ワタクシはガキの時分、オヤジやじいさんから「身の程を知れ、分際を知れ。身の程をわきまえないおかしな夢を持っても、そんなもん叶うわけがない」と言われ続けてきました。
学校の教師共はこれとは逆に「君たちには夢と未来がある」「だから努力すればどんな夢でも叶う」と言っていました。
あれから四半世紀。
ワタクシは人生の岐路に立った時、常にオヤジやじいさんの言っていたアドバイスを実行したわけですが、それはとても正しかった、と断言致します。
心理学の世界に「公正世界仮説」というものがあります。
もともとはアメリカの心理学者・メルビン・ラーナーが提唱したもので、「世界は公正であるべきだし、実際にそうだ」という仮説です。
これはもっとぶっちゃけて言えば「何事においても、努力したら努力したぶん、報われるべきだ」という考え方です。
しかしこの考え方は「科学的にこうだ」というものではなく、「こうでなくっちゃイヤだ」という祈りにも似たもので、現実世界はそんなに甘くありません。
以前にもいくつかの記事でご紹介しました通り、人間のスペックは遺伝でほぼ決まっており、自分にないものや、性能上適合しないものをいくら努力しても、それは多くの場合、徒労にしかなりません(「自分以外の周囲の偏差値がやたらと低い場合」という僅少な例外を除けば)。
ところが世の中にはこの現実を知らない、あるいは知っていても信じたくないというヒトが実に多い。
口を開けば誰もかれもが「頑張れば夢かなう」だの「才能に限界はあっても、努力に限界はない」だのと、口当たりのいいことばかりを言っていますが、そういうことを安易に言うヤツというのは、とんでもない情弱バカか、それをカモにしようとする詐欺師のいずれかしかいません。
では、「公正世界仮説」を振りかざす情弱に騙されないためにはどうすべきか?
答えはたったひとつ。天才のいる群れの中に入っていって、ケッチョンケッチョンにやっつけられ、自分の分際というものを、イヤというほど思い知らされることです。
ワタクシも人生で幾度か「オマエの才覚なんてここまでだ」と思い知らされたことがありますが、最もスゴい挫折を味わったのが、20代中盤から30代前半までを過ごした、泉州特設支社時代のこと。
ここには全国各地から、様々な体力自慢がやってきます。
ワタクシも体力には自信があったのですが、ここに集まってくるヤツらのレべルは、草野球レベルの体力自慢であったワタクシのはるか上を行くものでした。
体力もさることながら、巧緻性を競う訓練でも何でも、ワタクシが同期に伍してまともにできるものは何もなく、何をやらせてもビリッケツのほう。
ワタクシはチンケなプライドをバッキバキにヘシ折られ、「ああ、こいつらには逆立ちしてもかなわん…」という動かぬ現実を突きつけられました。
(その後、そういった天才になくて、ワタクシにあった特技…つまり武道・格闘技を前面に押し出すことで、なんとか生き延びましたが(;^ω^))
他人に比較して自分が劣っているということを認識した時、世の中には「アイツは大した努力もしていないのに、なんでオレより出来るんだ!」とルサンチマン(弱者の強者に対する嫉妬の心)を抱き、逆恨みをする方が多々いらっしゃいますが、それははっきり言って、やられ方が足りません(;^ω^)。
一度だけでいいですから、天才というものに実際に触れて、「もうだめだ」というレベルまで、バッキバキに心をヘシ折られてください。
そうすればあなたの心はごくナチュラルに「あなたが最強になれる土俵」を探し当ててくれることでしょう。
(まあ、メンタルが弱い方にはお勧めできない荒療治ですが(;^ω^))
ひどいことを言うようですが、いい歳をしたオトナであって、自分に才能がないこと、勝てないことを踏ん張るヤツや、結果や成果をさておき、ただ努力の量を誇るようなヤツは「根性がある」「頑張り屋さん」などではなく、ただ単に自分で自分が見えていないアホとしか言いようがありません。
学校の教師共はこれとは逆に「君たちには夢と未来がある」「だから努力すればどんな夢でも叶う」と言っていました。
あれから四半世紀。
ワタクシは人生の岐路に立った時、常にオヤジやじいさんの言っていたアドバイスを実行したわけですが、それはとても正しかった、と断言致します。
心理学の世界に「公正世界仮説」というものがあります。
もともとはアメリカの心理学者・メルビン・ラーナーが提唱したもので、「世界は公正であるべきだし、実際にそうだ」という仮説です。
これはもっとぶっちゃけて言えば「何事においても、努力したら努力したぶん、報われるべきだ」という考え方です。
しかしこの考え方は「科学的にこうだ」というものではなく、「こうでなくっちゃイヤだ」という祈りにも似たもので、現実世界はそんなに甘くありません。
以前にもいくつかの記事でご紹介しました通り、人間のスペックは遺伝でほぼ決まっており、自分にないものや、性能上適合しないものをいくら努力しても、それは多くの場合、徒労にしかなりません(「自分以外の周囲の偏差値がやたらと低い場合」という僅少な例外を除けば)。
ところが世の中にはこの現実を知らない、あるいは知っていても信じたくないというヒトが実に多い。
口を開けば誰もかれもが「頑張れば夢かなう」だの「才能に限界はあっても、努力に限界はない」だのと、口当たりのいいことばかりを言っていますが、そういうことを安易に言うヤツというのは、とんでもない情弱バカか、それをカモにしようとする詐欺師のいずれかしかいません。
では、「公正世界仮説」を振りかざす情弱に騙されないためにはどうすべきか?
答えはたったひとつ。天才のいる群れの中に入っていって、ケッチョンケッチョンにやっつけられ、自分の分際というものを、イヤというほど思い知らされることです。
ワタクシも人生で幾度か「オマエの才覚なんてここまでだ」と思い知らされたことがありますが、最もスゴい挫折を味わったのが、20代中盤から30代前半までを過ごした、泉州特設支社時代のこと。
ここには全国各地から、様々な体力自慢がやってきます。
ワタクシも体力には自信があったのですが、ここに集まってくるヤツらのレべルは、草野球レベルの体力自慢であったワタクシのはるか上を行くものでした。
体力もさることながら、巧緻性を競う訓練でも何でも、ワタクシが同期に伍してまともにできるものは何もなく、何をやらせてもビリッケツのほう。
ワタクシはチンケなプライドをバッキバキにヘシ折られ、「ああ、こいつらには逆立ちしてもかなわん…」という動かぬ現実を突きつけられました。
(その後、そういった天才になくて、ワタクシにあった特技…つまり武道・格闘技を前面に押し出すことで、なんとか生き延びましたが(;^ω^))
他人に比較して自分が劣っているということを認識した時、世の中には「アイツは大した努力もしていないのに、なんでオレより出来るんだ!」とルサンチマン(弱者の強者に対する嫉妬の心)を抱き、逆恨みをする方が多々いらっしゃいますが、それははっきり言って、やられ方が足りません(;^ω^)。
一度だけでいいですから、天才というものに実際に触れて、「もうだめだ」というレベルまで、バッキバキに心をヘシ折られてください。
そうすればあなたの心はごくナチュラルに「あなたが最強になれる土俵」を探し当ててくれることでしょう。
(まあ、メンタルが弱い方にはお勧めできない荒療治ですが(;^ω^))
ひどいことを言うようですが、いい歳をしたオトナであって、自分に才能がないこと、勝てないことを踏ん張るヤツや、結果や成果をさておき、ただ努力の量を誇るようなヤツは「根性がある」「頑張り屋さん」などではなく、ただ単に自分で自分が見えていないアホとしか言いようがありません。