集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その6)

2024-02-17 15:44:04 | 雑な歴史シリーズ
 前回はさらっとしか触れませんでしたが、今回は小谷の渡米から五輪出場に至る流れをもう少し深堀りし、講道館がどのようにして「日本レスリングのイニシアチブ獲得」を目論んでいたかを確認していきたいと思います。

 講道館の「密命」を受けて渡米した小谷澄之がアメリカ本土に到着したのは4月16日。乗船した「秩父丸」は補給も兼ねたホノルル寄港も含めますと、米本土到着までだいたい20日くらいかかりました。
 その小谷が上陸した地点はなんと…五輪開催地のロサンゼルス( ゚Д゚)

 ロスの港に上陸した小谷は、排日法全盛時のこととて、日本人にとってかなり屈辱的な入国審査を受け、キレそうになりながらもなんとかパス。
 その後は東京高師の大先輩で、大正6(1917)年からアメリカで柔道を教えている山内俊高の家で居候することになり、山内の柔道場で指導をしつつ、後発の吉田四一を待った、と自伝には書いています。

 普通の人ならここでもう「おかしい」と気づくでしょう。
 「その5」でもお話ししましたが、そもそも小谷の渡米は満鉄の社命による出張であり、その目的は「米国における体育ならびに厚生施設をはじめ、特に鉄道関係の厚生事業を視察する」(自伝より)ことです。
 鉄道関係の厚生施設や厚生事業の視察であれば、首都ワシントンや、世界的都市であるニューヨークがある東海岸に行けばよさそうなものを、なぜかよりにもよって、五輪開催地であるロスに上陸。しかも迎えに来たのが満鉄の関係者ではなく、東京高師柔道部の先輩である山内俊高。なんてわかりやすい(;^ω^)。ちなみに山内、満鉄での勤務経験はありません。

 さらにさらに、満鉄の社員として視察に赴いたのであれば、普通の社会人なら「あれを見た」「ここに行った」ということを多少なりとも書くべきところ、それが全くありません。自伝に書いてあるのは徹頭徹尾、柔道のことだけです。
 これらの状況から、小谷の渡米理由は「満鉄の社業による視察」などでは全くなく、明らかに「柔道、そして講道館のため」であることがわかります。

 小谷とレスリングの出会いもまた、非常に不可解なものでした。

 自伝では、柔道の巡回指導の合間に「西海岸地区で私と同じ体重のレスリング選手権者と(中略)レスリングの試合をやる機会を得た」(小谷自伝より)小谷はこれを難なくフォール。ようやく小谷と合流できたもう一人の「密命選手」吉田四一も同様にレスリング選手を難なく打ち破ったことから、当地の柔道関係者や日本人会の幹部が「ぜひとも、この二人を(五輪に)出場さすべく、日本体協や関係機関に申請しようじゃないかとの議が決定」(前掲書より)したことによって五輪出場の機会を得た、としています。
 しかし小谷のアメリカ上陸直後、しかも同じ「密命」を帯びた吉田四一が到着したころを見計らうように「レスリング選手との試合」が用意されるというのも極めて不自然な話ですし、いくら小谷や吉田が当代一流の柔道選手とはいえ、レスリングのルールで、専門選手を圧倒できるグラップリング力があるとはとても思えません(柔道がレスリングに通用しないことは、以前紹介した新免伊助が証明済み)。
 これはあくまで邪推でしかありませんが、この「選手権者」なる選手は、講道館の手の者が、どこかの低レベルなリーグの「選手権者」でしかないザコ選手を、小谷や吉田を五輪に出場させるための「片八百長」の相手として引っ張り出してきたのではないかと思われます。
 こんな手の込んだ芸当は、豊富な資金と海外に太い人脈がある講道館しかできません。

 また、「西海岸地区の選手権者」との対戦時期もまた不可解なもので、自伝に「(レスリングの選手として五輪に出場するため)いまからまる三カ月間、本格的に練習してくれということになり…」とあることから、五輪の3か月くらいのこと、という計算が成り立ちます。
 ロス五輪の開会式は7月30日(レスリング競技の初日は8月1日)ですから、単純計算すると「3か月前」とは4月30日。
 小谷のアメリカ上陸が4月16日で、後発の吉田がいつアメリカに上陸したかは定かではありませんが、小谷の上陸から1か月以内には渡米したあろうと推察されますから、おそらくこの「選手権者との試合」が行われた時期は、4月下旬~5月初旬ころの間であろうと思われます。
 小谷や吉田の上陸を待っていたかのように行われた「選手権者との試合」は、偶然というにはあまりにも出来過ぎた時期に行われており、先の状況証拠と合わせ、当事者がどう言い繕っても「小谷と吉田は、講道館レスリング部が五輪でメダルを取るため、密命を帯びて送り込まれた『隠し玉』だった」ということは明白です。
 
 このように、豊富な資金と分厚い人脈によって練りに練り上げられた講道館レスリング部の(せこい)謀略は、「日本レスリング界のイニシアチブ争いに勝つ」という観点から結果から評価しますと、見事図に当たりました。

 「その5」でお話ししましたとおり、この時わが国には八田一朗率いる「大日本アマチュアレスリング協会」、庄司彦雄率いる「大日本レスリング協会」、そして「講道館レスリング部」の3団体が鼎立して激しく対立しており、これを問題視した体協は一時、「代表決定機関無き為、一時羅府(ロス)大会のレスリング参加を中止と云う状勢」(「大日本体育協会史 下巻」)に傾きます。
 しかし「今後の斯道発展のためにも、五輪出場は必要だ」との意見も根強かったことから、東京朝日新聞運動部次長にして体協理事の山田午郎が骨を折り、アマレス協会・レスリング協会・講道館レスリング部の代表が協議を持った結果、各団体から数名ずつ代表選手を出すことで折り合いをつけるという、なんとも日本的な決着を見ます。
 その代表5名は以下の通り(カッコ内はヒモ付き団体名)。

