本日(5.15)の読売新聞の社説のなかで、もっともな内容がありましたので、その最後の部分をご紹介しておきます。
菅首相は、4月の発令時には、「短期集中で人の流れを止める」と訴え、飲食店の営業時間短縮に加え、大型商業施設の休業も求めた。しかし、感染者が減らず、延長に追い込まれて、大型商業施設については営業再開を認めた。
ところが、今度は都や府がこれを受け入れず、大型商業施設への休業要請を継続した。国民には、政府と自治体の連携がとれていないようにしか見えず、何に従ったら良いのか、戸惑うばかりだ。
都は、遊園地やテーマパークの営業は認めている。これに対し、静かに鑑賞する美術館や博物館、映画館には、感染対策を講じているにもかかわらず休業を要請している。線引きが不明確で、現場からは不満の声が上がっている。
文化庁の都倉俊一長官は、こうした施設で来場者の感染例が報告されていないことから、「文化芸術活動は社会全体の健康や幸福を維持する上で必要不可欠だ」として、都の対応に疑問を呈している。共感する人は多いだろう。
コロナの感染防止には、国民一人ひとりの協力が不可欠だ。そのためには、政府や自治体、医療関係者、専門家らが足並みをそろえ、収束に向けて今何をすべきなのか国民に示すことが大切だ。
(『読売新聞』2021.05.15 社説「緊急事態拡大 ちぐはぐ対応で混乱広げるな」)
前々回のこのblogで、4月の発令時の美術館や博物館への休業要請について、科学的な知見に基づいたものなのか、という疑問を投げかけました。今回は文化庁長官が都の対応に疑問を呈する、というよりいっそう不可解な事態となりました。日本の文化の先行きは暗い、と思わざるを得ません。何も無理やり美術館をあけろ、と言っているのではなくて、せめて科学的な根拠に基づいた政策とその説明を求めたいのですが・・・。
さて、まずは英語の歌詞の解釈の話題です。
NHKのラジオ番組に『遠山顕の英会話楽習』という英会話講座があります。毎月最後の週の最終回で、英語の歌を紹介するコーナーがあります。この4月はニール・ヤング(Neil Young、1945 - )の『Heart of Gold』でした。このコーナーは次のような解説から始まります。
今月はキャロリンさん(講師)の祖国カナダの代表的なシンガー・ソングライター、Neil Youngの大ヒット曲“Heart of Gold”(邦題『孤独の旅路』)を鑑賞します。
タイトルのheart of goldの意味は、kind and generous person(優しく寛大な人)を指し、have a heart of goldは、そうした人であることを意味します。1972年にこの曲で、全米チャート1位を獲得しました。ヤングはギターとハーモニカを担当しています。ボブ・ディランが「自分が演奏しているようで、これだけは聞きたくない」と言ったということです。
(『NHKラジオ 遠山顕の英会話楽習 4月号(2021)』「今月の歌」)
これを読んで、思わずびっくりしました。「heart of goldの意味は、kind and generous person(優しく寛大な人)を指し、have a heart of goldは、そうした人であることを意味します」という一文です。「heart of gold」は何となく「黄金のこころ」だと思っていたのですが、それが「寛大な人」ではずいぶんと違った印象だと思ったのです。あの、永遠のふてくされた少年のようなニール・ヤングが、「寛大な人」になることを求めて放浪する歌を歌っていたというのでは、ちょっと格好がつかない・・・というようなことです。それでは歌詞全体の訳はどうなるのか、と思ったら、次のような翻訳でした。
I want to live
I want to give
I've been a miner for a heart of gold
It's these expressions
I never give
That keep me searching for a heart of gold
And I'm getting old
Keep me searching for a heart of gold
And I'm getting old
生きたい
与えたい
私は金の心を求め掘り続ける坑夫
普段決して口にしないこうした表現が
私に金の心を探し続けさせる
