あの日から4年3カ月が経過した2015年6月11日。「なな色の空」を訪ねました。
福島県相馬郡飯舘村の大自然の中、村上夫妻は、自然食レストラン・民宿・自然農園を兼ねた「なな色の空」を営んでいました。真平さんはNGOを通じ世界各地で農業指導を行った後、なな色の空で「自然を収奪しない農の在り方と、第三世界の人々を搾取しない生活の在り方」を目指してエコビレッジづくりを実践。また、日苗さんは、ホテルレストランなどで磨いた腕を生かし、自然食レストランで料理を作りながら、発展途上国の産品を適正な価格で商うフェアトレードショップを行っていました。
事故前の「なな色の空」の紹介や村上さんの避難のいきさつ、お二人の紹介が写真とともに掲載されています。
http://wagamachiseikatsu.jp/index.php?konokao_nanairo
2011年3月の原発事故により、一家は三重県伊賀市にある、真平さんの母校「愛農学園」へと避難。福島から避難してきた多くの人をサポートしてきました。
村上さんは今年も放射能の不安から解放されるとともに、被ばくを低減し、 心と体をリフレッシュしてもらいたい。という思いで、 原発事故の影響をうけている、福島およびその近隣県の方々の保養を目的とした「福島保養キャンプinみえ」を2015年7月22日(水)~31日(金)、三重県の津市美杉町太郎生で開催されます。
飯舘村。「なな色の空」を訪ねて
「なな色の空」からこども3人を連れて三重県へ避難された村上日苗さんの手記です。
3.11から4年。着のみ着のまま、サンダルで慌てて家をあとにした、あの日、今も昨日のことのように覚えている。あの日の生活が福島の我が家に、今もそのままの状態。干したままの洗濯物、子供が遊んでいたおもちゃ、読みかけの本、全てそのままの状態で4年がたってしまった。誰も、この状態をどうにかしてくれるわけではない。自分で考え自分で行動しなければならない。もう、戻れないであろう福島のなな色の空へ、1度心の整理に、家にお別れに行きたいと思ってはいるが、4人の子を抱えて、一緒に計画避難地域でもある家には帰れない。一人で帰るにしても、体のことも心配。旦那がほとんど海外で、私が倒れるわけにはいかないから・・。4年間も、1度も家にかえれない、こんな現実があるのに、原発が必要だなんて、あんまりだと思う。何も解決していないのに。また同じことを繰り返すの?こんな思いをするのはもうたくさんです。苦しみが今もなお続き、暮らしているおおくの人々。
村上さんが、声なき声を~あの日から~という冊子にまとめました。ぜひ、購入していただけたらと思います。この冊子の売り上げは保養キャンプの活動資金になります。
購入を希望される方、
1冊、300円、多くの人によんでほしい・・。...
福島保養キャンプinみえ、ホームページから購入することができます。
http://miemisugifukushima.jimdo.com/
下記は、~あの日から~の冊子にものせてもらっています、文章です。
震災から1年後の3.11の日かいたものです。毎年読み返すが、毎年同じ思いが残る。
私たち家族は、三重県に避難してきています。飯舘村のように水がきれいで、人口が少ない地域でゆったりとしています。6 月にホタルが田畑に舞い、とても美しいです。自然豊かなところで、子どもたちは元気にすごしています。田畑がまわりにありますが、サルの被害が多く、飯舘村のように家の前で作物を作ることはたいへん難しいです。
いつも福島のこと、飯舘村のことを考えています。私自身に 時々おそってくる不安、悲しみ、精神的ショックは癒えることなく、時々、涙があふれます。でも、子どもたちの笑顔に支えられて、1 日1 日をなんとか生きています。人のぬくもり、つながりを とてもありがたく思っています。私は 福島が 飯舘村が 大好きです。みんなのぬくもり、あたたかさ、大地といつも共にある生き方、すてきな笑顔、みんな大好きです。
もっと 飯舘村でくらしていたかった。
もっと 飯舘村のたくさんの方々と出会いたかった。
もっと なな色の空のレストランをしていたかった。
もっと お客様の喜ぶ顔をみていたかった。
もっと 田畑をたのしみたかった。
もっと 子どもたちと遊びたかった。
また 来年も子どもたちと一緒に あけびとりに行きたかった。
また 来年も子どもたちと 栗拾いがしたかった。
まだ 行ったことのない山の中を歩いて 自然を感じていたかった。
もっと たくさんの空をながめていたかった。
もっと たくさんの移りゆく季節を感じていたかった。
もっと もっと たくさんの思い出をつくりたかった。
うまれたばかりの3 人目の子と はじめてのおさんぽがしたかった。
ずっとそこに住めると思ってた。おじいちゃん おばあちゃんになるまで 私はずっと飯舘村に暮らすんだって思ってた。
ずっと変わらないと思ってた。
これからもこの幸せは続いてゆくんだと信じてた。
でもあの日から すべてが突然なくなってしまった。
心をこめて育てた野菜は、放射能に汚染されてしまった。子どもたちと植えた たくさんの果樹とブルーベリーも。
自宅出産した子どものお祝いに植えた桜の木も。
毎年、子どもたちが楽しみにしていた原木しいたけも、開墾した田んぼや畑も。
子どもたちが大好きだった森のブランコも。
私の大切な 大切な、夫の真平さんに手作りしてもらったなな色の空のレストランも。
みんなで楽しんだ石釜も。
今年の冬に村のちえこさんに手とり足とり教えてもらって、作って外に干しておいた凍みもちも。
研修生の子たちと一生懸命作った凍み大根も。
雨の日も風の日も夏の暑い日も 外へ出て一生懸命 研修生とみんなで育てた今年の春までに大切に食べようと思って 土にいけておいた大切な野菜たちも。
そして私たちをはぐくんでくれた山々、木々、小川、水、空気、大地、虫たち、草花たち、小鳥たち、動物たち、すべて見えない放射能に汚染されてしまいました。
人が大切にしていたものを そして宝物のような 村人の笑顔を、きずなを すべてひきさいて こわれてしまいました。
きのうまで幸せな暮らしがあったのに、ある日突然 一瞬にして その
幸せが奪われました。こんなに こんなに 悲しすぎることはありません。悲しくて 悲しくて 悔しくて 悔しくてたまりません。
この現実は 決してあってはならないことで、こんなにもすべてを奪ってまで 一瞬で人の幸せを不幸にしてまで、原発は必要でしょうか?電気を使うのに こんなにたくさんの悲しみが必要でしょうか?人の命と引き換えに
原発が必要でしょうか?私たちは これから
今日をどう生きてゆくのか 選択しなければなりません。
私たちは 今まで 原発は こんなに 恐ろしいものだとは知りませんでした。でも 私たちは 本当の恐ろしさを知りました。だから 伝えていかなければ 変えていかなければ。原発のない福島へ 原発のない国へそして世界へ。
今、私にできることからはじめることが大切だと思います。1 人1 人が 今できることは何かを求めたら、小さな答えがきっと見つかります。
その一つ一つの小さな答えを行動に移していったらきっと世の中が変わります。原発のない福島へ 自然エネルギーの変換ができると思います。
みんなでつながって かえてゆきましょう。明るい未来のために。どうぞ 皆様のもとに 一つでも多くの星の輝きが ふりそそがれますように……
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