平らな深み、緩やかな時間

106.スーザン・ソンダクから評論のあり方について考える

「コロナウィルスと闘っている今は、非常時です。」このような覚悟は、かなりの方々に共有されていることと思います。非常時だからこそ、経済的なリスク、教育的なリスク、その他さまざまなリスクを抱えながらも、私たちは活動を自粛しているのです。しかし、これが「コロナウィルスとの戦争だ」という比喩になると、少し気になるところがあります。今から30年ほど前にこんなことを書いた人がいます。

さまざまな病いとその治療を指す隠喩はすべてかんばしくない、歪みをもつというのではない。私がぜひとも退却してほしいと思うのは―エイズの出現以来、とくにそう思うのは―軍事的な隠喩である。
(『エイズとその隠喩』スーザン・ソンダク著 富山太佳夫訳)

そう、戦争にしても、医学にしても、「全面的」になるのは望ましくない。エイズの創り出した危機にしても、「全面的」な何かではない。われわれは侵略を受けつつあるわけではない。肉体は戦場ではない。病人は必ず死ぬわけでも、敵でもない。われわれには-つまり医学にも、社会にも-何らかの手段で逆襲する資格などない・・・。もっともこの隠喩にしても、この軍事的な隠喩にしても、私は、ルクレチウスの言葉を借りて、こう言いたい、そんなもの戦争屋に返してしまおう、と。
(『エイズとその隠喩』スーザン・ソンダク著 富山太佳夫訳)

これを書いたのはスーザン・ソンタグ(Susan Sontag, 1933 - 2004)というアメリカの著名なエッセイスト、小説家、知識人、映画製作者の女性です。いまの若い方が彼女のことをどれだけご存知かわかりませんが、生前の彼女の知的で妥協のない発言には誰もが耳をそばだてたものです。彼女は容姿の美しさでも有名でしたが、写真を見るとそれよりも意志の強さの方が際立って見えます。ちなみに文中のルクレチウス(Titus Lucretius Carus, 紀元前99頃 - 紀元前55)は古代ローマ時代の詩人・哲学者だそうです。スーザン・ソンダクは、はっきりとものを言い、書いた人ですが、彼女の本をちゃんと読もうと思うと、その知識の広さに圧倒され、ついていくのが大変です。ということで、私は彼女の本をそれほど読んでいませんが、芸術に関わる人なら彼女のことを知っておくべきだと考えます。
そしてここに引用した文章ですが、スーザン・ソンダクが『隠喩としての病い』(1980年頃)という著書で癌や結核について言及したおよそ10年後に、エイズが蔓延した世界に対して『エイズとその隠喩』という本を書いたのですが、その最後の部分になります。
この文章を理解するには、その前の『隠喩としての病い』という本が、そもそもどういう目的で書かれたのか、ということを知っておく必要があると思いますので、その初めの部分を引用してみましょう。

病気とは人生の夜の側面で、迷惑なものではあるけれども、市民たる者の義務のひとつである。この世に生まれた者は健康な人々と病める人々の王国と、その両方の住民となる。人は誰しもよい方のパスポートだけを使いたいと願うが、早晩、少なくとも或る期間は、好ましからざる王国の住民として登録せざるを得なくなるものである。
私の書いてみたいのは、病者の王国に移住するとはどういうことかという体験談ではなく、人間がそれに耐えようとして織りなす空想についてである。実際の地誌ではなくて、そこに住む人々の性格類型についてである。肉体の病気そのものではなくて、言葉のあやとか隠喩(メタファ)として使われた病気の方が話の中心である。私の言いたいのは、病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには-最も健康に病気になるには-隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということだが、それにしても、病者の王国の住民となりながら、そこの風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能に近い。そうした隠喩の正体を明らかにし、それから解放されるために、私は以下の探求を捧げたいと考えている。
(『隠喩としての病い』スーザン・ソンダク著 富山太佳夫訳)

