よろず戯言

テーマのない冗長ブログです。

親父の家出

2023-03-25 21:41:55 | 日記・エッセイ・コラム

 

♪メモは破って捨てていいよ~

♪でも最後まで読んでよ~

 

モーニング娘。の初期の頃の曲、“Memorry 青春の光”の印象的な歌詞。

若い頃、よく聴いた曲の一節。

それが思い出されて、このときの自分の思いと重なる。

一週間前の深夜1時過ぎ。

涙ぐみながら、便箋にボールペンを走らせた。

 

保育園,小学校一年生くらいに、

もしかしたら父の日に似顔絵や紙粘土で作った灰皿と一緒に、書いて渡していたかもしれない。

だが、そんな幼い頃のこと、はっきりと記憶にはない。

大きくなってからは もちろんないし、大人になってからもない。

結婚式のとき、ラストの挨拶で両親に向けたメッセージとしては書いたと思う。

だが、父親ひとりに向けて書いた記憶はない。

だから・・・これが、最初で最後の親父への手紙。

 

1980年(昭和55年)10月

神幸祭

親父とふたりの妹と、自宅前にて。

  

昨年9月。

アルコール中毒の親父が酔って暴れ、お母んを家から追い出してしまった。

足が不自由で直後に手術が予定されていた お母ん。

そんな お母んに罵声を浴びせ、「出ていけ!出て行かんのなら、家に火をつける!」

そんなふうにわめき散らかし、たまたま帰省していた熊本の弟が、

お母んを連れ出して、実家から避難。

警察沙汰にまでなった、昨年起こった我が家の大騒動。

 

あれから半年。

あれっきり、お母んはこの家には戻らない。戻れない。

熊本の弟の家、近所にある二番目の妹の家、そして田川市内のビジネスホテル。

それぞれを転々としながら、不自由な生活を強いられている。

 

一回目の股関節の手術を終え、リハビリの最中、精密検査にて卵巣に腫瘍が見つかる。

卵巣を摘出してみないと、悪性なのか良性なのかの判断がつかないらしく、

二回目の膝の手術は先送りになり、先に卵巣摘出手術を行うことになった。

だが、コロナの影響があって、その手術も当初予定していた2月から延期になっていて、

はっきりとした手術日は未だ未定。

 

そんな災難ばかりが続くお母ん。

良さげな借家を見つけて、不動産屋で契約しようと思ったものの、

お母んは体が不自由なうえにわずかな年金暮らし。

連帯保証人となるべき自分は、勤続年数が短すぎるのと年収が低すぎるのとで、

審査を通ることができず、けっきょく賃貸契約を結ぶことができなかった。

40も半ばになって、長男のくせに母親の保証人にもなれないなんて、

こんなにみじめで情けないことはない。

 

けっきょく お母ん自らが申し込んでいた町営住宅の抽選に当選し、

ほど近い場所にある、別の町営住宅を借りることになった。

リフォームに時間がかかるとのことで、入居はもう少し先になるという。

入居可能になったら、まだ実家に残るお母んの家財等を運び出し、

それが済んだのち、今度は自分が荷物をまとめ、どこかへ引越すつもりだった。

 

1980年(昭和55年)12月

大雪の日に親父と妹ふたりと雪遊び

自宅の庭にて。

 

昨年末だったか。

「暖かくなったら お父さん、出ていくき、お前とお母さんとで暮らせばいい。」

唐突にそんなことを言い出した、アル中クソ親父。

どうせまた口だけに決まってる。

行くアテなんてなかろうし、そんな金も行動力もないだろうに。

 

本当に出て行ったとて、一時的なもので、

どうせ近所の叔母のとこにでも居候したのち、

少ししたら何事もなかったかのようにフラッと戻って来るに違いない。

親父が言ったことを鵜吞みにはせず、特に返事もすることなく聞き流していた。

 

1981年(昭和56年)

七五三のお参り帰り。

両親とふたりの妹と、叔母の家にて。

 

―――― 。

だが、楽観視していたら、その日は突然に訪れた。

先週の木曜日。

仕事から帰宅すると、親父に呼ばれた。

「ちょっと話がある、10分で終わるけん、来てくれ。」

ガラに無くかしこまった様子。

「そこに座ってくれ。」

キッチンのテーブルの椅子に座る。

 

