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ぶらりふるさと地名考「河東」

2025-03-05 06:53:33 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
   今回は兵庫県宍粟(しそう)市山崎町にある8つの地区の一つ河東地区内にある自治会の地名由来、歴史等をとりあげています。ご覧ください。
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ぶらりふるさと地名考「河東」
                   
    河東地区は播磨国風土記にある石作里にあたる。石作里は地区最南部の須賀沢を除く北部(揖保川西側沿いの神野地区を含む)一帯を指すと考えられている。同風土記には、安志川流域(現在の姫路市安富町)に安志(師)里は、もとは須加ともいい、安志里の一部として須賀沢があったようである。中世には、石作庄と呼ばれ安楽寿院領鳥羽分があったが、早い段階で宍粟郡の武将広瀬宇野氏により横領されその権益地の一つであったとされている。



河東地区図

河東村のこと
    江戸期以前より河東道(揖保川東岸)が北部に通じており、一宮町までに二カ所(釜ケ岨、高岨)に川と断崖にはさまれ洪水の被害を受けやすい難所があった。江戸時代初期に山崎中心部から揖保川西岸を通る道路(現在の国道29号線とほぼ同じ)が作られた。明治22年(1889)に町村制が施行され須賀沢、高所、三谷、中、神谷、矢原、岸田、野々上が河東村となった。土質は揖保川の氾濫により肥沃であった。同34年農会を結成するなど、米作りの改良を行った。同25年博文尋常小学校が河東尋常小学校と改称し、大正7年河東農業補習学校(のち河東青年学校と改称)を併設。昭和22年開校した河東・神野両村の組合立神河中学校が、同24年岸田に新築移転した。道路は揖保川の東岸、河東地区を南北に縦走する。西岸の田井、五十波、神野地区を南北に貫く国道二九号線と対になる。狭い区間も少なくなかったこと、付近に小学校や住宅街もあることから、改良工事が進められ、平成24年に、揖保川に架かる橋を除いてほぼ全線で二車線化が完了した。

1、須賀沢(すかざわ)
 須賀村は江戸期からの村名。はじめ姫路藩領、元和元年からは山崎藩領。延宝7年(1679)幕府領。明治12年に蟹沢(かにがさわ)村を併合して須賀沢村と称す。蟹沢村は揖保川支流大谷川上流域にあり、安富町との境の安志峠(須賀峠)の鞍部近くに位置し銅山があり、江戸時代には姫路藩領、山崎藩領、幕府領、三日月藩領。願寿寺に寺子屋があり、内海太郎太夫・内海三吾・新藤兵右衛門らが教育に従事した。昭和18年宍粟橋が架設された。同40年国道29号線の拡幅工事が完了した。同50年中国自動車道が開通した。
地内の出石(いだいし)について 
 江戸時代初期、高瀬舟の運行が開始された。須賀村の揖保川沿いの両岸に物資の倉庫が建ち並び東と西の岸は、東出石、西出石と呼ばれた。この出石の地名の由来は高瀬舟発着場の張り出した石積みの形状から来たものといわれる。地内の愛宕山には、天正8年(1580)の羽柴秀吉軍が宇野攻めに本陣とした聖山城跡が残る。出石には江戸時代幕府直轄地山方役所があり郡内の山林行政等を行い、その役人を代々小針氏と杉尾氏が勤めていた。現在の出石自治会は須賀沢から分離している。

2、高所(こうぞ)
 地名の由来は、やや高めの山裾に位置することによる。高所村は江戸期からの村名。はじめ姫路藩領、元和元年からは山崎藩領。当村の特産物として松茸、地内塩瀬には簗場があった。

3、中(なか)
地名の由来は、河東の中央にあたることによる。集落の北部には条里制遺構があったが、ほ場整備により消滅した。中村は、江戸期からの村名。はじめ姫路藩領、元和元年からは山崎藩領。幕末には寺子屋が開かれ、衣笠平左衛門が指導した。明治5年桂林小学校が開校された。地域の中心地として駐在所が置かれ、道沿いに民家が立ち並び、同45年以来の宅地造成ブームで県道田井中広瀬線沿いに住宅地が建設された。当村も松茸を多く産していた。

4、三谷(みたに)
 揖保川支流三谷川上流域。地名は、三谷川がさらに三つの支流(谷)に分かれていることに由来する。三谷村は江戸期からの村名。はじめ姫路藩領、元和元年からは山崎藩領。延宝7年(1679)からは幕府領となる。地内しゅうぜん河原で砂鉄の採取が行われ、対岸の三津村のたたら製鉄の原料となった。昭和47年中山西麓に町営・県営の住宅団地が造成され、同55年河東幼稚園が神谷から同団地内に移転した。