そして私は年を取っていく
金の心を探し続けさせ
そして私は年を取っていく
(『NHKラジオ 遠山顕の英会話楽習 4月号(2021)』「今月の歌」)
なんだ、やっぱり「金の心」じゃないか・・・と、ちょっとほっとしました。「heart of gold」は「寛大な人」という慣用表現なのかもしれませんが、「金の心」という文字通りのイメージもニールの気持ちの中にあったのではないか、と推察します。しかし少なくとも、「heart of gold」という比喩表現そのものが、ニール・ヤングの創作かと思っていたのですが、それは違っていたようですね。
ちなみに、ネット上で調べてみると、次のように「黄金に輝く心」という訳がついています。
https://ongakugatomaranai.com/neilyoung_heartofgold/
その一方で、下のほうの別の方のコメント内の翻訳では「やさしい心」と書かれています。これはたぶん、「寛大な人」という慣用表現とニールのイメージをすり合わせた訳なのでしょう。それぞれの人の中に「heart of gold」があるのだと思います。
もしもこの歌を聴いたことがない方がいらしたら、上のホームページから聴いてみてください。このような曲が全米で1位になるというのも、いい時代だったと思います。ジェームス・テイラー(James Taylor、1948 - )やキャロル・キング(Carole King, 1942 - )など、シンガー・ソングライターのブームの時代だったとはいえ、虚飾のない歌が支持されたということは、やはり素晴らしいことだと思います。
さて、今回は「150. チック・コリア追悼、『絵画との契約 山田正亮再考』を読んで」の中で名前が出てきた画家、長谷川三郎(1906 - 1957)と、その同時代の画家、岡田 謙三(1902 - 1982)について、すこし書いてみます。
それぞれ、アメリカで評価された画家なのですが、岡田謙三はともかく、長谷川三郎については、その存在があまり知られていません。私自身、彼らのよい紹介者とは言えませんが、同時代人でありながらまったく違った人生を生きた二人について書いておくことも有意義だろう、と思ったのです。とくに二人ともイサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904 - 1988)と関りながら「日本的」な美を表現しようとしたことが共通していますので、そのことについて考えてみるのも興味深いことです。その彼らの作品についてご存知ない方は、次の「国立美術館・所蔵作品」のページを参照してみてください。
長谷川三郎の作品
岡田謙三の作品
それでは、まず長谷川三郎がどんな人だったのか、簡単な紹介を試みてみましょう。彼については2019年に横浜美術館で『イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの』という展覧会が開かれ、そのときのカタログがよい資料となっています。この展覧会はイサム・ノグチと長谷川三郎の交流を中心に、彼らの芸術と日本美術との関係について考察した展覧会でした。
長谷川三郎は1906年に山口県で生まれました。彼は商社マンの息子として恵まれた教育を受けていたようです。東京帝国大学で美術史を学び、その後ヨーロッパを旅行中に画家になる決意をし、そのままフランスで絵画の修業を続けました。サロン・ドートンヌにも入選したのですが、父の逝去に伴い帰国し、帰国後は公募展を活躍の場としながら抽象絵画へと作風を移行していきました。また、彼は評論の書ける画家として、オピニオンリーダーとしての役割も果たしていたようです。そして長谷川は、当時の美術の先端を走りながらも、俳句、禅、茶道などの日本古来の文化へも興味を抱き、その理解を深めていったとのことです。
その後、第二次世界大戦中に疎開し、孤立していた長谷川は、1950年に来日したイサム・ノグチと出会い、意気投合します。その当時、墨による作品を制作し、日本的な抽象表現を試みていた長谷川は、1953年にニューヨークで個展を開き、成功をおさめます。その後もアメリカでの展覧会の他、講演会も開き、熱狂的に受け入れられていきました。一方、日本ではなかなか理解されなかった長谷川はアメリカで暮らす決意をし、1955年にサンフランシスコに移住します。そしてその二年後に、残念ながら51歳で亡くなってしまいました。