テーブルの上には何枚かの書類。

「お父さん、明日 出ていくけん、これに お前かお母さんの名前書いて契約者を変えれ。」

今住んでいる、この町営住宅の世帯主、契約者変更の紙切れだった。

「お母さんが戻って来るっちゅうんなら、お母さんの名前に。

お父さんとの嫌な思い出があって、

お母さん、もう戻りたくないっちいうんなら、お前の名前にせ。」

 

黙ったまま目の前の書類を見つめ、親父の話を聞く。

「本当は去年のクリスマス頃に出て行こうっち思っちょったんやけど、

ちょうどほら・・雪が積もって寒かったろうが、やき、寒いうちは出きらんかった・・・。

遅くなってすまんけど、やっと準備も終わったけん、明日、明るいうちに出ていく。」

 

聞けば、電気,ガス,水道など、公共料金は全て名義変更済み。

これまでなあなあにしてきた、離婚届けにも記名押印済み。

住民票も叔母の家の住所へと移していた。

だが、叔母の家に住むというわけではないらしい。

 

「若いときに住んじょったとこやら、トラックで回ったところを巡る。」

親父は若い時、神奈川や東京に住んでいた。

お母んと出会い、広島でお母んと同棲し、ヒモ生活したのち、

自身の故郷である福岡・田川へ戻って、ここで結婚して今に至る。

 

そして続ける。

「お父さんのお母さん、お前の婆ちゃんが北海道出身やけん、そこにも行ってみたい。」

父方の祖母、つまり親父の母親、親父がまだ中学生くらいのときに病気で他界した。

親父は末っ子で、とくに甘えん坊だったらしく、ずっと亡き祖母のことを想っている。

ひどく酔っているときなどは、「おかあさ~ん!」とよくわめく。

あれは お母ん(親父にとっての妻)を呼んでいるのだと思っていたが、

お母んは、「あれは死んだお父さんのお母さんのことを呼びよんたい・・・。」と言っていた。

 

「いろんな場所回ってから、気に入ったとこあったら、そこに住んでそこで死ぬ。」

「お前らには行き先も伝えんし、連絡も一切せん。」

「お父さんがどこでどうなろうが、(叔母に)連絡するなっち言っちょうき。」

「お父さんの葬式にも出らんでいいし、お父さんの方の親族とも、今後一切 付き合いもせんでいい。」

「お父さんが死んでも、お墓はそこのお寺の納骨堂契約しちょうき、心配要らん。」

 

自分勝手なことをつらつらと並べてゆく。

親父は昔からそうだ。

自分の意見だけ述べ、他人の意見は一切聞かない。

反論なんてしようものなら、キレてげってんをだし、物やヒトへの暴力に変わる。

言い出したら聞かない人間だ。

 

1982年(昭和57年)8月

親父と妹ふたりと、田川市の丸山公園にて。

 

黙って聞いていた。

ひととおり親父が話し終えたところに、ようやく自分が口を開く。

「あちこち巡るっち・・・お金は有るん?」

「お父さん、年金貯めたぶんやらで、全部で350万有る!」

「300万は叔母さんに返さないけんお金やろうもん。」

「もう(叔母には)言っちょう、返さんかもしれんばいっち。」

 

やっぱりそうなったか・・・お母んが必死に工面した返済金。

けっきょく親父がまた使い潰してしまうんだ。

まあ、叔母も納得しているのなら、いいか・・・。

親父には姉が二人居る。

この二人の叔母、これがまた親父に対して激甘過ぎて辟易するくらい。

そんな叔母だから、親父が言えば300万も返さなくていいって言うだろう。

 

「寝泊りはどうするん?」

「車で寝る。」

「車中泊はいけん、危ないばい。」

「家借りたら、家賃やら光熱費やらかかろうが、だき 車で寝泊りする。」

「道の駅とかパーキングエリアとかで車中泊しよる高齢者が狙われる事件とかあるやん。」

「お父さん、人が多いとこで寝るき、大丈夫。」

 

「事故とか起こしたらどうするん?」

親父は目が見えづらくなっているという。

もう夜は当然のこと、夕方や雨天曇天時など、薄暗くなると運転ができない。

はっきり言って、運転免許証を返納すべきレベルかもしれない。

「昼間しか運転せんけん大丈夫。」

 

