集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

【通常営業】AI VS 演算しかできない(弊社の)バカ大学生&OB

2021-04-26 11:44:16 | 兵隊の道・仕事の話
 最近のAIくんはとても賢く、YoutubeでもAmazonでも、「なんでここまでわかるの?」というレベルの精度の高い検索結果を出してくれますし、「おすすめ」なんかを見ると「なんでこんなに、ワタクシの趣味嗜好がわかるの?」というものを表示してくれます。
 また、わけのわからん外国語でも、Google翻訳君が「うん、言わんとするところは、まあまあわかるね」という程度の翻訳を瞬時に行ってくれます。
 いや~、世の中進歩したものです(しみじみ)。
 
 わが国のAI研究に目を転じてみましても、平成23年から開始された「ロボットは東大に入れるか?」という人工知能プロジェクト、いわゆる「東ロボくんプロジェクト」は、わが国のみならず、世界中からAI研究の白眉として多くの耳目を集め、平成28年にはNetexpo Awardという賞も受賞。その結末(10年計画だそうです)に注目が集まっております。
 で、今回のお話はその「東ロボくんプロジェクト」から伸ばしていきます。

 同プロジェクトリーダー・新井紀子氏が「東ロボくんプロジェクト」を進める過程で判明した数々の「真実」をまとめた「AI VS 教科書の読めない子供たち」(東洋経済新報社刊)は、非常な驚きを以て世間に迎えられ、大きな話題を呼びました。
 その「真実」は面白くも恐ろしく、また、「知能とお勉強」の深奥をズバリと衝いたものばかりであり、瞠目させられるところ大であったのですが、そのうちワタクシが着目したのは「演算の速さと知性の間には、何の関係性もない」という点です。

 同著いえらく。
「物凄いスパコンが登場したら、あるいは量子コンピューターが実用化されたら『真の意味でのAI』ができる、とか、シンギュラリティ(=singularity。真の意味でAIが人間の能力を超えること)が到来するという人がどうしてこんなにたくさんいるのか、以前から不思議でなりませんでした。1秒間の演算処理の回数と知性に、科学的な関係があるとは思えないからです。」
「頭の良い人のことを、『頭の回転が速い』と言いますよね。それは、単なる言葉の綾に過ぎません。ですが、それを科学的な事実だと誤解すると、『1秒間の演算処理回数=頭の良さ』と思い込んでしまう」
 
 わが国民には古来から「我々の想像もつかないような賢い人が、すばらしい知恵で我々を導いてくれる」といった思想が常に蔓延していますが、新井先生が指摘している通り、多くの国民が思う「賢い人」は「計算が早い人」とほぼ=で結ばれているため、その結果、教養やビジョンを持たない「計算だけ早い人」「お勉強だけできる人」をリーダーに頂きがちであり、そのせいで国や組織を傾けたこと、一度や二度ではありません。
 それがもっともわかりやすい形で表れたのが、皆様ご存じの大東亜戦争。
 シナ事変→大東亜戦争開戦→敗戦まで流れにおける本質を要約しますと、「お勉強しかできない、無教養な秀才君」が、戦略・戦術学や地政学、政治の力学といった、演算に先んじるべき「知性」の部分を全てすっ飛ばし、省益の確保だけを目的とした「演算」を行い、その「演算の解」以外の何も持たずに無計画にものごとを進め、わが国を未曽有の国難に叩き込んだ、と言い換えることが可能です。
 そうでなければ、あれほど場当たり・無責任・いい加減・優柔不断・中途半端・無慈悲な戦争指導ができるはずがありません。

 大数学者でもある新井先生が同著で指摘していたこととして、いまひとつ重要なポイントがあります。
 「数学」という学問が表現できることは論理・確率・統計の3つだけ、という点です。
 同著いえらく。
「数学が説明できるのは論理的に言えることと、確率・統計で表現できることだけだということです。つまり、数学で表現できることは非常に限られているということです。
 論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。そして、それが科学が使える言葉のすべてです。」
 
