郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

揖保川の水運

2019-10-27 18:56:23 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
揖保川の水運
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水運で栄えた揖保川流域

■高瀬船

 近世以降の宍粟郡の交通事情で、見逃すことのできないのが、揖保川を利用した水運の活況である。江戸時代に入って水路が開かれて大いに利用されるようになった。宍粟郡一円の木材・米・鉄・薪炭等の輸送の大動脈としての地位を占めた。
 この水運の中心となったのが、山崎町出石(いだいし)の両岸を基点とする高瀬舟である。山崎町出石の河岸から網干港までの約7里(28km)を、物資輸送に高瀬舟が大活躍した。

 川舟問屋が安政期の(1854~60)には、15軒の積荷取扱いの問屋があった。少し下流の渡し場がある須賀村には別に2軒の問屋があった。出石河岸に所属する船は120艘(宝暦10年 1760)で、1艘3人乗りで船員が360人が出入りするので、茶屋・飯屋も多く河岸は繁盛したうようだ。(宇野正暎氏)


 高瀬舟は個人の所有であったが、大体はこれらの各問屋に所属し、米・薪炭などを河口の網干港まで輸送したのである。各高瀬舟は遡上してくると船頭が正午までに札場に行き、出向の順をくじで決定したという。

 荷を積み込んだ船には3人が乗り組む。積荷を降ろした後は、一人が船に残って棹を操り、他の二人が両岸から綱で船を引いて川を遡ったのである。時に順風に帆をあげたという。積荷は量はその時の水量により変化があり、木炭の場合は普通320~150俵であった。兵庫県宍粟郡誌に「春は120俵、秋は106俵を常とす」とある。)

 時にこれに便乗して川を下る※旅客の姿もみられた。結婚の花嫁、遊学生、安志藩の重役が本家である豊前中津への便乗もあったという。

 揖保川の水は農業用水として利用されており、各所に井堰(いせき)が設けられていたので、水田への灌漑中は高瀬舟の通行はできなかった。これを「ユ止め」といった。(山崎町史)





   
   ▲高瀬船(龍野市・大正時代 龍野・揖保・宍粟の100年より) 

 明治・大正年間には、揖保川上流の三方・上野方面で伐採された原木を、筏に組んで網干港に下る輸送が盛んであった。
 その方法は、揖保川上流で組まれた筏はまず「一流し」3人で山崎町出石まで流れをくだる。この筏は出石で「二流し」を横に合わせて再編、一人で竜野まで流し、一般にここで乗員が交代して網干に下った。

 このほか、田井・出石・須賀・川戸・宇原などにあった渡し船も、橋梁が建設されるまで活躍し、このような水上交通の発達は、揖保川沿岸の陸上交通を発達させ、休息・宿泊施設なども川の両岸に多く見られた。(山崎町史)

参考:高瀬舟については、宇野正暎氏「揖保川高瀬舟資料」、森本一二氏「出石河岸の高瀬船」


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