・フェザー級 八田一朗(アマレス協会) 
・ライト級 宮崎米一(アマレス協会)、加瀬清(レスリング協会)
・ウェルター級 河野芳雄(レスリング協会)、鈴木英太郎(講道館)

 このように見ていきますと、講道館レスリング部の割り当てが少ないように思えますが、もともと講道館は出場選手決定のはるか以前から、小谷・吉田という「隠し玉」を持っていました。
 しかも「在米邦人会からの大いなる推薦」「アメリカで特訓中」という肩書は水戸黄門の印籠にも匹敵する金看板であり、小谷と吉田の五輪出場はあっという間に可決されました。
 これで団体ごとの出場選手数は2:2:3で講道館がトップに立ったうえ、小谷・吉田・鈴木英太郎のいずれもが、アメリカでのレスリング経験者ばかり。選手の質は、他2団体に大きく水を開けています。
 これだけの選手を揃えたわが講道館レスリング部のメダル獲得は確実!ついでに講道館レスリング部による、日本レスリング界の制覇も確実!
 オリンピック開始直前の講道館レスリング部は、「取らぬ狸の皮算用」にウハウハとなっていました。

 しかしこの汚い目論見、見る人はよく見ているものです。
 五輪出場調整の労をとってくれた体協理事・山田午郎は、出場選手調整会議後、八田を呼んでこう諭しました。
「彼らの目標はオリンピックの出場だけ。オリンピック後は泡沫のように消え去る。だからどんな不愉快や苦労があっても、やりぬけ。」
 慧眼の山田には、講道館レスリング部と庄司のレス協のインチキぶりと、「未来の日本レスリングを託せるのは八田だけ」ということがわかっていたのです。

 ともあれ、講道館レスリング部の謀略がうまくいったのはここまで。この後オリンピック本番でボロがボロボロ出てきて、エラいことになります。

ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^)) その7

2023-11-18 06:08:24 | 雑な歴史シリーズ
今回は話を健治親分の方に戻しつつ、柔拳興行の落日と、「柔道の総合武術化の完全途絶」についてお話しします。

 ルールやユニホーム、試合会場の整備によって柔拳興行を成功に導いた健治親分は立て続けに「柔道対レスリング」「柔道対相撲」「レスリング対相撲」などの異種格闘技戦のみならず、「柔道対剣道」「拳闘対小太刀」といった、対武器の異種戦も興行にかけます。
 いっけんキワモノのように見られがちなこの対戦ですが、前々回もお話ししましたとおり、健治親分はこれらをあくまでも「スポーツ」と位置付けました。
 たとえば大正10(1921)年2月9日付神戸新聞には、フランス人レスラーのルイケル・カロロフVS力士(四股名「虎林」)によるレスリングVS相撲試合が、同年5月5日の同紙にはカロロフVS柔道家・東郷久義によるレスリングVS柔道の試合が掲載されていますが、掲載カテゴリとしてはいずれも「スポーツ」として取り上げられています。

 前回は、健治親分が自身の興行を「スポーツ」とした理由として、「柔道と柔拳はどっちもスポーツであり、それを同じ土俵に上げるため」ということをお話ししましたが、実はいまひとつ「新しい異種格闘技戦に挑む柔道家を保護する」というものもありました。

 詳細は以前お話ししましたが、あの「サンテル事件」は、前出のカロロフVS虎林戦の翌月(大正10年3月)のこと。
 講道館はこのとき、この試合に下らない高段者たちが下らない因縁をつけた挙句、けっきょく治五郎先生は「柔道は決して興行師の金儲の道具として使ってはならぬ」(「有効乃活動」7巻5号より、治五郎先生のお言葉)などと発言し、試合参加者の段位を剥奪するという挙に出ました。
 この愚挙は当然批判されるべきことではありますが、サンテルとのミックスド・マッチには、治五郎先生やバカ高段者たちがツッコミを入れても仕方がないだけの「ワキの甘さ」がありました。
 じつは件のサンテル戦ですが、運営形態は間に興行師を介し、入場料金を取って行った完全なる「興行」であり、しかも日本柔道側の首班であった庄司三段が金持ちボンボン(早大の学生なのに、愛人に料亭を経営させていたほど!)だったこともあり、カネの管理がスキだらけ。なんと、興行師に売掛金を全額持ち逃げされています。
 このあたりのワキの甘さが「講道館のメンツをつぶした」と判断され、庄司三段らが必要以上に叩かれ、段位剥奪という苛烈な処分につながったわけです。

 日本一の興行師だった健治親分は「言わんこっちゃない」と呆れつつも、考えました。
 「柔道家が『興行』に参加することが問題なら、柔道を利用できる『スポーツ』に参加するという態であれば、講道館のメンツも立つから、問題なかろう。」
 メンツが立った立たない、潰した潰されたというレベルで商売をしているのは、ヤクザも講道館も全く違うところはありませんから、「興行に参加することはまかりならん」という講道館の顔を立てるには、柔拳が「興行」であってはならず、あくまで「スポーツ」でなければならなかったわけです。
 健治親分の本拠地であった神戸は、当時の柔道勢力図でいえば講道館の手が及ばない治外法権の地区であり、「講道館がナンボのもんじゃい!」と息巻いて、興行に参加することも可能ではあったのですが、あくまで健治親分は「スポーツ」という予防線を忘れませんでした。