彼女は何を言いたいのでしょうか。
例えば、私が所属しているある集団のなかで、周囲に同調しないやっかいな人がいたとします。すると、私たちは何気なく「彼はわれわれにとっての癌だ」などと言ってしまいます。その人が本当に厄介な人なのかどうかはともかく、このような日常的な隠喩が「病者の王国の住民」、つまり癌になった方に対して「けばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能」という状況をつくりだしてしまうのです。その結果、病気となった方が肉体の病気とともに病気がもたらす隠喩とイメージとも闘わなくてはならない状況を作り出してしまうのです。だから彼女は「そうした隠喩の正体を明らかにし、それから解放されるために」自分の探究を捧げる、と宣言したのです。この『隠喩としての病い』は彼女自身が1975年に乳癌にかかり、その危機を乗り越えた体験から書かれたものだと言われています。そしてその彼女が、さらに10年後のエイズが蔓延した状況を見た時に、その感染を核戦争になぞらえて冷静さを失っていく人々に対して再び果敢に発言した、というわけです。
それでは、実際に現在の私たちの周囲を見るとどうでしょうか。コロナウィルスの医療に従事している方の家族が差別的な扱いを受けたり、ウィルスに感染した著名人がさほど関係のない一般の人たちに謝罪したり、病気のイメージはよい方向には向かっていないように見えます。私たちは一致団結し、協力し合ってこの事態を乗り切らなくてはなりませんが、そこに「戦争」という比喩が入り込むと、いつの間にやら悪しき全体主義によるいわれなき差別が生じてくるのではないか、と懸念してしまいます。
はやくもコロナウィルスが収束したニュージーランドのアーダーン首相は「強く、そしてお互いに優しく」というメッセージを発信し続けました。彼女の対応を見ると、こういう非常時には見せかけだけの勇ましさでは何事も解決しないということを痛感します。そしてさらに考えてみると、私たちは日常的に、コロナウィルスや癌に限らず精神や神経の疾患で苦しんでいる方や、さまざまな障がいをもった方などへの理解と配慮が不足しているのではないか、と気づかされます。
いろいろと考えだすときりがありませんが、とにかくいま私たちはスーザン・ソンダクが示唆したように、ウィルスを含めた自然の驚異に対して冷静に謙虚に、そして速やかに対処する必要があります。そして心ない言葉やイメージで、つらい立場の人たちを追い詰めてしまうようなことだけは避けなくてはなりません。巷ではカミユ(Albert Camus、1913 - 1960)の書いた小説『ペスト』が話題になっているそうですが、主人公の医師リウーはとても冷静な人です。わが国の現実の為政者はあまりにばたばたしていますから、若い方にはこの機会にぜひとも読んでほしい本です。

さて、実はここまでは前置きです。毎度長くなって申し訳ないのですが、今回取り上げたいのは同じスーザン・ソンダクの本なのですが『隠喩としての病い』ではなくて『反解釈』という本です。コロナウィルスのことで『隠喩としての病い』を思い出し、それから『反解釈』について書いておこうと思い立ったので、前置きが長くなったのも仕方ありません、ご勘弁ください。
その『反解釈』ですが、この論文を彼女が書いたのは1964年ですから、彼女がまだ30歳そこそこのときです。その若さにもかかわらず、彼女の提起した問題の射程はとても長く、そして本質的です。しかし、もう50年以上前になりますから、私たちはその本質的なところを見誤らないで読む必要があります。うまくできる自信はありませんが、とにかくやってみましょう。

まず、この「反解釈」という言葉ですが、どうして「解釈」に「反」することになるのでしょうか。その「解釈」とは何か、ということも気になります。少しずつ探ってみましょう。
私たちは芸術作品について語るときに、それを深く語ろうとすればするほど、作品の「内容」が気になります。表面的な見え方、つまり「形式」はともかくとして、その「内容」こそが問題だ!というわけです。たぶん、誰もがいつの間にか作品の「内容」と「形式」を分けて考えていて、どちらかと言えば「形式」よりも「内容」の方が大切だ、というふうに考えています。でもよく考えてみると、何を前提にして私たちはそんなふうに考えているのでしょうか。
西欧の芸術の理論は、古代ギリシアの哲学者たちの理論から始まりました。有名なのはプラトン(Plátōn、紀元前427 - 紀元前347)のイデア論です。プラトンはイデアという理想的なもの(?)があって、この世界はその不完全な仮象に過ぎないと考えました。さらに芸術などというものは、その仮象を模倣するだけの価値の低いものだ、というのです。例えば、あなたが毎日寝ているベッドについて、デザインといい寝心地といい、何かしらの不満があったとします。あなたは理想のベッドというものがどこかにあるのではないか、と考えます。あなたの考える理想のベッドこそが価値のあるもので、現実のベッドはとりあえず使っているもの、仮に存在しているものに過ぎない、というふうに考えます。さらにそのベッドを描いたもの、それが有名なゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)の寝室の絵であろうが、ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres、1780 - 1867)の『グランド・オダリスク』のカーテン付きのベッドであろうが、それは仮に存在しているベッドを模倣して描いたものに過ぎません。だからそれは価値がない、という理屈です。
さすがに、いまの私たちはそんなふうには考えていない、現在の私たちの芸術に関する評価とそんな昔の話は関係ない、と誰しも思います。しかしスーザン・ソンダクは、次のように書いています。