「なんも心配せんでいい。お前らには一切迷惑かけん。」

しかし、事故でも起こして人様に迷惑かけるのも心配だが、

逆に犯罪に巻き込まれて、被害者になってしまうのも心配だ。

大金を所有して、老人がひとりマイカーで全国行脚。

車中泊なんてしてたら、たちまち狙われてしまう。

今、そんな物騒極まりない時代だ。

 

「お父さんは もういつ死んでもいいき、怖いもんは なんもないき。」

「本当は50には死ぬと思っちょった。20年も長く生きさせてもらったき充分たい。」

「どこでどうなろうが、構わん。」

「お金が無くなればそこで死ねばいいだけやし、誰かに殺されてもそれで終わりたい。」

「なんも心配要らん。お前らには迷惑かけん。」

 

何を言っても引き留めにはならないことは判っている。

言い出したら聞かない人間だから。

出ていくのは構わない。

だが、行き先も判らぬまま、根なし草のごとく放浪してもらっては困る。

せめてどこかで定住してくれれば安心もできる。

 

親父は高血圧症で、もうずっと血圧の薬を処方してもらい、それを服用している。

薬が切れると発作を起こすこともある。

眼も見えずらくなっていて、運転にも支障がある。

身体能力も著しく衰えていて、昼間でだって運転が危険だろう。

車での旅に心配ごとが尽きない。

 

1983年(昭和58年)4月

小学校入学式 親父と上の妹と。

 

その夜。

なんとか親父を引き留めたい。

その一心でボールペンを走らせる。

 

珍しい大雪、一緒に巨大な雪だるまをつくったこと。

珍しく保育園に迎えに来てくれたけれど、悪ガキに「ハゲ!」と呼ばれ、キレていた親父のこと。

保育園の工作で、紙粘土で亀の灰皿を作って父の日のプレゼントをしたこと。

親父や従兄たちと一緒に、川へしじみ採りに行ったこと。

 

とくに印象に残っているのが、小学校一年だったかの夏休み。

親父の長距離トラックに乗って付いて行き、他の県をいっぱい見せてくれたこと。

長崎のじいちゃん家以外、他県へ出かけることがなかったから、あの旅はすべてが感動だった。

関門海峡を渡って本州へ、鳥取砂丘でラクダにまたがって記念撮影、

東京では、東京タワーや、当時最も高いビルだった、サンシャイン60を間近で見て驚いた。

 

景色以外も、高速道路のサービスエリアや、国道沿いのドライブインで味わったグルメ。

長距離トラック運転手ならでは、どこそこで美味い店を知っていた親父、

「ここのハンバーグおいしかろうが!」「ここのラーメンうまかろうが!」

自慢気に自分にそれを食べさせてくれた。

貧乏だったので外食なんて滅多になかったのに、このときばかりは ずっと外食で心躍った。

だが、小一には、トラックドライバーの盛りで供される大盛り料理は食べきなかったっけ。

 

小学校高学年になる頃には、すっかり親父を毛嫌いしていた。

週一で家に帰ってきては、酔いつぶれて暴れ、連れて来た同僚とケンカをはじめたり、

お母んや自分たちに暴言を吐き散らし、その都度 暴れて食器や家財を破壊した。

親父が暴れだすと、すぐに兄妹全員 隣の公園へ逃げ出し、

事が収まるまでの間、泣きじゃくる幼い妹や弟たちを抱きしめていた。

 

中学生ともなると、お母んや妹たちを守らんと、

暴れる親父の前に立ちはだかったこともあった。

高校生のとき、初めてそこで文句を言った。

「なんちやクソガキがぁ!いっちょ前に!来いやコラァ!!」

自分が立ちはだかると、火に油を注ぐ状態になり、親父はより一層激高していた。

けっきょく お母んが無理やり間に割って入り、体を呈して親父を鎮めていた。

 

そんなこともあって、中学くらいから親父と会話することはなくなった。

高校のときも、まったく口をきいた覚えはない。

この頃には、家族でどこへ出かけるということもすっかりなくなっていた。

相変わらず、親父は飲んだくれていて、長距離トラックの仕事もリストラされ、

日雇いの仕事を転々として、毎晩家に居て、そして毎晩飲んでわめいていた。

 

