ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧仙南村飯詰を往く-1(その1)

2019年03月31日 | 旧仙南村を往く

<奥羽本線「飯詰駅」の駅舎>

●歩いた日:2019年3月9日(土)

●歩いた所  ・上深井:矢矧殿、谷地中、松葉野、耳取、老形

 ・境 田:下八百刈

 ・佐 野:下佐野、中村、倉合

 ・南 町:北広田、千刈田

●歩いた位置

●歩いたログ(足跡)(道のり5.3km)

(以上の地図:国土地理院)

 「仙北平野」を歩いた記事を掲載するこのブログを開始して、速いものでもう2年以上経ちますが、歩く場所に関して最近少し気になっていることがありました。それは、「仙北平野」を構成する旧市町村のうち「旧仙南村」にまだ足を踏み入れていないことでした。「旧大曲市」と境を接している「旧仙南村」ですが、幹線道路を車で通過する位で、これまで全くと言っていいほど訪れたことがなく、何となくこれまで足が遠のいてしまったようにも思います。しかし、訪れたことがないだけに、最近になって急に歩いてみたい気持ちが強くなり、この(2019年)3月中旬の晴れ上がった日に出かけました。

 まずは「旧仙南村」のどこを歩こうかと考えましたが、川港の「角間川」と、かつて「羽州街道」の駅場で賑わった「六郷」をつなぐ道の中間点に当たり、高校時代に毎日汽車通学で行き来した「奥羽本線」の「飯詰駅」に向かい、駅前通りとその東側に足を延ばしてみました。

 それでは本文に入ります。

 「国道13号線(大曲バイパス)」を「六郷」方面に車を走らせ、途中、右手のやや狭い道に入ってどこまでも南に向かうと、住宅や店が建ち並ぶ「飯詰駅」に至る。駅前広場の隣にも広場があって、そこに何台もの車が置かれている。一台分のスペースがあるので、そこに車を入れてスタート。

 広場の出入口にまだ新しい「美郷町」の案内マップがある。

 (駅前の「美郷町」の案内マップ)

 「旧六郷町」、「旧千畑町」、「旧仙南村」が合併した「美郷町」全体の案内マップである。マップの上端(現在地)に「飯詰駅」があり、鉄道で「美郷町」を訪れた人たちの便に資するために設置されたようだ。中央に位置する「六郷」の街の南側(マップでは左手一帯)が「旧仙南村」である。

(アップした案内マップ)

  左上隅に「後三年駅」がある。ここも「旧仙南村」で、小さな村にJRの駅が二つあるのも珍しい。

  ところで、明治時代の末に「横手」と「大曲」の間に鉄道が開設されるに当たっては、当時の「六郷町」と「角間川町」で激しい駅の誘致合戦が繰り広げられたが、どちらを通るにも大きく迂回しなければならない。結局、「横手-大曲」間は最短距離でまっすぐ通すことになり、両町のほぼ中間に当たり、当時はほとんど人家のなかった現在の場所に駅が開設されたと聞く。現在、「飯詰駅」の東側は小さな商店街が形成されているが、西側は今も一面の田んぼが広がっている。

 「後三年駅」についても若干書いてみる。この駅は「飯詰駅」よりだいぶ後の大正時代に開設された駅である。この駅も昔の「飯詰村」に属するが、すでに「飯詰駅」があったことから、平安時代の後期(11世紀後半)にこの地一帯(「出羽国」)で戦われた合戦、「後三年の役(エキ)」にちなんで駅名にしたようだ。地名の付かない駅名も珍しくて面白い。

 「後三年の役」といえば、歴史の教科書には、そのすぐ前に「陸奥国」(「岩手県」南部)で起こった「前九年の役」も出てくる。「奥羽山脈」を挟んで続いたこれら二つの役は、当時の朝廷による奥州平定に向けた軍事行動の一環として起きたものだが、これらの役によって「出羽国」、「陸奥国」の勢力図は大きく変わった。

 まず、「前九年の役」は、「陸奥国」の豪族であった「安倍」氏が、「源頼義」を主体とする朝廷軍と、これに味方した「出羽国」の豪族「清原」氏によって滅ぼされた合戦である。戦の後、「清原氏」が「陸奥国」を含めた「奥州」全体の実質的な支配者となった。

 「前九年の役」から20年余り後に起きた「後三年の役」は、その「清原」氏が、「前九年の役」で「安倍」氏に味方して敗れた「藤原清衡」(「清衡」は,母親が「前九年の役」の敵方であった「清原」氏に再嫁したため、当時は「清原」氏を称していた)と「源義家」(「頼義」の長男)の連合軍に敗れた合戦である。この後「藤原清衡」(姓を「清原」から父親の姓だった「藤原」に戻す)は「陸奥国」に移り(戻り)、「平泉文化」の隆盛を築く「奥州藤原3代」の祖となった。

 これらの役については「高橋克彦」氏の小説「炎立つ」があり、NHKの大河ドラマにもなったので、ご存知の方も多いと思う。

  余談だが、「安倍」氏が戦って敗れた最後の砦は「厨川柵」で、「盛岡市」に現在も「厨川」の地名(駅も)がある。一方、「後三年駅」の近くを流れる小さな川を「厨川」という。また、「岩手山」の麓、「小岩井農場」の北に、「宮沢賢治」の詩に出てくる「鞍掛山」があり、「盛岡」の街からよく見える。「後三年駅」のすぐ東に「鞍掛」という地名があり、その近くの小さな山(89m)を「鞍掛山」という。これらの地名は「安倍」氏と「清原」氏、二つの役に何らかの関連があるように思えてくる。なお、「盛岡市」には「前九年」という地名がちゃんとある。

  駅のことから、それにまつわる話を長々と書いてしまった。本題に戻る。案内マップの奥に駅舎がある。

(「飯詰駅」)

 小さな駅舎である。もう50年以上も昔、通学で毎日通ったけれども、これまで一度も降り立ったことなく、こうして駅を眺めたこともない。左奥の跨線橋を見ると何やら懐かしく思われるのも変だ。同じクラブに入っていたK君は駅のすぐ近くの家で、毎日のように降りるのを見送った。S先生もこの駅から汽車で通勤していた。中に入ってみる。事務室にいる人がこちらに顔を向ける。待合室をぐるっと眺めまわしてすぐ出てくる。

(その2に続く)


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