集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

サバキ、ふしぎ発見!(「形」が「形」骸化する理由を探る旅 その5)

2019-12-19 06:09:17 | 芦原会館修行記
 ようやく最終回となります。最後となる「その5」もかなりの分量になってしまいましたが、御用とお急ぎでない方は、ご一読いただければ幸甚に存じますm(__)m。

 最終回は「サバキの形」が一見して何の変哲もない突き・蹴り・受け、そして芦原会館独特のステップの組み合わせでできている理由の考察から開始し、最後は「サバキの形は、なぜ伝統形と同じように『審査のためだけにやる、日ごろ使わないもの』になっちゃったか?」の原因を考察してシメと致します。

 まず、サバキの形が、ふつうに基本稽古で行われる、いっけん何の変哲もない突き・蹴り・受け・ステップでできている理由ですが
① 道場での基本稽古が実戦で生きるようにしたいという配慮から
② 「実戦」の定義を、「護身」「ケンカ」といったものから「フルコン試合」にまで拡大させる必要があり、そこから逃げることが許されない状況であったから
ではないかと考えます。

 まず①について。
 先代は伝統形について「必ずいつか実戦の役に立つはず、と思い覚え込んだのだが、実際、実戦に応用できる動きはほとんどなかった」(「空手に燃え、空手に生きる」より)と回顧しています。
 先代が「伝統形が実戦に応用できなかった」とする原因は明らかで、先代が修業していた当時の極真には、形の分解や変手につき、正しい口伝を持つ正当な修行者が全然いなかったから(今もか?(;^ω^))としか言いようがないのですが、それはともかく、上記のような思いから、先代は「何か特別なことをしないとわからない形じゃなく、ふだん基本稽古や移動稽古でやっている突き・蹴り・受け・ステップがそのまま生きる形を作りたい」と志向されたと思料します。

 続いて②。
 伝統形は、成立が一番新しいとされる「平安」でも明治時代に作られたものであり、当然のことながら「特定のルールを敷いた試合に勝つ」というコンセプトは一切含まれていません。
 しかし、先代が指導者として過ごした時代はモロに「フルコンの大会が始まり、発展する時期」と重なっています。大会での成績は否が応でも選手の強さ評価、ひいては指導者の指導力評価にダイレクトに跳ね返ってくるようになった、そんな時代です。

 先代は極真全日本大会が始まってすぐのころから、自らが育て上げた強豪を多数試合に送り込み、好成績を挙げていたことは皆さまよくご存じのとおり。当時の先代はおそらく、フルコン試合のテクニックを、日本で初めてソフト化できていた指導者ではなかったかと思います。
 しかし芦原カラテは原則「実戦(ケンカや護身のほう)に使える空手」。
 そして「実戦力」と「試合で勝つ能力」は、誤解を恐れずに言えば二律背反の関係。つまり「試合で強くなれば実戦で弱くなる」ということ。先代はそのことを、ほかの誰よりも深く認識していたはずです。
 この二律背反を可能な限り一体化させるため先代が出した答えこそが、先代の言葉でいう「現代の実戦に即した型」(実戦!芦原カラテ3記載)、すなわちサバキの形であったわけです。

 畢竟、先代がサバキの形に込めたものは「口伝がなくても練習できる」「師匠がいちいち手を取り、足を取りしなくても段階的にステップアップできる」といったものではなかったかと思うのです。
 そんな先代(どんな先代だよ(-_-;))の苦心作であるサバキの形は、芦原会館の門人じゃなくなった現在も折に触れて確認するのですが、見るたびに新しい発見があり、本当に感心します。
(ほんとうはここで細かなテクニックを列挙して解説したいのですが、本稿の趣旨から外れるため割愛します。)

 …と、ここまでサバキの形の目的やそのすばらしさについて列挙してきましたが、「その1」でお話ししましたとおり、現状におけるサバキの形の扱いについては、かなりの数の修行者が「昇段昇級審査のためにやる」という程度の認識でいるという、悲しい現実があります。
 …そんなイヤな現実の理由なんて本当は探りたくないんですが…いち芦原カラテファンとして、OBとして、どうしてもその理由を探らないわけにはいきませんでした。なのでワタクシの調べた範囲でお話しします。

