平らな深み、緩やかな時間

183.河合悦子 展

東京都渋谷区神宮前のトキ・アートスペースで、9月7日から9月19日まで『河合悦子 展』が開催されています。
http://tokiart.life.coocan.jp/2021/210907.html
ギャラリーのホームページには、Artist's Commentとして、次にようなことが書かれています。

以前「君の絵には狂気がある」と、言われたことがあった。
その時はよくわからなかったが、
今は、その狂気を自ら描こうと思っている。

昨年来のコロナ禍による、様々な感情「Emotion」を、
狂気と共に描けたらと思います。

河合さんの精緻な作品のどこに「狂気」があるのでしょうか?
それは細やかな色彩が結ぶ像のもたらす混沌とした表現に関わることなのだろうと思いますが、現代絵画を見慣れていない方には、何のことだかわからないかもしれません。
「現代絵画」がわかる人、色彩に関する感受性の強い人だけがわかればいい、というのはとてもまずいと思うので、ここは説明を尽くしてみましょう。芸術作品の前ではみんな平等ですから、わかる、とか、わからないということで分断してしまうのは悲しいことだと思うからです。

さて、その河合さんの今回の展示について、かんたんに紹介しておきましょう。
本人から聞いた話ですが、その作品の制作方法は、まずはじめに画面の下地部分に絵を描くのだそうです。そう言われてみると、画面の奥の方に色面による抽象的な構成が透けて見えます。中には花束を描いたものもあるそうですが、その形は確認できません。彼女は抽象とか具象とかいうことには、あまりこだわっていないようです。
そこから筆やナイフを使って、点描のように色を置いていきます。ときにはナイフの横のエッジを使って、細長いタッチも表現します。その色を重ねる過程で、棘のようなマチエールが生まれます。この色の棘が、見る角度によって絵が変わって見える独特の画面を形成しているのです。
また、棘の底に見える色が、まるで画面の内側から湧き出てくるような形の印象を生みます。ある作品は一定の距離と角度から見ると、座禅を組んだ菩薩の姿に見えると言われたそうです。客観的に見ると、うっすらと見える形象が人の姿に似ているわけではないのですが、まるで画面の内側から光が発し、人の姿を逆光のように映し出しているように見えるので、何か神々しい感じがしたのでしょう。
河合さんの作品を近寄って見てみると、先ほども書いたように、棘のようなマチエールが細かく林立しているのですが、その一つ一つに他の色が付着して、見る角度によって色が違って見えるのです。そのことが、棘の先端と画面の下地の色の変化に加えて、独特の色彩効果を生んでいます。画面表面から見える色に加えて、画面の内部から発している色が存在するように見えるのです。作品よっては、それが光っているようにも感じられます。
今回の展覧会では、花束の形から人の影のような形、抽象的な色面構成まで、下地の図柄は自由に描かれています。モチーフはさまざまですが、その下絵自身が強くないと良い絵にならないのだそうです。
そしてその上に色の点をのせていくのですが、その色ののせ方の度合いも、下の形が透けて見える程度の作品から、完全に上からの色が覆ってしまう作品まで、かなりの幅があります。つまり下地の絵柄から点描の層の厚さまで、そのつど作家の判断によって作品が変わっていくのです。だから河合さんの作品は、方法論が一貫しているにもかかわらず、一点一点をじっくりとながめられるだけの魅力的な差異があるのです。

河合さんからお話を聞くと、過去にはもう少し抽象的な、大きな図柄を下地に描いていたそうです。それを聞いて、河合さんの作品の変遷が気になりました。調べてみると、河合さんのホームページから彼女の過去の作品を見ることができました。次のページを参照してみてください。
https://bitter-etsukokawai.ssl-lolipop.jp/index.html
こうして見ると、河合さんの作品には変わってきたことと、過去から変わらずに一貫している核心のようなものと、両方の要素があります。その一貫している核心部分は、今回の展示作品についても同じだと思います。
そこで彼女の作品の変遷を見る前に、彼女の変わらない核心について先に考察しておきましょう。実は彼女の作品の核心部分が、モダニズム絵画の核心部分とも重なるのです。そのことは、それだけ河合さんが真剣に現代絵画と向き合ってきた証でもあります。私たちは、河合さんの絵から現代絵画について学ぶことができるのです。
ここは一つ、彼女の絵について学ぶと同時に、現代絵画の流れを視野に入れて考察を進めてみることにしましょう。

