3大ギタリストの1人であるジェフ・ベックが今月10日に亡くなったことをネットのニュースで知った。まさかジミー・ペイジよりも先に天に召されるとは・・・。大学に入学して早々に正門の程近くにあったポパイで【アームズ・コンサート】のビデオを借りて収容所時代の仲間(あだ名はタコ)の下宿で観たことを思い出した。旧友(ヤードバーズに在籍)との共演を一番喜んだのはベックだったと思う。「天国への階段」でのソロ回しは今や伝説だが、本ブートでも彼のプレイは輝いている。天才の名演を聴きながら冥福を祈る。
ウッドストック・フェスティバルが開催されて既に50年が経過した。私は西新宿から取り寄せたジミ・ヘンドリックスのステージの完全収録版CD(コンサートのトリを務め伝説となったことはあまりにも有名)を夜な夜な再生して楽しんでいた。コアなファンはノーカットの演奏(ミストーンや機材トラブルなどを含む)を聴きたがるのでこのブートレッグ(海賊盤)は瞬く間にベストセラーになった。ジミの調子はまずまずといったところだが、ステージ終盤は流石に気合の入った演奏である。「星条旗よ永遠なれ」から「パープル・ヘイズ」への流れは何度聴いてもかっこいい。残された映像の方を見ると観客のほとんどが疲れて帰ってしまっておりステージの周りには寂しい雰囲気が漂っている。当時のヒッピー文化(やドラッグの流行)を理解する上でも大変貴重な資料である。野外フェスの肥大化は翌年まで続くが、ウッドストックをピークとする見方が一般的だ。約3ヶ月半後にオルタモントの悲劇が起こり「愛と平和」の祭典から熱気が段々失われていくことになる。また日本の学生運動が徐々に下火となりキョクサの内ゲバへと移行していく時代と重ね合わせて見ると非常に感慨深いものがある。
ビートルズの成功を陰で支えたジョージ・マーティン(名プロデューサー)が3月8日に亡くなった(享年90)。彼が引退を決め最後に手掛けたアルバム(1998年3月発表)を追悼の意味で聴いた(以下、赤字はインナーからの引用 訳:内田久美子)。
今までどれほどのレコードをプロデュースしたか、もう数えきれなくなってしまったが、その数はどうであれ、最後の一枚になる作品が必ずあるはずだ。もしそうなら、なぜそれを偶然にまかせるのか? それをどんなものにするか、自分で決めればよいではないか。好ましく思い出すことのできる、楽しく作って楽しく聴けるものにしよう。
私はあるアイデアを思いついた。友人やヒーローたち、つまり私が常に好感をもち称賛してきた人たちに、私の人生の重要な部分を占める音楽にともにかかわってもらおうと考えたのだ。それは同時に彼らに対する敬意のしるしでもあった。ビートルズは、言うまでもなく私の友人でありヒーローだが、彼らに参加してもらうことはまず不可能だ。そこで、せめて彼らの曲を選び、意外な人たちに歌ってもらうことにした。
A Day In The Life Jeff Beck
もう何年も前、ジェフと私は、時代の雰囲気をよく捉えた2枚のアルバムをともに作り、世界中のリスナーを興奮させた。中でも名作となった『ブロウ・バイ・ブロウ』は、私が偉大なプレイヤーと組んで制作した最高傑作のひとつだ。“ア・デイ・イン・ザ・ライフ”はジェフ自身の選曲だった。彼はギターを人間の声のように歌わせることのできるギタリストである。クライマックスにオーケストラはほどんど必要なかった。ギターがすべてを語っている。
私は3曲目のジェフ・ベックによるカバーが聴きたくてCDを購入したのだが、今や愛聴盤の一つである(ジョン・レノンの曲が多いのがよい)。変わり者の天才ギタリストは『ブロウ・バイ・ブロウ』録音中にローリング・ストーンズからミック・テイラーの後釜として加入を打診されてダラダラリハーサルにも参加したが、迷った末においしい話を断った。インストロメンタルアルバムの商業的成功はジョージの協力なくしてはありえなかった(=危険な賭けに勝った)ことをジェフは後に回想して感謝の気持ちを表している。この曲はお気に入りのようで以後のツアーでずっと演奏されている。あの世のジョージも嬉しく思っていることだろう。