 確かに数学を用いれば、物事を論理的に証明でき、確率を正確に割り出し、正しい統計を取ることができます。 
 しかし残念なことに、人間様は論理的に動くことがほとんどありません。確率・統計のとおりに物事が進むこともありません。だいいち、人間様が論理的に動く生き物であれば、「行動経済学」とか「社会心理学」みたいな学問が立ち上がり、隆盛するはずがないでしょう(;^ω^)。
 同著によると「東ロボくんプロジェクト」で最もネックになっているのがこの箇所で、要はAIというのは、どれほど性能が向上しても、その根本は単なる「計算機」であり、論理・確率・統計の枠からはみ出たもの…つまり、フレームが決まっていないものに対して「的確な判断」を下すものに進化することは未来永劫絶対ありえない!とのこと。
 そのため「東ロボくん」は、理数系科目や暗記系科目には抜群に強いのですが、国語や英語の文章問題には極めて弱いという特色を有し、東大合格レベル…つまり、国立S級大学に合格できる読解力に到達することは「絶対に不可能」だそうです。
(ちなみに東大合格レベルの国語・英語の点数は『センター試験で9割以上を取ること』…最終学歴が自動車学校ワタクシは、30回くらい転生してもムリですね((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)
 
 と、ここまで解説してきて、ワタクシの脳の中に、いまだに「1秒間の演算処理回数=頭の良さ」との価値観を墨守し、没知性・無教養な幹部(患部?)を輩出し続けている学校が思い起こされました。
 そうです。弊ブログではおなじみになりました、弊社直轄・バカ養成大学です(;^ω^)。広島県の某所に所在してますですよ。

 弊社バカ大学で、学生に最重要課題として与えられるのは「高級海技士試験に合格すること」。
 海技士資格は1~6級まで存在し、1級に近づくほど難しくなっていくのは論を俟ちませんが、海技士資格の本質というのは、1~6級に至るまで「フレームが決まった勉強」でしかなく、決まりきったドリルをこなすことでなんとかなる、という程度のものでしかありません(←四級しか持ってないくせに…というご指摘は甘受いたします(;^ω^))。
 そしていくら高級な免状を持とうとも、それは「ドリルをこなして資格を取った」というだけの話であり、「その人の知性が高いから合格した」わけでもなければ、「その人の論理的思考力が高いから合格した」わけでもなく、ましてや「その人の操船能力が高い」ということの担保には、まったくなり得ていないのです。

 しかし、同じ大学で教育を受けたバ幹部(患部?)は、自らが受けてきた「1秒間の演算処理回数=頭の良さ」という認識を断ちがたく、その価値観から発展した「高級海技士試験に合格している=知性が高く、論理的な思考ができ、操船もうまい」という価値観に固執し続けています。
 そのゆがんだ価値観によって訓育された未熟・未完成なバカ学生が、卒業と同時に要職に就き、同じように「お勉強のできるバカ」であった先輩に職業訓練?を施され、ますます馬鹿に磨きがかかっていき、組織をダメにする…というスパイラルが、高いレベルで完成されたりしちゃってるんですねこれが(←昭和の名声優の故・広川太一郎さん風に読んでください(;^ω^))

 ちなみに同著によると、フレームの決まったドリルを繰り返しても論理的思考力や読解力は一切身につかず、逆にどこかの時点で、成績がダダ下りしていくそうです。
 そういえば、あのバカ大学の卒業生が発出する指示文書って、支離滅裂で意味不明な文書が多いよな…あっ…(察し)。
 また、このバカ大学が、教育の金科玉条として掲げる「演算の速さと記憶」という分野、実は計算機であるAIが最も得意とする分野であり、その技能をベースとする仕事は今後、AIに駆逐される可能性が最も高いとされています。
 …個人的な要望としては、「AI VS バカ大学」が実際に勃発し、AIにバカ大学を瞬殺してもらいたいなあ…(;^ω^)。

