(2019.3.30~2019.10.31)
大分の中津市から岡城跡のある竹田(たけた)市に向かった。大分自動車道を走り、100km余りの道のりで2時間程かかった。竹田市は周辺が1,000m級の山々に囲まれた盆地にある。やたら岩穴のようなトンネルが多くて、誰が名づけたかレンコン町との異名がある。
この竹田市は住みたい田舎の全国ランキング第3位(2014年)だとか。その理由は岡城跡と城下の古い町並みを歩いて知ることになった。
▲三の丸の高石垣 (国史跡)
▲三の丸の高石垣 東方面から
▲東に伸びる石垣
▲くじゅう連山 城跡から北東部を望む
▲豊後と岡城跡の位置
▲市内には短いトンネルが多い
岡城跡のこと 大分県竹田市大字竹田字岡
岡城は大野川の支流稲葉川と白滝川が合流する間の台地(325m、比高95m)に築かれた。
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟栄(これよし)が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。
元徳3年(1331)大友氏の支族志賀貞朝(さだとも)が志賀城(朝地町)からこの城に移り、城を拡張している。この頃の岡城は現在の搦手の下原(しもばる)門が大手で、山麓の挟田(はさだ)・十川(そうがわ)の村落が城下町であった。
天正14年(1586)12月嶋津義弘が大軍を率いて大友氏の豊後に攻め入った。大友方の諸城が次々と落とされてゆくなか、志賀親次(ちかつぐ)は岡城への再三の攻撃をよく食い止め、撃退した。翌年天正15年1月3日志賀氏はその功績により秀吉から感状を受けている。
しかし、文禄2年(1593)の朝鮮の役で失敗を犯した主君大友義統(よしむね)が領地を没収されたため、志賀親次はやむなく城を去った。
このあと岡城には文禄3年(1594)播磨三木城から中川秀成(ひでしげ)が入り、大規模な改修を開始した。志賀氏時代の大手門を搦手とし、西方に大手門を設けた。城下町は志賀氏時代の挟田・十川に加えて西方に竹田町が整備された。
▲岡城古城絵図 江戸中-後期(国会図書館蔵)
▲豊後岡城全景 古写真明治初年
▲豊後国岡城之図 案内板より
阿蘇の溶岩台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、明和8年(1771)には本丸、西ノ丸など城の大半を焼く大火が起きている。
明治維新後、廃城令に従って明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、残されたものは高く積み上げられた石垣のみとなった。
「荒城の月」の作曲者として知られる瀧廉太郎(1879~1903) は少年期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれている。
▲大手道の石垣
▲上部が丸く加工された石塀 ▲上から振り返ると相当の勾配
▲大手門跡を上から見る
▲平成11年模擬復元大手門(現在撤去、説明板より)
▲広い石階段の上には西の丸御殿跡がある
▲西の丸御殿の東には家老屋敷が続く
▲貫木御門跡
▲この見事な高石垣は、桜の時期は絵になるだろう
▲太鼓櫓跡
▲下原門跡(搦手)
岡城案内マップ
岡城案内マップ
雑 感
岡城跡の印象
岡城跡は事前に地図や写真で想像はしていたものの、いざ大手道から石段を進むと上部が丸く加工された石塀が延び、その先に見上げるほどの高石垣に圧倒された。撮影スポットの三の丸の高石垣を見つけ、その場所に立って初めて岡城跡にやってきたことを実感した。
▲この場所は絶景
この城跡は中世の山城から近世の城に造り変えられているのだが、意外にも眼下に城下が見えない。
俗世間を離れた城は、悠久の連峰に囲まれ、朝夕の光と月夜そして四季折々の木々の彩りが織りなす別世界となって、歴代の城主はそれを楽しんだことだろう。
中川家の家紋図柄のこと
竹田市立歴史資料館に入ると中川家の家宝が多く展示されていた。武具等に描かれている家紋を初めて見たとき、変わっているなと思っていた。あとで中川秀成を調べるうちに、秀成の父清秀とキリシタン大名の高山右近とは従兄弟であり、秀成も若くして洗礼を受けていたことを知った。中川家のいくつかの家紋の中に中川久留子(クルス)というのがあって、図柄に十字架をモチーフにしていることがわかった。(下の系図参照)
※参考「日本城郭大系」、「角川日本地名大辞典」、「戦国 武家家伝」他
◆城下の町並み
▲竹田創成館 武家屋敷の入口付近
▲武家屋敷 (殿町)
▲町屋
▲滝廉太郎の像(二の丸) ▲滝廉太郎記念館 滝廉太郎はこの旧家で12才から14才まで過ごした。
竹田市カイド たけた城下町散歩 (案内板より)
【関連】
播磨 三木城跡
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