ようやく最終回となります。最後となる「その5」もかなりの分量になってしまいましたが、御用とお急ぎでない方は、ご一読いただければ幸甚に存じますm(__)m。
最終回は「サバキの形」が一見して何の変哲もない突き・蹴り・受け、そして芦原会館独特のステップの組み合わせでできている理由の考察から開始し、最後は「サバキの形は、なぜ伝統形と同じように『審査のためだけにやる、日ごろ使わないもの』になっちゃったか?」の原因を考察してシメと致します。
まず、サバキの形が、ふつうに基本稽古で行われる、いっけん何の変哲もない突き・蹴り・受け・ステップでできている理由ですが
① 道場での基本稽古が実戦で生きるようにしたいという配慮から
② 「実戦」の定義を、「護身」「ケンカ」といったものから「フルコン試合」にまで拡大させる必要があり、そこから逃げることが許されない状況であったから
ではないかと考えます。
まず①について。
先代は伝統形について「必ずいつか実戦の役に立つはず、と思い覚え込んだのだが、実際、実戦に応用できる動きはほとんどなかった」(「空手に燃え、空手に生きる」より)と回顧しています。
先代が「伝統形が実戦に応用できなかった」とする原因は明らかで、先代が修業していた当時の極真には、形の分解や変手につき、正しい口伝を持つ正当な修行者が全然いなかったから(今もか?(;^ω^))としか言いようがないのですが、それはともかく、上記のような思いから、先代は「何か特別なことをしないとわからない形じゃなく、ふだん基本稽古や移動稽古でやっている突き・蹴り・受け・ステップがそのまま生きる形を作りたい」と志向されたと思料します。
続いて②。
伝統形は、成立が一番新しいとされる「平安」でも明治時代に作られたものであり、当然のことながら「特定のルールを敷いた試合に勝つ」というコンセプトは一切含まれていません。
しかし、先代が指導者として過ごした時代はモロに「フルコンの大会が始まり、発展する時期」と重なっています。大会での成績は否が応でも選手の強さ評価、ひいては指導者の指導力評価にダイレクトに跳ね返ってくるようになった、そんな時代です。
先代は極真全日本大会が始まってすぐのころから、自らが育て上げた強豪を多数試合に送り込み、好成績を挙げていたことは皆さまよくご存じのとおり。当時の先代はおそらく、フルコン試合のテクニックを、日本で初めてソフト化できていた指導者ではなかったかと思います。
しかし芦原カラテは原則「実戦(ケンカや護身のほう)に使える空手」。
そして「実戦力」と「試合で勝つ能力」は、誤解を恐れずに言えば二律背反の関係。つまり「試合で強くなれば実戦で弱くなる」ということ。先代はそのことを、ほかの誰よりも深く認識していたはずです。
この二律背反を可能な限り一体化させるため先代が出した答えこそが、先代の言葉でいう「現代の実戦に即した型」(実戦!芦原カラテ3記載)、すなわちサバキの形であったわけです。
畢竟、先代がサバキの形に込めたものは「口伝がなくても練習できる」「師匠がいちいち手を取り、足を取りしなくても段階的にステップアップできる」といったものではなかったかと思うのです。
そんな先代(どんな先代だよ(-_-;))の苦心作であるサバキの形は、芦原会館の門人じゃなくなった現在も折に触れて確認するのですが、見るたびに新しい発見があり、本当に感心します。
(ほんとうはここで細かなテクニックを列挙して解説したいのですが、本稿の趣旨から外れるため割愛します。)
…と、ここまでサバキの形の目的やそのすばらしさについて列挙してきましたが、「その1」でお話ししましたとおり、現状におけるサバキの形の扱いについては、かなりの数の修行者が「昇段昇級審査のためにやる」という程度の認識でいるという、悲しい現実があります。
…そんなイヤな現実の理由なんて本当は探りたくないんですが…いち芦原カラテファンとして、OBとして、どうしてもその理由を探らないわけにはいきませんでした。なのでワタクシの調べた範囲でお話しします。
諸々存在する理由のうち、ワタクシ的な結論は、空手からは少し離れた哲学的なお話になりますが、「共産党宣言」で有名なカール・マルクスのいう「疎外」によるものではないか、と思っています。
「疎外」とは一般的には「退ける、のけ者にする」という意味ですが、マルクス的「疎外」とは、資本主義の行きつく先が「労働生産物からの疎外」「労働からの疎外」「(前出2つの)類的疎外」「人間からの疎外」となる…というもの。何を言っているかさっぱりわかりませんね(;^ω^)。
