集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

極左高専柔道原理主義作家と柔道ヨカタが知らない「柔道の本質」

2024-08-26 17:57:18 | 格闘技のお話
 皆様は、増田俊也という小説家をご存じでしょうか。
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮文庫)によって一躍文壇に躍り出、その後は自身が北海道大学で高専柔道に打ち込んだ日々を描いた「七帝柔道記」、北大柔道部の後輩である中井祐樹先生(中井先生に関しては直接セミナーで「遠藤返し(「SRT」とも)」を教えて頂いた&スパーまでして頂いたので「先生」です!)がUFCで勝利したことを描いた作品などにより、「柔道や格闘技に造詣が深い作家」として認知されている作家です。
 ワタクシは「木村政彦は…」が「ゴン格」に連載されていたごくごく一時期「お、これはスゴい作家が出てきたかな?」と思いましたが、よくよく読むとウザい自分語り・事実誤認・思い込みが激しいひどい文章しか書けないアホだとわかったため、今では「放置していたらバカ丸出しの文章を書く珍獣ジジイ」としか思っていません(まあ、「白い大地のアカい新聞」こと北海道新聞の元記者ですから、仕方ないんですが…(;^ω^))
 そういえば、あまり本を読んだことがない人は、増田の「七帝柔道記」を「すばらしい青春記」と評していますが、これは増田が作家として持っている唯一無二の武器である「ウザい自分語り」が作品の性質にうまくハマっただけであり、個人的な感想を謂わせて頂きますれば「柔道部誌に投稿し、内輪だけで盛り上がるのにちょうどいい作品」としか思えません。閑話休題。
 さて、「ウザい自分語り」と「ひどい事実誤認」が看板の増田が今回なんと、柔道に関する記事を「現代ビジネス」に書いてくれました!こりゃ~いいネタができたぞ、イエイ!😃

 記事のタイトルは「疑惑の判定が続いた柔道だが…『柔道はJUDOに変わってしまった』と憤る人たちがしている『大きな勘違い』」。
 パリ五輪における誤審問題を皮切りに「講道館柔道とはいかなるものか」「これからの柔道のあるべき姿は」などを語るという記事ですが、その内容はいつものようにウザい自分語り・事実誤認・思い込みにあふれていてツッコミどころ満載なので、今回はその「珍増田記事」についてツッコミを入れていきたいと思います(;^_^A。

【記事内容要約】
 まず同記事は非常に長ったらしいうえ、論点が非常に見えづらく、全文読み下してもいいことがない(;^ω^)ので、内容をザックリ要約します。
① パリ五輪で相次いだ誤審問題に関し、「柔道はJUDOになってからおかしくなった」という人たちが続出しているが、みんなは本当の講道館柔道が何なのかを全く知らず、そんなことを論じているのがおかしい。
② 嘉納治五郎は本来、講道館柔道を「打・投・極」全てが揃った総合格闘技にしたかったのだ!
③ しかし柔道が現在のようにスポーツ化してしまった現在、それに回帰するのは難しい。そこで講道館が「武道とは何か」を目に見える形で明確に示し、それを海外に広めることが重要だ。
④ その手始めとして、七帝柔道の大会で好評を博した座礼から始めてはどうだろうか。
というものです。
 以後、増田が誤認している点を縷々説明申し上げます。

【増田の誤認1 嘉納治五郎は「柔道のMMA化(勝負法)」を真面目に希求なんかしていない】
 この記事中、増田は以下に示した事例を挙げて「嘉納治五郎は柔道を最終的にはMMAにしたかったんだ!」と主張しています。
(以下、弊ブログではこれまで、嘉納治五郎や講道館柔道を取り上げたヨタ記事を書いた際、尊敬と侮蔑双方の意味を込めた「治五郎先生」という呼び方をしていましたが、本稿でも継続します(;^ω^))
・大正10(1921)年、アメリカのプロレスラーで「世界柔道王」を自称していたアド・サンテルが講道館に挑戦してきた際、当初治五郎先生は「受けて立ってやる!」と息巻いたが、高弟たちが止めて実現しなかった。治五郎先生はファイターだったのだ!
・治五郎先生は昭和5(1930)年に行われた全日本選士権を見て「こんなのは牛の角の突合せで、私の希求した柔道じゃない」と言って嘆いた。ほら、治五郎先生は「勝負法柔道」こそが本義と思っていたのだ!
・治五郎先生は打撃ありの柔道を希求するため、剣道の小手を流用したオープンフィンガーグローブを開発させようとしていた!スゴイ先見性だ!

 この3つは「木村政彦は…」から始まって、その他の著作やエッセイなどのなかでも、「ナントカの一つ覚え」のように擦っている話題ですが…思い込みの激しい増田にそんなツッコミを入れてもしょうがないので(;^ω^)お話を続けます。

 少し前に弊ブログで連載した「ふたりの『嘉納』が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^))」を お読み頂いた皆様はよくご存じと思いますが、治五郎先生の「勝負法」なるものの実態は、増田が言うような「柔道を創設してからずっと心の中に持ち続け、常にその方法を模索していたすばらしいものだった!」というものではなく、「アブソリュートパワーでも寝技でも勝てない高専柔道にビビリ上げた結果、講道館のアイデンティティを保つため、遠い昔に自分が言っていたことを思い出し、消去法的に始めた事業」でしかありません。
 上記連載でも明らかにしました通り、治五郎先生の「勝負法」研究の実体は、粗雑極まりない実にいい加減なものでしたし、サンテル戦に関しては終始及び腰(対戦を強行した庄司彦雄たちに「段位を剥奪する」などという人非人な行為をしたのは間違いなく、自分たちが逃げ回ったことへの後ろめたさがあったから)でした。
 ワタクシは「ふたりの嘉納」を書く際、国会図書館蔵書を中心に当時の文献を徹底的に調べ上げましたが、「勝負法」の確立に関し、どこをどう探っても増田が言うような勇ましく、ポジティブな事績は全く!見当たりませんでした。(人生の末期に差し掛かり、頭がおかしくなったの治五郎先生による勇ましいだけで内実の伴わない「勝負法に関する発言」だけは、上記連載で取り上げています(;^ω^))
 いったい増田はどこでどんな資料を読んで「勝負法にポジティブな治五郎」を見つけたのでしょうか。大変理解に苦しみます。
 