 諸々存在する理由のうち、ワタクシ的な結論は、空手からは少し離れた哲学的なお話になりますが、「共産党宣言」で有名なカール・マルクスのいう「疎外」によるものではないか、と思っています。

 「疎外」とは一般的には「退ける、のけ者にする」という意味ですが、マルクス的「疎外」とは、資本主義の行きつく先が「労働生産物からの疎外」「労働からの疎外」「(前出2つの)類的疎外」「人間からの疎外」となる…というもの。何を言っているかさっぱりわかりませんね(;^ω^)。
 上の内容を意訳すると「自分たちが生み出したシステムによって、自分たちが振り回され、毀損される」「人間が作り出したものが人間から離れ、むしろ人間をコントロールするようになる」という意味になるそうです。
(意訳については「武器になる哲学」〔山口周 KADOKAWA〕記載内容をそっくりそのまま拝借しました)
 上掲著では、人事評価制度を例に挙げ「もともとは組織のパフォーマンスを上げるために始めた制度なのに、いつしかその制度を回すことだけが目的化し、組織のパフォーマンスを最適化するという目的を達しえていない」といった話をしていますが、マルクス的「疎外」とは、要するにそういうイメージのものです。(;^ω^)
 この意訳を頭の片隅に置いて頂いたたうえで、話を進めます。

 サバキの形は、伝統形の欠点「(口伝というカギがなければ)各挙動の持つ意味がわからない、想像もつかない」という弊害を改める観点から、例えば初心の型1の2の挙動であれば「相手の右中段パンチに対し、1のステップから左外受け→右ストレート」、組手の型1の2の挙動であれば「右ローキックに対し、膝ブロックから右ロー→左ハイ」といった具合に、「●●に対して××で受けて、▲▲でリターン」という受け返しがはっきり明文化されています。
 ここで勘違いしてはいけないのが、明文化された一連の「受け返しのパターン」はあくまで練習のとっかかりと、動作の反復・確認に使うベーシカルなものだということ。先代は著書で「各型の各挙動ごとに50をこえるバリエーションがある」(実戦!芦原カラテ3より)とし、サバキの形にも伝統形でいう「変手」が存在することをはっきり示しています。

 しかし先ほども申し上げました通り、サバキの形は、とっかかり時における「受け返し」があまりにも明確にされすぎたがゆえに、「こう決まっているものなんだから、こうしないといけないものなんだ」と思い込む修行者と、何も知らない状態でサバキの形を教えられて「こう決まっているから、こうしなきゃいけないものなんだ」と誤認する修行者を増やしてしまいます(恥ずかしながら、ワタクシもそうでした( ;∀;))。
 そうです。サバキの形は時を経るごとに、先ほどお話ししたマルクス的「疎外」、いうなれば
「サバキの形が『サバキの腕を上げる』という目的を離れ、サバキの形自体を間違いなく演武することが目的になり、『サバキの腕を上げる』という目的の最適化に役立たなくなった」
という状況に陥ってしまったのだと考えます。 
 伝統形の欠点を除き、新たな形を創出した先代ですが、伝統形とはまた違った落とし穴によって、伝統形と同じ結末を招いてしまったことは、運命の皮肉としか言いようがありません。

 以上、形が形骸化する理由について、のべ5回にわたって長々考察した「ふしぎ発見!」ですが、弊ブログから「『形』の『形』骸化対策」を提案することはしません。
 なんでかといいますと、伝統派でも芦原会館でも、本物の実力を持つ多数の方々が、そうした現状の改善に乗り出しているからです。単なる門外漢のワタクシごときの改善策が役に立つとは到底思えません。
 それに、文章に起こすのがめんどくさいですし(;^ω^)。
 なので、ワタクシの解決策は、ワタクシが自分に課す稽古の中だけで、ひっそりと反映させていきたいと思っております。

