前回はさらっとしか触れませんでしたが、今回は小谷の渡米から五輪出場に至る流れをもう少し深堀りし、講道館がどのようにして「日本レスリングのイニシアチブ獲得」を目論んでいたかを確認していきたいと思います。
講道館の「密命」を受けて渡米した小谷澄之がアメリカ本土に到着したのは4月16日。乗船した「秩父丸」は補給も兼ねたホノルル寄港も含めますと、米本土到着までだいたい20日くらいかかりました。
その小谷が上陸した地点はなんと…五輪開催地のロサンゼルス( ゚Д゚)
講道館の「密命」を受けて渡米した小谷澄之がアメリカ本土に到着したのは4月16日。乗船した「秩父丸」は補給も兼ねたホノルル寄港も含めますと、米本土到着までだいたい20日くらいかかりました。
その小谷が上陸した地点はなんと…五輪開催地のロサンゼルス( ゚Д゚)
ロスの港に上陸した小谷は、排日法全盛時のこととて、日本人にとってかなり屈辱的な入国審査を受け、キレそうになりながらもなんとかパス。
その後は東京高師の大先輩で、大正6(1917)年からアメリカで柔道を教えている山内俊高の家で居候することになり、山内の柔道場で指導をしつつ、後発の吉田四一を待った、と自伝には書いています。
普通の人ならここでもう「おかしい」と気づくでしょう。
「その5」でもお話ししましたが、そもそも小谷の渡米は満鉄の社命による出張であり、その目的は「米国における体育ならびに厚生施設をはじめ、特に鉄道関係の厚生事業を視察する」(自伝より)ことです。
鉄道関係の厚生施設や厚生事業の視察であれば、首都ワシントンや、世界的都市であるニューヨークがある東海岸に行けばよさそうなものを、なぜかよりにもよって、五輪開催地であるロスに上陸。しかも迎えに来たのが満鉄の関係者ではなく、東京高師柔道部の先輩である山内俊高。なんてわかりやすい(;^ω^)。ちなみに山内、満鉄での勤務経験はありません。
さらにさらに、満鉄の社員として視察に赴いたのであれば、普通の社会人なら「あれを見た」「ここに行った」ということを多少なりとも書くべきところ、それが全くありません。自伝に書いてあるのは徹頭徹尾、柔道のことだけです。
これらの状況から、小谷の渡米理由は「満鉄の社業による視察」などでは全くなく、明らかに「柔道、そして講道館のため」であることがわかります。
小谷とレスリングの出会いもまた、非常に不可解なものでした。
自伝では、柔道の巡回指導の合間に「西海岸地区で私と同じ体重のレスリング選手権者と(中略)レスリングの試合をやる機会を得た」(小谷自伝より)小谷はこれを難なくフォール。ようやく小谷と合流できたもう一人の「密命選手」吉田四一も同様にレスリング選手を難なく打ち破ったことから、当地の柔道関係者や日本人会の幹部が「ぜひとも、この二人を(五輪に)出場さすべく、日本体協や関係機関に申請しようじゃないかとの議が決定」(前掲書より)したことによって五輪出場の機会を得た、としています。
しかし小谷のアメリカ上陸直後、しかも同じ「密命」を帯びた吉田四一が到着したころを見計らうように「レスリング選手との試合」が用意されるというのも極めて不自然な話ですし、いくら小谷や吉田が当代一流の柔道選手とはいえ、レスリングのルールで、専門選手を圧倒できるグラップリング力があるとはとても思えません(柔道がレスリングに通用しないことは、以前紹介した新免伊助が証明済み)。
これはあくまで邪推でしかありませんが、この「選手権者」なる選手は、講道館の手の者が、どこかの低レベルなリーグの「選手権者」でしかないザコ選手を、小谷や吉田を五輪に出場させるための「片八百長」の相手として引っ張り出してきたのではないかと思われます。
こんな手の込んだ芸当は、豊富な資金と海外に太い人脈がある講道館しかできません。