一日も早く家を出たい。

その一心で、離れた場所へ就職することに決めた。

公務員クラスに希望して入り、そこで一心不乱に勉強した。

国家Ⅲ種、郵政。

中国郵政局山陽地区。

そうして広島へと就職していくことになる。

 

この頃、親父は また運送会社で、長距離トラックのドライバーをやっていた。

お母んに、公務員合格したことをお父さんに電話で伝えなさいと言われ、

まだ携帯電話のなかった時代だったが、親父のトラックの自動車電話へ、おそるおそる電話した。

数年ろくに会話していなかった親父への、就職が決まったことを伝える電話。

運転中だった親父、電話向こうで面食らったような声色、

そして後半には涙声になっていたのを覚えている。

 

「よかったのう、ほんとよかったのう・・・お父さん若い頃に警察にお世話になっちょったき、

お前は公務員にはなれんっち思っちょった・・・ほんと・・よかったのう。」

今はそんなこともないと思うけれど、自分が就職する頃は、

“三親等以内に犯罪者が居たら公務員にはなれない”なんて噂があった。

警察官なんかは特に厳しく、実際そうだったよう。

親父はそんな噂を知っていて、公務員を目指していた息子が、

自分の前科のせいで、その努力が水泡に帰すと思っていたらしい。

 

広島に旅立つ日。

最寄り駅のホームまで、家族全員が見送りに来てくれた。

お母んと弟三人は博多駅まで付いて来たが、親父と妹二人とはここでお別れ。

親父はただただ笑顔で、なにか言葉をくれたと思うが、

他にも高校の親友たちや部活の後輩らも見送りに来ていたので、

自分の家族勢ぞろいの状態が恥ずかしいばかりで、親父のことが記憶に残っていない。

ただ、列車から見た姿は、涙を堪えて笑みを浮かべていたのを覚えている。

 

1995年(平成7年)3月

就職のため故郷を離れ広島へ向かう。

出発駅 池尻駅のホームにて親父と。

 

親父へ手紙を書いている間、そんなことがまるで走馬灯のように思い出される。

もちろん、それ以上に嫌な思い出ばかりが多い。

それでも、そんなでも、腐っても親父なんだな。

知らない場所で知らないうちにくたばってもらっては困る。

見知らぬ地で誰かに騙され襲われ、金品を巻き上げられるのも癪に障る。

 

翌朝。

先週の金曜日の朝。

起床して出勤準備。

同時に、昨晩したためた親父への置き手紙と財布にあった現金を封筒に入れる。

家を出る前に、台所のテーブルの上に置いて行こうと思ったが、

自分が出勤する前に、親父が起きてきて、台所で歯磨きをはじめた。

 

「本当に行くん?」

「うん、今日出る。」

「大丈夫なん?」

「大丈夫っちゃ心配せんでいい、早く行け、遅れようが。」

「・・・。」

 

言葉が出ない。

「これ・・・手紙と、あとお金、財布にこんだけしかなかって・・・

少ないけど旅の足しにして。」

「お金は要らんぞ、それは受け取らんけん、置いてくけん。」

「・・・。」

「お父さん、車で旅するけん、お金はいい。」

「じゃあ なおさら要ろうもん。」

「要らんちゃ、心配せんでいい。」

 

「なーんも心配要らん。」

「お前らには迷惑かけん、連絡も一切せんし、

お父さんこのあと、電話番号も変えてから行くけんの。」

昨晩と同じだ・・・やっぱり引き留めることはできなんだか。

とりあえず手紙と現金をテーブルに置く。

 

「郵便の転送届とかどうなっちょん?」

「郵便物は全部、(叔母)んとこに届くように、昨日 郵便局行ってしてきた。」

「旅に出ちょって、年金の現況届とかどうするん?