 ワタクシが拳拳服膺しているユダヤのことわざがあります。
「馬鹿に大きな学問を持たせてはいけない」
 本稿をここまで読んでいただいた方におかれましては、この言葉が持つ意味を、少しくご理解いただけたかな?と思っております。

 最後に余談ですが、ワタクシが専門とする武道・格闘技と雑文書き、そしてお絵描き(←ヘタクソ)は、AIくんがいくら発達してもダイジョーブな分野なので、少し安心してます(;^ω^)。

バカには「ムダ」が理解できない

2020-10-24 07:34:33 | 兵隊の道・仕事の話
 弊社では「昔、どこかの誰かが始めたから」という理由だけでずっと行われ続けている、まるで生産性のない愚かなことが、全国のあちこちで連綿と行われています。
 その最たるものは、バカな幹部…いや「患部」にお見せして差し上げている「各種展示訓練」でしょう。

 患部が己の虚栄心を満たす以外の用途を持たない展示訓練は、手を変え品を変えして、全国で広く行われております。
 ワタクシも100回以上は、この手の訓練?なるものに参加させられていますが、毎回毎回、実業務に資する何らの知識も技能も得られず、ただただ不愉快とストレスだけが蓄積されることから、ここ数年はこの手の訓練?を「猿芝居」と呼び続けています。
 ですので以後本稿でも、業務に何らの役に立たない展示訓練類のことを「猿芝居」と呼びます。

 まず、この手の猿芝居がいかにムダなことなのかというのを、順を追って考えてみます。

 当然のことですが、猿芝居には多数のフネ・ヒト・モノを必要とします。
 次にその猿芝居に巻き込まれたフネ・ヒト・モノに何が起きるか?見てみましょう。

 まず、フネは年がら年中、かなりタイトな行動を強いられていますが、そこの隙間に捻じり込まれた猿芝居が、タイトな行動をさらにタイトにします。
 つぎに、フネに乗っているヒトには2つの負担がかかります。
 まず、乗っているフネの行動がタイトになることで、乗組員は当然、休みが減ります。年度が終わるときにアホほど未処理の公休がたまっているなんてことは、ザラにあります。
 そして、猿芝居には何らかのシナリオ?らしきものが存在しますが、それを覚える手間もかかります。
 その内容は99.9999%の割合で「シナリオ通りにやることが、実業務の何らの役にも立たない」という、猿芝居中の猿芝居なのですが、そうしたムダ極まりない事前振付けが、さらにヒトの首を絞めます。
 そしてモノ。
 フネを動かせば油代が要ります。人件費もかかります。そして腹が立つことですが、展示訓練の観察者であるお偉方の旅費もかかります。

 このように、猿芝居は費用対効果が一切なく、フネ・ヒト・モノを無駄遣いする以外、何らの効果もないということが、なんとなくお分かりいただけると思います。

 ではなぜバ患部は、このムダ極まることを継続しているのか?
 ワタクシ、これまでずっとこの問いに対する答えを「虚栄心を満たすため」としていましたが、最近はそれにプラスし、下記の答えも付け加えるようにしています。
「馬鹿だから、ムダなことがムダとわかっていない」

 虚心坦懐に調べてみますと、猿芝居の多くは、昔々の大昔に、その猿芝居が発足した「当時」のみ、何らかの必要があって始めたことがほとんどです。
 しかし現在、それら猿芝居は、前提となるべきシチュエーションが消失していたり、その仕事自体がなくなっていたり、ディティールが変わっていたり…といった具合に、猿芝居発足当初の必要性が完全に焼失し、やる意味がまるでなくなっているもののほうが増えています。

 しかし、ここからがバ患部の面目躍如、バカのバカたるゆえんなのですが、こいつらは猿芝居が「ムダなこと」という理解がないのです。
 悪質な現状維持バイアスにのみ毒され、「昔からやってることだから」「なんとなくやらなきゃいけないことだから」というだけで、その本質を何ら顧みることなく、ダラダラと続けているだけ。そして無駄に兵隊の首を絞め、無駄なお金を垂れ流している。なんと愚かなことでしょうか。