 従いまして、増田が記事の半分くらいを使って(使いすぎ!)熱く論じている「柔道は本来、MMAになるべきものだった」というのは、100%じゃないですが、95%(当社比(;^ω^))くらいの確率で、事実誤認です。
 これはあくまでも推測ですが、増田がしつこく「柔道はもともとMMAを目指していた」と言い続けている理由は、増田が尊崇してやまない木村政彦先生の事績(「打撃に対応できるだけの柔道」を実践し、スゴいレベルで対応できていた)を、「これがほんとうの柔道だったんだ!」と正当化するための方便と解釈しています。
 個人的にそういう思いを抱くのは結構ですが、その事実誤認95%の思い込みをもって「キミたちは柔道を知らない!」などとはどの口が言うのでしょうか。元新聞記者の看板が泣きます(まあ、白い大地のアカい新聞記者だから…←しつこい(;^ω^)) 

【増田の誤認2 講道館にとって不可能なことを望んではいけない】
 増田は続けて、今次パリ五輪における各種誤審問題や、海外勢の派手なガッツポーズ連発に苦言を呈するとともに、「こうした問題を減らすにはまず、講道館が「武道」というものを規定し、それをもとに演繹的手法で柔道を整理し、海外へ向けて新たなブランディングをしなくてはいけない。」(原文ママ)としています。
 この部分については増田の感想なので、特に何がどうということはないのですが、講道館の歴史を個人的に追っかけ回したうえでの結論としては「講道館には武道を目に見える形で明らかにすることなんかできない。無理。不可能。」です。

 講道館成立の歴史は調べれば調べるほど「政治力による勢力拡大・他勢力の駆逐」だけに彩られており、社会的地位が確立した明治30年代以降は完全に「柔道大会を開く組織」「段位を発行する組織」として固着しています。
 従って、講道館の技術は「治五郎先生の思い付き」、武道哲学は「治五郎先生(あるいは治五郎先生の口を借りた高弟)のお言葉」だけであり、組織を上げてまともな研究をしたことは全くと言っていいほどありません。
(きちんとした技術開発をしたのは、立ち技なら武徳会、寝技なら高専柔道。講道館は高専柔道発の三角締めが猖獗を極めたとき、三船久蔵を座長とする対策委員会を作ったが、その逃げ方が「極まる方に逃げていた」という爆笑エピソードからも、まともな技術開発能力がなかったことがわかる)
 自身も空手をものしているガチの空手有識作家・今野敏先生は自著「琉球空手・ばか一代」(集英社文庫)において、極真空手の本質を「幹が細いのに枝葉だけが茂った木のようなもので、根っこが大山総裁のカリスマ性だった」と評していますが、これは講道館もまったく同じであり、上記の文章の末尾部分の「大山総裁」を「嘉納治五郎」と変えただけの組織です。
 大山総裁と治五郎先生の違いはたった1つ、「超絶学歴エリートであったか、そうでなかったか」だけですね。

 皆様に非常にわかりやすい形で「講道館がバカで不勉強」ということを示した事例として著名なのは、1990年代に「カラー柔道着」問題が勃発したときです。
 この問題が勃発した際、柔道の総本山(と自称する)講道館は「なぜ柔道着は白じゃないといけないのか」という点に関し、総本山ならではの、外国勢が思わず唸るような見識を披露しなければならないところです。
 ところがバカをこじらせた講道館は「武道精神がウンヌンカンヌン」という寝言しか言えず、海外勢のいいなりになったことは周知のとおり。
 この一事を取っても、講道館は「ただの試合開催組織・段位発行組織」としか言えず、ヨカタから「バカ、アホ、日本の恥」という謗りを受けても仕方がないと思います。
 増田は高専柔道原理主義派なのに、なぜか講道館に色目を使うヘンな作家なので、根拠不明の「講道館の性善性」を信じていますが、講道館の黒歴史をずっとウォッチングしているワタクシからすれば、「講道館に『武道精神を明確化』だの『演繹化(演繹≒何か法則性を仮定し、それを各種の事物に当てはめること)』なんてできるはずがない。それは八百屋に行って『魚下さい』というくらい、無意味なこと」としか言えません。

 またこのあたりを説いてる記事中、増田は「浮世絵と呼ばれる絵画には遠近法がなく」(原文ママ)などと書いていますが、江戸期の風景画には遠近法を大胆に使用したもの(代表的なものに、北斎の「神奈川沖浪浦図」など)がたくさんある!ことも付記します。

【増田の誤認3 座礼を滅ぼしたヤツが座礼を復活?お笑い沙汰!】
 増田は続けて「目に見える武道精神」のアイディアとして、今年の七帝柔道で行われた「座礼」を取り入れてはどうかという意見を記載しています。
 しかし、それまでの古い柔術における礼が座礼、または片膝立ちとなって、拳を地面につけての礼だったのを、柔術諸派を駆逐することで「立礼」だけにしてしまったのは、ほかならぬ講道館です。
(弊ブログ「長い長い歴史」で良移心頭流・中村半助VS講道館・横山作次郎の死闘を描いたことがありますが、この際中村は片膝の礼をしています。)
 また古い武術では、「人を殺す技術を学ぶ場所に入るときは、日常と離れた異世界に入る」という意味を込め、稽古場に出入りする際だけ「場所に礼」をする流派(代表的なのは「一撃必殺の剣」で有名な東郷示現流)も多く、「日本伝武道は、師匠や稽古・対戦相手など、人に対して礼をするもんだ」という解釈は大いに!!!!!間違っています。
 
 増田はモノを知らないので、自身唯一のアイデンティティ確立場所・七帝柔道での座礼を見て「すばらしいアイディアだ!」と喜んで提案したのでしょうが、現在の立礼になった経緯は上記の通りであり、座礼やそれに付随する礼を滅ぼしたのは講道館であり、それがいまさら「武道精神を復活させるために座礼」と言ったって、海外勢が納得するはずがありません。
 増田がモノを知らないことを示す、ほんとうによい証左です。

【周防平民珍山的「柔道はこれからいかにあるべきか」案】
 以上、増田の面白発言を見て参りましたが、増田の記事を読んで思ったことは「柔道側のオピニオンを司る人間って、この程度しかいないんだ。へえ~」ということだけでした。
 パリ五輪であれだけハデに誤審や不手際、八百長らしき行動があったのに、国内における意見はマスゴミや一般人による感情論以外何も見当たらず、「柔道の有識者」からの意見は何一つ目にしません。ようやく目にしたのは増田の意見だけです。
 つまり講道館も全柔連も、歴史の積み上げや研究を怠った結果、国際大会においてどれだけ選手が理不尽な扱いを受けても、史実や武道哲学に立脚した有効な反論をすることがでない、ルール作りに参画できる能力もない、ほんとうにただの「試合開催機関・段位発行機関」に堕しており、また、そんなしょうもない組織からの受け売りしか報じることができない「柔道マスゴミ」&「柔道有識者」は、真にしょうもない存在だと思います。
 「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」などと申しますが、そのデンでいけば講道館・全柔連は完全なる「愚者」です。

 え、「柔道に文句ばっかり言うな!お前も柔道が国際的によくなる代案を出せ!」ですって?
 いいですよ~!ワタクシは屁理屈と言い訳と海外逃亡だけでできている「ひろゆき」じゃありませんから、すぐに代案を出して差し上げましょう!

