まず冒頭、1冊の本をご紹介させていただきます。
「戦争にチャンスを与えよ」(エドワード・ルトワック著 奥山真司訳 文春新書)。なかなか挑戦的なタイトルですが、その記載内容は実に真理を突いており、非常に目からうろこな名著です。皆様も書店でお見かけの際は、ぜひご一読下さい。
同著は非常に秀逸なフレーズが多かったのですが、そのなかでヒザを打って「そのとおり!」と最も同意したのは、下記の一節です。
「どの国の軍隊に対しても、武器を与えるのは難しいことではない。訓練を施すのも、それほど難しいことではない。しかし『戦闘する意思』まで植え付けるのは、極めて困難だ。『戦闘する意思』というのは、外から注入できるものではないのだ。」
このフレーズはもちろん、同著が一貫して主張する「戦争は可能な限り避けよ」「消耗戦をするな」といった、戦争に対する留意事項と一対を成すものであり、「やみくもに『戦闘する意思』をむき出しにせよ」ということでないのは当然のお話です。
しかし「『戦闘する意思』にもとづく戦闘力」は、「その国の文化や長年の教育の成果としてあらわれる」(同著より)ものであり、「『戦闘する意思』にもとづく戦闘力」を、必要な時にすぐに抜き出すためには、永くたゆまぬ教育と訓練が必要なのです。
これは当たり前のことのようであって実はそうでなく、モノのわかる人間がつねに気を付けてやらせるべき事項なのです。
以下、それを「当たり前のこと」と思ってないがしろにし、恥をさらしている職場の話を致します(;´・ω・)。
私はこの春まで、わが社の瀬戸内海支社というところに勤務していましたが、その支社の社員の9割以上に決定的に欠けているのが、「『戦闘する意思』にもとづく戦闘力」でした。
私の勤める会社はいわゆる「タイーフォ術」(仮)を行使したり、あるいは「武器」(仮)と呼ばれるものを運用したりできる会社なのですが、この瀬戸内海支社というところは、地理的にいわゆる「外敵」が来ない支社であるため、瀬戸内海支社の社員のほとんどは「戦闘する意思にもとづく戦闘力」を一切持たないアゴマッチョばかりでした。
瀬戸内海支社の職員はおおむね、「タイーフォ術」(仮)をマッサージの仲間か何かと勘違いしており、「武器」(仮)を持たせれば、前後をさかさまに持つようなバカタレが掃いて捨てるほど存在。「税金ドロボウ」の名に恥じない無知無能ぶりを露呈しておりました。私も何度もその実害を受け、何度ブン殴ってやろうかと思ったかわかりません。
「タイーフォ術」(仮)はわが社の社員なら、その程度の高低はともかく、必ず履修しなければならないもの(わが社の履修認定では、授業を35時間受けることとなっている。なので「知らない」「わからない」という言い訳は通用しない)であり、「武器」(仮)もまた同様です。しかし瀬戸内海支社は、道具を持ち、訓練も受けていながら、それをだれ一人「戦闘する意思に基づく戦闘力」に昇華できていない。
「戦争にチャンスを与えよ」著者は、「戦闘する意思に基づく戦闘力」を持たない国として、アラブや東ヨーロッパ、アフリカにあるいわゆる「難民ずれ」した国家とも言えない国家を挙げていますが、瀬戸内海支社は決してそれらの国の兵隊を哂えないでしょう。ことと場合によっては、それらの国の土人兵より、瀬戸内海支社の社員はレベルが低いかもしれません。
「戦争にチャンスを与えよ」という挑戦的なタイトルの裏には「戦争は武器を用いる外交のいち手段なのだから、そのアプローチさえ間違えなければ、大きな平和をもたらすチャンスともなりうる。それを偽善・欺瞞に満ちた外力により無理に止めると、戦争をするよりより悲惨な結果をもたらす」という、逆説的でありつつ、実にまっとうなメッセージが隠されています。
瀬戸内海支社は「うちは口先だけで警備ができる。汗をかいて相手を制するのはバカだ」という、シナ人のような誤った発想を根拠に「戦闘する意思に基づく戦闘力」を涵養することをないがしろにし、バカにし続けてきました。その結果、鉄砲の前後もわからんバカを多数育成するに至り、詳細は話しませんが、そこらじゅうで制圧対象者にナメられ、バカにされています。
これは私が思い込んでいる話ではなく、私が実際に制圧した悪人がそう言っていましたから、間違いありません。
その悪党はこうも言っていました。「オマエの会社に、オマエみたいなヤツがいるとは思わんかった。失敗した。」
この何気ない一言に、瀬戸内海支社の社員の平均的資質が見事に表現されています。
今の私は、瀬戸内海支社の社員じゃありません。
しかし、数か月前までそうであった身としては、瀬戸内海支社は「武道派にチャンスを与えよ」を積極推進すべきであり、同支社の社員が一人でも多く「チャンス」の負託に応えるられるようになるべきだ、と祈るばかりです。