ちゃんと現況届出さんと、年金の支給ストップされるばい。」

「止められたらそれまでたい!もらわれんごとなったら もらわんでいい!」

 

「金がなくなったら、そこで死ねばいい。」

「・・・。」

もう何を言ってるやら・・・。

「お父さん、もうなんも怖いもんないんやき、死ぬんも怖くない。」

「あと一年以上、生きるつもりないんやき。」

前日と同じことの繰り返しになる。

 

自暴自棄になっているのか、強がっているのか判らない。

ただ、もう止められないことは確か。

今生の別れになるかもしれない、親父のその姿を目に焼き付ける。

 

だらしなく太った出で立ち、すっかり老けてしわくちゃになった顔。

あんなに貫禄あって怖かった親父が、こんなにもみすぼらしく哀れな老人になっていた。

そういえば、親父の姿をこうやってしっかりと見たことはなかったかもしれない。

視界に入っていても、脳が その存在を否認しようとしていたのかもしれない。

 

「早よ、行け、遅刻するぞ。」

「じゃあね・・・。」

声にならない声で、親父に別れを告げる。

「洗濯もん、もう取り入れてやれんけど、すまんの。」

それが親父の最後の言葉になった。

「気を付けて・・・じゃ・・・。」

再度、声にならない声を親父に送って家を出る。

水を出しっぱなしで、激しく歯ブラシをごしごしやっていた親父の耳に、

自分の別れの言葉が届いていないことは確かだった。

 

肩に手をやるくらいすればよかったか。

握手くらいすればよかったか。

だが、親父に触れると涙腺が決壊しそうでできなかった。

 

もう家を出た頃だろうか・・・。

今、どのあたりを走っているだろうか・・・。

本当に叔母の家には行かず、北海道目指して旅するのだろうか・・・。

仕事中も気が気でならない。

 

10年以上前に観た西田敏行 主演の映画、“星守る犬”という映画が思い出される。

リストラされて妻と娘に愛想尽かされ見捨てられた男性が、

再就職できず、貯金も底を尽き、住宅ローンの支払いができず住処も失い、

マイカーに積めるだけ家財を積んで、愛犬と旅に出る。

終焉の地は北海道の湿原だった。

誰にも知られずに亡くなり、愛犬と共に身元不明の遺体として発見される悲しいお話。

 

親父の車。

昨年11月頃から、後部座席や助手席に衣裳ケースが積まれ、

なかにタオルや下着類が詰め込まれているのは確認していた。

家出は前々から計画していたことが判る。

 

夜8時過ぎに帰宅する。

空き地に止められていた親父の車はなくなっていた。

親父の部屋の電気は消えている。

静かな家。

いつものように洗濯物は取り入れられていた。

案外遅くまで居たのか?

 

親父の部屋。

万年床だったベッドは折りたたまれ、部屋の隅に置かれていた。

愛用の棚は分解され、庭先にパーツごと置かれていた。

親父の食器や雑貨類はまとめてゴミ袋に入れられていた。

 

テーブルに書置きがあった。

大き目のメモ帳を破った一枚の置き手紙。

 

>父さんは一人で大丈夫。

>子供が6人もいるのだから、力を合わせて母さんをささえて下さい。

>フロの水は入れています。わかしていません。

>カーペットの洗たくや、ちゃんちゃんこのせんたくまで時間がありませんでした。

>身体が動かない。

 

>今月分まで、ガス、電気、水道、やちんは父さんの銀行から引かれます。

>四月分は、八万置いて行きます。

>れんらくは、叔母にたのみなさい。

>支はらいの分は お母さんがいつも入れてた ふくろに入っています。

 

>お金は自分のためか、子供のためにつかいなさい。

>れいぞこの中の物たべて下さい

>タマゴは手前の2コがふるいです

>かけブトンと、もう布を1まい持って行きます。

 

涙がこぼれる。

なんでだよ、ばかやろう。

そんなあっさり縁が切れるものなのかよ。

死別でもないのに、本当にどこまでもバカな親父だ。

 

メモと一緒に、ゆうちょ銀行の封筒があった。

それに、自分が朝 置いたぶんに、

メモにも書かれていた8万円が足された額の現金が入っていた。

 

私物を処分し、各種名義変更もすべて済ませ、

もう本当に戻って来る気はないのだろう。

歪んだ形の終活とでもいうか、親父らしっちゃらしいけれど、

それでも突然、これはないよな・・・。

 