 これからの柔道はどうあるべきか?大胆に私見を申し述べます。
「現行のIJFルールで全然かまわない。むしろ講道館柔道試合審判規程なんかゴミ箱に捨ててしまえ!
 IJFルールで行われている現行の『足関節なし・立ち技偏重ジャケットレスリング世界一決定戦』こそが、治五郎先生の希求した真の講道館柔道だ!」

 弊ブログで幾度かお話ししましたが、講道館柔道の本質は、治五郎先生が講道館柔道の体系を作り上げた際に最大最強のコンセプトとした「試合に見栄えよく勝つ!ための柔術」であり、これは現在に至るまでそれ以上でもそれ以下でもなく、それ以外のものになったこともありません。これは講道館の歴史を永く調査し続けたワタクシ、自信を持って言い切ります。
 その達成のため治五郎先生は時間と政治力をかけ、寝技の強い柔術家を排除し、その得意技を禁じ手とし、投げのポイントを不当に高く設定し、寝技の強い高専柔道が勃興すれば「立ち技の講道館こそが真の武道じゃい!」と各種媒体でアジることに全精力を傾けました。
 つまり治五郎先生が心の底から広めたかったのは「試合に勝つ!ための立ち技偏重ジャケットレスリング」であり、勝負法も礼法も武道精神も、そんなものは全て後付け、どうでもよかったのです。
 また、今のIJFルールは、
「武道精神?そんな目に見えないもの、セーヌ川か清渓川(←朝鮮語読みすれば「チョンゲチョン」。若者を中心に大人気のゲーム「ブルーアーカイブ」を知らない方には不毛なギャグ(;^ω^))にでも沈めておけ。ヨカタが見て面白いものなら、それでいいんだ」
という確たる哲学の下ルール設定がなされていますから、単純に見ていて面白い。それでいいじゃないですか。
 それに、日ごろ柔道をろくに観戦もしていないようなヨカタが、オリンピックの時だけ柔道を観戦して、日本の選手が負けたというだけで「武道精神がウンヌン」なんて言うな!
 ロンドン五輪までは、サンボでは初歩の初歩である「ヤッツケビッチ式十字」を食らって、銀メダリストが驚く程度の調査力しかなかった低レベルな柔道をまず愧じろ!
(この状態は監督がウドの大木バカの篠原、全柔連会長がゴミの吉村の時まで。その後、井上康生監督になってから各種組技とのクロストレーニングが行われるようになり、ホッとしています。)

 講道館創設から今年で142年。現在の柔道(IJFルール)は、限りなく治五郎先生が夢見た「試合で見栄えよく勝つ!ための柔術」として完成した観があります。
 オリンピックがあるたびに、バカなヨカタほど「今の柔道には武道精神が感じられなくてウンヌン」などとほざいていますが、これは治五郎先生の大御心や講道館柔道の本質を知らないがゆえの不敬な発言です。治五郎先生から天罰を受けますよ!
 先祖を敬う心を忘れないワタクシは、ずっと言い続けます。
「今のIJFルールこそが、治五郎先生が生涯を賭けて希求した、真の柔道の姿だ!」 

「踏めよ究極、これしかないぜ!」…究極の下半身トレ「四股」について考える(その2)

2024-06-27 10:42:09 | 格闘技のお話
 …すみません、思うところあって(その2)から、メインタイトルを変えました(;^ω^)。
 出典は伝説的アニラジ「青春ラジメニア」(平成元年4月1日~現在も絶賛放送中!)のメインテーマ「青春ラジメニアの歌」3番の一節「聴けよ究極、これしかないぜ」からです。
 四股は調べれば調べるほど、踏めば踏むほど「究極!」と思わされたため、こんなタイトルにしました。
 では、本編です。

 ①では四股で「つながり」を鍛えるというお話をしましたが、「つながり」とは自動車でいえば「電気系統」「足回り」です。
 相撲で勝つためには「つながり」がうまくいくだけでは全く不足であり、自動車でいえば「エンジン」に相当する箇所の開発が必須。
 箇条書きにしますと
①パワーの発露に必要な「大きな筋肉」をよりよくつける
②それら大きな筋肉を、さらに付近の大きな筋肉と連動させる
という要素が必要になるわけですが、以下に述べる理由から、四股はこの2点をまかなう最適解といえます。

 「人体が最大のパワーを発揮するためには何をすればいいか?」
 この答えは、理屈でいえばとても簡単。下記の一言で片付きます。
 「人体が持っている大きな筋肉を連動させること。」
 これについては、今や斯界では超絶有名人になった沖縄空手のエキスパート・山城美智沖縄拳法空手道首席師範も、
「大きな力を発揮するためには、大きな筋肉を連動させる必要があります。小さな筋肉ではいくら鍛えたところで、小さな力しか出ません。」
と常々仰っており、要するにそういうものなんです。
 しかし現実には、ある程度運動をしている人間であっても、「大きな筋肉を意識して動かす」ことができていないことが多く見受けられます。

 なぜ、この単純な理屈を実現することが難しいのか?
 これまた答えは単純。「大きな筋肉」は、大きな力が発露できるものであるいっぽう、意識して動かすことが難しいからです。
 「力こぶを作ってください」といわれてできない人はいませんが、「広背筋下部を動かしてください」とか、「大胸筋を動かしてください」と言われてできる人はそうそういません。

 大胸筋を鍛える代表的なトレーニングといえばベンチプレスですが、素人さんのベンチプレスは腕(上腕三頭筋あたり)か肩(三角筋前部)にしか負荷が入っていないことが多く見受けられます。
 広背筋を鍛える代表的なトレーニング・ケーブルロウイングも同様で、多くの人のロウイングは、負荷が腕(上腕三頭筋)や肩(三角筋中部または後部)にしか入っていないことが、はっきり見て取れます。
 こうした「なんちゃってベンチプレス」「なんちゃってケーブルロウイング」が示しますように、ろくに体を動かさない多くの人は「大きな筋肉を意識して使うことは、実はとても難しい」ということにすら気づけていません。
 事程左様に、「大きな筋肉を意識して動かす」ことは難しいのです。

 その問題を解決するためのアプローチ方法はさまざまに存在しますが、いわゆる「レジスタンストレーニングの理屈」…つまり、「こうした運動にはあの筋肉とこの筋肉が必要だから、あの筋肉を意識して、フォーカスして、その後コーディネーションをして…」みたいなアプローチをすると、はっきり申し上げますが、理屈倒れになって何も身につかない可能性が大です。
 実は筋の良い武道や格闘技に「型」が存在する理由こそ、ここにあるのです。