はっきり言えばこうである。ヨーロッパ人の芸術意識や芸術論はすべて、ギリシアの模倣説あるいは描写説によって囲われた土俵の中にとどまってきた。この説によれば、必然的に、芸術というもの自体が―個々の作品をこえて-疑わしいもの、弁護を必要とするなにものかにならざるをえない。この弁護の結果、奇妙な見解が生じてくる。すなわち、あるものを「形式」と呼びならわし、またあるものを「内容」と呼びならわして、前者を後者から分離するのだ。そして、いとも善意にみちた動機にしたがって、内容こそ本質的、形式はつけたしであるとみなすという次第だ。
(『反解釈』「反解釈」スーザン・ソンダク著 高橋康也ほか訳)

先ほども書いたように、この論文が書かれたのが1964年で、出版されたのがその2年後です。このblogを読んでくださっている方であれば、アメリカにおけるフォーマリズム批評、つまりグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)による絵画の形式的要素を重視した評論が、抽象表現主義の絵画を世界的に押し上げたのはいつ頃のことだったのか、ということが気になると思います。それは1940年代の後半からのことで、代表的な画家であるジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)が頂点に達したのは1940年代末ごろです。ですから1960年代半ばにおいては、すくなくとも現代絵画においては形式的要素がまったくないがしろにされていた、というわけではないのです。スーザン・ソンダクもそのことを知っていたはずで、この論文のいちばん初めには、やはり抽象表現主義の代表的な画家であったデ・クーニング(Willem de Kooning, 1904 - 1997)の次のような言葉が引用されています。

内容とは何ものかの片鱗であり、束の間の出会いにすぎない。ちっぽけな、まことにちっぽけな代物だ-内容というやつは。
-ウィレム・デ・クーニング、あるインタビューより。
(『反解釈』「反解釈」スーザン・ソンダク著 高橋康也ほか訳)

これも激烈で、かっこいい言葉ですね。一度はこういう、吐き捨てるようなものの言い方をしてみたいものです。それはともかくとして、1960年代において絵画や評論のこのような動向があってもなおかつ、スーザン・ソンダクが『反解釈』を書かねばならないほどに「解釈」の呪縛は強かったのでしょう。そのことがわかるのが、次の文章です。

多くの芸術分野における現実の傾向は、作品をまず内容として捉えようとする考え方から遠ざかりつつあると見えるが、しかし、その考え方はいぜんとして法外な力をふるっている。これはおそらく、ある種の作品享受の仕方がこんにち芸術をまじめに考えようとする人々にすっかりしみこんでいて、内容重視の考え方はそこに根をおろしているのだと、わたしは思う。内容を極度に重くみる結果何が生じるかといえば、それは解釈の試み-絶えることのない、そして決して成就することのないあの企図である。これを逆に言っても同じである。すなわち、芸術作品を解釈しようとしてこれに近づく習癖があるからこそ、作品の内容などというものが存在するという幻想が保たれるのだ。
(『反解釈』「反解釈」スーザン・ソンダク著 高橋康也ほか訳)

いかがでしょうか。こう書かれても、まだピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんね。それはスーザン・ソンダクが書いている通り、芸術作品は「内容」こそが大切なのだ、という考え方が「芸術をまじめに考えようとする人々にすっかりしみこんで」いるからなのです。ですから、次のように彼女に問いただしたくなります。「内容重視の考え方」のどこがいけないのか?そのような芸術の見方こそが、作品への理解を深めるのではないか?というふうにです。それに対して、彼女は次のように言います。

現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎないことがわかる。本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、ひとは芸術作品を飼いならす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。
(『反解釈』「反解釈」スーザン・ソンダク著 高橋康也ほか訳)