 さらに言えば、「神戸柔拳」は練習環境もすばらしく、親分の邸宅内に設えられた道場では、各種格闘技の選手が熱心に練習を共にしていました。昭和40年代にキックボクシングブームを築いたプロモーター・野口修(昭和9~平成28年)は、こう回想しています。
 「ピス健の家の庭には立派な道場があって、柔道や拳闘、合気道や槍の稽古もしていた。柔道家とボクサーが試合形式の練習をしていたのを見た記憶もある。」

 ただ、健治親分がこれほどまでに知略を巡らせ、カネと時間をかけて成功させた「柔拳興行」の命は非常に短く、人気を博した!と思われたその直後から、徐々にその人気を落としていきます。
 健治親分がマスコミに対し、公式に語った柔拳撤退の理由は「神戸柔拳の成功を聞きつけたその他興行師が、その猿真似をした劣化版興行を次々に打ったことで試合の質が劣化したため、自分は憤然とこの興行から撤退した」というものでした。
 いっけん合理的に見えるこの理由ですが、健治親分の社会的地位を鑑みた場合、けっこう無理があります。
 なにしろ健治親分は当時、興行界においては押しも押されもせぬ日本一の大親分であり、自分の興行をパクった劣化版興行が本気で気に入らなければ、瞬時に叩き潰すことが可能でした。しかし健治親分は、あえてそれをしなかった。
 なぜか。
 健治親分が柔拳から手を引いた真の理由は、健治親分が本当に愛していた「柔拳に代わる格闘スポーツ」の成算が見えていたからです。
 その格闘スポーツとは…それまで「柔拳」のオマケでしかなかった純然たるボクシング、当時の言葉でいう「純拳」です。

 健治親分が「神戸柔拳」を興したのと同じ大正10年の3月、15年間の長きに亘ってアメリカにボクシング留学していた渡辺勇次郎(明治22~昭和31年)が帰国。同年12月には東京は目黒権之助坂下の田んぼの中に、日本拳闘倶楽部を設立します。
 日本ボクシングの公式史では、このことを以て「日本プロボクシングの発足」としていますが、実態はかなりお寒いもので、入門者はまったく来ず、経営状態は火の車。翌11年6月にはわが国初となる「純拳」試合を挙行しますが、見事な大失敗に終わり、日倶の土地建物を抵当に入れることで、ファイトマネーや経費の不足分を補填するという有様でした。
 渡辺が当時、わが国随一のモダン・ボクシング有識者であったことは間違いないのですが、「組織の長」としての才能と、「興行師」としての才能が完全に欠落しており、その後も似たような失敗を繰り返しては、興行を取り仕切るヤクザに命を狙われる、なんてことがよく起きていました。
 そんな時期、渡辺のそうした至らざる部分を金銭的にも権力的にも補い、昭和の初期に「純拳」がブレイクする下地を作ったのは、まさに健治親分でした。
 当然そこには、渡辺に恩を売ることでわが国ボクシングのイニシアチブを取る、という「ヤクザ」「興行師」としての打算もありましたが、健治親分には「日本のボクシングは、自分が動かないとどうにもならない」という、いい意味での自負と責任感がありました。
 元不良や与太者ばかりがゴロゴロしていた(渡辺はケンカのしすぎで中学校を放校。渡辺の弟子で、のちにピストン堀口を連れて渡辺のもとを飛び出した岡本不二も有名な不良だった)黎明期のわが国ボクシング界が、曲がりなりにもある程度の統制を保てていたのは、健治親分という表・裏双方にまたがる社会の「権力者」いたからであり、この頃から昭和初期にかけてボクシングがブレイクする要因を作ったのは、その「権力者」である健治親分が、いわゆる「ヤクザのシノギ」の域を大幅に超えた支援と投資を行っていたからに他なりません。
 要するに健治親分にとっての「柔拳」は、若くて気合の入った柔道家を鍛える場所であると同時に、健治親分が本当に育てたかった「純拳」を世に認めさせるためのコヤシでした。
 「純拳」が一本立ちできたとき、コヤシの使命を終えた柔拳に残されたのは、歴史の波間に埋もれることだけだった。けだし当然の結末だったといえましょう。

 そして、始まりからグダグダだった講道館の「柔道の武術化」も、柔拳の衰退と歩調を合わせるように陳腐化します。
 最晩年の治五郎先生は、日本へのオリンピック招致事業に奔走中。高齢にムチうち、海路・鉄路で世界を飛び回る治五郎先生には、「柔道の武術化」なんかに構っているヒマはなくなっていました。
 そして昭和13(1938)年の治五郎先生死去により、「柔道の武術化」研究は完全に放棄され、以後柔道は「試合に勝つ!ための柔術」という、ある意味創立当時の基本理念(;^ω^)にめでたく立ち戻りました。
 
 健治親分は純拳へ、治五郎先生は黄泉の世界へ。
 「柔道の武術化」を夢見た2人がどこかに行ってしまったそのとき、「柔道の武術化」はすべての道が完全に閉ざされ、柔道は本来のあるべき姿である「ルールがよく整備されたジャケッティッド・レスリング」に戻りました。

