年に2回、父の墓参に出掛けている。
先日も行って来た。
仏壇には度々手を合わせることがあるのだが、いざ墓を目の前にすると、そこには遺骨がある分だけ、合わせる手にも自然と気持ちがこもるから不思議である。
瀬戸内海の小さな島に、父の墓はある。
祖父母も亡くなり、親戚もいないその島に墓だけがあるので、母は年に何度か墓参を兼ねて掃除に出掛けている。
亡くなった人を弔い葬る…ということは、ごく当たり前に行われていることのように思うのだが、これはいっったい誰のために行われているのだろうか?
1月に義父が亡くなった時にもそんなことを思ったのだが…。
勿論、亡くなった人に対して行われているのだが、残された者の気持ちの整理のためにも行われているようにも思える。
またそこには、悲しいことに利害や色んな思惑も渦巻いていることだろう。
私が亡くなった時には…“こうして欲しい”というのがあるのだが、まだ書き記すには早いかな…と思いつつ、いつそうなってもいいように準備はしておこうかな、と密かに思っている。
…金銭的なことも含めて。
今年は父が亡くなって30年になる。
墓参をしながら、色んな想いが交錯した。
先日も行って来た。
仏壇には度々手を合わせることがあるのだが、いざ墓を目の前にすると、そこには遺骨がある分だけ、合わせる手にも自然と気持ちがこもるから不思議である。
瀬戸内海の小さな島に、父の墓はある。
祖父母も亡くなり、親戚もいないその島に墓だけがあるので、母は年に何度か墓参を兼ねて掃除に出掛けている。
亡くなった人を弔い葬る…ということは、ごく当たり前に行われていることのように思うのだが、これはいっったい誰のために行われているのだろうか?
1月に義父が亡くなった時にもそんなことを思ったのだが…。
勿論、亡くなった人に対して行われているのだが、残された者の気持ちの整理のためにも行われているようにも思える。
またそこには、悲しいことに利害や色んな思惑も渦巻いていることだろう。
私が亡くなった時には…“こうして欲しい”というのがあるのだが、まだ書き記すには早いかな…と思いつつ、いつそうなってもいいように準備はしておこうかな、と密かに思っている。
…金銭的なことも含めて。
今年は父が亡くなって30年になる。
墓参をしながら、色んな想いが交錯した。
以前、どこかで聞いたのですが、この世には人間が作った神様と、自然の神様がいるらしいです。
どちらも神様なのだけど、人が作った神様は、仏様にあたるのかな?
私は何かお願い事をするのなら、人が祭りあげた神様に祈るよりも、自然の神様にお祈りした方が、願いが叶いやすいのではないか・・と思うのだけど、どうだろ?
人が死ぬと、どうなるんだろう?時々考えるけど、途方も無いことで行き着くわけもなく、何かにまぎれてフェードアウトする思考。てか、話が違う方向へ行ってしまいましたな。
亡くなった人は、仏様にあたるんだろうか?死んだら神様になるのかなぁ?
亡くなった人は、亡くなってからも人の心の中に居て、居なくなったらそれで終わりというわけでもなく、たまに「お~い」と、呼ばれることもあったりで、私の中の墓参りは、自分達の近況報告、兼元気で暮らせていることのお礼方々伺うといったところでしょうか。
しきたりも、最近になってやっと知ったことが多い。
仏教って、奥が深いねぇ
月末に出掛けた墓参の疲れがとれず、へたばってました。
人間の作った神様と、自然の神様はやっぱ違うのでしょうか?
人間が作ったと言えば、“生き神様”ってヤツ?
某宗教…にあるような…?
う~ん、よく分からない。
私は、神様ってのは居る…と思っているのですが、それはかなり漠然とした神様で、どこに居るのかといえば、私の中に居るのだと思っています。
その神様がどんな神様なのかはわかりませんが、私に何かをしてくれるのではなく、示唆してくれたり見守ってくれたりしているものだと感じています。
スピリチュアルな話になるかもしれませんが、私は霊的な経験を一度だけしたことがあるので、そういう現象についても信じています。
ただ、それを売り物にしている人が居ることについては、なんだか納得できません。
う~ん、理屈臭くなってきたけど、こんな話をし始めると結構熱くなってきてしまうなぁ~。
でもアタシ、死ぬのは怖くなくなってきたよ。
ただ、今死ぬんじゃ現世にくいは残るけど…ね。