このような、複雑な人生を歩んだ長谷川を、どのように評価したらよいのでしょうか。例えば、『イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの』のカタログの中の、次のような文章を読んでみてください。
長谷川の友人でもあったオークランド美術館の学芸員ポール・ミルズによる故人の評価は適切だった。長谷川はたんなるアーティストではなく教師、著述家、目利き、そしてキュレーターであった。長谷川がアメリカで行ったキュレーターとしての活動は、ニューヨーク近代美術館の「日本の書」展の監修、リヴァーサイド美術館での「日本アブストラクトアートクラブ」の概観展の企画、さらに先見の明を感じさせる「文化祭」展、そして歴史的な日本美術をアヴァンギャルドとして解釈しなおしたオークランド美術館の「日本美術における現代精神」展がある。アメリカで長谷川がアーティストとして評価される場合には円熟期のしかも限られた時期の作品、1950年代初期に手がけた墨による作品が対象になるが、日本では長谷川の業績のこの部分はアメリカほど広く認知されておらず、1930年代後半の作品によって長谷川は今もヨーロッパのシュルレアリスム絵画の大使と見なされている。長谷川は家族に、時間が経てば晩年の墨による実験的な作品が自分の美術界に対する最も重要な貢献と認められるようになるだろうと語った。アメリカでの長谷川は抽象からほぼ身を退き、もっぱら書家、教師、キュレーターとして活躍した。1950年にはノグチの協力者として、日本の古典文化を新たな文脈に改めて位置づける理論化に尽力した。それを受けてノグチは、長谷川がさらに広くアメリカでこの役割を果せるよう力添えした。長谷川も深く敬した老子の『道徳経』11章にあるように、長谷川が車輪の有用な軸となったおかげで、厖大な知的営為が周囲を巡ることになったのである。
(『イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの』「アメリカでの長谷川三郎 広く開かれた道」マーク・ディーン・ジョンソン 木下哲夫訳)
長谷川三郎は、このように何かのカテゴリーに分類することが難しい人でした。画家としての作風もさまざまであり、本人は「時間が経てば晩年の墨による実験的な作品が自分の美術界に対する最も重要な貢献と認められるようになるだろう」と語っていたようですが、その墨を使った作品でもいろいろなことを試みています。こういうところが、日本の美術界での評価がいまひとつだった理由かもしれません。日本人は、わかりやすいレッテルを貼られた人を高く評価する傾向があるような気がします。そして一徹に何かをやった人(絵を描いた人)を尊ぶ気質もあるようです。評論家以上に評論ができる作家は、扱いにくい存在だったのかもしれません。
それはそれとして、私は長谷川が深く傾倒し、作品にも反映させようとした「日本的」な美については、ちょっと疑問に思うことがあります。そのことを、最後にまとめて書きたいと思います。
もう一人、今回取り上げる岡田謙三という画家ですが、こちらはどのような人だったのでしょうか。岡田は何回か大規模な回顧展がありましたし、私も彼の展覧会のカタログを持っていましたが、引っ越しの折に手放してしまいました。ただ、『画家 岡田謙三の生涯』(北湯口孝夫著)という本を見つけましたので、その文章を参照しながら彼の人生をまとめてみたいと思います。
岡田謙三も長谷川と同様に、裕福な家庭で育ったようです。ただし、岡田は若い頃から画家を志し、父親の反対を押し切って東京美術学校に入学しました。そして21歳で中退すると、パリに行って画家修行に励みます。苦労しながらもサロン・ドートンヌに入選し、25歳で帰国して二科展に出品するようになります。やがて美術大学の講師になり、人気作家となっていったのです。
ここからの話はあとでくわしく出てきますが、そんな日本での成功に飽き足らず、48歳のときに意を決し渡米します。それは1950年代のことですから、アメリカのモダニズム絵画、つまり抽象表現主義の絵画が盛んだったころです。イサム・ノグチや国吉康雄(1889 - 1953)らと親交を結びながら、アメリカの画家たちとも交友を結んでいきます。岡田は「幽玄主義(ユーゲニズム)」という独特の淡い色調の抽象絵画で好評を博し、アメリカで高い評価を得ました。そして日米で成功した画家となり、1982年に79歳で死去しました。若い頃から活躍し、50歳代でさらに成功し、その後も長生きした幸福な画家だったと思います。『画家 岡田謙三の生涯』という本では、そのはじめに次のような紹介文が書かれています。