まず、彼女の作品が具体的な形象のない、抽象的な絵画であることはすぐにわかりますが、それ以外にもいくつかの特徴があります。
①絵画の奥行き、イリュージョンが最小限に抑えられているように見えること。
②画面構成に中心がなく、画面全体が均質な強さを持っていること。
③画面が細やかな色の集積で描かれているように見えること、などです。
では、これらのことについて、一つ一つ見ていきましょう。

①絵画の奥行き、イリュージョンが最小限に抑えられているように見えること。
このことを、現代絵画においては「絵画の平面性」という言い方をします。そのことをはっきりと指摘したのは、アメリカの美術評論家クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)です。彼の言う通り、モダニズム絵画の巨匠と言われるパブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)もアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)も、たしかに絵画の平面性を追究したように見えます。
https://artmuseum.jpn.org/mu_avinyon.html(ピカソ)
https://plaza.rakuten.co.jp/hoshinokirari/diary/201607100000/(マティス)
なぜ、モダニズムの絵画、つまり近現代の絵画は平面的になっていったのでしょうか。
グリーンバーグは「平面性だけが、彫刻や建築、工芸品などと違って絵画がもつ唯一の特徴だからだ」と解釈しました。絵画が平面的になった理由は、さすがにそれほど単純ではないと私は思いますが、グリーンバーグは自分の考え方を押し出すのが上手な評論家だったので、ある程度意図的にわかりやすい言い方をしているのです。とにかく近現代になって、絵画は遠近法による奥行き表現を捨てて、平面性へと向かったのです。
河合さんの作品も、その流れの中にあります。彼女の絵画には色調の変化はありますが、そこにははっきりとした奥行きを表現する意図が感じられません。初期の作品には、形の区切りがぼんやりと感じられますが、それが奥行きを持たないように周到に描かれていることがわかります。このことは口で説明するほど簡単なことではなく、彼女がしっかりとした技術のもとで画面をコントロールしていたことは明らかです。

②画面構成に中心がなく、画面全体が均質な強さを持っていること。
画面構成に中心があると、その絵画の奥行きが抑制されていたしても、どうしても伝統的な絵画の構図に見えてしまいます。描かれているものがお皿やリンゴでなく、幾何学的な円や楕円、正方形や多角形であっても、そこに中心となるような構図があれば、伝統的な絵画と本質的に変わらないものになってしまいます。抽象絵画であるか、具象絵画であるか、は関係ないのです。先程のグリーンバーグは新進気鋭の画家であったジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)の作品を通じて、中心のない、画面のどこを取っても均質な強さを持つような絵画を模索しました。彼らは共同しながら、新しい絵画を生み出したのです。
https://www.musey.net/3979(ポロック)
グリーンバーグは、その特性をオールオーヴァー(カンヴァスを一様な平面として絵具で覆う手法)という概念で言い表しました。それ以来、モダニズムの絵画は明確な画面構成を持たないことが、表現上の条件のようになってしまいました。①と合わせて考えれば、明確な奥行きも、中心的な構成もないことが、旧套的な表現に陥らないために必須な条件となったのです。
河合さんの絵画も、これらの条件を守りながら展開しているように見えます。先程からの繰り返しになりますが、これは口で言うほど容易いことではなく、表現者によっては息苦しい狭い場所へと追い詰められたような気分になるものです。
ところが1980年代になると、そのようなモダニズムの絵画の不文律を無視したような、一見、自由な表現が現れました。ニュー・ペインティングとかトランス・アヴァンギャルドなどと呼ばれた作品群です。しかし、私の見たところでは、それらは自由に表現しているように見えながらも、旧套的な絵画空間にとらわれていました。
また、理論的にはグリーンバーグの教え子であったロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )らによって、グリーンバーグの乗り越えが目指されましたが、逆にグリーンバーグを意識することによって、その理論にとらわれてしまっている、という見方もあります。
河合さんの作品は、モダニズム絵画が積み上げてきた成果を評価しつつ、その先の展開を模索しているように見えます。これがどれほどの技術と精神力を必要とするものなのか、僭越ながら同じ時代を見てきた者として、河合さんの強さをひしひしと感じるのです。

