郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「才金(金子・才元)」 

2020-01-09 09:35:53 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「才金(金子・才元)」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】2,210件(2010.10.27~2010.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■金子(かなご)
西本郷の北、田和村の西に位置し、桜山川沿いに金子・舟戸(船室)の2集落がある。北の桜山村に通じる道がある。
元文4年(1739)の平福領一揆時には家数28であったが、全体が窮乏状態で、住民が異形姿で平福町は押し寄せた。一揆収束後当村の3名が処罰され、村に※鳥目一貫文の過料が科せられた。天保7年(1836)同8年の飢饉および桜山銅山の鉱害被害により窮乏が甚しく、年貢納入のために家財をことごとくと取り立てられ、多くの百姓が離散し、村中すべて荒れ果てていたという。代官竹垣三衛門は広山村(三日月町)、末包(すえかね)村・淀村・仁方(にかた)村(佐用町)の庄屋と下櫛田村の誼作、赤穂郡大酒村の庄右衛門らに復興趣法を命じ、引立助成を行っている。

   明和9年(1772)の堂社書上帳に十二社権現がみえ、本村産社とある。舟戸集落は西本郷村の氏子であった。十二社権現は明治28年に幕山八幡宮に合祀された。明治8年(1875)才元村と合併し才金村となる。

※鳥目:銭の異称。 江戸時代までの銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたところからいう。





■才元(さいのもと)
幕山川支流の大地川と熊井川流域。才元・寺の奥・才金・熊井・大地に集落がある。地名は、才(塞)の神に由来するか。大地川上流に四才谷池・大地池、熊井川上流に熊井池がある。

   天保7年(1836)長雨による稲の不作、翌年春麦の収穫を待ちかねて瓜の根などを多く食した人々が全身腫れて病死したという。安政元年大地震。同3年台風。明治2年凶作で木の実、竹の実を集めて食した。明治8年(1875)金子村と合併し才金村となる。






■才金(さいかね)
幕山川支流桜山川流域に位置する。明治8年、才元村と金子村が合併して成立。はじめ幕山村、昭和30年からは上月町の大字となる。

  明治30年前後から農家の副業として、畜産・養蚕を導入、冬季には男子は製炭業関係の山林労務に従事、婦女子はわら芯切りに精励、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。



 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。金子村との境の標高310mの山上に中世末期の山城跡があり、主郭を中心に数段の削平地と堀切跡3か所が残るが詳細は不明。天満神社があり、本殿の元禄14年(1701)造営棟札、宝暦2年(1752)銘の灯篭2基と同年の鳥居の額が残る。
明治20年樺坂分教場を廃し、江川村立小学校組合を組織して今に至る。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季は製炭関係の労務に従事し、婦女子はわら芯きりで稼ぎ、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。

※樺桜:カバノキ類に木肌が似ている桜の木、ウワミズザクラ、カニワザクラともいう。



◇今回の発見

・飢饉時に瓜の根、竹の実などを食した記録があるという。瓜とは何か。(からす瓜のこと?) 竹や笹の実は、味が悪いが救荒食だったという。

・金子の鉱害被害や飢饉時に窮乏し、年貢納入のため家財道具まで取立てられ耕作放棄、百姓離散に追いやられた。そして村中が荒れ果てたという。藩の収入の柱が農民の年貢であり、藩の財政の安定は、農民の生活安定が前提なのだが、こんな歴史が近くにもあったとは。




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