4年ぶりの「愛?と復讐の高校野球」を、再び山口県より堂々お送りします!
令和8月22日、第104回全国高等学校野球選手権大会決勝戦が行われ、宮城県代表・仙台育英学園が初優勝。深紅の優勝旗が史上初めて白河の関を越えました。
そして、準優勝となったのはわが山口県代表・下関国際高校…そうです。今から4年前の100回記念大会開催時、「山口県発・愛?と復讐の高校野球2018」と題して取り上げた、あの学校でした。
皆様もご存じの通り、下関国際高校は今春センバツの優勝校大阪桐蔭・準優勝校近江を立て続けに破って決勝進出。これは、高校野球史上古今未曽有の快挙であり、この準優勝は、高校球史に燦然と残る、非常に残る価値ある準優勝と言って良いでしょう。
しかし、沸騰する下関国際への称賛とは裏腹に、ネットに転がる下関国際高校関連の記事は、お寒いことこの上ありません。
いずれいずれも「下関国際へのリサーチを一切行っておらず、決勝まで進出したから、大慌てで誰でも知っているようなことを、さも知ったげに記事にしている」という状況がずっと続いており、夏の甲子園終結1週間を経たいまも、全く改善の兆しを見せません。
これまで目にした「下関国際について、まともに調べず書いたクソ記事」は多々ありますが、その白眉は「下関国際はどんな高校?初の決勝進出、かつて部員5人だったことも」(8月20日付朝日新聞デジタル)。ちと長くなりますが、記事のバカさ加減を知っていただくため、全文を掲載します。
「第104回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催)の決勝(22日)に出場3回目の下関国際(山口)が初めて進出した。
下関国際は男女共学の私立。1964年に下関電子工高として創立され、67年に下関高に、93年に下関国際に名称変更した。
普通科と、機械コースと自動車コースを持つ電子機械科がある。野球部のほか、ウエイトリフティング部も全国レベルだ。
野球部の創部は65年。05年に社会人野球のワイテックで投手としてプレーした坂原秀尚監督(45)が就任した。
08年夏の山口大会で14年ぶりに1勝を挙げたものの、当時は部員不足に悩まされており、その秋には1、2年生だけで5人しかいなかったという。
徐々に力をつけ、15年夏の山口大会で決勝に進み、準優勝した。
17年の山口大会で初優勝し、春夏通じて初めて甲子園に出場した。初戦の2回戦で三本松(香川)に敗れた。
翌18年の第100回全国選手権大会に2年連続で出場し、花巻東(岩手)、創志学園(岡山)、木更津総合(千葉)を破り8強にまで進んだ。準々決勝は日大三(西東京)に2―3で逆転負けした。
現在の部員は75人。
今夏は左腕古賀康誠、右腕仲井慎の二枚看板を擁し、準々決勝で春夏連覇を狙った大阪桐蔭を、準決勝では昨夏4強、今春選抜準優勝の近江を破った。
学校は本州最西端の都市の山口県下関市にある。
関門海峡に面する下関市は、源平合戦の際、壇ノ浦の戦いの舞台にもなった。」
ご一読されてどうですか…。「え、それだけ?んなもん、誰でも知ってるよ!」という感想が聞こえてきそうです。
小学生の壁新聞にも劣る取材力。「天下のアカヒ新聞様」も落ちたもんですwww。
そのほかの記事もほんとうに五十歩百歩で、山口県内ではみんなが「もう知ってる」というような話を、ちょっと表現を変えて書き換えているだけの記事ばっかり。
要するに山口県ローカルマスコミ以外は、下関国際のことを全くノーマークであり、調べることすらしていなかったわけで、それを糊塗するため、この程度の「誰でも知ってる」程度の内容の記事でお茶を濁しているのです。
下関国際の準優勝は図らずも、スポーツマスコミのレベルの低さをもあぶり出してしまいました(;^_^A。
とはいえ、これだけ話題になった準優勝ですから、今後はもうちょっとまともな記事が出てくるであろうと期待しつつ…弊ブログでは下関国際と坂原秀尚監督、とくに坂原監督の考えたことや、行ってきたことにスポットを当て、どこのスポーツマスゴミも絶対に書かない「坂原野球の神髄」に迫っていきたいと思います。
ではまず、「2018」でも取り上げましたが、坂原監督が監督就任する前後の下関国際高校、そしてその野球部の状況について再度お話しします。
坂原監督の監督就任は平成17(2005)年のことですが、そのころの下関国際の評判は…「山口県下随一のDQN学校」。ちなみに当時の偏差値は驚きの35~36。要するに「小学校レベルの読み書き・計算すら怪しい」というレベルです。
校風もまた、偏差値の数字を正確に反映した、実に退廃した校風でした。