 治五郎先生が「柔道の武術化」を叫び始めた理由を、様々な史料をもとにいろいろ考察しましたが…おそらく治五郎先生は、当時最強の抵抗勢力だった高専柔道がどんどん勃興していくなかで、これまで講道館柔道の成立過程で(政治力で)捻りつぶし、叩き潰したはずの「古い柔術」の亡霊を見たのではないかと思うのです。
 「立ち技偏重の柔術」である講道館柔道はそもそも、古い柔術の否定で勢力を伸ばしてきました。
 しかし、治五郎先生に対する最大の抵抗勢力・高専柔道はかつて講道館が否定し、苦汁をなめさせられた寝技で競技を成立させており、しかも講道館柔道より大人気!
 治五郎先生が「叩き潰したはずの柔術が、違う形で帰ってきた…」とイヤな気持ちになったことは、想像に難くありません。
 治五郎先生が高専柔道を否定するには、高専柔道にないもの…当て身と立ち関節技を主軸とした「勝負法」に頼るしかなかった。
 しかし、過去に叩き潰した古い柔術への後ろめたさと、高専柔道への恐れがないまぜになったネガティブな気持ちだけが先行した「勝負法」研究は、なんの準備も成算も、そして「何が何でも成立させる!」という覚悟もなかったため、迷走を繰り返した挙句尻すぼみして終わった…というのが、「勝負法」研究の総論といえましょう。
 本連載でもお話しした、講道館の「勝負法」研究機関「古武術研究会」に所属、その後合気道研究に派遣された望月稔(養正館開祖。1907~2003)は、「勝負法」研究に関するこんな興味深い回想を残しています。
「武道教育の普及徹底に急なため、先人たちが血を流し骨を砕いて学び、一生をその練磨にささげた貴重な各流派の特質がほとんど失われかかっていたのが大正末期のことである。しかもそれに最も早く気がついたのが、なんと武術を体育競技的武道にしてしまった張本人である嘉納治五郎先生と高野佐三郎先生という二大先生であった。」
 治五郎先生が柔道をいかに無造作にスポーツ化してしまったか、そして治五郎先生が一時提唱していた「古い講道館の稽古こそが、勝負法だ!」という発言が如何にデタラメだったかを示す、貴重な証言といえましょう。

 以下、エピローグです。
 健治親分のシノギを越えた「真の最強を求める」動きは神戸柔拳滅亡後も続いていました。
 わが国に初めて「実戦空手」を見せつけた空手界のレジェンド・本部朝基先生はある座談会において、「飛び入り」が主流だった柔拳興行に参加した際、ボクサーを一撃の下に破り去ったことで「ナントカという親分に招かれ、空手談義をして、非常な歓待を受けた」という証言をしています。
 …個人的にはその親分が健治親分であったと信じたい!ですね。

 名門一族からドロップアウトしつつも、裏社会で超一流の大物となり、シノギを越えた「格闘技愛」を発揮し続け、さらにいえば、講道館の何百倍もの熱意とお金を投入して「柔道の武術化」を推進した健治親分は、もっと評価されるべき傑物であるといえましょう。

【参考文献】
〔書籍〕
・「実録!柔道対拳闘 殴るか、投げるか」池本淳一 BABジャパン
・「昭和の不思議101 2023年秋の男祭号」内「元祖総合格闘技 柔拳を仕掛けた嘉納健治 すべてはこの侠から始まった」木本玲一 大洋図書
・「有効の活動」7巻4号・5号 柔道会本部編(大正10年) 
・「拳闘五十年」郡司信夫 時事新報社(昭和30年)
・「拳闘読本 一問一答」川嶋清 木村書房(昭和7年)
・「技法日本伝柔術 黒帯合気道」望月稔(昭和53年)
・「日本プロレス風雲録」小島貞二 ベースボールマガジン社(昭和32年)
・「愚談」水島爾保布 厚生閣(大正12年)
・「武道学研究」6巻1号 日本武道学会
・「嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ」 池本 淳一(論文)

〔Webページ〕
「「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?」
「「打撃なし“骨抜き”柔道で警察官は仕事ができるか!」100年前に“柔道vsボクシング”を企画したヤクザの思惑」
いずれもNumber Web掲載 細田昌志著


ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の「武術化」(のようなもの(;^ω^)) その6

2023-11-04 19:28:31 | 雑な歴史シリーズ
 今回は治五郎先生側の「武術化」の動きを見ていきたいと思いますが、その前にまずは講道館柔道が生まれてから、大正時代に至るまでの講道館の略歴を、駆け足でおさらいしましょう。
 ちなみにこの「略歴」は、ワタクシがこれまで各種の文献を当たり、講道館とその周囲における動きをトレースしてみたものです。
 なお「講道館が広めた講道館の歴史」だけが正義だと確信している方はブラウザバックしたほうがいいですよ!きっと、血管がブチ切れますから(;^ω^)。
 ブラウザバックしましたか?よし、では始めましょう。

①柔道の起源は明治15年ころ。
 治五郎先生の修めた柔術と、当時の日本人には伺い知れない複数のイギリス式レスリング(たぶんランカシャースタイルをベースに、「投げてイッポン!」の「フライング・フォール」というルールを加えたもの)をマジェマジェし、投技と足技に重きを置いた「試合に勝つ!ための柔術」として誕生。
②流派の名前を挙げるため、当時わが国で唯一、武道を推進していた官庁・警視庁の演武会などに、治五郎先生の政治パワーで参加。
 道衣やルールに「試合に勝つ!」ためだけの工夫??をこらした講道館柔道は一定の成績を収めるも、寝技の効く柔術家には徹頭徹尾苦戦する。
 実力勝負における講道館勢力拡大の不確実性を覚った治五郎先生は以後、政治力による確実な勢力拡大を推進する。
③日清戦争後の第一次武道ブームにより、柔道は1回目のビッグウェーブに乗る。
 できたばかりの武徳会柔道部門に早速頻繁に容喙する(試合における禁じ手をジャンジャカ増やす、武徳会の講師に講道館勢力をジャンジャン送り込むなど)とともに、政治力による「柔術家潰し」を盛んに行うようになる。
④日露戦争後の第二次武道ブームによって学校教育に採用され、更に勢力拡大。このころ、「禁じ手をジャンジャカ増やす」ことや政治力により、実力派柔術家の駆逐がだいたい完了する。
⑤大正以後に一大ビックウェーブとなった「高専柔道」が、講道館の言うことを全く聞かないため、治五郎先生はそのカウンター活動として「勝負法を知らねば柔道ではない」と言い始める。
⑥大正の最末期、その研究成果として、「講道館極の形」の亜流である「警視庁柔道基本捕手ノ形」を作ってはみたが、あまりの出来の悪さに警察官が全然稽古しなくなる。
 そのことを知ってか知らずか、治五郎先生の「勝負法」研究はさらなる熱を帯びはじめる(←本連載における現在地点はココ)