 有名なピーター・ドラッガーは「必要のない仕事を止めれば生産性が上がる」と言っており、このことから多くのビジネス書では、「最大の費用対効果を生み出すコツは、やらないことを決めることだ」と結論づけています。
(まあ、その結果としての「コストカット」がいかがわしい方向に指向しまって失敗、という事例もいっぱいありますが(;^ω^))

 してみれば、うちの会社のバ患部は「ムダなことをムダとも気づかず、わからず、ムダを垂れ流し続け、人的・金銭的損失を増やし続けている」わけであり、民間の会社ならとっくの昔にクビが吹っ飛んでいるはずです。
 そんなのばっかりが上を占めているから、うちの会社はダメ会社なんだよ…ったく…国賊野郎が…

 最後のあたりにちょっとだけ本音がボロっと出ちゃいましたが(←わざと(;^ω^))、まあ、「ムダがムダとわからない」というのは、弊社に限らず「人の上に立つ人間としての資質がない」証拠であり、一日も早く物理的にタヒんでほしいなあ、と祈るばかりでございます。

「休めと言われて休めないヤツは、仕事をしろと言うときに出来ないヤツ」の科学

2020-10-14 19:20:04 | 兵隊の道・仕事の話
 表題に掲げた言葉は、何かの本で読んだものだったのか、はたまた職場で言われたことかは定かではないのですが…職場の上司・先輩に恵まれない人生を若いころから絶賛継続中(職歴25年で、真に尊敬できる上司・先輩は5人以下)のワタクシのこととて、おそらく前者だったんじゃないかと思うのですが、ワタクシが現場監督の場合は手下に対し、いつも表題のようなことを言ってやたらと休憩させ、職場の老害連中の冷たい視線(=ワタクシにとってはとても気分のいい視線)を浴びていますが、それはさておき。

 わが国には「働いている時間が単純に長ければ、それだけ生産性が上がっている証拠」と思い込んでいる馬鹿なヤツがたくさんいます。
 先ほどお話しした「わが社の老害」はまさにその呪縛にとらわれている、どうしようもない連中です。
 その連中は知らないことですが、実はどんな人間でも、作業量が多くなるにつれ、それに反比例して生産性やクオリティがダダ下がりしていきます。
 これは単なる経験則に非ずして、様々な学術論文が科学の目から証明しており、わが国に多い「長時間労働思考バカ」の戯言を一蹴するに足る証左となっております。

 たとえば、科学者を対象として「労働量」と「生産性」を秤にかけた調査研究をしたところ、
・週25時間分の作業をこなす人の生産性は、週5時間分の作業をこなす人のそれとほぼ変わらない。
・週35時間分の作業をこなす人は、週20時間分の作業をこなす人の半分しか、労働制がない
という結果だったそうです。
 この研究が意味するところは「ある一定時間を超えて作業しても生産性は上がらず、逆にダダ下がりするだけだ」ってことですね。
 このほか、我が国におけるいわゆる「働き方改革」を補強する資料として内閣府が示しているところによりますと、労働時間が10%減るごとに、1時間あたりの生産性は25%増加するとされていたりします。

 むろん世の中には、長時間継続して働かないと商売にならない業種、長時間やり続けなければどうしようもないミッションが多数ありますので、ステレオタイプに「すべての仕事において短い労働時間=善」などとは口が裂けても言えませんし、ワタクシもそういうことは絶対に言いません。
 しかし、「長時間やらなきゃいけない仕事」と「やらなくてもいいようなことを、ダラダラやらせる」ということは明確に差別化しなければいけませんし、ワタクシも少数ながら手下を持つ仕事師のはしくれとして「やらなくていい、やっても意味のない作業をカットし、休んでいいときには休むための努力」は、「仕事を完遂する努力」と=で結ぶべきもの、決してあだやおろそかにしてはいけないもの、と常に思っています。
 やらなくていいときに働いているふりをし、あるいは生産性のないことをダラダラ続けているのは「怠け者の節句働き」以外の何物でもなく、大いに批判されるべき。それに加え、手下を「節句働き」の犠牲とする輩に至っては、手下を持つ資格のないゴミ野郎としか言いようがありません。