生徒の3割が、なぜか自分で運転する自動車で通学(!)。タバコの煙は文字通り「空気のように」校舎内外を支配。
授業は受けに来るだけで優等生。テストのときに出席していればさらに優等生。
ただ、そのテストではカンニング・私語はし放題。しかも、生徒同士で解答を教え合う会話が「犬って英語で『グッド』やったっけ?」などという世紀末なものだったり…
下関国際の準優勝を報じた、8月23日付「山口新聞」15面には「成長の軌跡 スクール・ウォーズさながら」という副見出しが躍っていますが、下関国際という学校や野球部の「ビフォアー」を知る人であればあるほど、この表現の正確さに、「そのとおり!」と膝を打つことでしょう。
何事かを会得するためには、何事にもよらず、まずは「何かを誰かに強制的にやらされる」ことが入口になります。
程度の大小はありますが、ある程度の強制力を持って「できるまでやりきる」ことを重ねることで、少しずつ「できる」ようになり、その「できる」が集まって初めて「人と競える力」が芽生え、人と競って勝ったり負けたりする経験を経てようやく「自発的にやる」段階に至るわけです。
これは勉強、スポーツ、各種習い事、よろずのことに当てはまる「学びの基礎」です。
これをふまえて考えますと、当時の下関国際の生徒は、学びの第一段階である「強制される」をずっとスポイルし続けた結果、勉強でも、スポーツでも、不良の必須科目であるところのケンカでも「人と競って勝つ」力が一切なく、無気力にふてくされ、欝々とした日々を送っていいた、といっていいでしょう。
坂原監督はこの点をいち早く見抜き、自分の専門分野である野球で「強制を経て、できるようになるまでやりきる力」を身につけさせ、彼らの人生に誇りを持たせようとしたわけです。
ちなみにこのころの下関国際野球部は、集団万引きで大会出場停止処分を食らったばかり。現在の下関国際野球部からは想像もつかない、当時の校風を体現した「ゴミ野球部」以外の何物でもありませんでした。
※ 文中、当時の下関国際を貶めるような表現が散見されると思いますが、これらは当時下関市民だった知人数名から聞き取りをした「事実」や、新聞等で報じられた事実をありのまま記載しただけであり、現在の下関国際高校を貶めるためのものでないことをお断りしておきます。
令和8月22日、第104回全国高等学校野球選手権大会決勝戦が行われ、宮城県代表・仙台育英学園が初優勝。深紅の優勝旗が史上初めて白河の関を越えました。
そして、準優勝となったのはわが山口県代表・下関国際高校…そうです。今から4年前の100回記念大会開催時、「山口県発・愛?と復讐の高校野球2018」と題して取り上げた、あの学校でした。
皆様もご存じの通り、下関国際高校は今春センバツの優勝校大阪桐蔭・準優勝校近江を立て続けに破って決勝進出。これは、高校野球史上古今未曽有の快挙であり、この準優勝は、高校球史に燦然と残る、非常に残る価値ある準優勝と言って良いでしょう。
しかし、沸騰する下関国際への称賛とは裏腹に、ネットに転がる下関国際高校関連の記事は、お寒いことこの上ありません。
いずれいずれも「下関国際へのリサーチを一切行っておらず、決勝まで進出したから、大慌てで誰でも知っているようなことを、さも知ったげに記事にしている」という状況がずっと続いており、夏の甲子園終結1週間を経たいまも、全く改善の兆しを見せません。
これまで目にした「下関国際について、まともに調べず書いたクソ記事」は多々ありますが、その白眉は「下関国際はどんな高校?初の決勝進出、かつて部員5人だったことも」(8月20日付朝日新聞デジタル)。ちと長くなりますが、記事のバカさ加減を知っていただくため、全文を掲載します。
「第104回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催)の決勝(22日)に出場3回目の下関国際(山口)が初めて進出した。
下関国際は男女共学の私立。1964年に下関電子工高として創立され、67年に下関高に、93年に下関国際に名称変更した。
普通科と、機械コースと自動車コースを持つ電子機械科がある。野球部のほか、ウエイトリフティング部も全国レベルだ。
野球部の創部は65年。05年に社会人野球のワイテックで投手としてプレーした坂原秀尚監督(45)が就任した。
08年夏の山口大会で14年ぶりに1勝を挙げたものの、当時は部員不足に悩まされており、その秋には1、2年生だけで5人しかいなかったという。
徐々に力をつけ、15年夏の山口大会で決勝に進み、準優勝した。