冷蔵庫には、野菜や惣菜など、おととい買い込んだばかりの品々。

タッパーや空き瓶に入れられた、ニンニクやトウガラシと醤油と一緒に

豆腐やら刻んだ野菜やらの入った、ワケのわからない食品も多数。

親父はよく こんな得体のしれないものを作っていたが、どれも作られて日が浅い。

テーブル脇の棚には、調理パンもある。

 

親父が冷蔵庫に残した、作り置きのワケの解らない保存食。

臭くて辛くて誰も食べない。

 

各種手続きも前々から用意周到って感じでもなく、前日に全てやったようだ。

出て行くことは決めていたろうが、この日に急に思い立って出て行った感が否めない。

愛飲していた栄養ドリンクもトマトジュースもそのまま。

野菜室には、トマトもタマネギもたくさん補充されている。

親父は高血圧症に良いとされている、トマトとタマネギをよく食べていた。

タバコとアルコール類は一切なくなっていた。

親父らしい。

 

冷蔵庫に残された野菜類。

 

親父が出て行った部屋。

ベッドや棚は片付けられ、生活用品は捨てられていた。

 

本の虫だった親父、残された棚にたくさんの本が残る。

「処分していい。売れるなら売ってしまえ。」

「棚はお前の、あの集めちょうの飾るのに使ったらよかろ。」

売って得た金は親父の旅の足しにしてやろう。

棚は・・・フィギュア棚にゃ、ガラス窓が要るんだよ。

残された帽子や衣類は、叔母の家に持って行くか。

 

出て行く日まで身に着けていた、厚手の上着。

 

帽子類も置かれたままだった。

オキニの数点だけを持っていったのだろう。

 

本はそのまま残されていた。

いつも着ていたベストもそのまま。

 

むかしは巨人キチガイだった親父。

長嶋氏の格言の色紙やサインボールはそのままだった。

 

親父が家を出て一週間が経った。

その週末には、お母んが身を寄せていた下の妹のうちから戻って来た。

話を聞けば、親父が出てゆく前々日、お母んはどうしても必要があって、

親父に連絡して許可をもらい、実家へ戻って来たらしい。

その際、親父と話をして、妹の家で居づらいことなどを泣きながら吐露したらしい。

親父が急に家を出たのはそのためだったのだろう。

 

親父の部屋のカレンダーは、昨年12月のままだった。

 

子ども達があれこれ考えていても、

けっきょく夫婦間の問題は夫婦間でしか解決できなかったってわけだ。

解決に至ったかどうかは謎だが、お母んは以前と変わらずで、

親父が居なくなったことで、妹たちも甥姪を連れて家へ来るようになった。

 

ただ・・・誰一人、親父のことは心配することも気に掛けることもない。

「知らん、どっかでのたれ死んだらいいやん。」

「もう関わらんでいいやん、自分から出て行ったんやき、関係ないやん。」

みんな なんでそんなに薄情なんだ・・・?

 

しかし、自分もそうだった。

いや、家族で誰よりも親父を憎み恨み、

早く死ねばいいのに!と思っていたのは、他でもない自分じゃあないか。

あのときだって、怒りに任せて「アイツ殺す!」と、

警察沙汰の騒動になったのも自分じゃあないか。

 

だけど・・・腐っても やっぱり父親なんだ。

あのとき、最後の姿を見て、なんとも哀れに見えた。

この半年、二人で暮らして、だんだんと親父がかわいそうに思えてきた。

昔から家族にひどい仕打ちをし、お母んを追い出し、家族をめちゃくちゃにしたけれど、

そんな人間なのに、情が移ってしまったのかもしれない。

 

皆に嫌われ やっかまれ、居場所がなかったのかもしれない。

それもこれも、すべて本人の性格と家族にしてきたことが災いしているのだから、

自業自得であることは間違いない。

自分も被害者なのだから、同情する必要もなければ、手を差し伸べる必要もない。

だけど、もうちょっと親父を理解してあげられれば良かったのかもしれない。

 

なにひとつ孝行することがなかった。

やりたくても できなかった。

する気も起こらなかった。

酒を控え、好々爺になってくれれば、旅行でもプレゼントしたろうし、

家にだってしっかり金を入れただろう。

親父の酒代タバコ代パチンコ代になるのはまっぴらだったので、

実家に居候しておきながら、これまで一銭も金を入れなかった。

 