 「型」は武道・格闘技において、ものすごく役に立つことをものすごく単純な動作に溶かし込んだ「圧縮ソフト」みたいなものであり、それを修行者が反復することで「解凍」を促す、という点にあります。
(ちなみに単純な動作を理屈に依らず反復するというのは、実は脳科学の観点においても「気づきを得る」「ひらめく」ということにおいて重要なファクターであったりします。昔の人は経験則でそれを知っていたのですね。)
 相撲に少し詳しい人は誰でも知っていることですが、実は四股も相撲という格闘技における「型」のひとつ(相撲基本体操における第三運動・「四股の型」)だったりします。
 
 山城先生の沖縄拳法において「大きな筋肉をつなげて、大きな力を発揮する」という極意を凝縮した「圧縮ソフト」と位置付けられているのはナイハンチですが、相撲における同じ目的を担った圧縮ソフトこそが、四股なのです。
 
【四股で鍛えられるものその③ 「大きな力」のキーとなる中殿筋と、それを鍛えることの困難性】
 別にお金になるわけでもなんでもないので、もう答えから先に言ってしまいますが、四股がダイレクトに鍛えてくれる「大きな力」発露の最も重要な筋肉は中殿筋です。
 
 中殿筋は骨盤を横から支えるようについている筋肉で、起始が骨盤上端、停止が大腿骨の大転子(骨盤にハマっているジョイント部分)。
 役割としては「股関節の外旋」、そこから発展しての「骨盤の中立」。
 「外旋」は中殿筋だけではなく、それを覆うようについている大殿筋(上部)も使用しており、かつ外腹斜筋も連動するという、人体でも最大出力を発揮する動作。単純なダッシュのみならず急激な横移動など、下半身を爆発的に使う動作はすべてこの「外旋」がメインであり、この動作をバカアホスポーツ指導者は「下半身を使って投げろ!」とか「下半身を使って打て!」と表現するわけですな(;^ω^)。
(ちなみにこの反対動作となる「内旋」は、強力な動作である「外旋」のリセット機能であるため、中殿筋と、その奥底にある小殿筋だけが用いられます。)

 ここまで読むと「そうか、じゃあ大殿筋上部と中殿筋を鍛えれば、スゴい下半身が手に入るんだ!」…理屈ではそうです。単純な理屈では…しかしその実現は、非常に難しい…。

 中殿筋はボディビルダーを正面から見たとき、ケツが横に張り出しているあの部分であり、ボディビルの大会では「逆三角形の体型」を作り出すのに欠くべからざる部位であることから、ビルダーは当然、この「ケツの横の張り」を出すために鍛えるわけですが、その方法は驚くほど多種多様であり、「ケツの横の張りを出すには、スクワットだけしときゃいい」というビルダーはおそらく、誰一人いないでしょう。
 このくだりだけでも「殿筋群は鍛えにくい、とくに中殿筋はスポットで鍛えにくい」ということが判って頂けると思います。

 ここから先は「殿筋群を鍛える」に関する余談です。興味ある方だけ読んでみて下さい。

 わが国における多くのスポーツ指導者は、「そのスポーツ競技に勝つことを特化させた指導者」でしかないことが多く「競技に必要な筋肉をよりよくつける、あるいは筋力をよりよく上げる」という具体的手法をほとんど知りません。むしろその分野については、スポーツ競技という手垢がついている関係上、「ヨカタ以下」と言ってもいいでしょう。
 そうしたバカアホ指導者が、「殿筋群はスポット強化が難しい」ということも知らず、「選手の下半身を鍛えるんだ!」と息巻いた場合、だいたい2つの「間違った道」を選択します。ひとつは「走り込み」もう一つは「中途半端なレジスタンストレ」。
 ちなみに答えから言いますと「どっちも間違い!ペケ!」。その理由を以下に掲げます。

 「走り込み」のほうは太古の昔から、無能なスポーツ指導者が大好きなものとして有名ですね(;^ω^)。
 確かに走ることは下半身の各種筋群を使用します。しますけど…無能な指導者の皆さんに、絶望的なお話をひとつしておきましょう。

「『走る』という動作は腱弾性によるところが極めて大きく、『走る』という動作に慣れれば慣れるほどその色合いは強まり、『筋肉を鍛える』あるいは『消費カロリーを増やす』ということから遠ざかっていく。
 殿筋や脚部の筋肉を増やすならレジスタンストレ、消費カロリーを増やすなら『腱弾性』の関与が少ないウォーキングのほうが余程マシ。」

これは各種の小むつかしい文献を読みあさり、筋トレ系Youtuberのチャンネルをいくつも視聴し、自分で人体実験をして得た結果なので、間違いありません(キッパリ)!
 走り込みの主目的につき、それが「競技の特性として、走ることが必須だから」である場合には全然アリですが、それが「下半身全体を鍛えることだ」と断言するヤツとは、絶対に関わり合いにならないほうがいいです(キッパリ)!きっとあなたが不愉快な思いをしますから。
 
 次に「中途半端なレジスタンストレ」。これは平成二桁以降に市民権を獲得した、比較的新しいものですが、「中途半端で効果がないレジスタンストレ」をやっているのは、昨今のプロ野球が顕著ですね(;^ω^)。特に読売ジャイアンツの選手…。

 筋肉をつける、あるいは筋力を最大限に発揮する場合、一般には「ウェイトトレ」と呼ばれる各種レジスタンストレーニングを避けて通ることはできません。
(それをちゃんと頭&体でわかりたかったため、ワタクシも4年ばかりガチでウェイトをしていました(;'∀'))
 しかし、「筋肉を本気で覚醒させる」というのは本来生易しいものではなく、目的が筋量アップであるにせよ筋力アップであるにせよ、常に高い緊張感&ヘビーなウェイト(または高回数)が必須となります。
 よくバカなプロ野球選手が、ヘラヘラしながら「レジスタンストレらしきもの」をしている姿が見受けられますが、ヘラヘラしながらできる程度の回数・負荷では筋量・筋力のいずれも得ることはできません。得られるのは「重いものを持ち上げたであろう満足感」だけです。
(これはプロ野球だけでなく、各種スポーツ界でもほぼ同様)
 そのわりに「筋トレのあとは、栄養補給と休養が大事」とばかりに大飯を食って休憩ばっかりしているわけで…ちなみにこれが、ジャイアンツの選手が「あらゆる意味で読売巨人病(;^_^A)」になる原因であったりもします。