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今までどれほどのレコードをプロデュースしたか、もう数えきれなくなってしまったが、その数はどうであれ、最後の一枚になる作品が必ずあるはずだ。もしそうなら、なぜそれを偶然にまかせるのか? それをどんなものにするか、自分で決めればよいではないか。好ましく思い出すことのできる、楽しく作って楽しく聴けるものにしよう。
私はあるアイデアを思いついた。友人やヒーローたち、つまり私が常に好感をもち称賛してきた人たちに、私の人生の重要な部分を占める音楽にともにかかわってもらおうと考えたのだ。それは同時に彼らに対する敬意のしるしでもあった。ビートルズは、言うまでもなく私の友人でありヒーローだが、彼らに参加してもらうことはまず不可能だ。そこで、せめて彼らの曲を選び、意外な人たちに歌ってもらうことにした。
A Day In The Life Jeff Beck
もう何年も前、ジェフと私は、時代の雰囲気をよく捉えた2枚のアルバムをともに作り、世界中のリスナーを興奮させた。中でも名作となった『ブロウ・バイ・ブロウ』は、私が偉大なプレイヤーと組んで制作した最高傑作のひとつだ。“ア・デイ・イン・ザ・ライフ”はジェフ自身の選曲だった。彼はギターを人間の声のように歌わせることのできるギタリストである。クライマックスにオーケストラはほどんど必要なかった。ギターがすべてを語っている。
私は3曲目のジェフ・ベックによるカバーが聴きたくてCDを購入したのだが、今や愛聴盤の一つである(ジョン・レノンの曲が多いのがよい)。変わり者の天才ギタリストは『ブロウ・バイ・ブロウ』録音中にローリング・ストーンズからミック・テイラーの後釜として加入を打診されてダラダラリハーサルにも参加したが、迷った末においしい話を断った。インストロメンタルアルバムの商業的成功はジョージの協力なくしてはありえなかった(=危険な賭けに勝った)ことをジェフは後に回想して感謝の気持ちを表している。この曲はお気に入りのようで以後のツアーでずっと演奏されている。あの世のジョージも嬉しく思っていることだろう。
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元ビートルズのベーシスト・ポール・マッカートニーはメロディー・メーカーとして知られる。彼の最も有名な楽曲(実質的にはソロ作品)がイエスタデイだ。ジョン・レノンが射殺されたニュースが全世界に流れた時、私は小学6年生だった。学校から帰ってテレビをつけると余りにも有名なイントロが聴こえてきた。私がビートルズに夢中になるのはそれから数年後のことである。
今年11月来日するポールはプロ意識の非常に強い人だ。ビートルズのメンバーが過密コンサート・スケジュールに嫌気がさしていた頃でも彼だけはファン・サービスに努めていた。昭和41年(1966)の武道館公演の映像を見るとそれがよく分かる。結局ビートルズとしての興行コンサートはこの年が最後になった。武道館に足を運んだ黒柳徹子さんが自身のトーク番組で興奮のあまり失禁する女性ファンを何人も見たという話は非常に生々しかった。