岡田謙三は三つの都で三つの美術の時代を生きた画家である。
横浜商館の英国貿易商の支配人を勤める父のもとに生まれた岡田は、東京美術学校を中退してエコール・ド・パリ全盛時のパリで4年を過ごした。帰国後、新帰朝の画家たちが西欧美術の模倣でも借り物でもない、日本人の油絵の確立をめざした昭和戦前の時代に、二科会で活躍して人気実力作家としての地歩を築いた。戦後、日本の画壇再建を担う主要な画家の一人と目されようというとき、岡田はすべての実績を捨てて突如ニューヨークに渡った。そこはジャクソン・ポロックやマーク・ロスコらによる抽象表現主義が確立期を迎えようとしていた。そのさなかでゼロから再起を図った岡田は一度と帰国することなく苦闘の7年を過して、全米優秀画家の一人に選出されるまでになった。
パリ、東京、ニューヨークと、三つの都で、三つの時代を生きた画家の由縁である。
(『画家 岡田謙三の生涯』「プロローグ」北湯口孝夫著)
このように、長い人生の中でパリへ、ニューヨークへ、つねに画家としての成功を求めて貪欲に歩んだ人生は立派だったと思います。そしてこの本では、藤田嗣治(1886 - 1968)と比較して、岡田謙三はあまり知られていない画家だから何とか伝記を残そうと思い、夫人の話を聞きとって本をまとめた、といういきさつが書かれています。なるほど、そうなのか、と思って調べてみると、確かに岡田謙三は大規模な回顧展が開かれた画家だというのに、その画業を評価する本があまりないようです。
さて、ここで、長谷川三郎と岡田謙三を比較してみましょう。いまも見てきたように、長谷川は岡田と比べると短命で作品の量も少なく、あまり知られていない芸術家だといえるでしょう。一方の岡田は、残された作品も多く、生前は画家として大きな成功を収めていましたから、もっと語られてもよい画家なのだと思います。そんな違いはあるものの彼らに共通するのは、日本的なるものに興味を持ち、自ら中にそのアイデンティティを認めて、作品として表現しようとしたところです。
この「日本的な」美に対するそれぞれのアプローチについて、もうすこし細やかに見ていきましょう。
まず長谷川三郎と日本美術の関わりについて、『イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの』の中の「日本美術を憂いた二人の美術家 イサム・ノグチと長谷川三郎」という文章を見ていきます。長谷川が1940年に東京から芦屋に転居して俳句や禅に接近し、さらに戦争末期に滋賀県に疎開した頃からの話です。
終戦を滋賀県長浜市で迎えた長谷川は、画壇の復興には、さほど積極的ではなかったように思われる。疎開中の晴耕雨読の生活で熟読した橋田邦彦(1882 - 1945)の『正法眼蔵釈意』をはじめとする書籍に親しみ、また円覚寺の朝比奈宗源(1891 - 1979)や妙心寺の久松真一(1889 - 1980)を訪ね、あるいは長浜の十里村の若者と俳句を通じて交流した。それらは、精神的思考を深める絶好の機会となり、のちに「禅、老子、茶道、俳句がわれわれを助けてくれる。これが、この間の戦争を経験した私の信念です」、「私は琵琶湖に望む貧しい村で、茶道と俳句の精神を見つけました」と語る体験をした。長谷川は、1937年を中心に数々の前衛美術の問題提起をする論文を通じて、日本の古典に眼を向けることの重要性を説いてきた。そして「沈黙と自著の数年の後」には2月に「新芸術」(『みずえ』)、3月に「新芸術」(『創美』)、4月に「立体派をめぐって」(『創美』)を続けて発表。どれも戦前のエッセイよりも一層深く芸術の実情をとらえているが、終戦からわずかな期間が過ぎた時点での長谷川の画壇全体への失望とも受け取れる内容である。長谷川が芸術の方向を「人類の共同の文化素材としての日本民族の芸術的優秀性の確固たる認識を自ら持ち、それを人類のために解放し発揚する事でなければならないと思う・・・日本人が真に『国際人』となりきり得た時に、過去の日本の優れた芸術は、求めずとも、自ら人類の文化史において正しい位置を与えられる事となるであろう・・・今後の日本芸術は真に新しく創作されなければならない」と語るが、これは、仲間である画壇への忠告であるとともに長谷川自身への自戒であり、決意であると言えよう。しかし当時の画壇には、日本の過去に対する思想的な反動もあり、長谷川の言説は国粋主義の再来とも受け取られ兼ねず、浸透するものではなかった。