 ただ、日本のありとあらゆる組織には「長時間ダラダラ働くことがそっくりそのまま『よく働いている』ことに繋がる」という「空気」がまだまだ健在です。
 ここでいう「空気」とは、日本人が組織を作った場合に発生するドグマ(宗教における教義)のようなものであり、その「空気」の前にはあらゆるロジカル(論理的)な思考は消し飛んでしまい、「空気」だけがその場を支配する…というもので、昭和の大哲・山本七平(1921~1991)が提唱したもの。
 悲しいことではありますが、日本人が日本人である以上、「長時間ダラダラ働く?こと=よく働いていること」という、科学的に見れば大きく間違っていることを是とする「空気」がなくなることは…おそらくどんなロジック(論理)を積み重ねても、そう簡単には来ないでしょう。

 でもワタクシはせめて、ワタクシの近くにいる若い人だけには「そういった考え方は完全に間違っている」ということを訴え続けていきたいですし、そのことを的確に示す言葉として「休めと言われて休めないヤツは、仕事をしろと言うときに出来ないヤツ」ということを啓発し続けていきたいと思っています。

「公正世界仮説」に騙されないために

2020-07-30 19:42:33 | 兵隊の道・仕事の話
 ワタクシはガキの時分、オヤジやじいさんから「身の程を知れ、分際を知れ。身の程をわきまえないおかしな夢を持っても、そんなもん叶うわけがない」と言われ続けてきました。
 学校の教師共はこれとは逆に「君たちには夢と未来がある」「だから努力すればどんな夢でも叶う」と言っていました。

 あれから四半世紀。
 ワタクシは人生の岐路に立った時、常にオヤジやじいさんの言っていたアドバイスを実行したわけですが、それはとても正しかった、と断言致します。 

 心理学の世界に「公正世界仮説」というものがあります。
 もともとはアメリカの心理学者・メルビン・ラーナーが提唱したもので、「世界は公正であるべきだし、実際にそうだ」という仮説です。
 これはもっとぶっちゃけて言えば「何事においても、努力したら努力したぶん、報われるべきだ」という考え方です。
 しかしこの考え方は「科学的にこうだ」というものではなく、「こうでなくっちゃイヤだ」という祈りにも似たもので、現実世界はそんなに甘くありません。

 以前にもいくつかの記事でご紹介しました通り、人間のスペックは遺伝でほぼ決まっており、自分にないものや、性能上適合しないものをいくら努力しても、それは多くの場合、徒労にしかなりません(「自分以外の周囲の偏差値がやたらと低い場合」という僅少な例外を除けば)。
 ところが世の中にはこの現実を知らない、あるいは知っていても信じたくないというヒトが実に多い。
 口を開けば誰もかれもが「頑張れば夢かなう」だの「才能に限界はあっても、努力に限界はない」だのと、口当たりのいいことばかりを言っていますが、そういうことを安易に言うヤツというのは、とんでもない情弱バカか、それをカモにしようとする詐欺師のいずれかしかいません。
 
 では、「公正世界仮説」を振りかざす情弱に騙されないためにはどうすべきか?
 答えはたったひとつ。天才のいる群れの中に入っていって、ケッチョンケッチョンにやっつけられ、自分の分際というものを、イヤというほど思い知らされることです。