5、神谷(こうだに)
 神谷村は江戸期からの村名。はじめ姫路藩領、元和元年からは山崎藩領。当村には大庄屋栗山儀右衛門がいた。幕末には栗山孫十郎によって寺子屋が開かれた。明治11年岸田村の博文小学校が当村に移転され、同校で教鞭をとった当村出身栗山新は岡山藩閑谷学校に学び林田藩儒者河野鉄兜の門下で,山崎藩の典医も勤めた。昭和53年揖保川にさつき大橋が架設された。

6、矢原(やばら)
矢原村は江戸期からの村名。はじめ姫路藩領、元和元年からは山崎藩領。天保年間(1830~1844)隣村の岸田村と境界論争を起こしている。

7、岸田(きしだ)
 地名の由来は、沖積地の耕地化以前は、河岸段丘上が主たる農地であったため、岸(段丘)の田という意で命名されたと伝える。慶長年間(1596~1615)に洪水対策及び耕地増加のため川除の石垣が築かれた。長水城が落城前の天正8年(1580)頃と推定される正月28日の丹波守澄忠書状「五ミやう・〈川東〉とう田・〈川西〉いかは・いせ・石作・此外所々惣御門徒衆中」に宛てられており、これは石山合戦の際に石山本願寺から宍粟郡の真宗門徒に寄せられたものである『西光寺文書』。このうち、とう田は現在当地の小字名として残る。当村には天保五年(一八八五)まで大庄屋をつとめた久保忠兵衛がいた。明治6年岸田学校、同9年博文小学校が開校。同校は当初明宝寺にあり、のちに神谷村に移転された。昭和24年字松ノ本に河東・神野両村の組合立神河中学校(のち町立)が設置された。同35年簡易水道の敷設工事中に神河中学校前から壺に入った古銭(宋銭)約37㎏が発見された。


発見された壺と古銭(山崎歴史郷土館展示)

8、野々上(ののうえ)
地名の由来は、揖保川東岸の農耕地のうち最も北(上)であることによるという。野々上村は江戸期からの村名。はじめ姫路藩領、元和元年山崎藩領、延宝7年(1679)幕府領、京都所司代・姫路藩預り地・大坂城代堀田氏領を経て、明和6年(1775)からは摂津国尼崎藩領。当村北端に釜ケ岨(かまがほき)と呼ばれる出石舟着場への近道があったが、寛永8年(1631)田井村と杉ケ瀬村との渡し舟ができるとともに、寛政11年(1799)には他村の牛馬通行は禁止になっていたのが守られないことや洪水のたびに道路修理費が当村の過重負担となり、文政6年(1823)物資輸送に利用している今宿村・中広瀬村の問屋を相手取り費用負担の訴訟を起こした。幕末当村の陸雲寺に寺子屋が大野善太夫によって開かれた。明治39年藤田半次郎が養蚕方法を改良し、翌年稚蚕共同飼育組合を設立した。昭和46年野田橋が架設され、釜ケ岨道路は廃された。

銅鐸・古墳等遺跡
 河東地区内には弥生時後期中ごろのものとされる高さ1mの大きな銅鐸が江戸期に須賀沢の山中より発見されている(所在不明)。古墳は地区内に10所以上あり、特記すべきは矢原群集墳で、矢原と岸田の境目の傾斜地にあり、規模は戸原、城下地区に次ぐ。

河東地区の思い出
 幼少の頃母に連れられ野々上の親戚宅へいく途中に野田橋を歩いたことが記憶に残る。幼稚園の遠足で出石の愛宕山に登ったこと。小学生のときカブトムシの幼虫を採りに宍粟橋東詰南の川辺りのおが屑場へ行ったこと。水晶があると聞いて須賀沢の大谷鉱山へ向かったこと。高校時代には河東の同級生と三谷へ行き、深い谷間の川沿いに集落があることを知る。この執筆で三谷の奥の谷道から峠を越えると安富町の名坂に至ることを知った。昔は背中合わせの村との交流や婚姻もあったという。今年(令和7年)は昭和百年にあたる。昭和の記憶の風化は避けられないが、変わりゆく山村の小さな記録を残し語り伝えることが急務かと感じている。

参考文献 『山崎町史』、『角川日本地名大辞典』、『兵庫県小字名集 西播磨編』、『広瀬宇野氏の史料と研究』

※「山崎郷土会報 No.144 令和7.2.24」 より転載

参考 釜ケ岨の位置図  グーグルアースより


       ▲揖保川が山に当たり南下する  (山崎町杉ケ瀬から)


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