③画面が細やかな色の集積で描かれているように見えること。
もしかしたら、このことが河合さんの作品をユニークなものにしている最大の要因なのかもしれません。というのは、ここまで見てきたように、ピカソもマティスも、平塗りの技法で描いていて、河合さんのような手法を試みていません。また、「ポーリング」(塗料を注ぎ掛けながら線を描く技法)、「ドリッピング」(塗料を撒き散らして滴らせる技法)、「スプラッタリング」(塗料を粒状に飛び散らす技法)などの特殊な技法を用いたポロックと、河合さんの手法は似ているといえば似ていますが、ポロックの場合は河合さんのように周到な色の重ね方をしていませんので、やはり別な方法論だと考えるのが妥当でしょう。
河合さんの色彩の細やかなタッチは、どちらかといえば印象派から連なる点描技法に近いものなのかもしれません。しかし、光を表現しようとして光学的な科学理論にまで達した印象派とは違って、河合さんの絵の具のタッチは色彩そのものの表現に主眼がおかれています。ですからさらに例えるなら、印象派の理論を科学的に追究したスーラ(Georges Seurat, 1859 - 1891)の色彩表現よりも、ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)の絵の具のタッチに似ているのかもしれません。
https://images.app.goo.gl/SGRzs1SP62iPzmJw7(スーラ)
https://images.app.goo.gl/YoRPV1WiJMxJJFrDA(ゴッホ)
しかしそれよりも、私は河合さんの作品から象徴主義の傾向の強いジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858 - 1899)の筆致と色使いを想起してしまいます。
https://images.app.goo.gl/WHzo4YZhDcNvWRTT6(セガンティーニ)
この「象徴主義」という芸術史上の動向ですが、これは自然主義や印象派が外界を忠実に表現しようとしたのに対し、人間の内面を見つめ、時に神秘的な表現へと至った動向のことを指します。文学においては、ボードレール( Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)やマラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 - 1898)が象徴派詩人として有名ですが、絵画ではマティスの師でもあったフランスのギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826–1898)や、イギリスのラファエル前派などが挙げられます。
https://images.app.goo.gl/tPEhrYGcuRp68w6a8(モロー)
https://images.app.goo.gl/BnKGFqK6EpRqC3jQ8(ラファエル前派、ミレイ)
あるいは後期印象派のゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin, 1848 - 1903)もその先駆者とされ、その影響を受けた画家たちがたくさんいます。
https://images.app.goo.gl/VGqumYEs9LbdGYPs7(ゴーギャン)
先ほどのセガンティーニは、これらの一派には属さず、アルプスの山奥で独自の発展を遂げました。ですから後で見るように、峻厳な山の澄んだ空気や素朴な民衆の内面世界が、セガンティーニの作品には反映されているように見えるのです。
河合さんの作品も、モダニズム絵画の流れをくみながらも、独自の色彩表現に達しているところが、セガンティーニの表現と類似しているのかもしれません。この色彩表現の象徴主義的な傾向が、彼女の作品に「狂気」のような様相をもたらす要因になっているのではないか、と私は考えました。