 最後に、冗長な今回連載を、「その5」末尾まで通読頂いた方々対し衷心より御礼申し上げ、本稿のシメとさせていただきます。

【「「形」が「形」骸化する理由を探る旅 参考・引用文献】
・「隠されていた空手」桧垣源之助 CHAMP
・「沖縄伝統空手『手』TIYの変容 TIYを知らずして『空手』を語ることなかれ」野原耕栄 球陽出版
・「検証 沖縄武術史 沖縄武技―空手」勝連盛豊 沖縄文化社
・「沖縄空手道の真髄 秘伝の奥義『平安の形』の検証」新垣清 原書房
・「公開!沖縄空手の真実」フル・コム編 東方出版
・「空手の命 『形』で使う 『組手』で学ぶ」 BAB JAPAN
・「空手に燃え空手に生きる」芦原英幸 講談社
・「実戦!芦原カラテ2 発展編」芦原英幸 講談社
・「実戦!芦原カラテ3 基礎編 誰にでもできる空手」芦原英幸 講談社
・「ケンカ十段と呼ばれた男」 松宮康生 日貿出版
・「武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50」 山口周 KADOKAWA

サバキ、ふしぎ発見!特別版(「形」が「形」骸化する理由を探る旅 その4の補足と訂正について)

2019-12-10 17:51:32 | 芦原会館修行記
 その4初稿につき、「形の相手は正面に一人」という点について「それは違う」というご意見がございました。

 まず、空手修行をされる皆様の形に対する所信はそれぞれであり、ワタクシの主張が万人に当てはまる完全に正しいものでないことについては重々承知しております。
 また既に空手のトレーニング、あるいは形の練習の一環として多人数掛け・複数掛けの練習に取り組み、それで十分な成果が出せており、かつ、万人が納得する口伝や指導方法を確立されていると方もおられるでしょう。そして「空手の型は多方向・多人数を相手にできるものだ」と確信している方もいらっしゃるでしょう。
 そうした方におかれましてはワタクシの主張など「笑止なこと」「片腹痛い」で片づけていい話ですし、そういった方々に対し、「考え方を変えてくれ」などというつもりは一切ありません。
 
 しかし、世の中には間違いなく、複数の名人が「形の相手は正面に一人」を主張していますし、ワタクシはそう主張する名人の教えや口伝によって、ようやく形の使い方、形の何たるかを理解したのです。
 ですから、弊ブログでは「その4」で主張した通り、「形は正面に一人」の説を枉げることはありません!!!!

 ただ、「その4」では言葉足らずな部分や、サバキの形に関して若干事実誤認がありましたので、今回は「その4の補稿」というかたちで、その点を補足したいと思います。

 まず補足その1として、「その4」で掲載しなかった、「相手は正面に一人」を補填する参考資料を列挙します。

 昭和13年に刊行された「攻防拳法 空手道入門」(摩文仁賢和・仲宗根源和著。いずれも戦前・戦中の超ビッグネーム)にはこうあります。
「型の動作が八つの方向をとるから八人の敵と戦ふ型だと、とんでもない間違った解釈さへ生じているのであります」
 これは首里手系列の空手を背骨とした両師範のみならず、那覇手系統の本である「沖縄空手剛柔流」(玉野十四雄著)にも「仮想の敵は一人」とあるのが大変興味深いところです。
 さらに言えば、首里手系列の現代の有識者・新垣清師範の著書「沖縄空手道の真髄 秘伝の奥義『平安の形』の検証」(原書房)に、「現代空手家への口伝」として、その1「演武線は一直線」その3「相手は単独で同一人物」とあります。

