図書館で 編集発行 加藤規四夫 「山想山歩の集ひ」を読み書きしてきました。
40ページほどの手作り月刊誌で会員の山歩記、写真などが多数掲載されて楽しみ!
山想山歩の集ひ No249 =平成18年正月号= を転載します。
ー今は昔ー 鈴鹿今昔物語(九) 加藤規四夫
先月号は思いがけず、中島伸男さんからお便りを頂き懐かしさのあまりこの今昔物語に掲載させていただきました。当時の記録メモが奇蹟的に残ってゐて、昭和58年1月15日 50ccバイクを駆って、鈴鹿最南端油日岳~三国岳を初登頂その夜関町の旅籠(ハタゴ)泊まり、翌朝坂下峠から稜線を那須ヶ原岳へ。そこで薄雪かむった頂上で中島伸男さんに対面した。
いまにして思えば、これこそ日本の山の親和力でせうか、薄雪つもる頂上で何のためらいもなく、ほんとうに、ごく自然に坐り込んで一時間、いや一時間半も鈴鹿の山の話をしたのであった。
こんな出合いは人見知りする私に前後例のないこと、お互いに鈴鹿の山に魅入られた魂の出会いではなかったのかと、しみじみ思ひ知らされたのであった。
「山想山歩の集ひ」誌の創刊は半年後の昭和58年7月の事である。その後たびたび玉稿を戴き中でも10回以上連載された「八風峠」は過去、現在、未来にわたり再びは書かれない峠の歴史である。
「集ひ」初期10年の足跡はその都度この誌上に再録させて頂きますから御愛読と記録保存をお願します。
以上
鈴鹿のガイドブック
→http://www.ne.jp/asahi/viento/suzuka/book/
鈴鹿の山ハイキング
→http://www.ne.jp/asahi/viento/suzuka/book/nishiuchi.html
21世紀通信 山想山歩の集ひを読む 143号より転載
さて、いつも通り今昔物語を続けます。
山想山歩の集ひ第七号 21世紀通信社発行 昭和59年2月20日
この年は鈴鹿至上初めての"59豪雪"の年で冬の90日間、名古屋でも40回降雪、鈴鹿の山では毎日降雪、
御在所岳スキー場では最高230cmの降雪量に達してゐた、藤原、御池岳は4m、5mだったと推測される。
唯一登頂した「鎌ヶ岳」の頂上に達した時、あの巨石郡も神社のおやしろも雑木さへもすべて真っ白に平坦、
思わずここが頂上か見廻したほど北も南も鈴鹿山脈はすべて白々、
あんな雪山は二度と見ることはできなかったのである。
思い出ははいくらでもあるが今回は見送って置く・・・・・・
・・・・・途中省略・・・・・
昭和55年から鈴鹿の山へ毎週20年、日本の山河は惜しみなくあらゆることを教えてくれ、また楽しませてくれり。
25年前 21世紀を見通し、単独山行から「山想山歩の集ひ」の行動も飽食暖衣の夢さめて、
21世紀をどう迎えどのように生きていけばよいか。
日本と世界がすべてその方途に送ってゐる時私たちの生き方が20年の昔から一貫してゆるぎなく今にまで来たり、
また21世紀を悠々と迎える」ことができると自信をもって充分である所まで来てゐるのである。
第七号の奥付(オクヅケ)の「21世紀通信」の一語で懐旧は限りない。
40ページほどの手作り月刊誌で会員の山歩記、写真などが多数掲載されて楽しみ!
山想山歩の集ひ No249 =平成18年正月号= を転載します。
ー今は昔ー 鈴鹿今昔物語(九) 加藤規四夫
先月号は思いがけず、中島伸男さんからお便りを頂き懐かしさのあまりこの今昔物語に掲載させていただきました。当時の記録メモが奇蹟的に残ってゐて、昭和58年1月15日 50ccバイクを駆って、鈴鹿最南端油日岳~三国岳を初登頂その夜関町の旅籠(ハタゴ)泊まり、翌朝坂下峠から稜線を那須ヶ原岳へ。そこで薄雪かむった頂上で中島伸男さんに対面した。
いまにして思えば、これこそ日本の山の親和力でせうか、薄雪つもる頂上で何のためらいもなく、ほんとうに、ごく自然に坐り込んで一時間、いや一時間半も鈴鹿の山の話をしたのであった。
こんな出合いは人見知りする私に前後例のないこと、お互いに鈴鹿の山に魅入られた魂の出会いではなかったのかと、しみじみ思ひ知らされたのであった。
「山想山歩の集ひ」誌の創刊は半年後の昭和58年7月の事である。その後たびたび玉稿を戴き中でも10回以上連載された「八風峠」は過去、現在、未来にわたり再びは書かれない峠の歴史である。
「集ひ」初期10年の足跡はその都度この誌上に再録させて頂きますから御愛読と記録保存をお願します。
以上
鈴鹿のガイドブック
→http://www.ne.jp/asahi/viento/suzuka/book/
鈴鹿の山ハイキング
→http://www.ne.jp/asahi/viento/suzuka/book/nishiuchi.html
21世紀通信 山想山歩の集ひを読む 143号より転載
さて、いつも通り今昔物語を続けます。
山想山歩の集ひ第七号 21世紀通信社発行 昭和59年2月20日
この年は鈴鹿至上初めての"59豪雪"の年で冬の90日間、名古屋でも40回降雪、鈴鹿の山では毎日降雪、
御在所岳スキー場では最高230cmの降雪量に達してゐた、藤原、御池岳は4m、5mだったと推測される。
唯一登頂した「鎌ヶ岳」の頂上に達した時、あの巨石郡も神社のおやしろも雑木さへもすべて真っ白に平坦、
思わずここが頂上か見廻したほど北も南も鈴鹿山脈はすべて白々、
あんな雪山は二度と見ることはできなかったのである。
思い出ははいくらでもあるが今回は見送って置く・・・・・・
・・・・・途中省略・・・・・
昭和55年から鈴鹿の山へ毎週20年、日本の山河は惜しみなくあらゆることを教えてくれ、また楽しませてくれり。
25年前 21世紀を見通し、単独山行から「山想山歩の集ひ」の行動も飽食暖衣の夢さめて、
21世紀をどう迎えどのように生きていけばよいか。
日本と世界がすべてその方途に送ってゐる時私たちの生き方が20年の昔から一貫してゆるぎなく今にまで来たり、
また21世紀を悠々と迎える」ことができると自信をもって充分である所まで来てゐるのである。
第七号の奥付(オクヅケ)の「21世紀通信」の一語で懐旧は限りない。