銅相場7130$と急激に戻しています2/7 早朝2時
仮定銅はTTB101.87円770円 これなら JXさんの国内銅建値も 維持できそうですが 米$が豪州$やレアルにも 数日 下げてきている
豪$が1/24でピーク その後に回復中
レアルは1/29辺りをピークに 多少戻しかけている傾向 トルコ通貨も1/24がピークで12/16以降は10%も売られてきていた
----この流れが 新興国通貨安の流れ
南アフリカのランドが1/29 これも ピークを打ったかも知れない
全て 資源国通貨でも ある
---こんなのも見ています一応ワシはグローバルな屑商
円も1/21頃から 円が買われていまして 2/3頃より
輸出商としては 最悪の為替状況が続いています
1/1の105円が2/3には101円割れですから
4%円高方向というのは腰が抜けそうな円高の悪影響を受けています最中でして 苦しんで おりますよ
国内で 一億の資源屑を保有していたら $ベースなので 同じ相場で 資源が固定していたとしても為替で9600万に負け その上に この2週間 銅などの資源相場が$ベースで下げ続けていたら 痛む
4%+4%痛むと8%痛んだとなり1億は9200万になる
投資家の心理を示す VIX恐怖指数も数日前のピーク21.5からは 19%下落基調にある(2/7 3時現在)
ワシの手元に 日々の 各店舗の在庫が集約されるのが20時で その単価は 日々 調整しているので かなり日々 動きが 激しくて こういう時期は 辛い日々が続きます訳で
VIX指数と 同じように 心臓が鼓動しています
エクセルの単価を入れなおすのが 恐い日もありますの・・・ですね
とにかく 相場で大もうけしちゃろうと思ってはいても
現実は 下がる気配ならば 下がりそうな日には
仕入先が 次々に 持ってきてくださるので それは 断り難いものなので
商い ですから 常に笑顔で 仕入れはし続けなくては ならないし 難しい所です
シャッターを閉めてしまうような 日が 作れれば
相場には 勝つ確率は高まるが そうも いかないので 苦しい わけなのョ
何時も 買います 買います 関西一高く買います って
こうして宣伝をするので 集るが 安くちゃ集らない
集らなければ 1円でさえも 儲からない
とにかく 相場で儲けようが 損しようが
集めるしか 能がない クズ屋稼業は集めてなんぼなの
会社は家に近い存在 という古臭い神道の思想があるので まあ 余計に厳しい と言う事もあるが
---されど 1月 2月は 厳しくて あたりまえ
お見苦しい ブログを書いていますな
しかし それは 仕方がないの
ワシの脳みその中の
日記を書いているので 仕方がない
相場を考えると しんどいので 古代史の勉強に行きましょうか そや また 何かと 昨日も 祝詞の古い写真を
長男と 長男の長男とで 岡山の祠を開いて 中に入ってその写真を送ってくたので
そやな ワシが他界した後は その長男が祠を守って
その後は その長男が 今 0歳なので 祠は守っていくストーリーは エエと思うので
興味を持ってくれるのは歓迎ですな
ワシの長女にも 男の子5歳が おるので 彼も 興味を持っていくように したいと思う
物部 とか 蘇我氏 藤原氏 とか 検索していくと
いろんな事が 解かっていく もつれた糸は ゆっくりとは解けていくはずだと 思っているの
物部氏一族は 何故 封印されたのかなどにも とても興味深い
日本の古代からの 神道 って 何時から始まったのか とかさ 百済仏教が 何時 現れたのかも 興味津々なの 百済 と 言えば 滅亡した時期も とても 関係すると空想を巡らしていますのです
ワシの住む 大阪府高槻市にも 変わった地名がご近所にあるの
唐崎 唐って ニッポンの地名とは思えない
三島鴨神社は 歴史が古いと 神社の本にも 書いてるが この辺りの神社 何社か ゴウヒ するに 三島付近の 渡来人が 協力をしたのだ とか 出てくる