 新垣師範は「その3」解説において、このように述べております。
「形においては、相手は最初から最後まで一人の人間です。さらに明確にしますが、その一人も最初から最後まで同じ人間で同一人物です。」
 上掲著は専門的説明が多く、「なぜそうなるのか」ということを要約して説明することが難しく、その点については「同著を読んでください」としか言えないのが悲しいのですが(-_-;)「四方八方の敵を相手にする」については、下記の通り明確に否定されています。ちょっと長くなりますが引用します。
「『型は受け技から始まる』という言葉を間違って解釈したために、相手の攻撃をかわして自分の攻撃をするという武道本来の『後の先』ではなく、相手の攻撃を自分が受けて、その後に反撃する形式で形が構成されているとしてしまったのです。(中略)素手のチャンバラ、素手の殺陣をやることが、形の本来の目的であると完全に間違った考えをしてしまったのです。」
「現代空手では自分に向かって攻撃する一人だけではなく左右から、そして後ろから続々と敵が襲ってくることに対処することが、形の習得目的だと理解して修行しています。(中略)このようなビデオゲーム、または映画やお芝居の殺陣のような、武術的には荒唐無稽な場面を首里手の形は想定しているのではありません。」

 実を言うとワタクシも永年、伝統形はもちろん、サバキの形も「相手の攻撃を受けて、その後に反撃する形式」以外の用途がわからないままでした。
 7年前にとある沖縄の大先生と出会って伝統形の用法を教えていただき、本当に目からウロコがボロボロ落ちる思いでいっぱいでしたが、大先生の主張も(あとで文献を漁った結果で知りましたが)新垣師範とおおむね同じでした。
 それに気づいたワタクシはあるとき「そういえばサバキの形って、現役時代は『右を向いて2人、後ろを向いて3人、左を向いて2人、後ろを向いて1人を倒すもの』とだけ教えられたけど、正面に1人ということで考えたらどうなんかのー?」とイタズラ心を起こしてやってみたところ…道場で練習していた現役のときには全くわからなかった「サバキのバリエーション」が見えるようになってきたのです。ほんとうに不思議な経験でした。
 そのナゾを説いた口伝こそが「演武線は一直線」「相手は正面に一人」だったのです(ほかにも「!」となった口伝はたくさんありますが、特に印象的だった2つを挙げました)。

 同じことを重ねて申しますが、弊ブログは既に形を用いた多人数掛けに成功している方や、形は四方八方の敵を倒し得るものと信じておられる方におかれましては、ワタクシの主張など「笑止なこと」「片腹痛い」で片づけていい話ですし、そういった方々に対し、「考え方を変えてくれ」などというつもりは一切ありません。
 しかし、ワタクシには「形とは敵を四方八方に向かって倒すもの。オレはそれを実戦で立証した」という主張に負けないくらいの調査と検証を以て、「形がそういうものではなく、『相手は正面に一人』だ!」と確信したいうことを主張したかったわけでございます。
 これはディベートをしても平行線をたどるだけなので、「アナタはそう言っている、ワタクシはこう信じている」ということを落としどころとして完結させたいと思います。
 所信はすべて申し述べましたので、以後、本稿についてコメントの記載は自由ですが、「形は『相手は正面に一人』なのか、四方八方の敵を倒すものなのか」という議論は一切しません。

 あと、事実誤認による訂正事項をひとつ。
 サバキの形のうち「組手の型5」は、8の挙動が背後からの敵を倒すようにできていました。この点はワタクシの調査不足でしたので、謹んで訂正いたします。おわり。

 本補足を読んで「じゃあ次も読んでやってもいいかな」と思われる方は、「その5」もお楽しみくださいませ。

サバキ、ふしぎ発見!(「形」が「形」骸化する理由を探る旅 その4)

2019-12-09 13:15:44 | 芦原会館修行記
 「形が形骸化」シリーズ、これまでは沖縄古伝の形がどのように口伝を喪失し、「よくわからんもの」になっていったかを見ていきましたが、「その3」までの知見を踏まえつつ、今度は芦原会館のサバキの形について「なぜかみんな、昇段昇級審査の時しかやらなくなった」理由を探っていきたいと思います。
 
