[ 承前 ]
「死に支度」という表現では少々生々しいが、年老いてからの身辺整理は残る人のためも是非ともやっておかなければならない重要な仕事の一つである。
しかし、捨てるかどうかを決める判断は人任せにはできないし、廃棄を決めた物品の運搬はそれなりの力仕事を伴うので心身の衰えが目立ち始めた超高齢者にとってはなかなか思うに任せぬ難事となる。
3年前、最後の著作を刊行したのを機に、それまで所有していた専門図書一切合財を神田の法学古書専門業者に引き取ってもらったことについては「三金会雑記」2009年・87号に「本の処分、そしてその後」として書いたとおりで、お蔭で書庫は随分すっきりしたが、それ以外の書籍の整理はあまり進んでいず気になっている。
写真についてはできるだけ枚数を減らそうと思い切って段ボール函一杯分は捨てたが、まだまだ捨てなければならないものが沢山残っており、これらもいずれは取捨選択、廃棄の決断をしなければならない。
それ以外には各種メディア類の処分がある。パソコン生活が長いこともあって、書斎に隣接する納戸にはCD、DVDをはじめ、随分昔からのカセットテープやビデオテープなどが雑多に詰め込まれており、これらも内容を確認したうえで、廃棄しなければならない。
同じメディアに類するといえなくもないが、より重い存在感をもつのが保存されている手紙の束である。
手紙とはもともと読み終わった時点で、もしくはそれに応じた措置が終わった時点で捨て去られるのが常だが、なかには後々なんらかの折をみて読み返してみようと思い保存しておくものもある。
手紙を捨てるということは、その手紙にまつわる思い出をも消し去ることもつながるから、こればかりは簡単に屑籠にポイというわけにはいかない。
亡くなった青野君は古い手紙に格別の愛着を持っていたことは広く知られていたが、「三金会雑記」1999年・50号に「卒業・就職前後(古手紙にみる青春)」と題した一文を寄せており
「諸兄からの古手紙類は、私の「死後焼却」函に格納されているから遅かれ早かれ、相州鎌倉の空をあかね色に染めて燃え尽き果てる運命にあり、未公開である限り世にでることはない」
と詩情をこめて記している。
私も青野のひそみに倣い「死後焼却箱」を作り、捨て難い手紙だけを残し入れておくことにし、保存してあった古い手紙を取りだし読み返し始めた。
そんな古手紙の束の中から22年前に頂いた件の手紙が出てきたのである。
差出人は団藤重光法学博士、いやしくも大学で法学を学んだ人なら誰もが知っている日本刑事法学の泰斗、東京大学名誉教授、元最高裁判所判事、勲1等旭日大綬章受章、文化勲章受章という経歴を持ち、今年で99歳、まだご存命の大先生である。
ここにその手紙を引用するのは、いささか面映ゆく、躊躇もあるが、ことの成り行き上ご勘弁願いたい。
小野義秀学兄 玉案下
拝復 このたびは、ご芳書とともにご高著「矯正行政の理論と展開(処遇と保安)」をありがたく拝受いたしました。
承れば、学兄には九大で井上正治博士のもとで学問的なご研究をなさった後、矯正の実務に就かれ、爾来三五年の長きにわたって矯正一筋にご活躍、最後は東京矯正管区長の要職に就かれ、近くご退官の趣き、いま、本書を拝見して、多年にわたる理論と実務(それも矯正の各分野における)のご蓄積のほどが窺われます。
編別を拝見し全体のページを繰ってみただけでも、全体がいかにバランスの取れた重厚なご著述であるかがわかります。
わたくしは、とくに矯正については、人間的・人道的なものが根底になければならないものと信じる者でありますが、いま、とりあえず、ご高著のうち、まず「老人受刑者の処遇」の項を拝見して、非常に深い感銘を受けました。このようなお考えこそが、矯正の真髄であろうと存じます。しかも、理念だけでなく、極めて実際的にみていらっしゃるのに、敬服いたしました。これから他の部分をも次々に拝読してご教示を受けるのを楽しみにしております。
これは非売品の由、残念に存じます。いずれ何らかの形で公刊されれば、どれほどか世の中を裨益するところが大であろうと存じます。いずれにせよ、わたくしがただいま準備中の「刑法綱要総論」の第三版には文献として引用させていただきたいものと考えています。
いつか拝眉の機会を得たいものと存じます(雑事に追われてなかなか時間がとれませんが)、ご退官後のアドレスなど、お知らせくだされたく、願い上げます。
とりあえず、書中をもってご芳情に対しあつく御礼を申し上げますとともに、今後とも、いっそうご自愛、ご活躍あらんことを、お祈り申し上げます。敬具
一九九〇・二・二〇 団藤重光
坂口の指示による「矯正行政の理論と展開」の献本に対する礼状なのだが、大先生からこのような身に余るお褒めの言葉を頂くとは思ってもみなかった。
すっかり嬉しくなって、坂口にこの手紙の写しを送ったのである。
そうしたら、暫く経って坂口から
「井上先生と相談の上、この本に登載した論文で法学博士審査の手続きに入れるよう目下手配中だからしばらく様子をみろ」
と言ってきたのである。
坂口は30歳代で既に法学博士号を取得しているから簡単に言うが、そんな甘い話ではあるまい、とは思いつつも少しは期待するところもあって待っていたら、果たして
「あのままの論文ではダメだ。あの中からいくつかの論文を選び出して正規の論文形式に書き直せ」
と言ってきたのである。
60歳を過ぎて、先行き見通しが必ずしも立たないままそんな大仕事をやる気力も体力もないよ、と言ったものの、坂口が
「俺もできるだけ指導してやるから泣き言を言わずに頑張れ」
と叱咤激励され、それからなんとか二人三脚みたいな恰好で「博士論文」風のものをでっち上げ、改めて印刷に回して審査手続きに載せることができたのである。
坂口の指導と助力がなければ到底できない作業であった。
このあたりの事情は、その頃私の住むところから一番近い鎌倉にいた青野だけには報せていた。
「三金会雑記」1992年・19号で青野は「身辺雑記」としてこのことに触れている。
「小野義秀が六〇過ぎて博士論文を書き始め、途中ブスクサ文句を言ってはいたものの、とうとう、この二月の十日に法学博士を授与された、と言ってきた。六十過ぎての博士号は、最早、地位にも権力にも関係なく、ただ一つ、名誉の勲章にしかならないが、この歳になると何故か懸命に尽くした過去の仕事を、なんらかの形で総括してみたいものである」
博士号は「脚の裏に付いた飯粒」だという。「取らないと気持ちが悪いが、取っても食えない」からだという。学者仲間の戯言だろうが、青野が言うように、その後の実生活の上で学位が直接役立つことはなかったが、それまで生きてきた人生の肯定的な証としては、その後に貰った勲章(勲3等)よりは個人的には価値あるものだったと思う。
最後に、改めて言う「坂口よ 有難う」。