淀川を下れば 大阪湾なので その淀川を 京都と住吉の ちょうど中間地点の 川の中洲に その神社は建立されていたと聞きます
海のほうから 渡来系の方々が 多く この三島 高槻市付近にも住み着いたと思う
それは百済から来られたか 中国のほうから その以前数百年前頃に来られたかは よくは存ぜぬが 渡来系が 淀川を登ってきて 住み着いたことは 間違いないと思う
そうですねん ワシの本社土地の個人で所有する土地の地目も 遺構 とする 面積が かなり あるの
平安時代などでは 平安の貴族が 船遊びを していたのが 高槻市付近の淀川や と聞いている
ワシの本社すぐ西20mのほうでは 鳥飼 という 摂津の地名もあるので 鳥を飼って 鵜飼でも していたか 鳥の食肉関係があったのかも 知れないね
鳥飼は その昔 ケガレもあったと思う
その昔の鶏小屋の 跡地には 住宅ではなく 準工業地区が 適していたかも しれない
古くから 住まいの村の人は 知っている場合が多いのよ
そやな 今日は いい国作ろう1192年から
1333鎌倉幕府滅亡の頃 この時代では 後醍醐天皇もおられて この後醍醐天皇は南北朝時代や
この天皇は 出雲街道を沿って 隠岐のほうへ流罪に一時的になってしまう この街道には その記録が多く残っていて 兵庫県三日月町にも弓の木という場所があり
ワシの故郷 美作国 楢原にも 休憩の場所が 今でも保存されています
まあ それはおいておきまして
鎌倉幕府の滅亡に関わったのが
現在のワシにも 関係してる デラ雑品の堀口家だね
デラ雑品の堀口社長(福井県出自)(デラの株は半分は藤内【東内誠】保有)とは 数百年まえには 敵同士であったような 不思議な古代史
堀口氏や新田氏が 先陣をきって 鎌倉に攻め込んだ
以下は 暫く 他人様のコピー『』
『巨福呂坂の名が始めて吾妻鏡に見られたのは、嘉禎元年(1235)十二月二十日の条で、次のように述べられている。
旧巨福呂坂の庚申塔
四代将軍藤原頼経が疱瘡の病にかかったので、病気治癒のご祈とうを御所の南庭にて行う。夕方に及んでより四角四境祭(陰陽道の災いを除く儀式。鎌倉幕府では、幕府の四隅でまつるのを四角祭。鎌倉の境界外部で行うのを四境祭という。:鎌倉事典)を行うとあり、この条の文中に四境として当時の鎌倉の境界に当たる巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬の地名が書かれている。
その後の仁治元年(1240)十月十日に北条泰時の屋敷において、山ノ内に道路建設に関し沙汰があり、安東藤内左衛門尉(光成)が担当する事が決められた。
同じ月の十九日に北条泰時の沙汰として、山ノ内の道路建設が決定される。これは山ノ内が険難であるので往来に難儀する事からである。
このように巨福呂坂建設の由来が具体的に
吾妻鏡に記録されている。
それから十年後の建長二年(1250)六月三日に、巨福呂坂及び朝夷奈の切通が落石などにより大分痛んだので改修工事をするように指示が安東藤内にあった、と述べられている。
その後の史料としては、太平記に元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに巨福呂坂の名が見える。
「新田義貞はその軍勢を三方面に分け、各々の方面軍に二人の大将を付け全軍の指揮を執った。第二軍は堀口三郎貞満を上将軍とし、大島讃岐守を副将軍として、総勢十万余騎にて巨副呂坂へ差し向けた。」
この時代平成では 現代は.トーナイとも
仲の良い 堀口氏が 鎌倉幕府を攻めた 先陣を切ったといってもいいだろう その他では攻め込んだ者は 新田もおった なんか新田は嫌い
堀口は 嫌いとか 好きとか 言ってられないよ
社団法人のワシが理事長で 堀口が専務理事なので、堀口の話題は さておいて
安東と 藤内は この近年200年ほどでも 何度も何度も 嫁にいったりして 長い時代 血が交わり 繋がっている
この史書にも書いてあるとおりのような関係なのか?