 芦原会館がオリジナル型の第一号・組手の型を完成させたのが昭和50年代おわりごろ、フルコンプは昭和62年ころのこと。
 サバキの形は以下のラインナップとなっています。
・初心の型1~3 ・基本の型1~5 ・投げの型1~5 ・組手の型1~5 ・実戦の型1~5 ・護身の型1~5
 各型のうち、1~2はショートの間合い、3~4はミドルの間合い、5はロングの間合いの相手を想定しています。
 他流派の型には(オマエも今は門外漢だろ!という批判もあると思いますが、いちおう初段取得者ということでご勘弁をm(__)m)なじみのない言葉と思いますが、芦原における「ミドルの間合い」の定義とは「相手の技が一番破壊力を持つ間合い」(「空手に燃え、空手に生きる」より)であり、その間合いから3~5cm近接するとショートの間合い、同じ距離遠ざかるとロングの間合いとなります(ただし、初心の型だけは全てミドルの間合い)。
 これ以外にも「武器の型」「円心の型」が存在しますが、これは超高段者向けのものであり、ワタクシの芦原会館在任期間(4年半)中、目にしたことは一度もありません(´Д⊂グスン。
 以後、芦原会館オリジナル形のことを「サバキの形」と呼称してお話しします。

 サバキの形のゴイスー!な点を集約すると、以下の3つとなります。
① 空手伝統形の存在意義である「攻防技術の記憶」と、「空手に資する身体操作向上・身体鍛錬」の2つを完全に抑えていること。
② いにしえの名人が遺した「伝統形を理解するための口伝」がほぼ完璧に押さえられていること。
③ ふつうに道場稽古で使われる「突き、蹴り、受け」を組み合わせていること。

 ①についてはくどくどしい説明は不要でしょうが、②③についてはちょっと説明が必要です。
 まずは2つ目に挙げた「口伝が溶け込んでいる」という点について。

 現在公刊されている空手関連書籍の中で、「伝統形の口伝」について最も詳細に記されているであろう書物「隠されていた空手」(桧垣源之助・CHAMP)には、伝統形の挙動を理解するための口伝が惜しみなく公開されています。
 その同著掲載の口伝のなかで、伝統形・サバキの形を問わず、多くの人が間違った認識でいる口伝をひとつあげろと言われましたら…ワタクシは「相手は正面に一人」を挙げたい。
 伝統形の中には「平安二段(松濤館では。他流派では初段)」の第七挙動などのように、自分の後ろや横に向かって攻撃を出しているように見える形がたくさんあり、そのため「伝統形は、前後左右の人間を相手にするものだ」という誤った通説がまかり通っていました。今もそう信じている人は多数います。
 サバキの形も、2~9の挙動の中に転身が3回あることから「四方八方の敵を相手に戦うものだ」と誤解している人がたくさん存在しています。
(恥ずかしながら、かつてのワタクシもそうでした(´;ω;`))

 しかし、空手の形のコンセプトは「正面に1人しかいない相手を、前後左右に引きずり回して制圧する」(「隠されていた空手」より)であり、決して「前後左右、四方八方の敵を倒す」ものではない。
 その観点に立脚して考えると、伝統形の中にある様々な「後ろを蹴っている、後ろを殴っている」というような挙動を、その前後の挙動とくっつけて子細に観察すれば…ちょっとカンのいい方ならその用法がすぐに「ピコーン!」と理解できるはずです。
 同様にサバキの形も「相手は正面に一人」を念頭に置いて考え、前後の挙動などなどをくっつけて勘案すれば、様々なバリエーションが見えてきます。
 また、「相手は正面に一人」の意味するところがわかれば、それ以外の口伝、たとえば「相手を据物にして打つ」「前手は攻撃」「両手で受ける」といったものの意味が芋づる式に、少しずつ具体性を帯びて理解できるようになってきます(その程度はその人の修業歴や理解度によりけり…という注釈付きですが(;^_^A)。
 ちなみにサバキの形における「前手は攻撃」については、「実戦!芦原カラテ」のビデオ(組手の型1の解説)でもテロップで解説されてます。ようつべにもアップされておりますので、お時間のある方はご覧になられてはいかがでしょうか。