 今回、健治親分の「柔道の武術化」を追っかけるにあたり、治五郎先生側の「柔道の武術化」ムーブメントも追っかけてみたのですが、健治親分による、触れれば斬れるような熱い思いを持った「柔道の武術化」と違い、治五郎先生の「武術化」のムーブメントは、語弊を恐れず言いますれば「片手間・無計画・行き当たりばったり」であり、健治親分のソレとは雲泥の差があります。

 現存する文献で確認できる、治五郎先生の具体的な「勝負法」への取り組みは、
・空手に感化されたことから、当時の「空手レジェンド」(剛柔流流祖・宮城長順師、糸東流流祖・摩文仁賢和師等)たちを上京させる筋道を作り、空手を武徳会柔道部門に加入(昭和8年)させ、ついでに「精力善用国民体操」という形を作った(昭和2年)。
・合気道に感化され、武田二郎・望月稔(養正館武道の開祖)らの門下生を派遣して研究させた。
・治五郎先生とツーカーの仲だった剣術家・高野佐三郎のヒキで、棒術を習わせる(これは昭和3年で中断)
だけで、これらをいったい、どう繋いでどういう体系にしたかったということは、どの文献を当たっても全く分かりませんでした。
 また、これはあまり知る人がいませんが、講道館は、レスリングが五輪競技として有望と知るや、その道のパイオニアである内藤克俊選手(1895~1967。大正15〔1924〕年のパリ五輪銅メダリスト。メダル獲得時柔道二段)や、のちの「日本レスリングの父」八田一朗(1906~1983。早大柔道部出身、レスリング部創設時柔道五段)を差し置いて、レスリング講道館派(この集団は巡り巡って、現在の専修大レスリング部の遠いご先祖になる)を作ってイニシアチブを取ろうともしています(この目論見は昭和7(1932)年のロス五輪での大失敗を受け頓挫)。

 このように、大正最末期~昭和初期にかけての治五郎先生の「勝負法」研究は、治五郎先生の思いつきを、治五郎先生の持つ権力や勢力で暴走させるに任せた、乱脈極まるものでしかありませんでした。
 ではなぜ治五郎先生は、デタラメでも勢い任せでもいいから、「勝負法」を顕現させなければならなかったのか?
 それは治五郎先生が冒頭に掲げた①~⑥年表の⑤でお話ししたとおり、「高専柔道との差別化」を顕在させる必要があったからです。
 この関連性を記した書物はありませんが、治五郎先生の「勝負法」への動きと、高専柔道の隆盛の過程をトレースするとはっきり見て取れます。

 このころの高専柔道は、東海地方から西で驚くべきブームを誇っており、「学生柔道のルール≒高専ルール」といっても過言ではありませんでした。
 そして大正14(1925)年には、これまで講道館の勢力が強すぎて開催できなかった東部戦(東京近辺の旧制高校・専門学校による、全国高専大会予選)を開くに至ります(ただ東京は、講道館の子飼いである学連の勢力が強かったため、この1回こっきりで終了)。
 講道館の牙城であった東京に高専大会の勢力が浸透してきたことは、寝技を否定することで勢力を伸ばしてきた講道館にとって大変由々しき危機であり、治五郎先生はどうしても「講道館と高専柔道は別物だ!」と訴える必要があったわけです。

 そうした経緯で治五郎先生は「勝負法」を研究する必要に迫られたわけですが、最終的には何一つ実を結ぶことなく、失敗に終わりました。
 ではなぜ、この取り組みが失敗したのか?
 理由は簡単、治五郎先生とその取り巻きに共は、レスリング・空手・合気道に関する基礎知識が、何一つなかったからです。

 ビジネス学の基礎教養の中に「基礎知識のない問題意識は空回りする」というのがあります。
 治五郎先生とその取り巻き共は、空手やレスリングに対する興味こそ示したものの、それらの武道・格闘技に対する基礎研究を全くしようとしませんでした。だからすべてが、「研究してるぞ!」というポーズだけで終わってしまったのです。
 この「ポーズだけで終わった」という結果について、講道館側の刊行物には「治五郎先生の死去に伴ってすべての研究が凍結してしまった。残念無念」みたいなことばかりが書かれていますが、ワタクシの見解を申し述べますれば、高専柔道の予想外の台頭に焦った治五郎先生&取り巻きが「どうしよう、どうしよう」と焦った挙句、知りもしない武道や格闘技を取り上げることで差別化を図ろうとするも、けっきょくそれらの武道・格闘技に対する基礎知識がない&知りもしようとしなかったため、結実しなかったというのがホントウのところでしょう。

 健治親分は、鼻がひん曲がるほどボクシングの練習に打ち込んだという実績あっての「武術化(=神戸柔拳)」だったわけですが、治五郎先生の「武術化」は、かくもいい加減で、しょうもないものだったのです。