美作の人は 知っている
神宿の人は 知ってる と思う
この血は 道路建設もするだろうし 祈りもする
汚れ 穢れもやるし また それを清めもする だろう
しかし
殿が行けと 言われれば 行く道 いくのみ
そういう血が 多分流れているふしがある
なんと言うか もののけの美学は 多少は 持ってると思う
もののけ の美学
また 少し話が飛びますが
乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした
ワシは物部は 長いこと差別を受けてきたと 空想していましたが どうも 間違っているようで 物部は 日本古来の人類というか そういった古代からの日本人であり
600年台に 物部と 百済仏教の政争が あって 血生臭い戦いがあり その後 900年ほどの期間 物部の元もとの古代人が 零封された経緯が実際はあったかも 知れない と 気がしてきているの・・・
元からの 古代からの 物部などは 織田信長と 秀吉によって 解放され 元の 平民に戻ったと 何処かで読んだ
そうなんだよね 第一期の 差別の村の始まりと終わり解放と その後の 差別の始まり・・・・・
この先は もっと詳しく調べてみないけば 読めないし
書いたら あかんとも思う
ケガレの意識の追求 かなり 進んできてるの・・・
今日はこの辺で この下は 家の歴史の宣伝と
わが社の宣伝です
ワシの会社のHPも 日々更新していますので
是非 お気に入りに入れて戴ければ 嬉しいです
http://www.tohnai.com/top_main.html
■『陰陽五行と日本の民俗』からのなかで,『鉄山秘書要約』を次のように解析している。
「七月は申(サル)月であるから, 金屋子神は申月申刻に天降りされた。 申は金気の始め, また七日の七も七赤金気で, 金気の象徴。 次ぎに西方に向かって白鷺に乗って行かれたというが, 西・白・鳥はいずれも金気である。このように時間・空間・色彩・十二支において,金気ずくめの金屋子神は,「土生金」の理で,土が二つも重なっている桂の木に止まり,最上の呪物土気である死体,それも生類の霊長としての人間の死骸を最も好まれる。それらすべて一部の隙もない五行の理の応用であり,反映であって,昔の日本人が如何に五行の呪術に凝っていたか,歴然たるものがある。同時に裏を返せば,そこに見られるのは自らの仕事に対するあふれるばかりの忠誠心であって,後代の私どもは深く感動させられるのである。」
このことからも,
①楢原邑に始めて「中山大神」として示現した神は,午(ウマ)の最盛期を選んで出現したことから,この神が「火」を中心とした神格と認識されたとして間違いないであろう。②一体どのような火であるか,火の種類については今のところ明確ではない。
しかし, この神が
東内(藤内)の矛殿・五座の鉾石など鉾を属性としていることからも,鉾などの武器製造に不可欠な金属溶鉱・鍛治の火(炉)を象徴していた可能性は高いと考えられる。
■ 東内(藤内の祖)に神が示現したのが慶雲三年,丙午の年の五月上旬(二の午の日)とある。二の午の日がわたしには解らない。当時は月を上・中・下旬とせず,上・下旬に二分していたものなら「二番目の午日」はおさまる。しかし,旬を原則どおり十日単位とした場合には,十二支を一巡とする午日が二度現れるはずがないのだが。この点については,是非どなたかにご教示をお願いしたい。
とにかく,この年の干支(カンシ)は丙午であって, 日時ははっきりしないが,日の方は干支の干が不明なるも支は明確に「第二の午日」と言う。ちなみに,旧暦の五月は夏の盛りの「午」月でもある。すると.
仮定銅はTTB101.87円770円 これなら JXさんの国内銅建値も 維持できそうですが 米$が豪州$やレアルにも 数日 下げてきている
豪$が1/24でピーク その後に回復中
レアルは1/29辺りをピークに 多少戻しかけている傾向 トルコ通貨も1/24がピークで12/16以降は10%も売られてきていた
----この流れが 新興国通貨安の流れ
南アフリカのランドが1/29 これも ピークを打ったかも知れない
全て 資源国通貨でも ある
---こんなのも見ています一応ワシはグローバルな屑商
円も1/21頃から 円が買われていまして 2/3頃より
輸出商としては 最悪の為替状況が続いています
1/1の105円が2/3には101円割れですから
4%円高方向というのは腰が抜けそうな円高の悪影響を受けています最中でして 苦しんで おりますよ
国内で 一億の資源屑を保有していたら $ベースなので 同じ相場で 資源が固定していたとしても為替で9600万に負け その上に この2週間 銅などの資源相場が$ベースで下げ続けていたら 痛む
4%+4%痛むと8%痛んだとなり1億は9200万になる
投資家の心理を示す VIX恐怖指数も数日前のピーク21.5からは 19%下落基調にある(2/7 3時現在)
ワシの手元に 日々の 各店舗の在庫が集約されるのが20時で その単価は 日々 調整しているので かなり日々 動きが 激しくて こういう時期は 辛い日々が続きます訳で
VIX指数と 同じように 心臓が鼓動しています
エクセルの単価を入れなおすのが 恐い日もありますの・・・ですね
とにかく 相場で大もうけしちゃろうと思ってはいても
現実は 下がる気配ならば 下がりそうな日には
仕入先が 次々に 持ってきてくださるので それは 断り難いものなので
商い ですから 常に笑顔で 仕入れはし続けなくては ならないし 難しい所です
シャッターを閉めてしまうような 日が 作れれば
相場には 勝つ確率は高まるが そうも いかないので 苦しい わけなのョ
何時も 買います 買います 関西一高く買います って
