冬休みでうちに来ていた甥っ子兄妹たち。
長男の甥っ子4号が、お小遣いで買ったおもちゃを自慢げに見せに来た。
ひとつは、機動戦士ガンダムに登場するマシン、ボールの模型。
スーパーのゲームコーナーにあるガシャポンでゲットしたらしい。
確かにプラモデルにしてはチャチ。
とはいえ、最近のガチャガチャは精巧にできてるなあ・・・。
値段もそれなりにアップしているが・・・。
そして、もうひとつ見せられたのが、戦闘機のおもちゃ。
おもちゃといっても、トミカ並に精巧に作られたもの。
これもガチャガチャでゲットしたらしい。
甥っ子は「それ、ゼロ戦やろ?」と訊いてきた。
だが、尾翼にはイタリア国旗っぽいカラーリング。
主翼に丸いマークは付いておれど、
複数の円からなる、なんだかアーチェリーの的みたいな感じで、
ゼロ戦みたいに、真っ赤で明らかな日の丸マークではない。
わからん・・・たぶんゼロ戦じゃないと思う。
すまん甥っ子よ、おっさん、そういうのにあまり詳しくないのだよ。
ガンダムに登場する兵器なら いくらでも解説してやれるのだが。
甥っ子も12歳。
今年は小学校を卒業し中学生になる。
ガンダムやらアニメの空想兵器だけじゃなく、
こういった現実に在った戦争兵器にも興味あるのかな?
「ホンモノのゼロ戦が見に行くか?」
訊いてみた。
「戦争のやつ?」
「うん、戦争で使われよって壊れちょったのを修復したホンモノが展示されちょう。
福岡の大刀洗(たちあらい)っちゆう所で、戦争のとき特攻隊の訓練基地が在った場所。
そこにゼロ戦だけじゃのうて、特攻隊のひとが家族に宛てた手紙とか遺品とか、
あと空襲受けたときの資料とかもいっぱい在るばい。」
「やだやだ!もう長崎で見て怖いき、戦争のん見たくない!」
拒絶する甥っ子。
昨年秋に長崎・熊本へ修学旅行へ行ったが、長崎にある平和資料館で絶句したらしい。
広島の平和記念資料館とおなじく、長崎にも原爆の資料があるから、
確かに子どもにゃ目を覆いたくなるような、むごいものが多く展示されている。
自分も中学の修学旅行で、広島の平和記念資料館で見た、
溶けたガラス瓶や変形した弁当箱、炭になった被害者の遺品や、
焼けただれたり黒焦げになった原爆被害者のパネルを見た直後、
昼食のカレーは喉をとおらなかった記憶がある。
甥っ子が拒絶するのも無理はない。
「大丈夫、血が付いた服とか死んだ人の写真とかはないき。」
4・5年前に一度行ったが、ゼロ戦のほか、特攻隊関連の資料を中心に、
太刀洗陸軍学校の備品や、当時の庶民の生活用品や資料などが展示されていたが、
被害者の身に着けていたものとか、痛ましい写真そのものとか、
残酷なものが展示されていた記憶はない。
怖くないことを伝えると、「じゃあ行きたい。」と答える甥っ子。
ついでに弟で末っ子の5歳の甥っ子6号も一緒に行くことに。
田川からだと、1時間ちょいってとこだろうか。
途中、八丁峠のトンネルが開通していて驚く。
福岡でも難所の八丁峠。
あれを越えなくて、朝倉方面へ行ける!
トンネルを抜ければ、もう秋月。
45分ほどで大刀洗町に到着。
筑後地区がずいぶん近くなった!
だが、道に迷ってけっきょく1時間以上かかった・・・。
太刀洗町に在るものだと思っていたら、所在地は筑前町。
前に行ったときはキリンビアパークへコスモスを見に行ったついでに行った。
キリンビール工場のすぐ近所だったはず。
とりあえず大刀洗町に行きゃ、資料館なんか間違いなく案内標識出るだろうし、
それを辿って行きゃいいだろう・・・。
地図もロクに調べもしないで、出たのが間違いだった。
いくら太刀洗の名を冠していても運営しているのは隣町。
大刀洗町ではなく、筑前町が運営していた。
それを知らずに大刀洗町をぐるりと周って小郡市に突入。
引き返して大刀洗町をウロウロしても、まったく案内標識は見当たらず。
筑前町に入ったとたん、すぐに案内標識。
民間施設なら、幹線道路のあらゆるところに看板立てるだろうに。
こういうとこ、いかにも行政の仕事っぽい。
あちこち看板立ててる花立山温泉を見習え。
格納倉庫を模した形状の記念館。
とりあえず到着した太刀洗平和記念館。
自分のように勘違いする人間がいるのだろう。
しっかり、“筑前町立”太刀洗平和記念館という正式名称になっていた。
ちょうど筑前町と大刀洗町との町境。
両町をまたいで、大きな飛行場と陸軍の学校があったのがこの場所らしい。
入口には当時の門柱がそのまま残されている。
当時の門柱と看板が残されている。
文字は読めなくもない・・・。
屋外に展示されている、MH2000ヘリコプター。
三菱重工業製造の機体からエンジンまで全てが国産の、日本初の純国産ヘリコプター。
入ってチケットを買うと、まずガイドの説明が始まる。
地元のおじさんだろうか?
