筑前の小京都、秋月。
風情ある城下町の姿が色濃く残る、小さな観光スポット。
桜や紅葉の名所でもあるこの場所へ、毎年一回は散策に行く。
今年は趣向を変えて、オフシーズンであろう真夏に行ってみることにした。
そう、晩秋となったこの時期に、8月末の記事を今さらだ。
アキアカネかな?
うだる暑さのなか、駐車場へ車を入れる。
きちんと整備された公営駐車場はいつも長蛇の列なので、
そこらの住民がやってる、手作り看板で草ボーボーの空地駐車場へと車を入れる。
駐車料金、一回300円。
都市部のそれと比較すれば、非常に良心的な価格ではあるものの、
整備されてもいないただの空地で、なおかつメインストリートまで離れた場所で、
公営駐車場と変わりない金額を徴収されてしまうのが、なんとなく納得いかない。
アジサイの花に潜んでいた、真っ白なクモ。
平日だったこの日、いつもは居る料金徴収のおっさんが居ない。
代わりに、おっさんの居る簡素なトタンの屋根の柱に、カンカンが縛りつけられていて、
「こちらへ駐車料金を入れてください」みたいな貼紙が。
オフシーズンの平日は無人になるのか・・・。
財布を取り出し、料金を缶に入れようとすると・・・100円玉がねえ!!
付近に自動販売機もないし、両替できるような商店もない。
仕方なく車へ戻り、その駐車場を出て、公営駐車場へと車を入れる。
なんだ、ガッラガラじゃん!
というか・・・自分だけ?
本日最初の利用客か。
朝倉市のマンホール
上の山々は馬見山,古処山,塀山かしら?
あの神社らしきものは、美奈宜神社?
手前の森林は・・・山も多いからな。
受付でおばちゃんが待機していた。
公営駐車場の料金を支払う場所が、観光案内所も兼ねている。
メインストリートは飽きたし、今日はまだ散策していないエリアを歩こう。
そう思い、脇にあったラックから散策マップを取り出して見ていると、
「黒田家のお墓を見に行かれたらいいですよ!」
訊いてもいないのに、おばちゃんが観光スポットを薦めてくる。
「長興公のお母さんの墓もありますよ!徳川家から嫁いで来られて・・・。」
ちょっと道が判りにくいらしく、おばちゃんは散策マップとは異なるルートを教えてくれた。
10分ほど捕まっていたかな・・・他に客もおらず、
朝から暇を持て余していたとおぼしき、案内所のおばちゃんの長いお話が続いた。
おばちゃんから解放され、本日見るべきスポットをいくつか決めた。
まずは、おばちゃんオススメの、黒田長政の正妻、栄姫(大涼院)の墓所がある、大涼寺を目指す。
徳川家康の政略結婚のひとつとして、黒田長政に嫁がせたのが栄姫。
栄姫は徳川家家臣、保科正直の子だが、家康の養子として長政の元へ嫁がされた。
長政は既に、蜂須賀正勝の娘だった糸姫と婚姻していたが、
これを離縁して栄姫と婚姻し、家康への忠誠を示したという。
栄姫はのちに長興を産み、その長興が秋月藩の初代藩主となる。
長興が母の菩提を弔うために、この地に建立したのが大涼寺である。
暑さの厳しいなか、歩いていると立派な石柱とともに、お寺が見えてきた。
ここが、大涼院の墓所のある、大涼寺。
大涼寺
レンズが汚れてて、なんか曇りが移ってしまっている・・・。
お寺の境内に入ると、坊守さんとおぼしき、品のあるおばちゃんが挨拶してくださった。
こちらも挨拶をして、案内標識に沿って、栄姫のお墓を目指す。
本堂の脇を沿って、山道のような通路を歩いて行くと、
古びているものの、大きい墓が点在してくる。
そして、その墓所の通路の中間あたり、ひときわ大きな区画に、
丸みを帯びた、これまたひときわ古びた墓石があった。
手前には大きめの看板。
これが、あの栄姫の墓所だ。
栄姫(大涼院)の墓
案内看板によると、墓石の表面には徳川家の家紋、
葵の御紋が彫られているらしいが、風化が進んでいてよく判らなかった。
きちんと手入れが行き届いているようで、お供えものもお花も新しかった。
付近にはお線香の香りも立ち込めている。
先ほどの坊守さんらしき方が、毎日きちんとお世話しているのだろう。
栄姫の墓前に手を合わせ、本堂にも御参りし、大涼寺を後にする。
葵の御紋が彫られているらしいが、よく判らなかった。
次に目指すは、黒田家歴代藩主の墓所と、
日本、最後の仇討で知られる、臼井六郎の墓所のある古心寺。
黒田家といっても、黒田長政が初代藩主をつとめた福岡藩ではなく、
その孫である、黒田長興が初代藩主をつとめた、
福岡藩の支藩、ここ秋月藩の歴代藩主の墓所だ。
歴代藩主の墓が並んでいるのだから、さぞ古くて荘厳なお寺なのだろうな。
そう思って、マップどおりに歩を進めるも、らしき建物がまったく見えて来ない。
あれ?
