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地名由来「川戸・宇原・下宇原」 宍粟市山崎町
閲覧数4,306件(2010.1.14~2019.10.31)
戸原地区
■川戸(かわと)
古くは(河戸)とも書いた。揖保川中流左岸。平野部には条里遺構が見られる。また、播磨公弁円(はりまのきみべんねん)の墓と伝える五輪塔があり、目の病気に霊験があるという。(写真)
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【古代】川音村 奈良期に見える村名。国宍粟郡のうち。「風土記」宍禾郡七里の1つ比治里のうちに「川音村」と見え、村名は天日槍命(アメノヒボコノミコト)がこの村に宿泊したとき、川の音がたいへん高いと言ったことに由来するという。宍粟郡と揖保郡との郡境に近い揖保川左岸の山崎町川戸が遺称地。
【近世】川戸村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。山崎藩本多氏の時代の大庄屋は定員3人で、当村の福岡家も短期ではあるがその役を勤め、管轄下の村々は川戸組とよばれた。村内の揖保川には藩有の簗場(やなば)があり、その堰(せき)立て工事は当村庄屋が担当した。蟹籠(かにかご)漁も盛んに行われた。高瀬舟舟運も盛んで嘉永・安政(1848~60)には舟が十艘あったという。元禄年間(1688~1704)南隣の宇原村とともに揖保川対岸の揖保郡上香山(かみこうやま)村を相手どり入会地争論を起こし、その結果揖保川川中の魔手岩(真手岩)が境になった。天和3年(1683年)・宝暦7年(1757年)の両度銅山採掘願いが出され、大坂南本町平野屋清右衛門が試掘したというが、採鉱は行われなかった。
神社は岩田神社。同社の祭礼には獅子舞が行われる。なお、天文5年(1536年)当村内浄土真宗の川戸道場がつくられたという。明治22年戸原村の大字となる。
【近代】川戸 明治22年~現在の大字名。はじめ戸原村、昭和30年からは山崎町の大字。明治22年戸原村役場を設置。昭和初期まで揖保川舟運の村でもあった。
■宇原(うはら)
「うわら」ともいう。揖保川中流左岸。地名は、河畔(あぜ)に茂っていた茨(いばら)から生じたものという。水田には条理の遺構がある。地内北東部の山頂には中世のものと見られる寺院跡がある。
【古代】宇波良村 奈良期に見える村名。播磨国宍粟郡のうち。「風土記」宍禾郡七里の1つ比治里のうちに「宇波良村」と見え、地名は葦原志許乎命が国土を占居した時、この地は小さく室の戸のようだと言ったので、表戸(うはと)と称されたとある。ウハラはウハトの転訛とされ、現在の宇原・下宇原を遺称地とする。
【中世】宇原 戦国期に見える地名。宍粟郡のうち。天文2年12月2日の郡内勧進粁足注文に「参十参貫百四十文〈宇原より上、神戸より下分〉と見える(伊和神社文書)。
【近世】宇原村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。山崎藩本多氏の時代の大庄屋は定員3人で、当村の志水家も短期ではあるがその役を勤め、管轄下の村々は宇原組とよばれた。
当村から下宇原村が分村、なお、分村年代不詳。元禄年間(1688~1704年)当村と川戸村は揖保川対岸上香山村との間に入会地をめぐる争論があり、魔手岩(真手岩)と称する巨岩を村境に決定したという(播州宍粟郡誌)。安政年間(1854~60年)当村には高瀬舟25艘あり、宇原の渡も開設されていた(以上「山崎町史」)。良米および薬草の産地であった(宝永5年「宍粟郡誌」)。
神社は、岩田神社がある。社伝によると、岩田神社奉納獅子舞は飾西郡護持村(現夢前町)から習得したとされる。安政5年(1858年)門前村の八幡神社境内で山崎藩の武運長久・領内安全などを祈願して領内の村々が神楽などを奉納した際、当村は獅子舞を披露した。(山崎藩覚帳)。舞の種類は神楽・曲舞・刀・牡丹・相之山・蝶子・椿・吉野・道引・岡崎・梯子の11種ある。寺院は真宗大谷派法性(ほっしょう)寺。同寺は慶長18年(1613年)宇原道場(法性坊)として創始されたという。なお、開基は寛文3年(1663年)ともいわれるが、同年は改称の年と思われる。明治22年戸原村の大字となる。
【近代】宇原 明治22年~現在の大字名。はじめ戸原村、昭和30年からは山崎町の大字。揖保川の舟運は、次第に衰微しながら昭和初期まで続いた。
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■下宇原(しもうはら)
「しもうわら」とも称する。揖保川中流左岸の平野部。村名は宇原の南(下流)に位置することによる。水田中に条理遺構がある。
【近世】下宇原村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと宇原村の一部で、江戸時代初期ごろ分村したとみられる。神社は、武速(たてはや)神社。浄土真宗本願寺派西願(さいがん)寺は文化14年(1817)本仏・寺号下付という。(末寺帳)
【近代】下宇原 明治22年~現在の大字名。はじめ戸原村、昭和30年からは山崎町の大字。
◇今回の発見。山崎藩本多氏の時代の山崎八幡神社で各村々の神楽などが奉納されたとある。中でも宇原の梯子(はしご)獅子は圧巻である。しかし、伝統文化の保存は子供の減少にも伴い難しくなっているようである。
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