さて、これらのことを押さえつつ、河合さんの2006年から2011年の作品群と、現在の作品を比較してみましょう。かつての河合さんの作品は、波打つような緩やかな形象がかなりはっきりと画面上から見てとることができます。絵の具の痕跡も縦方向や斜め方向など、いまよりも秩序立って交錯しているように見えます。
彼女が現代絵画の、とくに①や②で見たような特徴を維持しつつも、いかに積極的な形象の表現を残そうとしたのか、が読み取れるような気がします。感覚的な言い方になりますが、表現することに対してネガティブな現代絵画の方法論の中で、いかにポジティブな表現を見出すのか、ということを探究する意志が感じられるのです。
この時点では、彼女の画面の色彩の並べ方は、現在よりも秩序だって見えます。象徴主義的な不穏な色使いの片鱗はありますが、現在に比べると明度や彩度の変化について穏やかさを感じるのです。
しかし2014年以降になると、青や赤、紫などの彩度の高い色を並列し、尖った感触のマチエールとともに、「狂気」の一端が現れてきます。これがなぜ「狂気」を感じさせるのか、もう一度、セガンティーニを引き合いに出して考えてみましょう。
セガンティーニの作品は、モティーフそのものが象徴主義的な作品もありますが、事例として挙げた大原美術館の傑作は、一見すると普通の牧場の風景です。しかしよくみると、点描風の色使いの中に現実ではありえない色が混じっています。それはおそらく、印象派の光学的な理論では説明できないと思います。ですが彼のその色使いが、写実表現では描ききれないアルプスの澄んだ空気や高地の日差しを感じさせるのです。
現実にはありえない色を使うということに関しては、ゴーギャンの方が先進的だとも言えます。しかし、ゴーギャンの平滑な色使いでは、河合さんやセガンティーニのような「狂気」は表出しません。細かな筆致によって目の中でハレーションが起こっているような表現が、河合さんやセガンティーニに独特の力を与えているのです。
さらに河合さんの作品に関していえば、先程も書いたように、マチエールによる立体的な色の重なり、という効果もあります。こういった手法において、彼女はより先鋭的な方向へと向かっているように見えます。これは河合さんが地道に現代絵画を追究してきた結果、自然と内面から現れた変化なのだと思います。
そして、このユニークな方法論が、この先にどれほどの表現の領野を切り拓いていくのか、その可能性は計り知れません。

このように、河合さんの試みていることは、グリーンバーグやポロックが推し進めたモダニズム美術を正面からの乗り越えようとするものです。彼女は、ポロックらの抽象表現主義の画家たちには思い至らなかった色彩表現で、新たな道を歩いているのです。
そういえば、前々回に取り上げた『Chatterbox展』の女性作家たちも、河合さんと同様にモダニズム美術に関して積極的な破壊と構築を試みていました。
それなのに美術ジャーナリズムは、モダニズム美術の範疇で作品を作り続けている男性ベテラン作家か、あるいはモダニズム美術について何もわかっていないのではないか、と思われるような屈託のない若い作家を取り上げる傾向にあります。彼らの表現はわかりやすいし、説明もしやすいからだと思います。
しかし、『Chatterbox展』の作家たちや河合さんの作品について語ろうとすると、彼女らが立ち向かっている世界について、きちんと語らなくてはなりません。もちろん、彼女たちの作品を感覚的に味わうことは可能ですし、何の知識もなく彼女らの作品を見ても十分に魅力的に感じられます。それでもやはり、彼女らの表現を十分に理解するには、彼女らの試みを噛み砕いて語ることが必要なのです。
今の美術の現状をみると、難しい論文をこねくり回すインテリと、そんなことにはお構いなしの商業美術の人たちの狭間にあって、彼女らの作品が正当に評価されていないのではないか、と心配になります。彼女らの試みていることは、決して理屈っぽいことではありませんが、少なくとも継続して美術作品を見ていくぐらいの素養は必要でしょう。ですから、少しでも美術に興味のある人たちが、継続して彼女たちの作品を見続けていけるように、言葉を尽くして興味を引き出さす批評が存在しなくてはなりません。作家である彼女らがこれほどの努力をしているのですから、そのことをきちんと評価する場所が必要なのです。
そういう状況下で、今回は現代絵画の流れを含めて一人の作家について語ってみましたが、まだまだわかりにくいですね。何とか、河合さんのような真摯な作家について語る言葉を持ちたいものです。

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