1950年5月のイサム・ノグチとの出会いは、日本の美術界から孤立した環境にあった長谷川にとって、その後の人生を大きく変えるものであった。ノグチにとっても長谷川との出会いは、それまでの日本美術に対する精神的思考、見方を揺るぎないものとし、彼の人生で最も重要な出来事であった。長谷川が、自らが抱える美術の東西の問題に、解決の緒を与えてくれる思考性を身につけようとしていたこの時代に、ノグチも同様の問題に直面していた。二人の出会いは、お互いにとってのちの作品に精神的な活気を生み出すきっかけとなった。「初対面の日から、我々の考えが非常に共通したものを誠に多く持っていることに、むしろ驚きだったことも事実である」、「イサム・ノグチとの初対面の日に、私は、自分の独断と奇妙なほど似通った独断を抱いた一人の男がいることに、気付いたのであった」と長谷川は感じ、ノグチは長谷川を「学究肌で、ノグチを駆り立てる情熱を非常に良く理解してくれるような、繊細で思慮深い人物」と応えた。まさに相思相愛の二人であった。茶道、利休、雪舟、岡倉天心・・・すべての美意識が一致したと言っても過言ではないほどに日本の古典を愛する気持ちが通じあった。
(『イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの』「日本美術を憂いた二人の美術家 イサム・ノグチと長谷川三郎」河崎晃一)
大変に真面目で、かつ壮大な話だと思います。一人の美術家が、一代では到達できないような、時間のかかる構想でもあります。イサム・ノグチの作品に、このような東西が融合するような思想の影響が見られますし、それがとても良い形で表れていると思うものもあります。しかしその一方で、ノグチの作品にはデザイン的な面では東西の美術の融合が見られるものの、ここに書かれているような精神的な深さという点ではどうだろうか、と私はつねづね思っています。そして長谷川の作品も、私はあまり多くを見たわけではありませんが、やや性急に答えを求めてしまっているような感じがして、やはり本人が思っているような深みには達していないような気がします。
これはあくまで私見ですので、そのつもりで読んでください。そもそも私には、日本古来の美意識を現代の西洋文明の美学的な意識に融合させなければならない必然性が、今ひとつわからないのです。私は彼らのように、自分のアイデンティティを確立するために日本的なるものを引っ張り出さなくてはならない理由がないのです。これは時代や立場の違いもあるのでしょうが、私には内面から「日本的」な美学がふつふつと湧いてくるということもないのです。このことも、またあとで触れることにしましょう。
さて、この真面目で学究的な長谷川の日本美術との向き合い方に対し、岡田謙三の場合はどうだったのでしょうか。次は『画家 岡田謙三の生涯』から、少し長めの引用を載せておきます。
プレジデント・ウイルソン号は8月23日にサンフランシスコに入港した。謙三夫妻はそこで十日ほどを過ごして9月2日にロサンゼルスに入った。ロスで邦字新聞のインタビューを受けた謙三は、日本の美術は内容の伴わない模倣の時代に陥っており、爛熟期にあるフランス美術はいずれ衰退する残月のようなもので、これからの太陽はアメリカに移るとみている、とアメリカへの期待を語っている。その記事の見出しには<幽玄ニズム研究ー巨匠、岡田謙三画伯来羅>という言葉が記された。
謙三の芸術への偏見や先入観をもたらす<幽玄ニスム>という言葉の始まりである。「幽玄」に強い関心を抱き、それを語ることはあっても、それ以前も以後も謙三自身が「ユーゲニスム」を標榜して語ることはほとんどない。言葉だけがひとり歩きしていくのである。
ロスに一ヶ月ほど滞在した夫妻は11月8日、ニューヨーク十番街西56のソール・シャーリー宅に身を寄せた。シャーリーは画家、夫人は男性用のシャツやネクタイの縫製工場「ホープ・スキルミル社」を七番街にもつ経営者である。