 話がだいぶ横にそれましたが、④では「なぜ四股の動作なら、中殿筋にダイレクトに刺激が入るのか?他」についてお話しします。


柔道の質を落としたと噂の???「ポイント制柔道」、意外な発祥地

2023-07-27 06:07:09 | 格闘技のお話
【コメント欄「通りすがりのコメントです。」様のご指摘により、講道館柔道試合審判規定等においては現在も「有効」が有効(←シャレじゃないです(;^ω^))ということが明らかとなりましたため、文面が初稿とは異なっておりますことをご寛恕下さいm(__)m)

 オリンピックなどで採用される国際柔道審判規定(以後、IJFルールと呼称)から現在は排除されましたが、かつてIJFルールには「有効」「効果」なるポイントが存在しました。

 やっている側も意味が分からず、ワタクシも約4年間の柔道修行期間中、取ることも取られることもなかった「効果」については平成21(2009)年、それなりにルールに溶け込んでいた「有効」については平成29(2017)年、IJFルールから排除されましたが、排除の理由はリオ五輪を前にIJFが発表した「柔道の本質」(ネタ元・Youtube「国際柔道連盟試合審判規定説明動画」)によりますと、おおむねこんな感じ。

「柔道の本質とは『技で勝負を決すること』である。(中略)正々堂々と組み合って、試合場の中央で技をかける必要があることを審判員・選手は理解しておく必要がある」
「ルールの多くは試合者のためにあるのではなく、その試合を観戦し、柔道を見て楽しむ観客のためのものであるから、組まなかったり、場外に出るようなネガティブな行為は試合をつまらなくするため罰せられるのである」

 …なんとも理解に苦しむ説明ですが、要するにオリンピック柔道を「細かいポイント設定を止めることで、観る専のヨカタ(門外漢のシロウトを指す相撲・プロレス界の隠語)に分かりやすくしよう!」ということだけはわかりました(;^_^A。
 しかし、リオ五輪を契機に制定されたこの「判定は技ありまで、『指導』で試合運びが大きく変わる、ゴールデンスコアで恐ろしいほどの長い延長戦」という、ヨカタが観て楽しむためのルールを、ある連中がしきりに持ち上げるようになります。
 それは柔道に対して「一本を取る柔道こそが真の武道である」というファンタジーを信じている情弱柔道家たちです。

 弊ブログでは「長い長い歴史」のなかで「柔道の本質」についてたびたび取り上げ、柔道とは以下のような武道だと結論付けられています。
① 柔道はもともと、学校教育に取り上げてもらうために整備されたもので、この世に登場した時点で「試合に勝つ!ための柔術」だった。
② 明治30年代に当時の高校生が「ルールを作り、それを駆使したスポーツ柔道」となる柔道の原型を作り上げ、講道館もゴチャゴチャ反論していた割には「試合の企画・運営力」という点において勝っていた学生柔道にそのままズルズル引っ張られ、「スポーツ柔道」≒「柔道」という認識が修行者の間に蔓延した。日清・日露戦争に起因する、ヨカタによる「武道ブーム」がそれに拍車をかけてしまった。
③ 明治40年以降、柔道・県道が学校教育に組み込まれるに至り、柔道は完全に「試合に勝つためのスポーツ柔道」≒「柔道」となった。以後、嘉納治五郎が希求した「勝負法」(「勝負法」については「長い長い歴史」参照)は永遠に叶わぬ夢となり、現在に至る。

 柔道の歴史をほんの少しほじくり返せばこの程度のことはすぐにわかるんですが、アタマの中に道着が詰まっているような情弱柔道家は
「柔道とは殺傷能力のある武道だ!」
(↑舗装道路上で投げを食らえばただでは済まないが、柔道以外の組技にも当然投げはあるから「柔道の投げ技は殺傷力があるけど、ほかの組技に殺傷力がない」というのは理論の飛躍が過ぎる。)」
「一本を取る柔道こそが、柔道の本質だ!」
(↑明治末年まで、講道館では三本勝負が当たり前で、一本勝負は講道館原理主義派が忌み嫌う高専柔道が発祥。)
などという世にも恥ずかしい(/ω\)世迷い言を、今日もどこかで臆面もなく言っているわけですな。

 さて、こうした情弱は「一本を取る柔道こそが、柔道の本質だ!」という発言と並行してよく、こんなことも言います。
「前の東京オリンピック(昭和39年)で柔道が競技採用されたとき、体重制とポイント制が採用されたため、『小能く大を制する』という柔道がなくなり、柔道が堕落した!」
 それでは本稿のメイン、この発言がどう世迷い言なのか、どう恥ずかしい(/ω\)発言なのかということをお話ししましょう。

 柔道の試合審判規則の草分けとなったのは、明治32年に武徳会が制定した「大日本武徳会柔術試合審判規程」、次いで翌33年に講道館が制定した「講道館柔道乱捕試合審判規程」。これは以前「長い長い歴史」の第10回で取り上げていますので、興味のある方は確認してみて下さい。
 このころは「勝負三本」「技ありを2本取っても『合わせ一本』にならないことがある」など、実に雑なものでしたが、その後、柔道のスポーツ化によってどんどんルール整備が進みます。
 そのムーブメントの中で、最も最初に細かいポイント制度を作り上げて試合をしたのはなんと意外なことに…戦前にいくつか存在した「柔道の総本山」の一角、警察柔道だったのです!

 現在も連綿と続く全国警察柔道大会は、昭和4(1929)年に開始され、戦前は昭和11年の第8回大会までが開催されました(シナ事変のため中止。昭和15年には皇紀2600年記念橿原神宮大会の一部として大会が例外的に行われたが、原則終戦まで中断)。
 第1回大会は昭和4年10月28~30日にかけ、陸軍外山学校で盛大に挙行されましたが、この試合審判規定に、ほかの柔道試合ではちょっと見ない珍しい1項が設けられていました。
「勝負決セザルトキハ姿勢、態度及ビ技術等ニ就キ審判ハ其ノ勝敗ヲ決ス」
 今では全く信じられないことですが昭和初期のこの当時、民間で行われていた柔道大会は「寝技時間無制限、引き分けは戦術のひとつ」という、いわゆる「高専ルール」が主流を占めており、特に西に行くほどその傾向が顕著でしたが、それを根底から覆すルールを組み込んだわけです。
 残念ながら第1回大会は「立派な審判がすばらしい眼力で、無気力試合や消極試合をビシバシ取り締まってくれるだろう!!」という、のんきな性善説に頼っていたため、「態度及ビ技術等」で勝敗を決める事態は起きなかったようですが、当時としては画期的だった「引き分けなし」はなかなかの反響を呼び、昭和6(1931)年の第3回大会ではついにわが国初となる「ポイント制」が発案・運営されます。
 このときのルールは1本勝ち10点、技あり勝ち7点、後年の「有効」に相当する技で5点が計上され、団体戦5人が挙げた総得点数で勝敗を決する、というもの。
 ちなみに当時の「5点」に相当する技とは①投技では技ありに近い技②押さえ込み20秒以上(当時の押さえ込み1本は30秒)でした。