 ワタクシも人生で幾度か「オマエの才覚なんてここまでだ」と思い知らされたことがありますが、最もスゴい挫折を味わったのが、20代中盤から30代前半までを過ごした、泉州特設支社時代のこと。
 ここには全国各地から、様々な体力自慢がやってきます。
 ワタクシも体力には自信があったのですが、ここに集まってくるヤツらのレべルは、草野球レベルの体力自慢であったワタクシのはるか上を行くものでした。
 体力もさることながら、巧緻性を競う訓練でも何でも、ワタクシが同期に伍してまともにできるものは何もなく、何をやらせてもビリッケツのほう。
 ワタクシはチンケなプライドをバッキバキにヘシ折られ、「ああ、こいつらには逆立ちしてもかなわん…」という動かぬ現実を突きつけられました。
(その後、そういった天才になくて、ワタクシにあった特技…つまり武道・格闘技を前面に押し出すことで、なんとか生き延びましたが(;^ω^))

 他人に比較して自分が劣っているということを認識した時、世の中には「アイツは大した努力もしていないのに、なんでオレより出来るんだ!」とルサンチマン(弱者の強者に対する嫉妬の心)を抱き、逆恨みをする方が多々いらっしゃいますが、それははっきり言って、やられ方が足りません(;^ω^)。
 一度だけでいいですから、天才というものに実際に触れて、「もうだめだ」というレベルまで、バッキバキに心をヘシ折られてください。
 そうすればあなたの心はごくナチュラルに「あなたが最強になれる土俵」を探し当ててくれることでしょう。 
(まあ、メンタルが弱い方にはお勧めできない荒療治ですが(;^ω^))

 ひどいことを言うようですが、いい歳をしたオトナであって、自分に才能がないこと、勝てないことを踏ん張るヤツや、結果や成果をさておき、ただ努力の量を誇るようなヤツは「根性がある」「頑張り屋さん」などではなく、ただ単に自分で自分が見えていないアホとしか言いようがありません。

君はなぜ走るのか?それは君が●●(←悪い意味の言葉(;^_^A)だから!

2020-06-29 10:15:00 | 兵隊の道・仕事の話
まず冒頭にてお断りさせていただきますが、本稿は、長距離ランを楽しんでおられる一般の方を貶める目的で書かれたものでないことを申し上げます。
 本稿はタイトルにもありますように、あくまでもワタクシが現在進行形で勤めている会社における、頭の悪い長距離ランナーに対する繰り言だ、ということをご理解したうえで読み進めて頂ければ、幸甚に存じます。
 タイトルだけで不快の念を生じせしめるような場合、爾後読み進めることをおやめになることをお勧めいたします。

 弊社では、長距離ランニングを趣味としている、あるいは趣味以上のものとして行っている者が結構な数存在します。
 その理由は様々なのですが、彼らが部内誌で得々と語っている「オフィシャルの理由理由」を列挙すると、だいたい以下の2つに収斂されます。
・業務に資する体力をつけるため
・健康に資するため
しかし「上記2つを達成するための手段として、長距離ランを継続的にやる」ということの是非について、単純にコスパという観点からのみ論ずれば、はっきり言って最悪としか言えません。
 これはエビデンス的にも、そしてワタクシ自身の経験からも明らかです。

 ワタクシはもとは長距離ランニングが好きで、かなりの量を自発的にも強制的にも(;^_^A走り込んできたという自負しております。おそらく現在まで、いわゆるい一般市民ランナーの方の一生分のランニング量の倍~3倍は走っているでしょう(その中には「業務で走らされた」のも相当量あるのが実に情けないのですが(-_-;))。
 しかし30歳をいくつか過ぎたころから、長距離ランニングによる体力向上・あるいは維持効果は低下するばかり。ランの量自体は増え、タイムもどんどん向上するいっぽうで、上半身の筋力はガタ減りし、全身のアジリティ能力も落ち、何より健康診断の結果も加速度的に悪化…「ただ長距離走が早くなっている」という以外、何一つラントレによる効能が認められない時期が長く続きました。
 「これは本気でヤバいぞ、そろそろ目先を変えないと…」と思っていたそのころ、具体名や実施頻度は明かしませんが(かなり高強度で、ぜんぜんラクなもんじゃないです。ちなみにウェイトトレじゃありません)全く別なトレーニングを実施してみました…すると、なんとわずか1年で、ランニングをいくらやってもダメだった「なんとかしたいなあ」という弱点が、かなりの割合でパっ!と消失したのです。体力も健康診断の結果も、ほぼ復旧しました。

