ましてや展示を中止して、作品鑑賞を拒絶、もしくは妨害してしまうことなどは論外です。
なお、この「表現の不自由展」はトリエンナーレの閉幕直前に、数日間の展示が再開されました。それはあまりにわずかな日数でしたが、今年の7月に名古屋で、また「平和の少女像」が展示されるようです。詳しくはこちらをご覧ください。
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210520001300882
さて、最後になりますが、このトリエンナーレの芸術監督になぜ津田大介が選ばれたのか、ということにも触れておきましょう。彼はこの展示中止の「戦犯」として槍玉にあがりましたし、彼が美術の専門家でなかったことも問題となったようです。しかし、小崎は津田が監督に選ばれた理由について、次のように書いています。
あいちトリエンナーレの芸術監督は、芸術監督選考委員会の推薦を受けて、実行委員会運営会議が選任する。第1回から3回目までの芸術監督を含む7名の選考委員会委員は、いずれも専門家で、津田を推薦した理由として以下の3点を挙げている。
○津田氏は、日々の取材を通じて、社会問題に関する情報を発信し続けており、世界が大きく変動する時代において、社会情勢を踏まえた、明確なコンセプトを打ち出すことができる、新しいタイプの芸術監督像を期待できる。
○津田氏は、現代という時代を捉えており、テーマ性の高いコンセプトを打ち出し、エッジの効いたワクワク感のあるものを創り上げ、それを国内外にアピールすることができる。
○津田氏は、バランス感覚に優れ、また、情報を整理する能力にも長けていることから、いろいろなアイデアや意見を取り込んで、トリエンナーレを創り上げることができる。
重要なのは第1点で、要するに津田がジャーナリストであるからこそその資質を買い、ジャーナリスティックな視点をトリエンナーレに取り入れて他の国際展との差別化を図ろうとしていたということだろう。ソーシャリーエンゲージドアートと呼ばれるジャンルが注目を集め、政治的・社会的なメッセージを込めた作品が増えている時代に呼応した判断でもある。
(『現代アートを殺さないために』「Ⅱ 黒い羊」小崎哲哉著)
このように読む限り、今回の騒動は津田が芸術監督に選ばれた時点で胎動しており、そのことの責任は津田一人ではなく、トリエンナーレ全体が負うべきものだと言えそうです。そしてこの監督選定が展示中止という負の方向性を持ってしまったとするならば、この国の「表現」や「文化」に対する意識の低さが不幸にして露呈してしまった結果なのだと思います。これはトリエンナーレの責任でもないし、ましてや津田個人の責任でもありません。
その展示中止の騒動を扇動した人たちが、愛知県知事のリコール運動を主導し、それが今回の不正署名にまで繋がってしまったというのは、なんとも象徴的です。繰り返しになりますが、私自身は芸術作品と社会との接点について、このトリエンナーレのコンセプトとは違った考え方を持っていますが、津田が打ち出したような展覧会のアプローチは十分にあり得ると思います。芸術監督や愛知県知事を悪者にして攻撃し、そのことによって溜飲を下げる、という行為は特にインターネット社会になってから顕著な傾向であるように思いますが、それは卑劣であると同時に、そのように事態を単純化すること自体がとても危険なことだと思います。
さて、この「あいちトリエンナーレ」ですが、この騒動のせいでしょうか、2022年には『国際芸術祭「あいち2022」』に変更になるようです。そのオフィシャル・ホームページには次のように書かれています。
国際芸術祭「あいち2022」は、2010年から3年ごとにこれまで4回開催してきた「あいちトリエンナーレ」の実績を継承し、愛知芸術文化センターを中心に、まちなか会場を含めて広域に展開する都市型芸術祭であり、2022年に開催します。現代美術を基軸とし、舞台芸術なども併せた複合的な展開を行い、幅広い分野を横断する、最先端の芸術を愛知県から発信します。
(国際芸術祭「あいち2022」ホームページより)
このように展覧会そのものは、名称を変更して仕切り直し、ということのようですが、『あいちトリエンナーレ2019』によって浮かび上がった問題をかき消すことはできません。ということで、今回は不案内ながらも問題のおさらいをしてみました。
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