 ではなぜ警察は「引き分けなし」という、当時としてはよく言えば画期的、悪く言えば常識破りなルールを採用したのか?
 理由は複数存在しますが、とても大きな理由の1つに「当時の警察柔道、ひいては講道館の敵でもあった高専柔道への強い対抗意識があった」ことは間違いないと思います。

 現代の柔道しか存じない方は驚くかもしれませんが、昭和初期における「柔道大会」のルールの主流は、「勝負を決するのは一本勝ちのみ」の高専ルールでした。当時のピュアといえばピュア、情弱といえば情弱な学生柔道家たちはこの「一本勝ちだけが勝利を決する」ということにファンタジーをロマンを描き、それが爆発的な人気の源となっていました。
 極左高専柔道原理主義作家・増田俊也あたりはこの部分だけを切り取って「高専柔道は戦前、まさに主流の柔道だった!」などと興奮していますが、ここで高専大会ルールの本質をドン!と衝いてしまいましょう。

 そもそも高専大会において寝技が発達した理由は「ろくな運動経験もない旧制高校・高等専門学校の学生が、2年少々の少ない修行期間で、立ち技の効く相手をストップさせる」ため、最も有効な手段だったからであり、「一本勝ち以外を勝利と認めない」というルールも、それを補填するためだけに採用されたルールです。
 高専柔道の代名詞といえば寝技ですが、はっきり言いますと「ストップ・ザ・立ち技」でさえあれば、その手段は寝技でなくともよかったわけであり、実際、まだ寝技の有効性が認知されていなかった黎明期の高専柔道において、旧制四高(現・金沢大)が生み出した「ストップ・ザ・立ち技」の戦法は立膝のまま動かないという「ガンバリ」というものでした。その後に六高(現・岡山大)師範の岡野好太郎が同ルールにおける寝技の有用性にいち早く気づき、これを体系化したため、以後「高専ルール≒寝技」路線が確立されたというわけです。
 ではなぜ、こんなイビツなルールが戦前に主流たりえたのか?
 高専柔道を描いた凡百の書籍では「高専大会は、帝大柔道会という学生の自主団体が運営した、自主自立の大会だった」みたいなことばかりが書かれていますが、偏差値が高いだけのガキの集団があのような巨大な大会や、それに連なる枝大会を運営できるだけの組織力や資金力があったとは到底考えられません。
 それをゴリ押しできたのは間違いなく、そのイビツな柔道のリードオフマンが、当時のわが国におけるトップクラスのエリートであった旧制高校生→帝大生(当時の旧制高校は、学部選択でゼイタク言わなければ、どの帝大でも入れた)→高級文部官僚や財閥系企業の重役だった!からにほかならず、戦後にその威勢を一気に失ったのも、結局は高専柔道を陰に陽にサポートしていた戦前の官僚制度や財閥経済が一時崩壊し、そのイビツな柔道を保全してくれるバックを失ったからにほかなりません。高専柔道側からしかものを見られない作家・増田俊也は「謎だ、謎だ」などと言っていますが、時代背景をトレースすれば、すぐわかることです。
 嘉納治五郎は高専柔道に生涯白い眼を向けつつ、けっきょくはほぼ黙認していましたが、高専柔道のルールの異常性と、しかしそれを運営する連中の「巨大な政治力」を勘案すれば、「黙認」というのが一番現実的で波風が立たないと考えたうえでの苦渋の決断だったのでしょう。

 警察柔道がポイント制を敷いた理由について記したものはいくつかありますが、戦後に施行された「柔剣道試合における審判について」(昭和31年9月29日務発第151号警察庁警務部長発)という警察部内通達が、いちばんよく書かれていると思いましたので引用します。
「…柔道試合において引分けを狙うあまり、その技を競うことを放棄し、時間を空費するに専念する如き(中略)、この種の行為によって試合は低調不明瞭なものとなり、そこで涵養すべき敢闘精神を反って損ない、警察教養の本旨にそむくような結果を招く…(中略)…最近においてもなお旧来の弊風が、依然として後を絶たないごとくである。」
 ここでいう「旧来の弊風」とは、とりもなおさず高専ルールのことで、このころ審判長をしょっちゅうやっていた警察柔道のドン・工藤一三(くどう・かずぞう。1898~1970。講道館柔道九段、大日本武徳会範士。警察大学校教授)も「頑張り合い、引き分けが多くて、低調なものとなり、見られたものではないとの批判を受けるようならなんにもならぬ」と発言しています。
 工藤がいう「頑張り合い」とはとりもなおさず、前述の高専柔道における「ガンバリ」であるのは間違いなく、要するに警察柔道は「ガンバリ」≒寝技への引き込みを含む、立ち技に付き合わない各種行為を排することを土台にルール作りをしたわけです。
 立ち技に細かいポイントを設定し、原則立ち技で勝負させる。寝技も押さえ込み秒数を細かく設定する。寝技の「待て」のタイミングはできる限り早く。反則に関するポイントも細かく設定して試合の遅延行為を許さないなどなど、見れば見るほど「高専柔道へのアンチテーゼ」が見て取れます。
 また、警察柔道はこの細かなポイント設定によって、僅差判定が出やすい団体戦での勝敗を明確にして円滑な試合運営(要するに、負けた側がゴチャゴチャ文句を言ってこないようにする)を狙うとともに、もともと立ち技メインで技術体系を形成していた講道館柔道への原点回帰を狙った、と考えても不思議ではありません。だって警察柔道はその黎明期から、講道館とは深い深い関係があるんですから…
(いまひとつ、警察柔道がポイント制を採用した理由は「大正末期、高専柔道に大いに不覚を取ったため、同じく高専勢に不覚を取った東京学連と組んで、高専とは違うルールを奉じざるを得なかった」というのもありますが、今回は端折ります(;^ω^))

 話はもとにもどりますが、ここで冒頭に掲げた情弱柔道家の発言をプレイバックしてみましょう。
「前の東京オリンピック(昭和39年)で柔道が競技採用されたとき、体重制とポイント制が採用されたため、『小能く大を制する』という柔道がなくなり、柔道が堕落した!」