1997年(平成9年)1月

自分が正月休みで帰省したときに撮った家族写真。

家族全員が揃って写ったのは、これが最後の写真。

 

親父へ宛てた、最初で最後の手紙。

家のなかでは、ゴミとして捨てられた形跡はなかった。

持って行った先で処分されるかもしれないが、それはもう判らない。

手紙で親父を引き留めることはできなかったが、

この先、もし処分されずに持っていてもらえるならば、

困窮したときに、また取り出して読み返して欲しい。

 

親父の決心が硬いなら、もう今際の際にも会えないかもしれない。

それどころか、荼毘に付される前の状態すら拝めないかもしれない。

そうなると、あの日の朝 見た、歯磨きする姿が最後の親父の姿になる。

これもまた、親父の人生なのか。

自分ら家族の在り方だったのか。

 

犯罪に巻き込まれたりして、ひどい死に方はしないで欲しい。

事故なんかで、苦しみながら死なないで欲しい。

車のなかで、人知れず独り寂しく死なないで欲しい。

 

どこか知らない土地でも構わない。

そこで出会ったひとでもいい、叔母らに連絡があって看取ってもらえたらいい。

どこかできちんと定住して、安らかな最期を迎えて欲しい。

 

親父に宛てた最初で最後の手紙。

その大半は出て行かれたことで、叶うことなかったけれど、

残りいくつかを親父が聞き入れてくれたならば、自分の心配もなくなる。

けっきょく、旅に出ておらず、その辺で達者で暮らしていたら、

自分の心配が杞憂に終わってくれたら、どんなにいいだろうか。

 

 

 

1977年(昭和52年)6月

親父に抱かれた生後六か月の自分。

 



6 コメント

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Unknown (mcm0815)
2023-03-25 23:12:36
こんなことがホントにあるなんて。。。
涙が出てしまいました。
お父さん、そんな独りきりになるなんて。
そして、そこまで死を受け入れてるなんて。。。
辛い……
返信する
みはねさんとこの優しいお父さんとは違うので・・・ ()
2023-03-26 07:09:41
みはねさん、おはようございます。
コメントありがとうございます。
 
思えば親父は、ずっと独りきりだったのかもしれません。
お母んがそばにいたとはいえ、どこか疎んじているように見え、
家族は皆、腫れ物に触るように接していたので、
親父ながらに居場所なく感じていたのでしょう。
自業自得なんですけどね。
 
実際、死を覚悟しているとは思えないですし、
反省しているのもあるかもしれませんが、
半ばやけっぱちになっている感もあります。
まあ、資金が尽きる前、旅が辛くなったら、
叔母のとこにしれっと戻ると思っていますが・・・。
 
とにかく旅の途中に事故を起こしたり、
事件に巻き込まれたりしないかが心配です。
それで残された家族が とばっちりを被るなんて御免ですからね。
返信する
Unknown (carp1402)
2023-03-26 11:18:17
なんと言ってよいかわかりませんが、うちの父も酔って暴れる人だったので最後まで読ませていただきました。
うちの父は出ては行きませんでしたが、心の中では早く何処かへ行ってしまえといつも思ってました。私が33歳のとき父にガンが見つかりそのままで16日後に旅立ちました。私は意識朦朧とした父に罵詈雑言浴びせました。そして17年後に母が旅立ちました。母にも一時帰宅したときに罵詈雑言浴びせました。よろず戯言さんは優しい方だと思います。読めば読むほど私は酷いやつだと思いました。私のようにならないでください。後悔しないでください。
返信する
九州の男ってのは酒乱が多いんですかね・・・ ()
2023-03-26 23:07:57
carp1402さん、こんばんは。
コメント,助言ありがとうございます。
 
carpさんのお父様も酒乱だったのですね。
それにしてもガン発見から16日後って・・・いよいよ末期になって判ったんですね。
 
自分も中学生くらいからずっと、
親父には恨みと憎しみしか抱いていませんでした。
ところがこの半年で、二人で暮らすようになって、
少しだけ親父のことがかわいそうになって、
そして今回の件で、親父への心情が大きく移ろいでいるのに気づき、
内心戸惑っているところです。
 