そろそろ見えてきてもいいはずなんだけど・・・。
案内看板も見当たらないし、付近には水田と農機具が目立つ農家とおぼしきお宅が並ぶ。
やがて建物が見えなくなる。
これはやっぱり、通り過ぎてるわ・・・。
汗をぬぐいながら、今来た道を引き返すと、小さな看板が見えた。
反対を向いていたから、気付かなかったようだ。
古心寺
しかし・・・その門構えというか、入口もお寺に見えない。
これ本当にお寺?
入ってもいいんかいな?
おそるおそる入ると、すぐに案内看板があり、
臼井六郎の墓を含む、臼井家の墓所が見えてきた。
小じんまりとした一角に、整然と並んだ墓石。
臼井六郎の墓は、そのいちばん隅でいちばん手前にあった。
脇には辞世の句だか何かが彫られた、わりと新しい石碑もあった。
臼井六郎の墓と、なにかの句が彫られた石碑。
幼い頃に両親と妹を惨殺され、その仇を追って12年後に見事にそれを果たした。
しかし、時は仇討が美学だった江戸時代から、仇討禁止令が発令された明治時代へと移ろい、
六郎の仇討行為は、殺人罪となり、刑に服すことになる。
終身刑だったが、10年後に大日本帝国憲法発令の恩赦によって釈放され、
その後は、妻をめとって小さな商売を生業として、穏やかな余生を過ごしたようだ。
黒田家墓所、立派な門と塀で区分けされていた。
右の写真が、初代藩主、黒田長興の墓。
そんな明治維新の激動の時代に翻弄された、臼井家の墓に手を合わせ境内を進む。
次に目指すは、同じ古心寺にある、黒田家歴代藩主の墓所。
駐車場のおばちゃんの解説によると、歴代藩主の墓の脇には小さな墓があり、
それはそれぞれの正妻のお墓が併設されているのだとか。
案内看板に従って行くと、階段と門があり、立派な塀に囲まれた一角が見えてきた。
なかは大小の墓石がずらりと並ぶ。
入ってすぐ、ひときわ大きなものが、秋月藩初代藩主、黒田長興公の墓。
その脇には、藩祖、黒田長政公の墓石もあった。
それぞれに手を合わせるのも何なので、とりあえず長興公とその正妻、
そして長政公のものだけ手を合わせて墓所を後にする。
黒田長政の墓
次いで目指すは、秋月種実公の墓所。
秋月種実といえば、その姓が示すとおり、元々この地を支配していた戦国武将で、
その先見性の鋭さを活かし、豊前国から筑前国にかけて領土を広げ、秋月氏の最盛期を作った戦国武将。
めまぐるしく移ろう戦力分布を見極め、毛利家や大友家,島津家と主君を変えて、
敵の敵と協力したり、はたまた反旗を翻したりと、戦国時代のパワーバランスにしなやかに反応する。
戦のみならず、交渉なども得意だったようで、
島津家と竜造寺家が対峙した一大決戦を、使者としてこれを仲裁し、和睦に導いた力量もある。
秋月種実公の墓へと続くルート。
森の中を進む山道だ。
だが、種実は最後の最後に戦局を見誤ってしまう。
豊臣秀吉の九州平定だ、
家臣のなかには、「秀吉に付くべし。」と忠告、諫言する者も居たが、
種実は聞く耳を持たず、最後まで秀吉に抵抗する島津家に付いて秀吉を迎え撃つが、
圧倒的な戦力の前に城は次々と落城。
本拠地であった、ここ秋月の古処山城に籠るが、
秀吉の策、一夜にして再建された益富城を見て遂に戦意喪失。
剃髪したうえで、茶器や名刀などを差し出して秀吉に降伏した。
秀吉の命で日向国高鍋へと移封となり、異国の地で没することとなる。
群雄割拠の戦国時代を、うまく渡り歩いたように見えるが、
種実もまた、そのパワーバランスに激しく翻弄された人物のひとりだったと言える。
森の上には新しいバイパスが。
八丁トンネルが開通すれば、これが322号線になるのかな?