 3つ目に掲げた「一見単純な『突き、蹴り、受け』を組み合わせていること」。これもちょっと解説が必要です。

 伝統形には、一見して「何に使うの?」というような挙動が多数あります。例えば「平安三段」なんか、抜き手の状態から大回転してみたり、両手で帯を掴んだ状態から裏拳を打ったり、180度大回転してフック(らしきもの)を打ってみたりと、知らない人から見れば「なんじゃこりゃ?」という挙動ばかりです。
 対してサバキの形は、一見何の変哲もない突き・蹴り・受けを組み合わせて作られており、その技の用途も(一義的には)はっきりしています。

 その理由は…?ということで、「その5」に続きます。


サバキ、ふしぎ発見!(「形」が「形」骸化する理由を探る旅 その3)

2019-12-07 07:56:41 | 芦原会館修行記
 その3でございます。かなり長いので、忙しい方は読まないほうがいいかもしれません(;^ω^)。
 お読みになっている奇特なあなた!あと2回の辛抱でございますよ!

 前回の末尾で「空手の形というのはものをきちんと知った師匠に師事して各挙動の意味を口伝とともに習い、また、その変化(=応用技)についても、口伝を受けないと全くわけがわからなくなる性質を持つもの」というお話をしましたが、本土で空手が普及していく過程と、その大切な「口伝」が失われてゆく過程は完全に歩を一にします。
 このあたりを仔細に見てみましょう。

 まず、空手が本土において広まる過程で、稽古の形態が変質します。

 かつての沖縄における「師弟マンツーマン体制」の時代には、師匠宅の庭などで形の反復と巻藁突き、モノがわかるようになれば二人一組の形の分解や変手、ということをやっていた稽古でした。
 しかし内地に渡った空手には、内地の武道並みの「板張りの道場において、1人の先生がたくさんの弟子に教える」という教授形式を求められました。
 その結果、それまで存在しなかった「基本→移動稽古→形→約束組手→自由組手」という、現在も行われている稽古形態が誕生します。
 これは当時の沖縄空手界の大物・屋部憲通先生が軍隊における体操や教練方式などを参考にして作った、と言われていますが、ワタクシ個人的には、それ以外にも剣道の稽古のエッセンスを相当取り込んで作られたのではないか、と思っています。それはさておき。
 この内地式稽古メニューは「1人の先生が多くの手下を一斉に教える」という「一度にたくさんの人間が同じことを習える」という効率の点においては格段に向上したものの、逆に形の価値を「唐手表芸」(糸洲十訓より)の座から、「いくつかある稽古メニューのひとつ」にまで格下げさせてしまいます。まあ、当然といえば当然の話ですが。
 形稽古の質が落ちれば当然、形稽古のキモである「数多く練習し一々手数の旨聞き届け是は如何なる場合に用ふべきかを確定」すること、数多い口伝を師匠から「聞き届け」る機会は減殺されていきます。
 ひとことでいえば、内地式の稽古形態をとった瞬間から空手は「達人・名人を作り出す伝統芸」から、「スポーツ・体育」への変質が始まったたわけです。

 これと並行して「内地流の自由組手が始まった」ことが、更に形の価値を下げていきます。

 今では噴飯モノの話ですが、かつて格闘界の常識として「沖縄ローカル武術時代の空手には組手がなく、カキダミシ(掛け試し)というストリートファイトで腕を磨くしかなかった」というものがありました。
 これは無知・不勉強に起因する完全な誤解で、空手は沖縄ローカル時代から形の分解・変化技(沖縄では「変手ヒンディー)と呼称)・組手が存在していました。「カキダミシ(掛け試し)」という名称の稽古方法は確かに存在しましたが、これは同門同士が一定の合意事項の下、師匠の面前で行うといった態のものであり、「腕を磨くためのストリートファイト」ではない。そっちのほうは「イリクミ」と呼称され、「カキダミシ」とは明確に分けられていました。
 これについては多数の資料が発掘されており、また、良質な検証本も多数出ているので、詳しくはそちらを参考にしてください。
 ただ、沖縄のものだけであった時代の空手における「組手」というのはあくまでも形の分解の発展形のようなもので、現在のようなやれ寸止めだ、グローブだ、フルコンだといったいわゆる「ルールありきのゲーム形式」とは全く違い、形の練度と、自らの拳足の鍛錬度合いを確認するという目的の下成り立つまったくの別物だ、という点だけはきっちりと抑えておいてください。