シャーリー宅に落ち着いた夫妻の生活は美術館めぐりに始まる。モダン・アート・ミュージアム、メトロポリタン美術館、ブルックリン美術館などである。13日にイサム・ノグチに誘われたブルックリン美術館では田中千代服装学園のキモノ・ショーが開催されていた。そこで山口淑子と石垣栄太郎・綾子夫妻を紹介されるが、謙三は美術館に展示されていた中国の古典絵画や彫刻に強い印象を受けていた。夕暮れ時にイサムの車で送られてブルックリン橋から見るニューヨークの林立するスカイ・スクレーパーは、宝石のように灯りをまたたかせて、謙三夫妻の胸に迫った。
16日には国吉康雄のアトリエに招かれ、それ以降たがいのアトリエを行き来する親密な交友が始まる。日本での作品展が予定されていた国吉は日本の美術界の様子を知りたがり、謙三は逆にニューヨークのそれを問う。国吉はまた禅や能、幽玄の話題を好んでとりあげた。このころ、国吉に限らずニューヨークの画家たちは多かれ少なかれ禅を中心とする日本の宗教哲学に関心を寄せていた。
鈴木大拙はこの年の始めからクレアモント大学で「日本文化と仏教」を講じ、継いでロックフェラー財団の委嘱でエール大学、ハーバード大学、コーネル大学、プリンストン大学、コロンビア大学、シカゴ大学などで「仏教哲学」を講じていた。この講演活動を通じて多くの美術家、詩人、作曲家など芸術家に少なからぬ感銘をもたらしていた。
幽玄の原理について西欧では初期ロマン派の時代から研究され、早くからアメリカに伝わっていたが、大拙のアメリカにおける講演活動は1936(昭和11年)に始まっている。第二次大戦後、アメリカ美術に影響をおよぼした難解な禅の教義を欧米人に判りやすく説いた大拙の功績は大きかった。ディヴィッド・クラークの『大戦後のアメリカ絵画および彫刻における東洋思想の影響』によると、アド・ラインハート、フィリップ・ガストン、マーク・トピー、イブラム・ラッソウ、イサム・ノグチ、音楽のジョン・ケージら、とりわけ抽象表現主義に関わった美術家に制作の方向性をもたらしたという。謙三とともに歩むことになる画商ベティ・パーソンもまた大拙の講演を聞いたひとりである。そのパーソンは、マーク・ロスコ、クリフォード・スティル、バーネット・ニューマン。トムリンもまた禅の影響を受けていたと指摘している。
謙三の作品のキーワードともなる「幽玄」について、大拙の著書に見ると次のように記されている。
<幽玄は幽と玄という語の合成であり、それぞれが「曇った不透明性」を意味し、両者が組み合わさって、「曖昧」「神秘」「知的予測を越えた」といった意味をもつが、「まったくの闇」というわけではない。それが形容する対象は、思弁的な分析や明確な定義には従わない。それは、これこれこういうものとしてわれわれの知覚に提示されることはまったくない。しかしながらそれは、その対象が人間の経験を完全に超越しているという意味ではない。・・・それはわれわれがわれわれの内部に感じる何者かであって、しかもわれわれがそれについて語り得る対象であり、それを感じる人びとのあいだでのみ相互に伝達できる対象である。それは裏に隠れているが、完全に視野の外にあるわけではない。なぜならわれわれは、その現在を感じとり、その秘密のメッセージを知性にはいかに捉えがたくとも、闇を通して伝達されるのを感じるからである>
謙三が求めるのはこうした幽玄の理論的な解釈ではない。形象化した作品の姿として画面に表すこと、画家としての営為の結果を作品に顕現することである。
(『画家 岡田謙三の生涯』「第四章 画家のアメリカン・ドリーム」北湯口孝夫著)
長くなりましたが、当時のアメリカの様子、日本文化への期待なども含めて書かれているので引用してみました。アメリカから見た日本、とりわけ「禅」への興味などが、いまの日本人からすると、「えっ」という感じもします。しかし、岡田謙三の絵のキャッチフレーズの「幽玄ニスム」もこのような期待感から生まれたものなのです。
そして、これだけの思想的な背景を書いておきながら、「謙三が求めるのはこうした幽玄の理論的な解釈ではない」というところが、拍子抜けするほどに興味深いところです。この一文は、とても適切だと思います。私も、岡田謙三の絵画から「禅」の深い思想を感じたことが一度もありません。また、彼には日本の屏風絵の意匠を引用したような作品もありますが、岡田が日本の絵画を深く理解していたとも思えません。どちらかと言えば、岡田はデザインとして日本の絵画を表面的に引用したのであり、だからこそ軽々とそれらを油絵に置き換えることができたのではないか、と私は考えます。