 お断りしておきますと、ラントレをしていたときと、某別のトレーニングをやっているときとで、食べるものは特段変えていませんし、飲酒量も全く変わっておりません。変化したことはただ1点、トレーニング手法のみです。
 なのにこれだけの違い…ワタクシは、「ワタクシは今まで、人生の貴重な時間をドブに捨てた…もっと早くトレーニングの断捨離をすればよかったんだ…」と、悔恨の情でいっぱいになりました。
 そして、なぜ長距離ランがトレーニングとしてダメなものなのかというのを調べれば調べるほど、漫然とそんなことを続けていた自分の馬鹿さ加減に暗澹たる思いがしました。

 「長距離ランの健康に対するネガティブな要素」について、現在では様々な書籍やネット情報で知ることができるのでこちらでの解説は省略しますが、要するに長距離ランで得られるものはただひとつ、満足感と達成感だけ。あとは痩せにくく、疲労しやすくなった体と、ガタガタの関節だけが残る、ということです。
 
 彼らがそれでも走る理由…。冒頭には彼らが人前でだけ語る「タテマエ上の理由」を描きました。
 実はワタクシ、これまで30人は下らない弊社の長距離ランナー共、しかもかなりのガチ勢と出会い、その理由について訊く機会がありました。

 その中でワタクシは、彼らが一様に、自分好きで地頭が悪いということに気づきました。 

 そうです。要するに彼らは、何かの目的があって走っているわけじゃないんです。
 彼らはただ漫然・漠然と走ることで「頑張る自分」に酔っ払い、走ることでドバドバ出てくる脳内麻薬の気持ちよさに心と体をゆだねているか、かつてのワタクシのように「ランニングを止めたら何かよくないことが起きそうで怖い」という現状維持バイアスに毒されているかのいずれかであり、それ以外のエビデンスに裏打ちされた「何か」を持って走っている人間は、弊社長距離ランナーに限って話をすれば、いままで1人もそうした人に会ったことがありません。
 彼らと話をすればすぐにわかりますが、走る理由を尋ねても明確な説明が返ってくることはなく、ほとんどはいつの間にやら話題が変わっており、「いついつのどこのマラソン大会でね…」とか、「どこそこのマラソン大会でね…」とかいう会話に終始することがほとんどで、まともな会話が成り立つこと自体が少ない。
 彼らの走る理由は「安易に快感・達成感を得る」「現状維持バイアス」いずれか以外の何物でもなく、それを説明できない、あるいは知っていても認めたくないという頭の悪さに、ワタクシは呆れを通り越し、そぞろに哀れを催すのでした。

 弊社において恐ろしいのは、そういっ「「こんなに苦しくて生産性のないことを頑張る俺って、チョーカッコイイ…」と考える馬鹿が仕事で要職に就き、長距離ランで培った腐った思考や神経を、そのまんま仕事に持ち込んでいること。
 つまり、目的が判然とせず、やる意味のないムダ極まりない「クソ仕事」を平然とやらせ、それに快感を覚えるということを常態化させているのです。
 大局的な観点からものを見ることなく、自分の狭い価値観だけで物事を推し進めるというのを「単純価値バイアス」といいますが、エライヤツの長距離ランは、先ほど申し上げた「現状維持バイアス」のほか、このバイアスも助長しており、百害あって一利ないといって過言ではありません。
 
 「ほんとうに大切なものは目に見えない」とは、たしか星の王子様が言っていたような気がしますが、そのデンでいえば、弊社の長距離ランナーは須らく「明きメクラ」と呼んで差し支えないでしょう。
 そしてワタクシが以後の人生で長距離ランニングをやることは、エビデンス的な観点からも、弊社にいるバカ長距離ランナーと大きく距離を置くという意味でも、もう絶対にないでしょう。