上の内容を意訳すると「自分たちが生み出したシステムによって、自分たちが振り回され、毀損される」「人間が作り出したものが人間から離れ、むしろ人間をコントロールするようになる」という意味になるそうです。
(意訳については「武器になる哲学」〔山口周 KADOKAWA〕記載内容をそっくりそのまま拝借しました)
上掲著では、人事評価制度を例に挙げ「もともとは組織のパフォーマンスを上げるために始めた制度なのに、いつしかその制度を回すことだけが目的化し、組織のパフォーマンスを最適化するという目的を達しえていない」といった話をしていますが、マルクス的「疎外」とは、要するにそういうイメージのものです。(;^ω^)
この意訳を頭の片隅に置いて頂いたたうえで、話を進めます。
サバキの形は、伝統形の欠点「(口伝というカギがなければ)各挙動の持つ意味がわからない、想像もつかない」という弊害を改める観点から、例えば初心の型1の2の挙動であれば「相手の右中段パンチに対し、1のステップから左外受け→右ストレート」、組手の型1の2の挙動であれば「右ローキックに対し、膝ブロックから右ロー→左ハイ」といった具合に、「●●に対して××で受けて、▲▲でリターン」という受け返しがはっきり明文化されています。
ここで勘違いしてはいけないのが、明文化された一連の「受け返しのパターン」はあくまで練習のとっかかりと、動作の反復・確認に使うベーシカルなものだということ。先代は著書で「各型の各挙動ごとに50をこえるバリエーションがある」(実戦!芦原カラテ3より)とし、サバキの形にも伝統形でいう「変手」が存在することをはっきり示しています。
しかし先ほども申し上げました通り、サバキの形は、とっかかり時における「受け返し」があまりにも明確にされすぎたがゆえに、「こう決まっているものなんだから、こうしないといけないものなんだ」と思い込む修行者と、何も知らない状態でサバキの形を教えられて「こう決まっているから、こうしなきゃいけないものなんだ」と誤認する修行者を増やしてしまいます(恥ずかしながら、ワタクシもそうでした( ;∀;))。
そうです。サバキの形は時を経るごとに、先ほどお話ししたマルクス的「疎外」、いうなれば
「サバキの形が『サバキの腕を上げる』という目的を離れ、サバキの形自体を間違いなく演武することが目的になり、『サバキの腕を上げる』という目的の最適化に役立たなくなった」
という状況に陥ってしまったのだと考えます。
伝統形の欠点を除き、新たな形を創出した先代ですが、伝統形とはまた違った落とし穴によって、伝統形と同じ結末を招いてしまったことは、運命の皮肉としか言いようがありません。
以上、形が形骸化する理由について、のべ5回にわたって長々考察した「ふしぎ発見!」ですが、弊ブログから「『形』の『形』骸化対策」を提案することはしません。
なんでかといいますと、伝統派でも芦原会館でも、本物の実力を持つ多数の方々が、そうした現状の改善に乗り出しているからです。単なる門外漢のワタクシごときの改善策が役に立つとは到底思えません。
それに、文章に起こすのがめんどくさいですし(;^ω^)。
なので、ワタクシの解決策は、ワタクシが自分に課す稽古の中だけで、ひっそりと反映させていきたいと思っております。
最後に、冗長な今回連載を、「その5」末尾まで通読頂いた方々対し衷心より御礼申し上げ、本稿のシメとさせていただきます。
【「「形」が「形」骸化する理由を探る旅 参考・引用文献】
・「隠されていた空手」桧垣源之助 CHAMP
・「沖縄伝統空手『手』TIYの変容 TIYを知らずして『空手』を語ることなかれ」野原耕栄 球陽出版
・「検証 沖縄武術史 沖縄武技―空手」勝連盛豊 沖縄文化社
・「沖縄空手道の真髄 秘伝の奥義『平安の形』の検証」新垣清 原書房
・「公開!沖縄空手の真実」フル・コム編 東方出版
・「空手の命 『形』で使う 『組手』で学ぶ」 BAB JAPAN
・「空手に燃え空手に生きる」芦原英幸 講談社
・「実戦!芦原カラテ2 発展編」芦原英幸 講談社
・「実戦!芦原カラテ3 基礎編 誰にでもできる空手」芦原英幸 講談社
・「ケンカ十段と呼ばれた男」 松宮康生 日貿出版