 さて、空手の内地伝承後、真っ先に「自由組手をやれ、ルールのある試合をやれ」とうるさく騒ぎ立てたのは、東京帝大唐手研究会の三木二三郎。
 三木は東京帝大に入るだけあってアタマはいいのですが、空手は帝大に入って数年稽古した程度であり、その腕は実に未熟でした。
 しかし、その無駄に明晰な頭脳は、帝大唐手研究会師範にして、内地に空手を伝えた恩人でもある師匠・富名腰(当時の姓。のちもとの「船越」に戻す)義珍の行う沖縄古伝の稽古を「型稽古ばかりを繰り返す、古臭く、因循なもの」と決めつけます。
 頭の良すぎる人はえてして、自分の脳みそを絶対の正義であると恃むこと甚く、それゆえに越えてはいけない一線を容易に超えてしまう傾向がありますが、三木はまさにその典型といえる人物でした。

 富名腰師範の稽古の在り方に青臭い疑問を抱いた三木は、昭和4(1929)年5月、わざわざ高い金を払って沖縄に出向きます。
 三木は沖縄に於いて、超がつくビッグネームの師範(屋部憲通、大城朝恕、喜屋武朝徳、宮城長順、屋比久猛伝)を訪ね歩き、「師匠のやっていることは本当に沖縄空手のスタンダードなのか」といった、実に失礼なことを聞いて回ります。
 そのやる気だけは壮とすべきでしょうが、空手に関しては「浅学菲才」を地で行くようなボンクラ大学生が、レジェンドたちの深い言葉を心の底から理解できたとは到底思えませんし、だいたい「師匠のやっていることが正しいのかどうか」なんて僭越極まりない質問を、手の蘊奥を極めたレジェンド師範たち(しかも富名腰師範の大親友ばかり)がまともに答えたとは思えない。
 おそらく、キチガイをあやすような答えしかしてあげられなかったことでしょう。
(なお三木は、屋比久猛伝先生の前でパッサイとナイハンチを披露しましたが、「あなたの形は唐手ではなく踊りだ」と酷評されています)
 しかし、口だけは達者な三木、沖縄から戻ってわずか半年後「拳法概説」なる本を出版。驚くべきことに三木はこの本の中で、宮下甚八郎というペンネームを使い、唐手は「琉球と客観的情勢を異にする点より自然異ならざるを得ない」などと書きました。要するに富名腰師範が形を用いて教える突き・蹴り・受けといった動作は古臭くて因循であり、俺たちの考えている自由組手のある唐手のほうが実戦的だ、と言っているわけです。井の中のカワズぶり、ここに極まれり…です。
 これにはさすがの富名腰師範もあきれ果て、「こんなバカ学生の面倒は見ていられない」と同年12月、帝大唐手研究会師範の座を辞しますが、三木はこれを「オレは因循な爺さんを論破した」と勘違い。自分の思う「試合形式の組手」を進めていきます。

 そんな三木の提唱した組手は防具組手。剣道の面・胴・小手に脛当てとファールカップをプラスした防具を装着し、面・水月・釣鐘(=金的)の3部位を一本のポイントとするというものでした。
 ただ、金的をポイント対象とした危険なルールであったことや、防具の作りが悪くて面を殴った人間が次々に手を負傷した、なんてことが相次いだため、この防具組手はわずかな期間ブームになっただけで沙汰止みとなります。しかし、「空手のスポーツ化・競技化」はこれをきっかけに、戦後大きく燃え上がっていきます。
 