ポールの全盛期はウィングスとして活動していた昭和51年(1976)頃だと私は思う。この年ウィングスは全米ツアーを行いその模様はオフィシャルアルバムに(一応継ぎ接ぎの完全版として)収録された。オフィシャルは音質最高だが、観客の口笛や手拍子は聴こえないので臨場感には欠ける。会場の熱気や演奏レベルの高さを知るにはやはりブートレッグを聴く必要がある。5月22日のボストン公演は当時の隠密録音(オープンリールテープを使用したと思われる)としては最高峰だ(アンコールに演奏されていたソイリーだけがイングルウッド公演。※演奏されなかった可能性もあるが、詳細は不明)
改めて聴きなおしてみたが、ポールの演奏は完璧と言ってよいほど凄い。アコースティック・セットの夢の人~ブラックバード~イエスタデイの流れがいい。後半マイ・ラブ、あの娘におせっかい、シリー・ラブ・ソングズ、バンド・オン・ザ・ランと全米№1になった曲が続き最高のフィナーレを迎える。生を観た人が本当に羨ましい。
今年11月来日するポールはプロ意識の非常に強い人だ。ビートルズのメンバーが過密コンサート・スケジュールに嫌気がさしていた頃でも彼だけはファン・サービスに努めていた。昭和41年(1966)の武道館公演の映像を見るとそれがよく分かる。結局ビートルズとしての興行コンサートはこの年が最後になった。武道館に足を運んだ黒柳徹子さんが自身のトーク番組で興奮のあまり失禁する女性ファンを何人も見たという話は非常に生々しかった。
ポールの全盛期はウィングスとして活動していた昭和51年(1976)頃だと私は思う。この年ウィングスは全米ツアーを行いその模様はオフィシャルアルバムに(一応継ぎ接ぎの完全版として)収録された。オフィシャルは音質最高だが、観客の口笛や手拍子は聴こえないので臨場感には欠ける。会場の熱気や演奏レベルの高さを知るにはやはりブートレッグを聴く必要がある。5月22日のボストン公演は当時の隠密録音(オープンリールテープを使用したと思われる)としては最高峰だ(アンコールに演奏されていたソイリーだけがイングルウッド公演。※演奏されなかった可能性もあるが、詳細は不明)
改めて聴きなおしてみたが、ポールの演奏は完璧と言ってよいほど凄い。アコースティック・セットの夢の人~ブラックバード~イエスタデイの流れがいい。後半マイ・ラブ、あの娘におせっかい、シリー・ラブ・ソングズ、バンド・オン・ザ・ランと全米№1になった曲が続き最高のフィナーレを迎える。生を観た人が本当に羨ましい。
私は昨日産経新聞の「ネットろんだん」を読んで苦笑した。音楽業界はコピーコントロールCD発売での総スカンから結局何も学ばなかった。売り上げ不振の最大の要因は買いたい曲があまりないということに尽きる。そして世界的にCD(かさ張る記録媒体)を保有する意味合いが薄れてきているのである。40代の私でさえもCDの枚数を減らす努力をしているのだから。
もはや気に入った楽曲をダウンロードして聴くことには何の抵抗感もない。ブートレッグ(海賊盤)の市場も同様に振るわず大きく様変わりした。ローリング・ストーンズの古典的名盤「ナスティー・ミュージック(元ネタはキング・ビスケット・フラワー・アワー提供のライブ録音)」は1973年のヨーロピアンツアーからブリュッセル公演をメインに収録したものだった。レコード全盛期には西新宿某店で○万円という目が飛び出るような値で取り引きされていたとか。
私はこのブートCDを結構愛聴したものだったが、今や価値無しである。2011年にオフシャル・ブートレッグとしてダウンロード販売が始まり、何と放送禁止用語連発でカットされていた「スター・オメカー」まで入っている。絶頂期のライブ盤を音楽ファイルとして誰もが安く入手できる時代になったことは誠に喜ばしい。裏モノの価値をアーティストもレコード会社も認めざるを得なくなった一例だ。