ますます歯に衣着せぬ言い方になってきました。スーザン・ソンダクは、このような「内容」重視の芸術解釈の弊害は、文学においてとくにひどいのだと言っています。具体的にはどんな作家の、どんな作品が芸術解釈の弊害を被っているのでしょうか。彼女はカフカ(Franz Kafka, 1883 - 1924)を事例にあげて、次のように書いています。

カフカがいい例である。彼の作品は少なくとも三種類の解釈家たちの群れによって輪姦されてきた。カフカを社会的寓意として読む一派は、現代官僚機構の生み出す欲求不満と狂気、そしてその終着点としての全体主義国家への傾斜の症例研究をそこに見てとる。精神分析的寓意として読む一派は、カフカの父親に対する畏怖、去勢コンプレックス、不能症の意識、夢への呪縛といったものの切羽つまった現れをそこに見てとる。宗教的寓意がお好きな別の一派となると、『城』のKは天国に入ろうと苦闘しているのだとか、『審判』のヨーゼフ・Kは神の仮借ないそして謎めいた正義によって裁かれているのだとか、いくらでも説明してくれる。
(『反解釈』「反解釈」スーザン・ソンダク著 高橋康也ほか訳)

うーん、なるほどな、と唸ってしまいます。私はカフカの小説を読むと、まずは主人公のKが置かれているわけのわからない状況に落ち着かない気分になります。それから、そのわけのわからない状況の中で主人公が散々な目にあい、『審判』にいたっては殺されてしまいますが、次々と起こるその不条理な事件のドタバタさ加減に、つい笑ってしまいたくなります。
しかしこれが「社会的寓意」であり、「現代官僚機構」の病理を表しているのだとしたら、わけのわからなさはとりあえず解消するものの、笑ってしまうのは不遜なことだと、反省しなくてはならなくなります。しかしその一方で私は、カフカがこの不条理なドタバタ劇をドタバタ劇のままに読んでほしかったのではないか、という気もしています。余計な話ですが、俳優で映画監督のオーソン・ウェルズ(Orson Welles, 1915 - 1985)が『審判』を映画化していますが、これはうる憶えの印象にすぎないのですが、ウェルズにしては深刻なドラマとして作りすぎているような気がしました。
もしもあなたが、カフカと言えば『変身』しか読んだことがないとしたら、『城』と『審判』を実際に読んでみて、どんな感じがするのか自分で確認してみなくてはなりません。もちろん、図書館が再開してからで構いませんが、これは必修科目です
それから蛇足になりますが、私が学生の頃にカフカの『城』を読んだ理由は、あるエライ建築家が『城』に出てくる「城」の建物が、遠目には城に見えるものの近づくとただの田舎の集落にすぎない、というふうに書かれていることについて、その建築のあり様がポストモダン的である、と言っていたからです。要するにはっきりとした中心がなく、建物の内部と外界との境目があやふやで、近くにあるようでいてなかなか近づけない、というあたりがモダニズムの明快な構造をした建築の対極にあるのではないか、と言ったのです。これも「解釈」の一つに過ぎませんが、それにしてもちょっと面白い話ではありませんか?みなさんは、どうお感じになるでしょうか。

さて、話をもどします。
それではスーザン・ソンダクは、どんな評論ならよいというのでしょうか。彼女は具体的な例をいくつもあげているのですが、文学はもちろん、映画、演劇、哲学や思想など多岐にわたっていて、その教養の広さに舌を巻くと同時にとてもついていけない、というのが正直なところです。ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)とヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)あたりは多少親しみのある名前ですが、あとは歯が立ちません。小津 安二郎(1903 - 1963)の映画を評価しているところは、ちょっとうれしくなりますね。
そして彼女は、「現代生活の物質的充満や人工過密」などが、芸術作品を評価するうえで重要な「感覚的能力を鈍らせようとする」と言っています。その現状を踏まえたうえで、次のように書いています。

いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ。われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない。
われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない。ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。われわれのなすべきことは、ものを見ることができるように、内容を切りつめることである。
芸術についてのあらゆる解説と議論は、芸術作品を-そしてひろげて言えば、われわれ自身の経験を-われわれにとってもっと実在感のあるものとすることを目ざすべきである。作品と経験の確かな実在感を薄めてしまってはならない。批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。
(『反解釈』「反解釈」スーザン・ソンダク著 高橋康也ほか訳)