朝倉や久留米がグッと近くなる。
そんな秋月種実公の墓が、城下町を離れた山奥にひっそりと佇んでいるとのことで、
どちらかといえば、黒田家よりも秋月家の方に興味があるし、
数年前の大河ドラマ効果もあって、以来、黒田家一色の秋月。
その地名にもっとも縁あるのは、どう考えても秋月家だろうに。
そんなことを思いながら、種実公の墓を目指していると、
途中、住宅地を過ぎた一角に、どデカい岩が鎮座している場所に到着。
秋月では有名な“腹切岩”だ。
腹切岩
秋月種実を諫めるため、忠臣・恵利暢堯が自刃したという岩。
右の平な岩の上で、妻子ともども腹を切ったといわれている。
豊臣秀吉の九州平定。
それを知った秋月種実は、重臣のひとり、恵利暢堯(のぶたか)を、
敵情視察のため、講和の使者名目で秀吉が進軍していた広島へと使わす。
暢堯は秀吉軍の圧倒的な装備と兵力を見て、到底勝ち目はないと判断。
また、秀吉に謁見した際、「おとなしく降伏すれば本領を安堵する。」と秀吉に言われ秋月へと戻る。
秀吉の本領安堵の言葉と、自身が見てきた秀吉軍の圧倒的な軍勢。
勝算はゼロであると、種実に降伏を進言するも、聞き入れてもらえず。
それどころか、種実は暢堯を臆病者扱いする始末。
「秋月は終わった・・・。」
そう悟った暢堯は妻子とともに、この大岩の上で自刃する。
自分の死を以って、主君を諫めようとしたが、それでも種実は秀吉との戦いを選んでしまう。
腹切岩の奥に建てられた、暢堯の供養塔。
そんな忠臣、恵利暢堯が妻子とともに自刃した大岩が、この腹切岩として残されている。
慰霊碑が建てられ、脇には案内看板も設置されている。
岩は上部が平たくなっていて、たたみ三畳分ほどの広さがある。
ここで、まず妻子を刺し、最後に自身が腹を切ったとされている。
後にこの地を治めることになる黒田長興は、
この忠臣・恵利暢堯のエピソードを聞いて感激し、
暢堯の墓石のうえに観音像を祀ったとういう。
恵利暢堯を祀った音声寺への石橋は損壊がひどく、迂回するよう看板があったので迂回した。
観音像を祀った暢堯の墓は、音声寺(おんじょうじ)として、
今も町はずれの場所にひっそりと残っている。
ちょうど種実公の墓へと続く道の途中にあったので、その音声寺にも立ち寄った。
一ヶ月ちょっと前にあった、大雨の影響だろうか、
山から流れてきたとおぼしき、流木や石ころが、小川に沿って堆積していた。
それらをやり過ごしながら、古びた社のそのお墓に手を合わせる。
音声寺
恵利暢堯の墓、音声寺を過ぎて、さらに山道を登っていく。
山道といっても、比較的平坦で歩きやすい。
とはいえ、やはり大雨の影響だろう、木の枝や石がかなり散乱していて歩きづらい。
足下を注意しながら歩を進める。
ときおり、サワガニやカエルがサッと逃げる。
それほど距離はなかったと思うが、けっこう歩いたように感じた。
人気のまったくない山奥、他の史跡からひときわ離れた場所に、その古い墓はあった。
サワガニさん
あまり地元のひとも、この墓のお世話をしていないようで、かなり荒れて痛んでいた。
墓石には堆積した枯葉や枯れ枝、好き放題に張られたクモの巣。
供えられている花も、一ヶ月近く放置されているような状態。
ワンカップのお水(お酒?)も、濁って澱んでいる。
元の支配者とはいえ、敗者とはこういうものなのだろうか・・・。
ちょっと寂しい気分になりながら、かつての武将の墓に手を合わせる。
案内看板に、はっきりと“秋月種時の墓”って書かれてた・・・。
汗だくになっていたので、そばにある小川の水をすくって口に含む。
ミンミンゼミの声とツクツクボウシの声が心地いい。
汗でびっしょりになっていたバンダナを洗って絞り、
タオルも水に浸して、冷たい濡れタオルにして首に巻きなおす。
ちょうどいい岩をみつけて腰かけ、
古びた戦国武将の墓を眺めながら、しばし森の中で休憩する。
このときは気付かなかったが、ブログにしようと写真を確認して気付く。
実はこのお墓、秋月種実のものではなかった!