もはや気に入った楽曲をダウンロードして聴くことには何の抵抗感もない。ブートレッグ(海賊盤)の市場も同様に振るわず大きく様変わりした。ローリング・ストーンズの古典的名盤「ナスティー・ミュージック(元ネタはキング・ビスケット・フラワー・アワー提供のライブ録音)」は1973年のヨーロピアンツアーからブリュッセル公演をメインに収録したものだった。レコード全盛期には西新宿某店で○万円という目が飛び出るような値で取り引きされていたとか。
私はこのブートCDを結構愛聴したものだったが、今や価値無しである。2011年にオフシャル・ブートレッグとしてダウンロード販売が始まり、何と放送禁止用語連発でカットされていた「スター・オメカー」まで入っている。絶頂期のライブ盤を音楽ファイルとして誰もが安く入手できる時代になったことは誠に喜ばしい。裏モノの価値をアーティストもレコード会社も認めざるを得なくなった一例だ。
雨が上がった後は蒸し暑い。日本酒の水割りを空にした私は棚の肥やしとなっていたブートレッグ「ALL MEAT MUSIC」を取り出してCDプレイヤーのトレイに乗せて再生ボタンを押した。
ローリング・ストーンズの古典的裏名盤として有名だが、若い人に「豚マーク(※)」と言っても分からないだろう。リアルタイムでブートを購入していた連中は既に60歳前後になっているのだから(笑)
ユニークなジャケット、レア曲収録、数々の伝説を生み出したコンサート会場での隠密録音(決してオフィシャル・リリースされない)などがブートの魅力である。バンドは絶頂期を迎えたと言っても過言ではなく、特にミック・ジャガーとミック・テイラーの活躍が光る。火を噴くようなテイラー節が最期まで堪能できるのがミソなのだ。残念なのはSTREET FIGHTING MANが盛り上がる所でフェイドアウトしてしまうこと。「アホか!」と叫びたくなるが、昔のブートレッグにこの手の欠点はつきものだったのである。
※ビートルズ海賊盤辞典 / 松本常男(講談社文庫 昭和60年 絶版)
TMOQ-Ⅱ(TRADE MARK OF QUALITY-Ⅱ)
トレード・マークのイラストは、葉巻きをくわえた豚である。そのためアメリカでは「シガー・スモーキング・ピッグ」、日本では「スモーキン」あるいは「スモーキンTMQ」(日本のファンは“O”を発音しないことが多い)と呼ばれている。
イラストはTMOQ系の一連のジャケットを手がけたウィリアム・スタウトによるもの。
カラー・ビニール中心だったTMOQ-Ⅰに較べ、Ⅱのレコードのほとんどはレギュラー・ブラック。カラー・ビニールものは73年初頭にプレスされた数種類のみである。ジャケットもⅠとⅡでは異なっている。TMOQ-Ⅱにはスタンプやステッカー・タイプはない。全てスリック・ジャケットである。両者のジャケットの地色はよく似ているが、紙質や色が微妙に違う。
TMOQ-Ⅱのオリジナル盤のマトリックス・ナンバーは1700番台と1800番台。73000番台は基本的にはリイシュー・ナンバーだが、73年に発売されたオリジナル盤のスリックにもこの73000番台は使用されている。また71000番台はTMOQ-Ⅰのリイシュー・ナンバーだが、TMOQ-Ⅱでも同一内容のレコードを同一番号で発売している。
ソースはTMOQ-Ⅰ同様、テレビやラジオのエア・チェックものが多いが、コンサート会場における隠し録りライブも数多い。隠し録りの常として、音質は悪くなる。しかし貴重性という付加価値によりある程度は売れたので、これ以降、他のブートレガーが真似をし、音の悪いライブ盤が出回るようになった。一時期「海賊盤のライブ盤は音が悪い」という定説があったが、このきっかけを作ったのはTMOQ-Ⅱなのである。
この会社は、海賊盤業界に長期間存在しているように思われているが、実際の活動は73年から75にかけての約2年半程度。その後はずっと沈黙していたが、83年にTMOQ-Ⅱ RE-ISSUEとして再登場した。
