シャーマンの呼吸

自然と人を繋ぐ

シャーマンの弟子

どれだけ愛で紡げるか

2024-01-06 00:00:00 | 創作術

自分のエネルギーが枯渇してくると
誰かから奪いたくなってしまう
見返りを求めたくなってしまう

けれども、そうではなく
『循環』を意識する

大きな流れが在るのを感じて
その中に身を置いて
『循環』を感じる

 

 

下記、個人的体験談ーーー

 

【消費される自分から、循環する自分へ】

 

『気を練る・文章を練る』
このふたつは、よく似ている。

文章を発表したとき、読者から同じようなエネルギー量が返ってくることがある。
そのとき、わたしの文章は「消費された」のではなく、「読まれた」のである。

 

 

はじめに、「自分が消費される感覚」について書こうと思う。
「欲を満たすためだけに、《簡易で便利な部品》として使い捨てられるような感覚」と言い換えてもいいだろうか。

わたしは、何かを作って発表したときに、「客に消費されている」と感じることがとても多かった。
でも、わたしの『作り方』がまずかったのだと思う。
だって、「自分の身を削って」作っていたんだもの。

睡眠食事、健康、プライバシー、それらを度外視した制作を続けてきた。
現実逃避的で、つまり、生きることから逃げていた。

出来上がったものを発表したとき……どうだろう。
身を削って作ったものを、「消費」されて、また身を削られる感覚を味わう。

もっと恐ろしいのは、誰かの評価で、自分の価値が大きく左右される感覚を味わうこと。
上昇気流に乗せられて舞い上がり、そのまま地面にストーンと落とされる、みたいな。

さらに、自分を害して作ったものは、作品そのものが、脆い。
どんなに一生懸命だったとしても。どんなに「よくできた」と信じ込んでも。
表面だけカタチにしたって、ただただ脆い。

どうしても、脆い。
その原因は、具体的に言えば『練っていない』ことだ。

たとえば。
『気を練る・文章を練る』
このふたつは、よく似ている。

気を練ると、空気に弾力が生まれるだろう。
それと同じで、文章を練ると、弾力のある丈夫な文章になるんだ。
読み手は、その奥行きを、感じる……。
……そういうとき、想いが届く、ということが起きるのかもしれない。

でも、練るには、まずちゃんと自分を観なきゃ無理なんだよ。
自分を無視して、丹精込めて練ることなんて、できないんだよ。

 

 

さいごに、「循環」について書こう。
これは、ただ、実感だ。

睡眠食事、健康、プライバシー、これらを優先とし、練って書いた文章を発表すると、読者から同じようなエネルギー量が返ってくることがある。

そのとき、わたしの文章は「消費された」のではなく、「読まれた」のである。

読んでもらえるように書くと、読んでもらえる。

たったそれだけのことだが、やっとわかった。

読んでもらえると、うれしくて、また書こうと思う。

自分のために、読者のために、また練ろうと思う。

きっと、何かを創ることの喜びは、ここにあるのかもしれない。

 

以上ーーー

 

そうして、わたしは、また筆を取る

 

作者と読者のエネルギー交換

 

愛の循環

 



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