「税金泥棒」と言われないためにも。
「戦争にチャンスを与えよ」(エドワード・ルトワック著 奥山真司訳 文春新書)。なかなか挑戦的なタイトルですが、その記載内容は実に真理を突いており、非常に目からうろこな名著です。皆様も書店でお見かけの際は、ぜひご一読下さい。
同著は非常に秀逸なフレーズが多かったのですが、そのなかでヒザを打って「そのとおり!」と最も同意したのは、下記の一節です。
「どの国の軍隊に対しても、武器を与えるのは難しいことではない。訓練を施すのも、それほど難しいことではない。しかし『戦闘する意思』まで植え付けるのは、極めて困難だ。『戦闘する意思』というのは、外から注入できるものではないのだ。」
このフレーズはもちろん、同著が一貫して主張する「戦争は可能な限り避けよ」「消耗戦をするな」といった、戦争に対する留意事項と一対を成すものであり、「やみくもに『戦闘する意思』をむき出しにせよ」ということでないのは当然のお話です。
しかし「『戦闘する意思』にもとづく戦闘力」は、「その国の文化や長年の教育の成果としてあらわれる」(同著より)ものであり、「『戦闘する意思』にもとづく戦闘力」を、必要な時にすぐに抜き出すためには、永くたゆまぬ教育と訓練が必要なのです。
これは当たり前のことのようであって実はそうでなく、モノのわかる人間がつねに気を付けてやらせるべき事項なのです。
以下、それを「当たり前のこと」と思ってないがしろにし、恥をさらしている職場の話を致します(;´・ω・)。
私はこの春まで、わが社の瀬戸内海支社というところに勤務していましたが、その支社の社員の9割以上に決定的に欠けているのが、「『戦闘する意思』にもとづく戦闘力」でした。
私の勤める会社はいわゆる「タイーフォ術」(仮)を行使したり、あるいは「武器」(仮)と呼ばれるものを運用したりできる会社なのですが、この瀬戸内海支社というところは、地理的にいわゆる「外敵」が来ない支社であるため、瀬戸内海支社の社員のほとんどは「戦闘する意思にもとづく戦闘力」を一切持たないアゴマッチョばかりでした。
瀬戸内海支社の職員はおおむね、「タイーフォ術」(仮)をマッサージの仲間か何かと勘違いしており、「武器」(仮)を持たせれば、前後をさかさまに持つようなバカタレが掃いて捨てるほど存在。「税金ドロボウ」の名に恥じない無知無能ぶりを露呈しておりました。私も何度もその実害を受け、何度ブン殴ってやろうかと思ったかわかりません。
「タイーフォ術」(仮)はわが社の社員なら、その程度の高低はともかく、必ず履修しなければならないもの(わが社の履修認定では、授業を35時間受けることとなっている。なので「知らない」「わからない」という言い訳は通用しない)であり、「武器」(仮)もまた同様です。しかし瀬戸内海支社は、道具を持ち、訓練も受けていながら、それをだれ一人「戦闘する意思に基づく戦闘力」に昇華できていない。
「戦争にチャンスを与えよ」著者は、「戦闘する意思に基づく戦闘力」を持たない国として、アラブや東ヨーロッパ、アフリカにあるいわゆる「難民ずれ」した国家とも言えない国家を挙げていますが、瀬戸内海支社は決してそれらの国の兵隊を哂えないでしょう。ことと場合によっては、それらの国の土人兵より、瀬戸内海支社の社員はレベルが低いかもしれません。
「戦争にチャンスを与えよ」という挑戦的なタイトルの裏には「戦争は武器を用いる外交のいち手段なのだから、そのアプローチさえ間違えなければ、大きな平和をもたらすチャンスともなりうる。それを偽善・欺瞞に満ちた外力により無理に止めると、戦争をするよりより悲惨な結果をもたらす」という、逆説的でありつつ、実にまっとうなメッセージが隠されています。
瀬戸内海支社は「うちは口先だけで警備ができる。汗をかいて相手を制するのはバカだ」という、シナ人のような誤った発想を根拠に「戦闘する意思に基づく戦闘力」を涵養することをないがしろにし、バカにし続けてきました。その結果、鉄砲の前後もわからんバカを多数育成するに至り、詳細は話しませんが、そこらじゅうで制圧対象者にナメられ、バカにされています。
これは私が思い込んでいる話ではなく、私が実際に制圧した悪人がそう言っていましたから、間違いありません。
その悪党はこうも言っていました。「オマエの会社に、オマエみたいなヤツがいるとは思わんかった。失敗した。」
この何気ない一言に、瀬戸内海支社の社員の平均的資質が見事に表現されています。
今の私は、瀬戸内海支社の社員じゃありません。
しかし、数か月前までそうであった身としては、瀬戸内海支社は「武道派にチャンスを与えよ」を積極推進すべきであり、同支社の社員が一人でも多く「チャンス」の負託に応えるられるようになるべきだ、と祈るばかりです。
「税金泥棒」と言われないためにも。