17年の山口大会で初優勝し、春夏通じて初めて甲子園に出場した。初戦の2回戦で三本松(香川)に敗れた。
翌18年の第100回全国選手権大会に2年連続で出場し、花巻東(岩手)、創志学園(岡山)、木更津総合(千葉)を破り8強にまで進んだ。準々決勝は日大三(西東京)に2―3で逆転負けした。
現在の部員は75人。
今夏は左腕古賀康誠、右腕仲井慎の二枚看板を擁し、準々決勝で春夏連覇を狙った大阪桐蔭を、準決勝では昨夏4強、今春選抜準優勝の近江を破った。
学校は本州最西端の都市の山口県下関市にある。
関門海峡に面する下関市は、源平合戦の際、壇ノ浦の戦いの舞台にもなった。」
ご一読されてどうですか…。「え、それだけ?んなもん、誰でも知ってるよ!」という感想が聞こえてきそうです。
小学生の壁新聞にも劣る取材力。「天下のアカヒ新聞様」も落ちたもんですwww。
そのほかの記事もほんとうに五十歩百歩で、山口県内ではみんなが「もう知ってる」というような話を、ちょっと表現を変えて書き換えているだけの記事ばっかり。
要するに山口県ローカルマスコミ以外は、下関国際のことを全くノーマークであり、調べることすらしていなかったわけで、それを糊塗するため、この程度の「誰でも知ってる」程度の内容の記事でお茶を濁しているのです。
下関国際の準優勝は図らずも、スポーツマスコミのレベルの低さをもあぶり出してしまいました(;^_^A。
とはいえ、これだけ話題になった準優勝ですから、今後はもうちょっとまともな記事が出てくるであろうと期待しつつ…弊ブログでは下関国際と坂原秀尚監督、とくに坂原監督の考えたことや、行ってきたことにスポットを当て、どこのスポーツマスゴミも絶対に書かない「坂原野球の神髄」に迫っていきたいと思います。
ではまず、「2018」でも取り上げましたが、坂原監督が監督就任する前後の下関国際高校、そしてその野球部の状況について再度お話しします。
坂原監督の監督就任は平成17(2005)年のことですが、そのころの下関国際の評判は…「山口県下随一のDQN学校」。ちなみに当時の偏差値は驚きの35~36。要するに「小学校レベルの読み書き・計算すら怪しい」というレベルです。
校風もまた、偏差値の数字を正確に反映した、実に退廃した校風でした。
生徒の3割が、なぜか自分で運転する自動車で通学(!)。タバコの煙は文字通り「空気のように」校舎内外を支配。
授業は受けに来るだけで優等生。テストのときに出席していればさらに優等生。
ただ、そのテストではカンニング・私語はし放題。しかも、生徒同士で解答を教え合う会話が「犬って英語で『グッド』やったっけ?」などという世紀末なものだったり…
下関国際の準優勝を報じた、8月23日付「山口新聞」15面には「成長の軌跡 スクール・ウォーズさながら」という副見出しが躍っていますが、下関国際という学校や野球部の「ビフォアー」を知る人であればあるほど、この表現の正確さに、「そのとおり!」と膝を打つことでしょう。
何事かを会得するためには、何事にもよらず、まずは「何かを誰かに強制的にやらされる」ことが入口になります。
程度の大小はありますが、ある程度の強制力を持って「できるまでやりきる」ことを重ねることで、少しずつ「できる」ようになり、その「できる」が集まって初めて「人と競える力」が芽生え、人と競って勝ったり負けたりする経験を経てようやく「自発的にやる」段階に至るわけです。
これは勉強、スポーツ、各種習い事、よろずのことに当てはまる「学びの基礎」です。
これをふまえて考えますと、当時の下関国際の生徒は、学びの第一段階である「強制される」をずっとスポイルし続けた結果、勉強でも、スポーツでも、不良の必須科目であるところのケンカでも「人と競って勝つ」力が一切なく、無気力にふてくされ、欝々とした日々を送っていいた、といっていいでしょう。
坂原監督はこの点をいち早く見抜き、自分の専門分野である野球で「強制を経て、できるようになるまでやりきる力」を身につけさせ、彼らの人生に誇りを持たせようとしたわけです。
ちなみにこのころの下関国際野球部は、集団万引きで大会出場停止処分を食らったばかり。現在の下関国際野球部からは想像もつかない、当時の校風を体現した「ゴミ野球部」以外の何物でもありませんでした。
※ 文中、当時の下関国際を貶めるような表現が散見されると思いますが、これらは当時下関市民だった知人数名から聞き取りをした「事実」や、新聞等で報じられた事実をありのまま記載しただけであり、現在の下関国際高校を貶めるためのものでないことをお断りしておきます。