 再度確認します。
 体重制のことはさておき、ポイント制が採用されたのは戦前の警察柔道、厳密なポイント制を敷くようになったのは昭和6(1931)年の第3回全国警察柔剣道大会からです。前回の東京五輪開催より33年も前のことで、全然関係ありません。
 警察柔道におけるポイント制度は、立ち技に付き合わない行為のすべてが許容される「高専ルール」の完全アンチテーゼとして生まれ、結果として「柔道の堕落」どころか、「講道館が昔目指した、立ち技偏重柔道への回帰」を推進したのです。
(戦後は昭和28年大会のみ「引き分けなし」としたが、やはりというか何というか、戦術的「ガンバリ」試合が目立つようになり、昭和63年から再度「引き分けなし」の通達が発出される。以後は不明です(;^_^A)

 なぜか柔道家には驚くレベルの情弱がまま存在し、その発言にぶっ飛ぶことがあるんですが、今回はぶっ飛んで転んだついでに調べた結果、意外とオモシロい事実が発掘されたので文章に起こしてみました。

戦前最強「怪力王」の過ちから、大いに学ぶ。

2023-06-23 17:35:20 | 格闘技のお話
 今回のお話はいにしえの著名人に関する、これまで書籍でもネットでも紹介されたことのないものであるうえ、あまり愉快ではない話です。
 ただ、このお話は
 ①今から80年以上も前の話であり、登場人物は既に全員が故人であること
 ②本件発生時は人の命、とくに庶民の命は紙クズより軽い時代だったこと
 ③その当時は「銃刀法」なる法律自体がなく、一般人が刃物などの凶器、なんとなれば拳銃すら普通に持てる時代だったこと
ということを理解したうえで読んでいただければと思います。この話が表に出たとしても、主人公である「怪力王」の金看板には全く傷がつくものでがありませんし、それに何より、昔の人の過ちを現代の価値観や視点で断ずることは、大いに間違っています。
 それらを踏まえたうえで、お話スタートです。

 弊ブログをお読みの皆様はおそらく、若木竹丸(明治44〔1911〕~平成12(2000)年)という名前に聞き覚えがあると思います。そうです。我が国ボディビル史の開祖であり、そのトレーニング伝説と怪力伝説は数知れず。身長160センチ弱、体重65キロ程度の身体ながら上腕囲は50センチを超え、フロアープレス(床に寝て行うベンチプレス)では228キロを差したという怪力。医者や教師を何人も輩出した家系に生まれたため頭脳も明晰で、著書「怪力法並に肉体改造・体力増進法」は、現在でもトレーニーのバイブルとなっております。

 そんな類まれな肉体と頭脳を持つ若木氏も、過ちを犯すことがあります。以下、昭和9(1934)年に刊行された「警察新報」19巻5号に掲載された「判例小話」というコラムの記載内容によって、その「過ち」の内容を追っかけてみます。

 若木竹丸について「判例小話」では「事件の主人公は東京府●●(実際には住所が書いてあるが伏せます)若木竹丸(二十三歳)と云ふ坂田金時か仁田四郎の再来かとも思はれる力量非凡の豪傑、所謂『重量挙上』の術に於ては真に驚くべき国家的存在」であり、「四十八貫(=180キロ)の鉄亜鈴を軽々と持ち上げる」と紹介。武道やトレーニングの雑誌ではなく、警察の雑誌にこれだけ書かれたわけですから、当時からかなりの有名人であったことが伺えます。
 そんな若木竹丸はあるとき、山森仁太郎という付近では有名なチンピラと口論となり、山森に対して護身用に持っていたナイフを抜き、刃先を相手に向けてしまいます。
 冒頭にもお話ししましたが、この当時は銃刀法という法律自体がなく、また、刃物が身近にゴロゴロしていた時代ですから、若木竹丸がナイフを持っている自体は、そんなに不思議なことではありません。
 しかし、それを単なる脅しと受け取った山森は「斬れるモンなら斬ってみろ」と逆に猛烈な挑発を加え、若木竹丸の胸倉を掴んできました。
 これに逆上した若木竹丸が、持っていたナイフで山森の後頭部など数か所を斬りつけたところ、山森はその場に昏倒して絶命。若木竹丸は傷害の現行犯として逮捕されます。
 裁判の結果、一審・二審共に傷害致死の有罪判決を受けますが、若木竹丸は一貫して「正当防衛」を主張して上告、裁判は大審院(現在の最高裁)までもつれ込みますが、裁判に当たった大審院第二刑事部は若木竹丸の主張を「理由なきもの」として棄却し、二審判決を支持。ここに若木竹丸のヨタ者斬殺事件は結審と相成りました。
 なお、本件の量刑に関する正確な記録はありませんが、被害者である山森がゴミのようなチンピラであったことと、まだ若い若木竹丸の前途に悪い影響が出ないよう裁判官が配慮したことにより、わりかし軽めのものであったと仄聞します。

 ここからはいつもの「我田引水」的な話(;^ω^)です。

 当時間違いなく日本最強の筋肉マン、しかも23歳(戦前なのでこれは数え年。満年齢21~22歳)という気力・体力とも充実真っ盛りの若木竹丸が、落ち着いてそのパワーを出力すれば、山森のようなチンピラなぞゴミのように吹っ飛ばせたであろうことは間違いありません。
 しかし若木竹丸は結果として、鍛え上げた筋肉のパワーに頼ることを失念して安易かつ軽率に護身用ナイフを抜いてしまい、それが却って山森につけいる隙を与えてしまいました。
 では「若木は単なる筋肉マンで、武道や格闘技を習っていなかったからナイフに頼ったんじゃないのか?」というと、それも違います。
 じつは本事件発生前の昭和6(1931)年、当時日本最大のボクシングジムであった日本拳闘倶楽部(日倶)に入門しようとしたところ、最初のスパーで「日本ボクシングの父」である渡辺勇次郎会長や、超有名選手であった徐廷権などを破ってしまい、以後どのボクシングジムも若木竹丸を受け入れてくれなくなった、というできごとがありました。
 そのほか柔道や相撲にも手を付け、壮絶な強さを誇ったという伝説がたくさんありますから、武道・格闘技の腕も確かだったことは間違いありません。

 ではなぜそれほどの達人がしょうもないチンピラ相手の喧嘩において、最も拙劣な対応をしてしまったのか?
 人間の脳みそは原則「体験したことをパターン化する」という性質が強いそう。逆に言えば、経験のないことや少ないことに対しての対応力が弱いわけですね。
 そのことから考えますれば、若木竹丸は中学1年次に受けた手ひどいイジメをきっかけにトレーニングにのめり込み、ひたすら「鍛錬」「研究」に明け暮れたわけですが、残念ながらその「研究」の中に、いわゆる「実戦」の研究が入っていなかったのでしょう。
 弊ブログで何度もお話ししておりますように、武道や格闘技といわゆる「実戦」とでは、その戦いの機序がまるで違います。例えるなら、同じ「フットボール」という名称でも、サッカーとラグビーがまるっきり違う競技であるという、アレに似ています。
 日本拳法空手道の開祖・山田辰雄大先生は「空手だけでなくボクシング、剣道、すもう、柔術とすべてを習い、戦うときには白紙になってやれ」との名言を残していますが、この伝でいきますと若木竹丸は、「実戦」に関することを習ったり研究したりすることがなかったため、「白紙になって戦」ったとき、脳みそのなかにその対応パターンが存在しなかったことから、あとは感情の赴くまま最もまずい戦い方をしてしまった。そんなところじゃないかと思います。