・「武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50」 山口周 KADOKAWA
最終回は「サバキの形」が一見して何の変哲もない突き・蹴り・受け、そして芦原会館独特のステップの組み合わせでできている理由の考察から開始し、最後は「サバキの形は、なぜ伝統形と同じように『審査のためだけにやる、日ごろ使わないもの』になっちゃったか?」の原因を考察してシメと致します。
まず、サバキの形が、ふつうに基本稽古で行われる、いっけん何の変哲もない突き・蹴り・受け・ステップでできている理由ですが
① 道場での基本稽古が実戦で生きるようにしたいという配慮から
② 「実戦」の定義を、「護身」「ケンカ」といったものから「フルコン試合」にまで拡大させる必要があり、そこから逃げることが許されない状況であったから
ではないかと考えます。
まず①について。
先代は伝統形について「必ずいつか実戦の役に立つはず、と思い覚え込んだのだが、実際、実戦に応用できる動きはほとんどなかった」(「空手に燃え、空手に生きる」より)と回顧しています。
先代が「伝統形が実戦に応用できなかった」とする原因は明らかで、先代が修業していた当時の極真には、形の分解や変手につき、正しい口伝を持つ正当な修行者が全然いなかったから(今もか?(;^ω^))としか言いようがないのですが、それはともかく、上記のような思いから、先代は「何か特別なことをしないとわからない形じゃなく、ふだん基本稽古や移動稽古でやっている突き・蹴り・受け・ステップがそのまま生きる形を作りたい」と志向されたと思料します。
続いて②。
伝統形は、成立が一番新しいとされる「平安」でも明治時代に作られたものであり、当然のことながら「特定のルールを敷いた試合に勝つ」というコンセプトは一切含まれていません。
しかし、先代が指導者として過ごした時代はモロに「フルコンの大会が始まり、発展する時期」と重なっています。大会での成績は否が応でも選手の強さ評価、ひいては指導者の指導力評価にダイレクトに跳ね返ってくるようになった、そんな時代です。
先代は極真全日本大会が始まってすぐのころから、自らが育て上げた強豪を多数試合に送り込み、好成績を挙げていたことは皆さまよくご存じのとおり。当時の先代はおそらく、フルコン試合のテクニックを、日本で初めてソフト化できていた指導者ではなかったかと思います。
しかし芦原カラテは原則「実戦(ケンカや護身のほう)に使える空手」。
そして「実戦力」と「試合で勝つ能力」は、誤解を恐れずに言えば二律背反の関係。つまり「試合で強くなれば実戦で弱くなる」ということ。先代はそのことを、ほかの誰よりも深く認識していたはずです。
この二律背反を可能な限り一体化させるため先代が出した答えこそが、先代の言葉でいう「現代の実戦に即した型」(実戦!芦原カラテ3記載)、すなわちサバキの形であったわけです。
畢竟、先代がサバキの形に込めたものは「口伝がなくても練習できる」「師匠がいちいち手を取り、足を取りしなくても段階的にステップアップできる」といったものではなかったかと思うのです。
そんな先代(どんな先代だよ(-_-;))の苦心作であるサバキの形は、芦原会館の門人じゃなくなった現在も折に触れて確認するのですが、見るたびに新しい発見があり、本当に感心します。
(ほんとうはここで細かなテクニックを列挙して解説したいのですが、本稿の趣旨から外れるため割愛します。)
…と、ここまでサバキの形の目的やそのすばらしさについて列挙してきましたが、「その1」でお話ししましたとおり、現状におけるサバキの形の扱いについては、かなりの数の修行者が「昇段昇級審査のためにやる」という程度の認識でいるという、悲しい現実があります。
…そんなイヤな現実の理由なんて本当は探りたくないんですが…いち芦原カラテファンとして、OBとして、どうしてもその理由を探らないわけにはいきませんでした。なのでワタクシの調べた範囲でお話しします。
諸々存在する理由のうち、ワタクシ的な結論は、空手からは少し離れた哲学的なお話になりますが、「共産党宣言」で有名なカール・マルクスのいう「疎外」によるものではないか、と思っています。
「疎外」とは一般的には「退ける、のけ者にする」という意味ですが、マルクス的「疎外」とは、資本主義の行きつく先が「労働生産物からの疎外」「労働からの疎外」「(前出2つの)類的疎外」「人間からの疎外」となる…というもの。何を言っているかさっぱりわかりませんね(;^ω^)。