(話はちょっと脱線しますが、比較的最近、ワタクシのFacebook友達の更に友達が、こんなことを書いていました。
「昔の〝柔道物〟のストーリーは、過去の栄光を引き摺る頑迷な旧態依然たる古流柔術家と新生講道館柔道の争い…って感じだった。然し、史実は『明治維新以降、日陰者扱いされて来た我々武術家が再び陽の当たる道を歩める様に成れたのも講道館の嘉納治五郎君のお蔭だ』と云う古流の大家達の感謝の物語。精力善用 自他共栄!」

 …このヒト、柔道七段だそうですが、こういうことを不特定多数の目に触れるFBに堂々と描いているということは、治五郎先生があっちこっちで発言した「講道館至上主義」発言や、そのケツウマに乗って講道館が発行した「トンデモ本」の内容をガチで真に受けているようで…これは怖い!「月刊ムー」の「宇宙人が侵略してくる!」という記事よりコワい!
 そのうち、こうしたアホな見解を打ち砕く話もしていこうと思います。)

 

ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^)) その5

2023-10-22 06:48:39 | 雑な歴史シリーズ
 前稿では、組織としての講道館が大正時代に「実戦」「異種格闘技戦」とつながる細い橋を自ら切り落とし、「捻合」「雑巾踊り」(「雑巾踊り」といったらキレる柔道原理主義者がいるかもしれませんが、これはワタクシが言ったわけじゃないです。水島爾保布の本に書いてあっただけです(;^ω^))のなかに自らを閉じ込めた経緯についてお話ししましたが、今回は健治親分の柔拳興行の具体的な中身と、その興行の中に込められた、ボクシングと柔道双方に対する本気の「格闘技愛」を見てみたいと思います。

 健治親分の完全プロデュースによる柔拳興行…後年「神戸柔拳」と呼ばれる興行が初めて打たれたのは大正8(1919)年10月28日。場所は「聚楽館」という、当時関西圏で一番のモダンな劇場。
 28日から31日まで、「英露両国拳闘家十数名」を迎えて打たれたこの興行は大人気を博し、「立錐の余地なき大盛況」(カッコ内はいずれも当時の神戸新聞)であったそうです。

 ここで大正時代の格闘技事情を知らない方は、「健治親分はなぜ、ボクサーがボクシングのルールに基づいて戦う『純拳』ではなく、柔道VSボクシングという『柔拳』を興行手段として選んだのか?」という、単純な疑問を抱くと思います。
 これにはいくつか理由がありますが、最大の理由は「当時の日本ではボクシングの知名度が低すぎ、且つ、観戦に堪えるボクシングができるボクサーもいなかったから、純拳の興行は物理的に不可能だった」ということ。
 じつは、日本人が「ボクシング」というものを知るようになった直接の大きな原因は、ボクシング関係者の偉大なる努力!…なんかじゃなく、大正時代に本格化した活動写真でした。
 ボクシング史研究の泰斗・郡司信夫の著書「拳闘五十年」によれば、「大正時代の若人の魂をつかんだ(活動)写真は、大正九年に封切られた『不思議の人』と翌十年にうつされた『深夜の人』三十六巻」でした。
 「不思議の人」は当時の世界ライト・ヘビー級王者ジョルジュ・カルパンチェ(フランス)を、「深夜の人」は当時の世界ヘビー級王者ジム・コーペットが主演(!!!)していた作品で、特に「深夜の人」のほうは、皆様が運動会で何度も耳にしたであろう名曲「天国と地獄」をBGMに、主人公が深夜、悪党をバコンバコン殴り倒す名作!…「拳闘五十年」によれば、日本ボクシング黎明時代のボクサーは軒並み、「この映画を見てボクサー志願をした」と言っていますから、その影響力、恐るべしです。
 実は、これらの活動写真に触発された都市部のモダンボーイや、現在の「半グレ」的な若者が見様見真似でやったボクシングこそが、本邦ボクシング黎明時代の「底辺」を支えた存在であり、彼らの要望が飽和状態に達したとき、初めて「純拳」がわが国に誕生したのです。

 ネットに転がる「ボクシング正史」では「日本ボクシングの父は渡辺勇次郎であり、渡辺が純粋なボクシングを広めた」となっています。
 これは完全な間違いじゃないですが、あまりに一面的な見方です。
 確かに渡辺勇次郎は誰よりも早く本場・アメリカのボクシングを学び、本邦に初めて体系立てられたボクシングを輸入、「純拳」での興行を試みますが、時期尚早過ぎたため興行は不入りに次ぐ不入りで大失敗。しまいには興行主(=地方の親分連中)にカネが払えず、何度も命を狙われています。

 ボクシングへの情熱だけが上滑りして興行的に大失敗、ついでにボクシングの知名度アップにも失敗した渡辺勇次郎に比べ、健治親分は当時のわが国におけるトップ中のトップ興行主であり、且つ、ボクシング有識者ですから、興行におけるボクシングの「価値と限界」をよくわかっていました。
 健治親分が考えたのは、一般人に馴染みのない「純拳」のゴリ押しではなく、既にスポーツとして確立し、高い知名度と人気を誇っていた柔道とボクシングをくっつけることでした。以下、それを裏付ける健治親分の談話。
「最も早く(ボクシングを)理解させるには、柔道と拳闘といふ勝負の形式に用いたほうが好ひと考へ…」(真田七三朗「拳闘のABC」より)

 また健治親分は、機を見るに敏でもありました。
 健治親分の興行が打たれた年を思い出してください…大正9年10月末日…さらに、拳闘を世に知らしめた映画の封切り時期を思い出してください…これまた大正9年! 
 そうです。「都市部のモダンな娯楽」として普及しはじめた活動写真で、「拳闘」なるものを初めて目にした人間が、実際の拳闘を見たくなるのは自明の理。拳闘を扱ったカツドウがバカ受けしているということは、今後も拳闘を扱ったカツドウがどんどん上映される!そして、それに触発された客が増えるほど、柔拳興行の成功率はどんどん上がる!
 このような計算に裏打ちされた「神戸柔拳」が満員札止めの大成功を収めたのは、自明の理でした。

