【閲覧数】1,321(2016.6.30~2019.10.31)
宮本城砦群の中心的役割のあったと考えられる宮本高城跡を紹介します。

▲大屋町南部の俯瞰 by Google Earth

▲宮本城砦群図 上部が宮本高城
宮本高城跡 養父市大屋町宮本字高取・ヨットチ
宮本集落北部、宮本川の右岸の丘陵尾根及び頂部に位置する。標高310m、比高190m地点に主郭(約9m×25m)があり、背後に二重の堀切・竪堀を有する。さらに主郭から300m程上部の山頂部に自然地形に近い削平地があり、南側の尾根筋に2筋の大規模な竪堀(約5m×34~37m)が築かれている。
城主は不明である。この宮本高城跡の南部には尾根筋が3つに分かれ各々の先端部に城跡が残されている。西から東にかけて高取城、城ケ腰城と御井神社がある。御井神社の本殿の上部には横堀(幅3.5m、深さ0.5m)を有した直径約30mの円形の遺構が残されている。御井神社は天文15年(1546)4月8日、北東2kmの御祓山(773.1m)の中腹から現在地へ遷されたとある(伝承では、天文以前より移転されていたとも)。いずれにしても神社一帯が城域であった可能性が高い。
大屋庄の南部、播磨(一宮町)と但馬の国境に通じる明延方面の街道と宮本川上流で養父の建屋方面の街道を押さえていたと考えられる。 ※参考:「大屋町史」
大屋の城攻め ~安積盛兼軍忠状から~
播磨守護赤松則祐(赤松円心三男、赤松惣領家2代)の配下であった安積盛兼が大屋に攻め入り主君赤松則祐より軍忠状を受けた記録がある。
これによると南北朝時代の文和3年(1354)に宍粟郡一宮町を地盤とする安積盛兼が、赤松南朝方の石堂頼房方の湯浅等と戦い大屋庄の城を攻め、在家を焼き払ったとある。
この大屋の城が宮本地区にある城砦群ではないかと考えられている。その理由はこの城が最も国境に近く、大屋庄の南玄関口を守る攻守に富んだ城郭群であるからである。

▲安積盛兼軍忠案 「兵庫県史 資料編第三巻」
アクセス
宮本高城跡は宮本城砦群中の最も高い位置にあります。これまでに高取城、城ケ腰城そして、今回の宮本高城と紹介してきましたが、実はこの順番で登城はしていません。
宮本の御井(みい)神社に立ち寄った時に神社の上の曲輪跡を探って、城砦の位置関係を知ったのが最初で、日を改めて残りの城ケ腰城、宮本高城、高取城の三城を一度に探索しました。
宮本高城へは御井神社のすぐ上にある曲輪跡からも行けるのですが、同じ場所を避けて城ケ腰城の背後から登城しました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
城ケ腰跡の背後の尾根筋を登っていくと上部に二段の曲輪跡が見え始める。


▲城ケ腰城跡の背後の尾根

▲最初の曲輪跡

▲堀切
最初の曲輪の先にはもう一つの堀切がある。その上が主郭である。

▲主郭の手前

▲主郭
主郭の背後の堀切につづく尾根筋を登ること約20分。途中にかなりの傾斜地に大規模な二筋の竪堀を見つける

▲主郭後方の堀切

▲大きな二筋の竪堀
さらに登っていくと平たん地が現れる。その上が丘陵山頂の曲輪跡だ。自然地形に近い楕円形の曲輪跡だ。展望は聞かないが、東につづく尾根から南の山並みが見える。


▲最初の曲輪跡 ▲自然地形に近い曲輪跡


▲山頂から東にのびる尾根 ▲その尾根から南を望む
御井神社と曲輪跡

▲中央山頂に曲輪跡がある


▲参道入り口の鳥居 ▲本殿




▲上部には石が並んでいる(祭壇の跡か) ▲尾根上部の堀切
雑 感
宮本城砦群を全体を観ると、宮本高城が3城の背後の指令塔であって山麓の二つの主要街道を押さえていたように思う。
ただ、一つ気になることがある。それは宮本高城の100m上方の二筋の大規模な竪堀である。ふつう竪堀は横の移動を阻止するためだが、北西方向はその必要がなさそうな勾配があるにもかかわらずである。これは北西上部からの侵入を警戒したことによるのだろう。
今回の収穫は、南北朝期に播磨宍粟一宮の安積氏が但馬大屋へ攻め入った史料が残されていることがわかったこと。また、大屋庄・三方庄内に数多くの城跡が残されたのは、但馬内部でも南朝方、北朝方に分かれ敵味方と争ったことによるものと考えられるのである。
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