このスーザン・ソンダクの戒めの言葉は、ものを書く立場からすると、あるいは作家本人にとっても結構きついものだと思います。まず私たちは、たくさんの作品を見たり、聞いたり、感じたりしなくてはなりません。いまは外に出られない状況ですが、コロナウィルスが落ち着いたら足しげく画廊や美術館に通いたいなあ、とつくづく思います。そして私たちは作品そのものと対峙し、そこから何ごとかを感受し、言葉を紡がなければなりません。例えば作家本人について、あるいは描かれたモチーフについて、作品が表現しているであろう思想や考えについて、作品が象徴している何かについて等は余計なことです。もちろんそれらを語る必要があれば語ればよいのですが、語れば語るほど作品から離れていくような批評は「解釈」を語っているにすぎません。私たちは感覚を研ぎ澄ませて、作品そのものについて語らなければなりません。そのとき私たちに必要なものは何なのでしょうか。スーザン・ソンダクは論文の最後に、こう書いています。

解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学(エロティックス)を必要としている。
(『反解釈』「反解釈」スーザン・ソンダク著 高橋康也ほか訳)

「官能」を感じ取るのは感覚です。知識や教養ではありません。作品の存在を感じ取るためには、感覚をむき出しにする態度を学ばなければなりません。考えてみると彼女は、その活動的な発言によってつねに賞賛されたり、反発されたりしていました。芸術作品を評価するということは、評価する人間も作家と同様に危うい場所に立たなくてはならないのです。そのように「解釈」という安全な場所から離れることが、「反解釈」という言葉の意味するところなのかもしれません。

また、長くなってきましたが、あと少しだけ書いておきたいと思います。
スーザン・ソンダクの『反解釈』について、あるいは彼女の人となりについて、とても面白い文章があります。それは松岡 正剛(1944 - )の『千夜一冊』「695夜 反解釈」です。この『千夜一冊』は通常の場合、ていねいに取り上げた本を解説してくれるのですが、この「695夜 反解釈」に限っては、ほぼスーザン・ソンダクの人となりが書かれていて、それがかえって興味深いです。本人と直接、交友があった人ならではのエピソードが書かれていますので、必ず読みましょう。
https://1000ya.isis.ne.jp/0695.html
読んでみましたか?
読んだ感想はいかがですが?本当にスーザン・ソンダクは魅力あふれる人だと思いますが、それにしても「麻原彰晃について30分で説明してほしい」と急に言われても、普通は困って何も言えません。こういう会話ができると有意義で楽しいのでしょうが、私にはとてもできそうもありません。みなさんは、いかがでしょうか。

それから批評の在り方について、私なりにこれまで考えてきた経過があります。
外出自粛だし、図書館も開いていないし、ということで、よかったら私のblogの文章もさかのぼって読んでみてください。とりわけ、持田季未子の本は、これからの美術評論を考えるうえで指針になると思いますので、次のblogを「blog内検索」で調べて読んでいただければ幸いです。

98.持田季未子『セザンヌの地質学』について
88.持田季未子『絵画の思考』『芸術と宗教』―ロスコ論から―

スーザン・ソンダクは、作品を差し置いた「解釈」の蔓延に対して、「反解釈」ということを言いました。それに対し、持田季未子は「フォーマリズム批評」の弊害に対し、「絵画の現象学」ということを言いました。これは画家が画面上に残した無言のテキストを読み取り、批評家が言葉にして表現する、ということです。その一つの成果が『セザンヌの地質学』なのですが、私のblogを読んで興味を持っていただけたなら、ぜひ原書に当たってみてください。持田さんは惜しくも亡くなられましたが、その仕事はぜひとも引き継がなくてはなりません。一人でも多くの方が、彼女の書いたことを心にとめて芸術活動に携わっていただきたいと思います。

スーザン・ソンダクと持田季未子は、評論に対してまったく逆のアプローチをしているように見えます。しかし、結局のところ共通するのは、作品と対峙すること、そして感覚を研ぎ澄まし、感性を開いてそこから多くのことを感受し、そこに立ち止まって語ることを促している点で共通するようにも思います。時代によってアプローチが違うのは、その時の状況によって作品と対峙するための筋道が違っているからかもしれません。決まった航路がない海の上に、つねに私たちは放り出されているのかもしれませんが、向き合うべきものは共通しているようです。
それを忘れないようにしましょう。

 
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