LET IT BEは中学時代の愛聴アルバムだった。霧のかかったようなサウンドは不思議な魅力を持つ。この中にジョージ・ハリソンの曲が2つ入っているが、「I ME MINE」が特に好きだった。
ジョージ曰く「エゴイズム」をテーマにした曲で、メンバーに「こうしろ、あーしろ」と細かく執拗な指示を出すポール・マッカートニーを強烈に皮肉ったという説はあまりにも有名だ。
映画の中でポールがあえてジョージのプライドを傷つけるような発言をするシーンを見ている人は歌詞の意味するところに苦笑したことだろう。我の強さは時に他人を不快にさせる、そんな身近なテーマをとり上げ扱き下ろす英国人のセンスはすばらしい。
下らない自己主張ばかり続ける人間は私も昔から大嫌いである。「餌をくれ」と四六時中鳴く「狂犬」と知的レベルは同等だと思う。個人的感情をぶつける「匙加減」を間違え続ける輩を北関東の方言で「でれすけ」と言う(笑)
Angelの終盤で音を外した御大は少し照れくさそうだった。ヴィニーのドラムソロが始まった辺りからメンバーのテンションは上がってきてGoodbye Pork Pie Hat~Brush With The Bluesは大いに盛り上がった。デイビットの見せ場とも言えるBlue Windをセットリストに入れたのは正解だろう。
コンサートは20時25分に一旦終了。ここから総立ちとなる。2分ほどして御大とデイビットが出て来た。初っ端で職人技を見せつけられ館内は静まり返る。以後は楽しい演奏が続いた。アンコールは計4曲。
タルが貰った花束を客席に投げ返す一面があった。それを掴み取ったのは2列目のご婦人だった。あれほど喋った御大を初めて観た。機嫌がよかったということだ。お開きは20時44分。会場を出る人達の顔はにこやかに見えた。
本町駅から地上に出ると大阪の街は既に暗くなっていた。「大阪厚生年金会館」前の公園は薄毛のおっさん達で溢れていた。チケットを取り出し受付に向かう。持ち物検査はほとんどしていないのに等しい。当日券1万円の張り紙がしてあるのを見た。
首が痛くなりそうな座席に腰掛けて最前列の有名人を探した。ちょうどその時、「欧陽菲菲」が入ってきた。「すげえ」と言いそうになったが、よく似たおばさまだったのである(笑)
大阪初日は、19時12分に幕を開けた。白い衣装で登場したジェフ・ベックを目にして自動車整備工員を連想した。御大の調子はまずまずといった感じである。「Who Else!」お披露目ツアーのような激しいプレーはない。ギター版歌謡コンサート風で座って観るにはいいのかも。
タル姉さんの長いベースソロをフューチャーしたCause We've Ended As Lovers、残念ながら消化不良のギターソロになった(いつものことかもしれん)。People Get Readyのイントロに手を叩いて喜ぶ観客が多かったのはうれしい。この辺りから彼のアルバムを聴き始めた私も同じ気持ちだった。
年末に突如リリースされたレッド・ゼッペリンのブートレッグ。昨年一大ブームとなった「OLYMPIA 1969」と同内容であるが、鬱陶しくてたまらなかったフランス人DJのコメントが1枚目には入っていないのがミソ。
「ジミー・ペイジは最初からギターが下手だった」と勘違いしている人達にぜひとも聴いてほしい。エディ・ヴァン・ヘイレン級の凄腕だったとは決して言わないが、並以上の実力が昔は確かにあった。
1969年秋というとバンドの人気は鰻上りの時期で非常に熱い演奏をしている。ペイジの身勝手なリズム感を堪能するには最適のCDだ。久しぶりにパリ公演を通して聴き、器用なジョンジーがいたからこそレッド・ゼッペリンは大きな成功を収めることができたのだと感じた。
ペイジと顔が瓜二つの「高見のっぽ」さんは晩年に一花咲かせた。「本家」にももう少し頑張ってもらいたいところだが、才能と情熱が失われた現在では到底叶わぬ夢である(笑)