 身体を鍛えること、武道・格闘技を学ぶこと。いずれも大変重要なことであり、ワタクシもこの2つによって人生が大いに豊かになりました。
 しかしこの2つを志す者は、更にその向こう側にある「実戦に供する」ということを常に念頭に置いておかないと、鍛えた身体も、修めた武道・格闘技の技も「宝の持ち腐れ」になってしまう。

 昭和の「怪力王」が人生で犯したたった1度の大きな過ちは、そんなことを教えてくれているように思えてなりません。

「組織的護身術」運営における武道・格闘技の立ち位置

2023-06-03 10:02:45 | 格闘技のお話
 前回投稿では、「武道は組織全体を強くするには向かない」というお話をしましたが、今回投稿は「武道は組織全体を強くはできないが、その手助けは大いにできる」というお話をしたいと思います。

 皆様は「武道・格闘技を修練することによって得られる、最も『実戦に役立つ事項』」って何だと思いますか?
 ワタクシの答えですが…それはテクニックでもフィジカルでも、ましてや「高邁な武道精神」などでもなく、「理不尽に打ち勝つ力」だと心得ます。

 武道・格闘技にあって戦う相手は、当たり前ですが人間です。
 工業製品のように画一化されておらず、相手が一人ひとり、体格もフィジカルも根性も、すべて違います。そして武道・格闘技では原則、戦う相手を選べず、「コイツ俺より強そうだから、戦いたくない」なんてことは通用しません。
 そうしたイレギュラーな事態に対処する力をつけるため、武道・格闘技では、運動生理学の専門家やインチキスポーツライター等が「そんなことをしてもムダだ!」「全然合理的じゃない!」と発狂しそうな練習をわざと行います。
 まあ、かの有名な黒崎健時先生が行ったという伝説の「必死の力、必死の心」トレーニング(ビルから身を乗り出して懸垂、線香の束で根性焼き、土に埋まって即身成仏状態になる等( ゚Д゚))はやめた方がいいと思いますが…(;^ω^)。

 そもそも戦いとは、自分が悪いことをしていなくても発生し、事前予告もなく生起するという、実に非日常的で理不尽なものです。
 だからこそ、道場やジムという非日常的な場所で、わざと理不尽な状況に身をさらし、理論や理屈、常識を超えた「自分でなんとかする力」を身につける。これこそが武道・格闘技を修練する意義であり、最も「実戦」に役立つ事項だと思います。

 ただ、武道・格闘技業界の中には当然のことながら「そんな理不尽な稽古はムダだ」「効率的な練習だけをやって、何が悪い」という方々もたくさんおられます。
 こうした方々の主張はいっけん道理が通っているように見えますが、実は「武道・格闘技を実戦に役立てる」という観点がスッポリ抜け落ちています。
 「効率的な練習」なるものは、ある程度のモノサシがあって、初めて成立します。対して「実戦」は非日常的で理不尽、パターンは無限。その対処方法に「効率」「合理」などということは、そもそもふさわしくありません。
 そうなんです。「効率的な練習」とは、ほぼ100%の確率で「試合で勝つ練習」「試合に勝つテクニックを早く覚える」ことなんです。
 ちなみにこの「効率的」の内容は実に簡単であり、多少のアレンジはあっても「パターン練習」「スパーリング」「フィジカルトレ」の3本立てが大原則で、これさえ守っておけば、ある程度の「試合での強さ」は間違いなく担保できます。かつて丸5年くらいそんなことをしていたワタクシ、自信を持って保証します(;^ω^)。

 ただ、「試合で勝つ」ことは大事かもしれませんが、武道・格闘技のもう一つの目的は「実戦に供することができる心身」を作ることにあります。そのためには冒頭申し上げた「理不尽な稽古」は不可欠であり、それを「試合に使えない前近代的なもの」と切り捨てるということは、はっきり言ってあってはならんことです。
 そういえばワタクシの武道・格闘修行における終生の大師匠・吉田代表はワタクシにずっと「スパーリングはどんどんやってください。でも、試合に出たり、試合に熱くなったりしちゃ絶対にダメですよ」と、ずっと言い続けて下さいました。
 師匠はワタクシののぼせやすい性格を見抜き、「試合でしか使えないテクニック」に走ることを戒め、「実戦に使える武道・格闘技」を叩きこんでくれたのです。
 師匠がつけて下さった修行の中で「理不尽に打ち勝つ」を体感したのは…「アマレス修行」と「グローブ空手修行」かなあ…どっちもまるで心得がないところにポン!と放り込まれ、あるいはゴミのように投げ捨てられ、あるいはボッコボコにされる過程で、少しずつ「これはこういうものだ」というものを身に着けていくという練習は、一見理不尽なように見えますが、真の「戦う力」をつけてくれたものであり、本当に感謝すべき練習でした。師匠の深い考えには、今もって感謝しきりです。

 軍事組織・警察組織の「組織的武力」を底上げするのに必要なのは、修練に時間がかかるうえ、個々の能力にデコボコができやすい武道ではなく、パターン化された護身術的テクニックであるということは、前稿で申し述べたとおりです。
 しかし、そのパターンテクニックに命を吹き込むことができる…前稿等で申し上げた「ウイルスバスター的なテクニックをアップデート」できるのは、わざと「理不尽」に身をさらし、いわゆる「観の目」を身に着けた武道・格闘技経験者しかいません。
 ただここで注意しなければならないのは、「試合で勝つテクニック」しか身に着けておらず、実戦の「理不尽」から身を遠ざけていたヤツを、指導者に据えてはならんということ。
 理由は簡単、「試合で勝つテクニック」しか身に着けていないヤツは、戦いのモノサシが「試合」にしかありませんから、試合では使えるけど実戦では全く無意味な技を、平気で人に教えるからです。
 実はこの問題、非常に根が深く、警察柔・剣道や旧軍銃剣道→自衛隊銃剣道などがず~っと同じ宿痾を抱えており、なかなか改まる気配がありませんね。
 「試合の成績=実戦での強さ」という誤ったモノサシは今後もきっと、改まらないでしょう(;^ω^)。

 だからこそワタクシのような、「武道・格闘技」に軸足を置く変人が、たまにこうした問題提起をしないといけないんですよ(キッパリ)