こうして宣伝をするので 集るが 安くちゃ集らない
集らなければ 1円でさえも 儲からない
とにかく 相場で儲けようが 損しようが
集めるしか 能がない クズ屋稼業は集めてなんぼなの
会社は家に近い存在 という古臭い神道の思想があるので まあ 余計に厳しい と言う事もあるが
---されど 1月 2月は 厳しくて あたりまえ
お見苦しい ブログを書いていますな
しかし それは 仕方がないの
ワシの脳みその中の
日記を書いているので 仕方がない
相場を考えると しんどいので 古代史の勉強に行きましょうか そや また 何かと 昨日も 祝詞の古い写真を
長男と 長男の長男とで 岡山の祠を開いて 中に入ってその写真を送ってくたので
そやな ワシが他界した後は その長男が祠を守って
その後は その長男が 今 0歳なので 祠は守っていくストーリーは エエと思うので
興味を持ってくれるのは歓迎ですな
ワシの長女にも 男の子5歳が おるので 彼も 興味を持っていくように したいと思う
物部 とか 蘇我氏 藤原氏 とか 検索していくと
いろんな事が 解かっていく もつれた糸は ゆっくりとは解けていくはずだと 思っているの
物部氏一族は 何故 封印されたのかなどにも とても興味深い
日本の古代からの 神道 って 何時から始まったのか とかさ 百済仏教が 何時 現れたのかも 興味津々なの 百済 と 言えば 滅亡した時期も とても 関係すると空想を巡らしていますのです
ワシの住む 大阪府高槻市にも 変わった地名がご近所にあるの
唐崎 唐って ニッポンの地名とは思えない
三島鴨神社は 歴史が古いと 神社の本にも 書いてるが この辺りの神社 何社か ゴウヒ するに 三島付近の 渡来人が 協力をしたのだ とか 出てくる
淀川を下れば 大阪湾なので その淀川を 京都と住吉の ちょうど中間地点の 川の中洲に その神社は建立されていたと聞きます
海のほうから 渡来系の方々が 多く この三島 高槻市付近にも住み着いたと思う
それは百済から来られたか 中国のほうから その以前数百年前頃に来られたかは よくは存ぜぬが 渡来系が 淀川を登ってきて 住み着いたことは 間違いないと思う
そうですねん ワシの本社土地の個人で所有する土地の地目も 遺構 とする 面積が かなり あるの
平安時代などでは 平安の貴族が 船遊びを していたのが 高槻市付近の淀川や と聞いている
ワシの本社すぐ西20mのほうでは 鳥飼 という 摂津の地名もあるので 鳥を飼って 鵜飼でも していたか 鳥の食肉関係があったのかも 知れないね
鳥飼は その昔 ケガレもあったと思う
その昔の鶏小屋の 跡地には 住宅ではなく 準工業地区が 適していたかも しれない
古くから 住まいの村の人は 知っている場合が多いのよ
そやな 今日は いい国作ろう1192年から
1333鎌倉幕府滅亡の頃 この時代では 後醍醐天皇もおられて この後醍醐天皇は南北朝時代や
この天皇は 出雲街道を沿って 隠岐のほうへ流罪に一時的になってしまう この街道には その記録が多く残っていて 兵庫県三日月町にも弓の木という場所があり
ワシの故郷 美作国 楢原にも 休憩の場所が 今でも保存されています
まあ それはおいておきまして
鎌倉幕府の滅亡に関わったのが
現在のワシにも 関係してる デラ雑品の堀口家だね
デラ雑品の堀口社長(福井県出自)(デラの株は半分は藤内【東内誠】保有)とは 数百年まえには 敵同士であったような 不思議な古代史
堀口氏や新田氏が 先陣をきって 鎌倉に攻め込んだ
以下は 暫く 他人様のコピー『』
『巨福呂坂の名が始めて吾妻鏡に見られたのは、嘉禎元年(1235)十二月二十日の条で、次のように述べられている。
旧巨福呂坂の庚申塔
四代将軍藤原頼経が疱瘡の病にかかったので、病気治癒のご祈とうを御所の南庭にて行う。夕方に及んでより四角四境祭(陰陽道の災いを除く儀式。鎌倉幕府では、幕府の四隅でまつるのを四角祭。鎌倉の境界外部で行うのを四境祭という。:鎌倉事典)を行うとあり、この条の文中に四境として当時の鎌倉の境界に当たる巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬の地名が書かれている。
その後の仁治元年(1240)十月十日に北条泰時の屋敷において、山ノ内に道路建設に関し沙汰があり、安東藤内左衛門尉(光成)が担当する事が決められた。
同じ月の十九日に北条泰時の沙汰として、山ノ内の道路建設が決定される。これは山ノ内が険難であるので往来に難儀する事からである。
このように巨福呂坂建設の由来が具体的に
吾妻鏡に記録されている。
それから十年後の建長二年(1250)六月三日に、巨福呂坂及び朝夷奈の切通が落石などにより大分痛んだので改修工事をするように指示が安東藤内にあった、と述べられている。
その後の史料としては、太平記に元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに巨福呂坂の名が見える。
「新田義貞はその軍勢を三方面に分け、各々の方面軍に二人の大将を付け全軍の指揮を執った。第二軍は堀口三郎貞満を上将軍とし、大島讃岐守を副将軍として、総勢十万余騎にて巨副呂坂へ差し向けた。」
この時代平成では 現代は.トーナイとも
仲の良い 堀口氏が 鎌倉幕府を攻めた 先陣を切ったといってもいいだろう その他では攻め込んだ者は 新田もおった なんか新田は嫌い
堀口は 嫌いとか 好きとか 言ってられないよ
社団法人のワシが理事長で 堀口が専務理事なので、堀口の話題は さておいて
安東と 藤内は この近年200年ほどでも 何度も何度も 嫁にいったりして 長い時代 血が交わり 繋がっている
この史書にも書いてあるとおりのような関係なのか?
