小澤征爾氏の訃報を受けて、様々な人がメッセージを発信しています。
追悼文の多さは、その方の功績の大きさを反映するのかもしれません。
アメリカ・ボストン時代のドキュメンタリー番組を動画サイトで見ました。
毎年音楽祭を開いていたタングルウッドで、若き日のヨーヨーマたちと気さくに食事をしながら、いろいろと語りあっている場面がありました。
O「君は上手に英語を話すね!」
Y「アメリカ生活が長いですから(笑)」
O「僕たちのようなアジア人には西洋音楽は理解できないと言う人もいるけど、君はどう思う?」
Y「そんなことないですよね。僕の両親は典型的な中国人ですよ!」
「でも、アジアと欧米では、立ちまわり方を変えないといけないので苦労します。アジアでは自由に意見を言えない空気があります。」
撮影スタッフ「出る杭は打たれるという諺が日本にはあります」
O「ああ、ほんとに嫌な言葉だ!だいきらいだね。そのことに関しては、僕はほんとうに・・・いろいろと考えるところがあってね・・・悪いけど、ちょっとカメラ止めてくれる?」
その後、「あそこでカメラを止めるべきではなかったね。ごめんね。ほんとにごめんね」と小澤氏がスタッフに誤っている場面に切り替わりました。
N響ボイコット事件を発端とする日本社会の拒絶が、彼の深い心の傷となり、名実ともに世界の小澤と言われるようになってからも、彼を痛め続けていたのだということを知り、正直驚きました。
と同時に、あの小澤さんが自分と同じように「いやなことばだ」とあの諺に嫌悪感を持っていることに、少しほっとしました。
価値のない杭は打たれない。
出ていない杭は、相手にされずに無視されるだけ。
打たれれば打たれるほど、存在価値があがる。
そんなふうに考えて、自信を持つべきだと改めて思いました。
出ている杭を邪魔者扱いして、力任せに打ちのめそうとするような社会(会社・コミュニティ・人物etc.)は、いずれ衰退していくと思います。