もしかしたら神様かなにかが、
親父との今生の別れの前に、そういった期間を設けてくれたのかな・・・?
そんなふうに前向きに考えるようにしています。
 
親父に関しても、お母んに関しても、
そして自分自身、元妻に関しても、ずっと後悔ばかりです。
過ぎたことはどうしようもないので、
自分が終の時、これまでの後悔が、
「あれでよかったんだ・・・。」って思えるようにしたいですね。
返信する
Unknown (れいな)
2023-03-27 09:58:10
前回の「オカンとアル中親父」からどうなったのだろうとずっと案じていましたが、やはり武さんらしいですね。
憎みきれずどうしても情が勝ってくるだろうとご本人も仰っていたように。

前回コメントでは、メールの様な顔が見えない文面だけだと相手にどう捉えられるか判らないから注意が必要だと書いたのでそれと矛盾しそうですが、
今回のような、面と向かってだとなかなか言いたい事が言えない内容の場合は手紙など文面の方が効果的かなとも思いました。
口頭で会話を始めるとすぐに物別れになってしまう相手でも、文面なら相手に口を挟ませず冷静に読んでもらえる率が高まりますのでね。
フレボ掲示板でもみんなが鼻つまみ者にしているどうしようもないプレイヤーに真摯になって長文を送りつけたら案外心を入れ替えてくれた人も少なくありませんでした。

武さんも文才はピカイチだと感じますので、もしかしたらその20年前ぐらいからでも、口は利かなくても文章で気持ちを伝えたりしていたら意外と打ち解けられていたり、お父様も孤独感から解放されていたかも?などと思ってしまいます。

なんで目の前におるのにそんなまどろっこしいことせにゃならんのよ!
と普通は思われるのでなかなか同居家族にそんな事をするきっかけが無いですけど、
私はそれで仲直りした経験があります。
本心から恨み憎む様な事をされた因縁の相手とかではなく元々好きだった人なのですから。
なぜこうなってしまったのか、どうしたら解決するのか、私はこう思っていて悲しい。
といった事を包み隠さず感情的にならずに理論立てて伝えられるのは文章しか無いと感じます。
もしまたひょっこり帰宅される様な展開になったら、選択肢の一つとして考えてみては。
メールとかSNSとかネットを互いにやっていればその手段を使いやすいのですが、無ければ今回の様に紙面にしたためるしかありませんね。

一方、心配するのは相手の事を思ってだけではなく、もしも最近よくある車で暴走して人を殺傷してしまう様な事故でも起こされたらたまったもんじゃない。
と面倒事に巻き込まれたくないからという利己的な理由も当然だと思います。
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いつもこんな長文を読んでくださり、ありがとうございます。 ()
2023-03-28 00:29:30
れいなさんこんばんは、コメントありがとうございます。
 
自分でも驚くほどに、あんなに憎んでいた親父に情が移ってしまいました。
今でもどこで何をしているか心配で心配で・・・。
ですが、そうなることを見越しておられたとは、れいなさん侮れませんね。
 
手紙は内心をつぶさに伝えるのには最適なツールだと思っています。
面と向かってしゃべると、どうしても繕ってしまいますし、
相手の反応次第では、思わず嘘をついてしまうこともあります。
聞いている相手も、挙動や素振りで疑ってしまい、
本心を見抜こうと躍起になってしまいます。
人間だからこその、コミュニケーションの難しさですよね。
近しい間であればこそ、難しい問題になってくると思います。
 
また映画の話になってしまいますが、
10数年前に観た、常盤貴子主演の映画、“引き出しの中のラブレター”って映画を思い出しました。
娘と父親が数年前に喧嘩して絶縁していて、
仲直りすることなく父親が他界。
遺品のなかから、父親が自分宛にしたためていた手紙を発見するも、
それを開封できず・・・中には父親の愛と懺悔が綴られていた・・・。
そんな内容だったかな。
 
交通事故で人様に迷惑をかけやしないかってのも心配の種ですね。
若い頃は大型トラックで高速道路を縦横無尽に走っていた親父ですが、
今はすっかり身体能力も衰え、運転技術も間違いなく低下しているはず。
何事もなければよいのですが・・・。
その話も本人にしたのですが、聞く耳を持ちませんでした。
 
本当にどこまでも困った親父です・・・。
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