秋月種時となっている。
種時?
だれそれ?
調べてみると、種実の祖父にあたる人物で、やはりこの一帯を治めていた武将だった。
この墓のある場所が、かつて秋月家の菩提寺があった場所だったが、
戦火に遭って消失してしまい、種時の墓のみが現在も残っているのだという。
黒田家の史跡は数多くあれど、この墓は数少ない秋月家の史跡のひとつらしい。
それにしても、ずっと秋月種実の墓だとばかり思っていた。
ちなみに種実公のお墓は、移封先で没したため、宮崎の方にあるらしい。
キリシタン橋。
この一枚岩の裏に、マリア像が彫られており
隠れキリシタン達が信仰に使っていたのだといわれている。
種時公の墓に手を合わせたのち、帰り道の途中にキリシタン橋なるものを見る。
実は、それがあるというのはガイドマップで判っていたものの、
来る途中には見つけることができなかった。
それが帰り道、地面に落ちていた案内看板でそれに気付く。
まるでコンクリートのような平たい一枚岩の小さな橋。
小川のような小さな川の上に、なるほど確かに橋のように架かっている。
この上、通ったがな。
この橋の裏側に、マリア像が彫られており、
キリスト教弾圧時代に、キリシタン達が拠り所としたと伝わっているとか。
橋の裏のマリア像を見たかったが、橋下数十センチしかなく、小川は水が流れおり、
川に這いつくばって、顔を水に浸けなきゃ橋の裏なんて確認できない状態だったので諦めた。
秋月のシンボル、眼鏡橋。
県指定有形文化財。
氾濫によって、しょっちゅう橋が流されていて悩まされていたが、
当時の家老が長崎で眼鏡橋を見て、これだ!と、長崎から石工を招いて建造されたという。
城下町へと戻り、眼鏡橋を見て駐車場へと戻る。
平日の午前、真夏のオフシーズンで観光客はほとんど見かけない。
土産物屋も営業しておらず、実に閑静な町だった。
いつもは観光客がごった返し、中国人や韓国人の旅行客も多く、そこここから、そんな会話が聞こえ、
駐車場待ちの車が列をなし、出店が並んで活気付いているが、
歴史ある城下町を散策するには、これくらい寂れていた方がいいなと思った。
人ごみを気にすることなく、ゆっくりと見て回れ、オフシーズンに来て正解だと思った。
しかし、今回 回ったルートは、オンシーズンでもそんな人は見て回りはしないだろうな。
とまあそれは置いといて、僕もかねてより秋月の紅葉を見たくて、22日の風評被害での観光客激減のニュースを来て、23日に秋月に駆け付けたのですが、まあ同じようなお客様で一杯でしたね(苦笑)
紅葉と街並みは別の日に分けて、紅葉狙いならもっと朝早く、そして街並みは武さんのようにシーズン外に見に行くべきでした。
当然ながら一番の名所である黒門までは辿りつけませんでしたね。
それにしても秋月氏の史跡をたくさんご覧になられてるようでうらやましいです。秋月の象徴は秋月黒田藩よりも、むしろ秋月氏であるというお気持ちにも、同意です。やはり土着の名将というものをもっと大事にしてもらいたいですよね。種実公は大内氏や毛利氏等とのパイプを活かして知略を使い、一度は筑前豊前筑後にまたがった領土を持った大大名でもあったわけで、そういった意味でももっと評価されるべき武将ですよね。
何せうちは土着の名将といえるほどの人物を輩出していないものでして、なおさらそういったキモチが強いです(汗)
コメントありがとうございます。
一応この記事はちっごもんさんが訪れるよりも前に行ったことで、
そのうち記事にまとめようとしていたので、