美作の人は 知っている
神宿の人は 知ってる と思う
この血は 道路建設もするだろうし 祈りもする
汚れ 穢れもやるし また それを清めもする だろう
しかし
殿が行けと 言われれば 行く道 いくのみ
そういう血が 多分流れているふしがある
なんと言うか もののけの美学は 多少は 持ってると思う
もののけ の美学
また 少し話が飛びますが
乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした
ワシは物部は 長いこと差別を受けてきたと 空想していましたが どうも 間違っているようで 物部は 日本古来の人類というか そういった古代からの日本人であり
600年台に 物部と 百済仏教の政争が あって 血生臭い戦いがあり その後 900年ほどの期間 物部の元もとの古代人が 零封された経緯が実際はあったかも 知れない と 気がしてきているの・・・
元からの 古代からの 物部などは 織田信長と 秀吉によって 解放され 元の 平民に戻ったと 何処かで読んだ
そうなんだよね 第一期の 差別の村の始まりと終わり解放と その後の 差別の始まり・・・・・
この先は もっと詳しく調べてみないけば 読めないし
書いたら あかんとも思う
ケガレの意識の追求 かなり 進んできてるの・・・
今日はこの辺で この下は 家の歴史の宣伝と
わが社の宣伝です
ワシの会社のHPも 日々更新していますので
是非 お気に入りに入れて戴ければ 嬉しいです
http://www.tohnai.com/top_main.html
■『陰陽五行と日本の民俗』からのなかで,『鉄山秘書要約』を次のように解析している。
「七月は申(サル)月であるから, 金屋子神は申月申刻に天降りされた。 申は金気の始め, また七日の七も七赤金気で, 金気の象徴。 次ぎに西方に向かって白鷺に乗って行かれたというが, 西・白・鳥はいずれも金気である。このように時間・空間・色彩・十二支において,金気ずくめの金屋子神は,「土生金」の理で,土が二つも重なっている桂の木に止まり,最上の呪物土気である死体,それも生類の霊長としての人間の死骸を最も好まれる。それらすべて一部の隙もない五行の理の応用であり,反映であって,昔の日本人が如何に五行の呪術に凝っていたか,歴然たるものがある。同時に裏を返せば,そこに見られるのは自らの仕事に対するあふれるばかりの忠誠心であって,後代の私どもは深く感動させられるのである。」
このことからも,
①楢原邑に始めて「中山大神」として示現した神は,午(ウマ)の最盛期を選んで出現したことから,この神が「火」を中心とした神格と認識されたとして間違いないであろう。②一体どのような火であるか,火の種類については今のところ明確ではない。
しかし, この神が
東内(藤内)の矛殿・五座の鉾石など鉾を属性としていることからも,鉾などの武器製造に不可欠な金属溶鉱・鍛治の火(炉)を象徴していた可能性は高いと考えられる。
■ 東内(藤内の祖)に神が示現したのが慶雲三年,丙午の年の五月上旬(二の午の日)とある。二の午の日がわたしには解らない。当時は月を上・中・下旬とせず,上・下旬に二分していたものなら「二番目の午日」はおさまる。しかし,旬を原則どおり十日単位とした場合には,十二支を一巡とする午日が二度現れるはずがないのだが。この点については,是非どなたかにご教示をお願いしたい。
とにかく,この年の干支(カンシ)は丙午であって, 日時ははっきりしないが,日の方は干支の干が不明なるも支は明確に「第二の午日」と言う。ちなみに,旧暦の五月は夏の盛りの「午」月でもある。すると.