順路と展示物の見方を教えてくれる。
また、映画の放映もあるとのことで、その時間の案内もしてくれた。
小さい子を連れていたので、映画鑑賞はやめた。
床には戦時中のこの地の航空写真。
当時、東洋一と謳われた大規模な飛行場と特攻隊員を育成する学校があった。
そのため、米軍の攻撃対象となって大規模な空襲に遭い、多くの犠牲者が出ている。
そんな資料がたくさん並ぶ。
また、歴代の戦闘機などの模型も並ぶ。
以前、大分県宇佐市の平和記念館で見た特攻兵器、桜花の模型もあった。
そして、実物のゼロ戦がどーんと出てくる。
零式艦上戦闘機三二型。
南方のどこかの島で大破していたものを回収・復元したもの。
世界に現存する唯一の機体らしい。
これのみ撮影可で、あとは一切撮影禁止だった。
零式艦上戦闘機三二型
タラップが設けられ、コックピットを間近に見ることができる。
コックピットの計器のレプリカ。
なんかいっぱいあって、わけワカメ。
正月だったので、鏡餅が添えられていた。
この資料館には、他にも実物の戦闘機が展示されている。
もう一機は博多湾の底で発見され、引き揚げられて修復されたもの。
九七式戦闘機というものらしく、日中戦争から太平洋戦争まで使用された機体。
この機体もまた、世界に現存する唯一の機体らしい。
福岡市東区で開発の進んでいる大規模な埋立地、アイランドシティ。
その埋め立て作業前の海底調査によって発見されたという。
その他にも鹿児島で引き揚げられたゼロ戦の部品も展示されている。
実際に鹿児島県の知覧基地から飛び立った機体。
バラバラになって引き揚げられた、朽ち果てたパーツとともに、
搭乗者だった若き兵士の写真と、家族に宛てた手紙や辞世の句も展示されている。
ここ太刀洗の陸軍学校で航空技術を学び、
そして特攻隊員として知覧へと赴いていった。
平和記念館の真向かいには、甘木鉄道の太刀洗駅がある。
ここから鉄道に乗り、多くの若者たちが知覧へ向かったという。
甘木鉄道 太刀洗駅
駅舎脇に展示されている航空機、T-33。
戦後アメリカから譲り受け、航空自衛隊の練習機として使用されていたものらしい。
旧駅舎には太刀洗レトロステーションなる施設。
家電はじめ昭和の生活用品などが展示されているようだ。
残念ながら、正月休みで休館中だった。
来るのは二度目だが、やっぱり見ていてつらい。
戦闘機や機銃,爆弾の破片,薬莢など、兵器そのものの資料よりも、
やっぱり命を散らした兵士たちの肉筆の手紙がいちばんつらい。
どうあがいても涙を堪えることはできない。
特攻隊で散ったひとたちのリストも在った。
名前と年齢,享年日,出身地。
18歳~28歳だったかな。
自分よりもずっと若いのに・・・
遥かに達筆で遥かに強い意志を持って、国のために家族に恋人に別れを告げる。
平和ボケした時代に生まれ育った人間なので、想像すらできない。
とはいえ、あの当時に自分が生きていたとして、同じような行動ができたろうか?
そのほかにもたくさんの資料がある。
特攻するその日に終戦を迎え、死なずに済んだ方の証言ビデオ、
空襲に遭って亡くなった、多くの方々の遺影。
軍属のみならず民間人も多く含まれ、なかには下校中の幼い子どもたちまで。
千人針や書き寄せ、代替燃料の松根油など、戦時中の資料も多数。
ひとつひとつじっくりと見ていく。
小学生を連れていたので、小学生向けの見学ガイドがもらえた。
甥っ子ふたりも真剣に展示物を見ていた。
今度は宇佐の平和資料館にも連れていってみよう。
広島の大和ミュージアムにも連れていきたい。
あとは、自分も行ったことがない知覧の特攻平和会館へも行きたい。
先月亡くなってしまった、自分の長崎のじいちゃん含め、
戦争を記憶している方たちがどんどん居なくなっている。
忘れてはいけない近代の戦争の記憶。
自分も含め、もっと若い子どもたちへも、積極的に知らせていかなきゃいけない。
おみやげで買った、保存用缶詰のパン。
チョコレート味のブリオッシュ。
戦争=非日常=非常食だろうか?
となりの朝倉市などが、数年前に大雨で被害を受けたから、
戦争抜きにしても、非常食の蓄えは大事かもしれない。
タオルも買った。
前に行ったときに買ったのは、このゼロ戦サブレ。
以前紹介したコスモス娘とおなじ、ふなきさんの製造。
ゼロ戦をかたどったサブレ。
今回、売り切れだった。
というか、メーカーが正月休みで納品がまだだったとか。
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