ちょっと批判的な書き方になって申し訳ないのですが、私のような吹けば飛ぶような人間でも多少のこだわりがあって、例えば日本的な美意識を考えるときに、墨と和紙といういかにも日本的な素材で描くことで日本的な美意識を表現できるのか、と問われればそれは否だと思うのです。あるいは、油絵具で屏風絵の構成を真似て描くことで洋の東西を融合したことになるのか、と問われればそれも否だと思うのです。言うまでもなく、前者は長谷川のことで、後者は岡田のことです。さらに岡田に関して言えば、彩度を落としたモワッとした色彩で、ちょっとした空白のスペースを構成に取り入れることで「幽玄」を表現したことになるのか、と問われればそれも違うと思います。
誤解のないように言っておきたいのですが、私は彼らの作品の価値を貶めたくてこんなことを書いているのではありません。そうではなくて、彼らの作品に「日本美」というわかりやすいレッテルを貼って、そのことで彼らの作品を語り尽くしたように思うことが危険なことだと言いたいのです。彼らの中に「日本美」を意識した痕跡があるとしても、それを過大に見てはいけません。私たちは彼らの作品を無垢な目で、客観的に評価する必要があるのです。私は長谷川の墨の作品の中に、油絵では表現できない興味深い構成の絵画を見出すことができますし、岡田の淡い色彩の作品の中に、ただ単にモワッとしているだけではなくて、ピリッとした構成となっている絵画を見つけることもできます。そしておそらく、彼らの作品の中でもそういう作品だけが、価値あるものとしてこれからも残っていくのではないかと思うのです。
そして昔も今も、「日本的」とか「日本美」というのは、日本の美術が海外に進出する際にどうしても貼っておきたいレッテルのようです。現在のことで言えば、例えば日本のアニメーションの商業的な成功にあやかって、アニメ的なフラットで薄っぺらい形体感が日本特有のものだ、とばかりに喧伝する作品がいまだに隆盛ですが、もう少し冷静になれないものでしょうか。それが金儲けの手段だと割り切っているのなら、その商売の邪魔をする気は毛頭ありませんが、どうせ美術をやるのなら、もう少し面白そうなことをやったらいかがでしょうか。
例えば、長谷川や岡田の作品の評価のされ方には言いたいことのある私ですが、彼らの作品に価値のあるものがたくさんあることまでは否定できません。もしも数十年後に今の時代を振り返ったときに、長谷川や岡田のように価値のあるものが、はたして残っているのでしょうか。
そう考えると、他人の批判をしている暇があったら、自分の作品を作らなくてはならない、と居ても立っても居られない気持になります。私の絵が価値のあるものとして残るとはとても思えませんが、少なくともよい作品を作る努力をしなくてはならない、という気持ぐらいは持っています。ちなみに、今回の長谷川三郎と岡田謙三の話題に関連して自分のことを考えてみると、私の中に「日本的」な美意識があるとは、とても思えません。外国の方よりは、多少日本の古典作品に親しんではいると思いますが、それが自分のアイデンティティだと言えるかと言えば、とても言えるものではありません。しかし、かといって現在のグローバルな世界の中で、自分は国際的な意識を持っているのか、と問われれば残念ながらそれもありません。結局のところ、私は中途半端な存在として生きていくしかないのです。それをスッキリとどちらかに割り切って考えようとすると無理が生じてきますし、嘘も生れてくるのです。そういう自分を引き受けて生きていくしかないのですが、多分、多くの方が私と同様なのではないでしょうか。無理矢理に揺れてる振り子をどちらかに振り切ろうとすると、ろくなことにはなりません。そんな甘い言葉には、注意しましょう。
そういえば、「あいまいな日本の私」という大江健三郎のノーベル文学賞の受賞講演がありましたね。ずいぶん前に読んだ(聞いた?)話で、内容を忘れてしまいましたが、ここに書いたような気分をもっと高尚に語ったものだったような気が・・・。いい加減なことを言ってはいけませんね、こんど読み直すことにしましょう。
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