また、「西海岸地区の選手権者」との対戦時期もまた不可解なもので、自伝に「(レスリングの選手として五輪に出場するため)いまからまる三カ月間、本格的に練習してくれということになり…」とあることから、五輪の3か月くらいのこと、という計算が成り立ちます。
ロス五輪の開会式は7月30日(レスリング競技の初日は8月1日)ですから、単純計算すると「3か月前」とは4月30日。
小谷のアメリカ上陸が4月16日で、後発の吉田がいつアメリカに上陸したかは定かではありませんが、小谷の上陸から1か月以内には渡米したあろうと推察されますから、おそらくこの「選手権者との試合」が行われた時期は、4月下旬~5月初旬ころの間であろうと思われます。
小谷や吉田の上陸を待っていたかのように行われた「選手権者との試合」は、偶然というにはあまりにも出来過ぎた時期に行われており、先の状況証拠と合わせ、当事者がどう言い繕っても「小谷と吉田は、講道館レスリング部が五輪でメダルを取るため、密命を帯びて送り込まれた『隠し玉』だった」ということは明白です。
このように、豊富な資金と分厚い人脈によって練りに練り上げられた講道館レスリング部の(せこい)謀略は、「日本レスリング界のイニシアチブ争いに勝つ」という観点から結果から評価しますと、見事図に当たりました。
「その5」でお話ししましたとおり、この時わが国には八田一朗率いる「大日本アマチュアレスリング協会」、庄司彦雄率いる「大日本レスリング協会」、そして「講道館レスリング部」の3団体が鼎立して激しく対立しており、これを問題視した体協は一時、「代表決定機関無き為、一時羅府(ロス)大会のレスリング参加を中止と云う状勢」(「大日本体育協会史 下巻」)に傾きます。
しかし「今後の斯道発展のためにも、五輪出場は必要だ」との意見も根強かったことから、東京朝日新聞運動部次長にして体協理事の山田午郎が骨を折り、アマレス協会・レスリング協会・講道館レスリング部の代表が協議を持った結果、各団体から数名ずつ代表選手を出すことで折り合いをつけるという、なんとも日本的な決着を見ます。
その代表5名は以下の通り(カッコ内はヒモ付き団体名)。
・フェザー級 八田一朗(アマレス協会)
・ライト級 宮崎米一(アマレス協会)、加瀬清(レスリング協会)
・ウェルター級 河野芳雄(レスリング協会)、鈴木英太郎(講道館)
このように見ていきますと、講道館レスリング部の割り当てが少ないように思えますが、もともと講道館は出場選手決定のはるか以前から、小谷・吉田という「隠し玉」を持っていました。
しかも「在米邦人会からの大いなる推薦」「アメリカで特訓中」という肩書は水戸黄門の印籠にも匹敵する金看板であり、小谷と吉田の五輪出場はあっという間に可決されました。
これで団体ごとの出場選手数は2:2:3で講道館がトップに立ったうえ、小谷・吉田・鈴木英太郎のいずれもが、アメリカでのレスリング経験者ばかり。選手の質は、他2団体に大きく水を開けています。
これだけの選手を揃えたわが講道館レスリング部のメダル獲得は確実!ついでに講道館レスリング部による、日本レスリング界の制覇も確実!
オリンピック開始直前の講道館レスリング部は、「取らぬ狸の皮算用」にウハウハとなっていました。
しかしこの汚い目論見、見る人はよく見ているものです。
五輪出場調整の労をとってくれた体協理事・山田午郎は、出場選手調整会議後、八田を呼んでこう諭しました。
「彼らの目標はオリンピックの出場だけ。オリンピック後は泡沫のように消え去る。だからどんな不愉快や苦労があっても、やりぬけ。」
慧眼の山田には、講道館レスリング部と庄司のレス協のインチキぶりと、「未来の日本レスリングを託せるのは八田だけ」ということがわかっていたのです。
ともあれ、講道館レスリング部の謀略がうまくいったのはここまで。この後オリンピック本番でボロがボロボロ出てきて、エラいことになります。