 健治親分は興行を充実させるため、革新的な試みをどんどん仕掛けます。
 まず、ジャッジの厳格化。
 「横浜柔拳」では、「柔道家は投げか絞め、ボクサーはアゴ、脇腹へのパンチが決まればポイント」という雑過ぎるルールであり、且つ、レフェリーのレベルが極めて稚拙。結果、レフェリーが有効打や有効な投げを見逃しまくり、その不明瞭な判定にキレた客が暴れるという事態が起きています。
 その後の興行でもルールはわりかしグダグダであったため、柔拳興行は「不得手と不得手の戦ひ猿と河童の喧嘩」(大正2年の「東京朝日新聞」)などとバカにされる、大きな原因となっていました。
 この失敗を重く見た健治親分は採点基準を明確化。その後もユニホームの統一、選手の表彰制度など革新的な試みを続け、ボクサーもかなりの実力派を用意します。
 その結果、「神戸柔拳」は「ただの見世物」から「競技スポーツ」に進化し、地元紙も「スポーツ」として取り上げるようになり、興行は連日大入り。その余勢を駆って堂々の東京進出しますが、そこでも大成功を収めました。

 健治親分が直接プロデュースした初期の「神戸柔拳」は、健治親分の入念な準備と斬新な発想によって大成功を収めたわけですが、おカネにならない細かい部分の整備状況を見れば見るほど、健治親分が儲け度外視でこの興行に賭けた、「柔道の武術化」への思いを見て取れます。

 前稿でもお話ししましたが、治五郎先生は若い頃から唱えていた「柔道の勝負法」について、語弊を恐れずにいえば、その「中身」を何も考えていなかったフシがあります。
 大正11年の空手演武にインスピレーションを受けるまでの間、治五郎先生がナニを以て「勝負法」と認識していたか?といえば、明治10年代に講道館を開いた時にやっていた「古流柔術の型稽古」こそが勝負法だ!などと息巻いていたのです。その証拠が↓ 
「武術として、有効な乱取の仕方はどういうことかということになると、結局、講道館創設当時の乱取の仕方にかえらなければならぬということになるのである。」(嘉納治五郎「私の生涯と柔道」)
 
 治五郎先生は明治20~30年代にかけ、講道館にとって少しでも面白くない行為をした古流柔術系の実力者を、「大臣クラスのアブソリュート・パワー」(治五郎先生の公務員格は当時の三級…現在でいう副大臣・政務官クラス( ゚Д゚))を以て排除し尽くしました(このへんのお話は別途、稿を改めてお話しします。ワタクシの筆力はともかく、事実としておもしろいですよ(;^ω^))。
 スポーツなるものは「禁じ手を増やせば増やすほど、技が洗練され、見た目に面白くなる」という性質を有してますから、生まれた瞬間から「試合に勝つ!ための柔術」であった講道館柔道は、治五郎先生が「気に入らない人間と技をどんどん排除する」ことを進めた結果、偶然の産物とはいえ、柔道のスポーツ的完成度は飛躍的に高くなり、武術性ゼロの競技となりました。
 しかし治五郎先生は、「柔道との試合は、一方が殺される覚悟でなければ成立しない」(「サンテルとの試合に就(つい)て」より)…要するに「講道館柔道初期のころのテクニックを以てすれば、すぐ実戦性は回復される!」などと言っているのですから、めでたいというか、アホというか…このころの治五郎先生、いったいどうしちゃったんでしょうね…。

 柔道の武術化を目指した「ふたりの嘉納」のうち、自他ともに認める偉大な人物となった治五郎先生の「柔道の武術化」は、かくもいい加減なものであり、語弊を恐れず言えば「ボケ老人の妄想」と断じていいレベルのものでした。
 それに引きかえ、こと「柔道の武術化」という取り組みに関してだけ言えば、健治親分のほうが治五郎先生に比べて数倍も、現実的かつ積極的でした。

 おそらく健治親分は、自らの斬った張ったの経験やボクシング経験、そして過去の柔拳興行の研究結果から、講道館柔道のそうした組織的・体型的欠点、そして治五郎大先生の言う「武術への回帰」が、なんの根拠もない空論であることを当時の日本で一番よくわかっていたのではないか、と思います。
 健治親分が柔拳を「見世物」ではなく、ルールや競技形態を整備した「スポーツ」として運営しようとしたのは、柔拳興行を、既にスポーツとなって久しい柔道と同じ土俵に上げることで、「捻合&雑巾踊り」と化した柔道の欠点を白日の下にさらけ出し、「それに対抗ができるスポーツ」としての柔拳を起こしていこう、と思ったからです。
 大正9(1920)年10月24日付「神戸新聞」に掲載された「国際柔拳研究の必要なる趣旨」において、親分はこう述べています。
「(スミス柔拳のとき)嘉納健治氏が拳闘に対して柔道の尚多少欠陥あるを覚り(中略)其欠陥の除去を努めつつ機会ある毎に拳闘家と競技を行ひて、其の研究の結果が、昨年二月聚楽館に於ける、神戸外人拳闘倶楽部との競技を見るに至ったものであります。」
「講道館の有段者でも拳闘に慣れない人だと無慙な敗を取るさうであります」
 健治親分は「真に琢磨の効を積まんとされる武術家は是非この競技に参加して大いに研鑽されたい」と結んでおり、自分の興行における「武術性」に自信をのぞかせています。
 