 現在全空連が採用している「寸止めルール」は、昭和27年に早大空手部が創始、30年に拓大空手部がルールを整備・明文化、32年に行われた第1回全日本学生空手道選手権大会開始で供用開始されたと言われています。
 沖縄の多くの空手家がこの試合形式を目にしたのは、昭和48年、沖縄の本土復帰を記念して行われた海邦国体のときと言われていますが、「沖縄伝統空手『手TIY』の変容」(野原耕栄著 球陽出版)によりますと、こんな様子であったそうです。
「初めて(寸止め)組み手の試合を見た沖縄の空手家は全員が唖然とした。失望と同時に笑いも起こった。」
「全く意味不明な空手であった。このような空手の試合を見て沖縄の空手家は驚いた。これが空手か、と多くの沖縄の空手家はあっけにとられたのだ。昔の沖縄の「手」(TIY)の組手であった「カキダミシ」(実戦空手)とは遠くかけ離れたものであった。」
 
 ここでは「空手が試合形式を採ることががいいか、悪いか」という議論はひとまず措きます。
 ただ、本稿の目的である「形がなぜ変質したか」ということを考えた場合、「試合というものの登場によって『空手のありかた』というものの質自体が変わってしまい、結果、形から学ぶものの重要性が大きく落ちた」ということについて、試合の勃興で発生した弊害を看過することはできません。

 空手が沖縄だけのものだった時代の空手は「実戦で確実に勝つ達人を生み出すもの」であり、稽古のメインは、そのエッセンスが詰まった形をみっちりやること。組手は師匠の面前で行い、「一々手数の旨聞き届け」ながら、勝敗をある程度度外視して行う、あくまでも副次的な稽古でした。
 ところが「ルール優先、試合に勝つことだけがすべて」という話になった瞬間、すべての価値観が変わってきます。
 「ルール優先」の中で重要となるのは、単純に「ポイントを取れる突き、取れる蹴り」をパターン化し、それを反復して先鋭化させることだけです。巌を砕くような正拳も、殺意を明らかにした暴漢を制圧せしめる必殺の技も必要ない。必要なのはどんなバカで未熟な人間にもすぐわかる「コンビネーション」「パターン練習」「瞬発力」「スタミナ」…😞。
 前掲著で「初めて(寸止め)組み手の試合を見た沖縄の空手家」が「全員が唖然とした」のは、無理もありません。
 そんなことが延々と続いた結果、形は「挙動の順番は覚えているが、何をどうやって使うのかわからない、昇段審査のときだけやるもの」に変質していったわけです。
 今まで述べてきた内容から勘案しますと、内地式の道場稽古を続けても、現行ルールの組手(寸止め、フルコンすべて含む)でいくら強くなっても、「競技」としての形がうまくなっても、それによって形の本質が見えることは未来永劫絶対にない、ということははっきり言いきれます。

 と、ここまで読んで「なんだ、周防平民珍山は、ルールを整備したがゆえに発達した組手テクニックの向上をバカにし、なおかつ、現代空手の在り方をバカにするのか!」と思う方もいるかもしれませんが、ワタクシは上記でいう「内地式の空手」により、空手というものの門戸が大きく開き、敷居が下がり、「スポーツ・体育」としての発展したことをまるで意味のないこととは思っていません。だいたいワタクシだって、そっちの門から空手に入ってきたんですから(;^ω^)。むしろ大いに意義があることだったと思います。
 しかし、身体操作の極致であり、攻防技術の精華であり、道場稽古や組手の勝ち負けの「その先」を示してくれる形をほっぽらかしていいのかというと、それには異論を唱えます。
 形の本質をないがしろにすること、わからないままにしておくことは、空手を生涯武道と考えた場合「その先」を指す道しるべをヘシ折ることであり、空手を実戦に供するための「牙」を保持できなくなる、ということでもあります。
 これは憂慮すべきことなんじゃないでしょうか…。

 その4では、やっとサバキっぽいお話!「芦原空手の形の有効性と、なぜ伝統形と同じ扱いを受けるようになったか」を見てみたいと思います。