ちっごもんさんのために書いたわけではないのですが、
あまりにも遅くなってしまったため、半分そのようになってしまいました。
黒門まで行けませんでしたか・・・。
ちょうどあの辺りが、紅葉も一番美しいスポットなんですよ。
あのメインストリート、杉の馬場でしたっけ、
あそこは人が凄いですからね・・・露店も並ぶし、
そこかしこで写真撮ったり、座り込んで食事してたりするし、
さらには地元の車が平気で通るし・・・。
オンシーズンの土日祝くらい歩行者天国にしろよと・・・。
迂回路がないんじゃ仕方がないですけどね。
やっぱり歴史にお詳しいですね!
秋月氏に関しては勉強不足で、種実公しか知りませんでした。
肥前の竜造寺,豊後の大友,豊前の大内・・・。
そう考えると確かに筑前・筑後は、武将の名前が出て来ないです。
商人の町博多を中心に、戦国時代の初頭から激しい争奪戦が繰り広げられていたらしいので、
安定して治め土着した武将ってのがいないのかもしれませんね
ありがとうございます。
そうですね。黒門周辺を見れなかったのは非常に残念です・・・。
街並みの方も気持ち程度には観光できましたが、車が多すぎて、建物が隠れてしまい、ゆったり眺めたり、写真撮影をしたり、散策できたりできず、残念でした。はい。
歴史に関しては僕はそうでもないですよ。なんというか、wikipedia程度の表面的な知識しかないです(笑)
豊前だとどちらかというと城井鎮房ですかね。官兵衛が謀略を抜きにしては勝てなかった名将であり、軍師官兵衛が放送されて急激に株を上げましたね。
大内の方の本拠地は現山口県の周防国だったのではないでしょうか(違ったらすいません)
しかしどちらにせよ筑後国にはあまり資料が多い武将がおらず、信長の野望でも酷い扱いを受けてるので羨ましい限りです。
秋月氏に関しましては、僕も種実ぐらいしか詳しい事は分からないですね。
他は種実の父の文種の事を雀の涙程度知っていて、種実の次の世代くらいから豊臣政権下で日向に転封になったとか、その子孫が上杉鷹山という所が限界です(汗)
コメントありがとうございます。
秋月探索は一度では厳しいですし、
じっくり観て回るのならば、オフシーズンに行ってリベンジしてください。
秋月種実が関わった史跡、この後も二ヶ所ほどまわっています。
それぞれ記事にするつもりですので、気長にお待ちください。
年内にはアップしたい・・・。
大内氏は豊前を支配していた印象が強かったですが、
土着という意味合いでは、確かに周防国ですね。
結局毛利に追われたんだったかな。
周防、その先の安芸,伯耆,備後あたりの歴史史跡も、
いずれまわってみたいですね。
今のところ吉川氏の岩国城と明治維新発祥の萩くらいしか行ってないかな。
岩国では、山中鹿介の兜(実物)を見ましたよ!
城井鎮房を知ってましたか!
実は大好きで、鎮房のお墓には毎年行ってます。
城井ノ上城址にも三度ほど行ってますし、
赤壁寺として有名な合元寺にも行きました。
過去の記事にありますので、興味あればご覧になってみてください。
ページ左にある検索枠で「鎮房」と入れれば、該当記事が出てくると思います。
グーグルやスマホでヒットし、小一時間で読めます。
その1からラストまで無料です。
少し難解ですが歴史ミステリーとして面白いです。
北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。
読めば歴史探偵の気分を味わえます。
気が向いたらご一読下さいませ。