 健治親分のゼニカネを越えたこうした試みは、矛盾と妄想に満ちた試みと主張しかできなかった治五郎先生のそれより、よほど現実的かつ効果的なものだったと思われます。

 次回は「治五郎大先生の武術化事業大迷走」と「柔拳興行の終焉」を見ていきたいと思います。

ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^))その3

2023-10-07 08:52:33 | 雑な歴史シリーズ
 健治親分がボクシング修行に明け暮れていた明治40年代、偉大なる叔父・治五郎大先生が造った柔道は、日露戦争後の第二次武道ブームの追い風を受け、宿願の学校教育採用を果たし、全国あちこちに武徳殿ができて柔道の稽古が盛んになり…という爛熟の時代を迎えていました。
 「その1」でお話ししましたとおり、健治親分は嘉納塾にブチ込まれていた時期があり、そのため柔道を人並み以上に修めてはいましたが、斬った張ったの世界に生きる健治親分の柔道に対する目は、極めて冷ややかなものでした。大正9(1920)年10月21日付大阪朝日新聞には、健治親分のこんなコメントが掲載されています。

「近頃の柔道は殆ど捻合(ねぢりあい)ばかりの骨抜き試合となって了(しま)って当身に対する防御のワザが閑却されている」
「犯罪は毫も縮小又は全滅されないのに近時警察官の帯剣を短縮又は全廃せう論議されているやうである、トコロが今の骨抜き柔道で以て警察官はよく困難な職務を遂行することができるであろうか」

 このコメントは、健治親分がこの前年(大正8年)10月に神戸において開催し、たちまち大ブームを巻き起こした「神戸柔拳」の運営趣旨を語った記事からのもので、翌22日付の同紙では「嘉納健治氏が拳闘に対して柔道の尚多少の欠陥あるを覚(さと)り(中略)其の欠陥の除去を努めつつ機会ある毎に拳闘家と競技を行ひ」、その精華こそがこの柔拳興行だと結んでいます。
 確かに健治親分はスミスを始め、神戸に上陸してくる外国人を片っ端から自分のジムに引っ張りこんではガチスパーを繰り返していたわけですから、こと打撃系格闘技の研究に関しては、当時の本邦におけるかなりの有識者になっていたことは、疑う余地がありません。
 この発言は「自らの興行に社会的意義を持たせる」というタテマエも多少はあったと思われますが、「打撃系格闘技を研究しないと、柔道はカタワになる。もっとしっかりしろ!」という本気の問題提起でもありました。

 健治親分の「神戸柔拳」は大ヒットを博し、神戸だけでも合計28回もの興行が打たれるロングランとなりましたが、このころ偉大なる叔父・治五郎大先生も、留まることを知らない「柔道のスポーツ化」に悩んでいました。

 治五郎大先生はもともと、自己の創出した柔道を「体育法」から始まり、「修心法」を経て、「勝負法」に至るものとしていました。
 健治親分が「捻合ばかり」と批判した、当て身のない乱取りはあくまで、柔道のイロハを学ぶためのものであり、治五郎大先生が唱えた本来意義からすれば、修行の基礎段階の過程という位置づけです。
 しかし実際はそうならず、明治時代に2度訪れた武道ブームのなかで、「捻合ばかり」の乱取りこそが「柔道のすべて」という刷り込みが全国民になされてしまいます。治五郎大先生が「いや、そうじゃなくて」といくら著作で訴えても、それを教えられるお弟子…そう、元祖講道館四天王の横山作次郎のように、手刀で馬を気絶させられるような「打撃も修めた猛者」は、大先生の周囲から完全に姿を消していました(横山作次郎は大正5年没)。

 ここで「勝負法」の定義についておさらいします。
 大先生が明治22年、当時の文部大臣榎本武明らの前で行った講演において、その定義をこう述べています。
「柔道勝負法デハ勝負ト申スコトヲ狭イ意味ニ用ヒマシテ、人ヲ殺ソウト思ヘバ殺スコトガ出来、傷メヨウト思ヘバ痛メルコトガ出来、捕ヘヨウト思ヘバ捕ヘルコトガ出来、又向フヨリ自分ニソノ様ナコトヲ仕掛ケテ参ッタ時此方デハ能ク之ヲ防グコトノ出来ル術」
 要するに大先生の「勝負法」とは「どんな相手にも使える、強力な護身術」。その護身術の中に、打撃技がないなんてことは考えられない…というより、「あって当然のもの」でしょう。

 では翻って、大先生のこのころのお弟子たちが、大先生の説く「勝負法」をどの程度理解していたか?
 「現代柔道と修練法」(金丸英吉郎、淳風書院 昭和4年刊)に書かれた「勝負法」の定義を見てみましょう。
「柔道稽古に依って技量の熟達を図り、他人の技量と勝負によって比較し、其の長所を知り己の技量を磨き、技術の進歩に努むる法は之を勝負法と云ふ。」
 …これって完全に「捻合ばかり」柔道の練習方法に関する話ですよね???ってか、上に掲げた大先生のお言葉のどこをどう捻れば、こんなトンチンカンな「勝負法」の解釈になるのでしょうか?しかものこのころ、大先生はまだ存命中なんですよ???
 ナゾは深まるばかりですね(;^ω^)。

 この不肖すぎるお弟子の言葉が示すとおり、柔道はこのころ既に「人の殺傷ができる武術」に回帰できる能力を完全に喪失していました。
 そのことは治五郎大先生が誰よりも深く知っていたはずなのですが…嘉納先生と不肖のお弟子たちはこの後、柔道が「武術」に戻る橋を、自分たちの手で切断する事態を引き起こします。