上の内容を意訳すると「自分たちが生み出したシステムによって、自分たちが振り回され、毀損される」「人間が作り出したものが人間から離れ、むしろ人間をコントロールするようになる」という意味になるそうです。
(意訳については「武器になる哲学」〔山口周 KADOKAWA〕記載内容をそっくりそのまま拝借しました)
上掲著では、人事評価制度を例に挙げ「もともとは組織のパフォーマンスを上げるために始めた制度なのに、いつしかその制度を回すことだけが目的化し、組織のパフォーマンスを最適化するという目的を達しえていない」といった話をしていますが、マルクス的「疎外」とは、要するにそういうイメージのものです。(;^ω^)
この意訳を頭の片隅に置いて頂いたたうえで、話を進めます。
サバキの形は、伝統形の欠点「(口伝というカギがなければ)各挙動の持つ意味がわからない、想像もつかない」という弊害を改める観点から、例えば初心の型1の2の挙動であれば「相手の右中段パンチに対し、1のステップから左外受け→右ストレート」、組手の型1の2の挙動であれば「右ローキックに対し、膝ブロックから右ロー→左ハイ」といった具合に、「●●に対して××で受けて、▲▲でリターン」という受け返しがはっきり明文化されています。
ここで勘違いしてはいけないのが、明文化された一連の「受け返しのパターン」はあくまで練習のとっかかりと、動作の反復・確認に使うベーシカルなものだということ。先代は著書で「各型の各挙動ごとに50をこえるバリエーションがある」(実戦!芦原カラテ3より)とし、サバキの形にも伝統形でいう「変手」が存在することをはっきり示しています。
しかし先ほども申し上げました通り、サバキの形は、とっかかり時における「受け返し」があまりにも明確にされすぎたがゆえに、「こう決まっているものなんだから、こうしないといけないものなんだ」と思い込む修行者と、何も知らない状態でサバキの形を教えられて「こう決まっているから、こうしなきゃいけないものなんだ」と誤認する修行者を増やしてしまいます(恥ずかしながら、ワタクシもそうでした( ;∀;))。
そうです。サバキの形は時を経るごとに、先ほどお話ししたマルクス的「疎外」、いうなれば
「サバキの形が『サバキの腕を上げる』という目的を離れ、サバキの形自体を間違いなく演武することが目的になり、『サバキの腕を上げる』という目的の最適化に役立たなくなった」
という状況に陥ってしまったのだと考えます。
伝統形の欠点を除き、新たな形を創出した先代ですが、伝統形とはまた違った落とし穴によって、伝統形と同じ結末を招いてしまったことは、運命の皮肉としか言いようがありません。
以上、形が形骸化する理由について、のべ5回にわたって長々考察した「ふしぎ発見!」ですが、弊ブログから「『形』の『形』骸化対策」を提案することはしません。
なんでかといいますと、伝統派でも芦原会館でも、本物の実力を持つ多数の方々が、そうした現状の改善に乗り出しているからです。単なる門外漢のワタクシごときの改善策が役に立つとは到底思えません。
それに、文章に起こすのがめんどくさいですし(;^ω^)。
なので、ワタクシの解決策は、ワタクシが自分に課す稽古の中だけで、ひっそりと反映させていきたいと思っております。
最後に、冗長な今回連載を、「その5」末尾まで通読頂いた方々対し衷心より御礼申し上げ、本稿のシメとさせていただきます。
【「「形」が「形」骸化する理由を探る旅 参考・引用文献】
・「隠されていた空手」桧垣源之助 CHAMP
・「沖縄伝統空手『手』TIYの変容 TIYを知らずして『空手』を語ることなかれ」野原耕栄 球陽出版
・「検証 沖縄武術史 沖縄武技―空手」勝連盛豊 沖縄文化社
・「沖縄空手道の真髄 秘伝の奥義『平安の形』の検証」新垣清 原書房
・「公開!沖縄空手の真実」フル・コム編 東方出版
・「空手の命 『形』で使う 『組手』で学ぶ」 BAB JAPAN
・「空手に燃え空手に生きる」芦原英幸 講談社
・「実戦!芦原カラテ2 発展編」芦原英幸 講談社
・「実戦!芦原カラテ3 基礎編 誰にでもできる空手」芦原英幸 講談社
・「ケンカ十段と呼ばれた男」 松宮康生 日貿出版
・「武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50」 山口周 KADOKAWA