見出し画像

寮管理人の呟き

「玉の井」探訪(その2)


私は旧寺島町7丁目を歩いていることになる。「グルメシティ東向島(スーパー)」の奥に建っているのが「満願稲荷」である。「いろは通り」の北側が墨田3丁目、南側が東向島5丁目になる。

荷風先生が遊び歩いた界隈は「いろは通り」と「平和通り」に挟まれたエリア(東向島5丁目)に当たり、細い路地が入り組んで蛇行している。一度歩いただけでは絶対に位置関係が分からないくらい複雑で摩訶不思議な空間だ。私がウダウダ書くよりは小沢昭一さんのエッセイを読んだ方が早い(笑)

 私娼窟といわれた玉の井は、大正の半ば、浅草寺裏の道路整備のため、そこの銘酒屋が、五、六軒移転してきたのが始まりだと『玉の井挽歌』(大林清・昭和五十八年・青蛙房)や『玉の井という街があった』(前田豊・昭和六十一年・立風書房)に詳しいのですが、その後、関東大震災で焼け出された浅草十二階下の銘酒屋が大挙、向島の寺島町界隈へ移ってきたのです。

 その戦前の玉の井は、暗い路地がくねくねと迷路のようになっていて、でもそういう町のドブの汚さと蚊の群れとかを、むしろ妙味とする陋巻好みの人種によろこばれたようです。

 昭和二十年三月十日の大空襲で、玉の井の町は全焼したのですが、戦災後、業者はその玉の井に隣接した焼け残りの地域に移って、こんどはカフェー風の店構えで、七、八十軒営業をはじめました。その新しい玉の井も、やはり、クネクネとドブ板を渡る暗い路地つづきで、旧玉の井名物だった路地の入口の「抜けられます」の看板も復活していて、私など、十分、荷風の世界を満喫できたものです。

 どうみてもオバサンが、セーラー服を着て縦長の細い窓から「お兄さん、お話だけ」と呼びかける店もありまして、あれ、今日のフーゾクのコスプレのはしりでしたなぁ。

 『東京人no.186 色街慕情 / 小沢昭一』

「旧玉の井」ついては多くの研究者(=物好き)が詳細な調査を行っているのでここでは割愛させていただく。

墨田3丁目8にある「中華料理屋」と「パン屋」

「中華料理屋」と「パン屋」の間の小道を進むと右手に「倉」そして左手に「空き地」が見える。そして道が二股に分かれる所にかの有名な「ホワイトハウス」がある。バルコニーを持つカフェー調の建物だ。

ここから右に折れて細い通りに出た。

私が勝手に名づけた「ホワイトハウス」

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事