【6 半助、警視庁柔術世話掛への道】
明治15(1882)年秋、中村半助の師匠である良移心頭流・下坂才蔵師範のもとに、一通の書状が届きます。
差出人は東京警視庁。書状の内容は「この度警視庁に、柔術世話掛を置くことになった。ついては下坂師範と、その高弟たちを招聘致したい」というものでした。
ここで本稿を読んでいる方々は、こんな疑問を抱くことでしょう。
「剣術師範は江戸周辺の名人だけをかき集めて『世話掛』としたのに、なんで柔術はわざわざ東京から遠い、久留米のローカル柔術師範を招聘しようとしたのか?」
この疑問は、このころ大警視~警視総監となった面々を見ればすぐに解明します。
警察は明治4年の発足時、3000人の邏卒から成る組織でしたが、うち2000人が薩摩人。それを統べる大警視(のち総監)も、当然薩摩人でした。これは警察の上部組織である内務省の初代大臣が、薩摩閥のドン・大久保利通だたことと無縁ではないでしょう。
(警察制度発足時の明治4年時点においては、警察は司法省隷下であったが、わずか2年後の明治6年、内務省警保寮として組織替え。以後終戦まで内務省隷下だった)
そんな警察、特に東京警視庁のトップに座っていたのは…初代大警視川路利良(1874~1879在任)、二代目大警視大山巌(1879~1880在任)、そして下坂師範を招聘したときの総監(三代目)が樺山資紀(1880~1883。1881年に「警視総監」と改称)などなど、いずれも歴史好きが聞けば「!」と絶句する薩摩閥のビッグネームばかり。
第2回でお話しした「中村半助VS矢野広次の激闘」が九州全域で話題となっていることは当然、薩摩閥で固められた警視庁幹部の耳に入るのも早く、剣術に次いで柔術の組織的訓練を画策していた警視庁幹部が、中村半助を擁する良移心頭流(及びその他久留米柔術)を警視庁柔術として採用しようとしたことは、ごく自然な流れでした。
ちなみに「明治15年に警視庁が下坂師範に警視庁師範就任要請の書状を送った」ことは、柔道関係の書物に広く記されていますが「警視庁が久留米の柔術を採用した理由」に迫ったものは驚くべきことに、昭和の中期まで全く存在せず、「採用の理由は、半助VS矢野の戦いを薩摩閥の警察幹部が聞きつけたため」という事実が明らかになったのは昭和も30年代になってから。
久留米市史を研究していたグループが、半助とともに上京することとなる同門の柔術家・上原庄吾の娘(調査当時80歳)から事情を聴き、初めて判明したそうです。
下坂師範にとっても、良移心頭流にとっても、警視庁柔術世話掛への就任という話はこれ以上ない福音でしたが、下坂師範は久留米を空けることができない事情があったうえ、若い警察官たちにバシバシ稽古をつけるには、いささか年を取り過ぎていました。
そのため下坂師範は、自身の柔術世話掛への就任を辞退するかわりに、久留米に所在道場の「四天王」を派遣しようと考えます。半助以外の「四天王」は以下の3名。
・関口流 久富鐵太郎(徒士。久留米藩江戸屋敷出身)
・関口新々流 仲段蔵(旧姓木戸、禄高二百石 久留米・京の隈出身)
・良移心頭流 上原庄吾(禄高二百石 久留米・櫛原町出身)
下坂師範が東京行きの話を真っ先に持ちかけたのは当然、一番弟子の半助。
しかしこのとき、半助はすぐに首を縦に振りませんでした。半助の妻・おふじが貧乏生活による栄養失調と過労で病床にあり、しかも東京行きに強く反対していたからです。
いずれは柔術で身を立てたいと考える半助にとって、千載一遇ともいえるこのチャンス…しかし、病気の妻を置いていくわけにもいかないし…このまま狭い久留米で、米搗きバッタを搗くだけの蔵男で終わるのか…半助はうつうつとした日々を過ごします。
ところが天は、「柔術家としての半助」の才能を捨て置きませんでした。この年の暮れ、妻おふじは半助の看病の甲斐なく、あっけなくこの世を去りました。享年は数えの28歳。苦労するためだけに生まれてきたような、不遇な人生でした。
ただ、おふじの死によって、半助を久留米に繋ぎ止めていた最後の鎖が解き放たれたことは事実。半助は警視庁柔術世話掛の話を受諾することとなります。
半助からの色よい返事を根気よく待ち続けていた師匠・下坂才蔵の喜びようは一通りではなく、早速警視庁に対し、自らの師範就任辞退と、前出「四天王」推挙の手紙を送り、ほどなく警視庁から「受諾」の返事を貰います。
年が明けて明治16年。上京を控えた4名は松も取れぬうちから、下坂師範の肝煎りによる強化合宿に臨みます。
半助・久富・仲・上原の4人はずっと道場の真ん中に立ち続け、下坂門下のみならず、近在近郷の柔術道場門下生たちが立て続けにかかっていくという、現在の柔道でいう「元立ち」をひたすら行います。
相手は次々に交代するのですが、真ん中に立っている4人は交代なしですから、疲労は見る間に蓄積し、手の力は萎え、足元はふらつき…といった猛稽古が延々と続き、特に四天王の中でも大将格の半助と「飛車角」格の上原は、徹底的に回されます。
米搗きバッタを毎日踏み、体力の維持に多少は自信があった半助ですが、やはり柔術の乱取りに使う筋肉は全くの別物。そのうえ、毎日の肉体労働と粗食のせいで体重を20キロも落としてしまった半助、なかなか技が思うようにかかりません。
長く苦しいスパーリングが終わると今度は、絞められても落ちないようにするための首の鍛錬。
仰向けに寝転んだ半助の首の上に天秤棒が当てられ、その両端に3人ずつを付かせ、半助の首に力いっぱい天秤棒を押し付けるという、「鍛錬」というより「拷問」という表現がふさわしいムチクチャな鍛錬を繰り返し。それが終わると今度は、首筋を青竹でバシバシ叩かせての首鍛錬。
全部の稽古が終わると食事。このとき、東京に赴く4人を励まそうと、各道場生から寄付が集まり、半助たちは久々にまともなメシにありつけるようになっていました。
半助より年若の3人は、疲労のあまり飯が全く喉を通りませんが、この点半助はもともと、1食で米一升・味噌汁三升を平気で平らげるという(!)恐るべき食い力を持っており、激烈な稽古にもその食欲は衰えることはありませんでした。
猛稽古と日々の大食により、2月半ばには、これまで以上の強さと体格を戻した半助。ほかの3人も見違えるような強さになっていました。
3月上旬、4人は東京へ向け出発。
師匠・下坂は壮行に際しそれぞれに金一封と、「贈下坂才蔵」の刺繍が入った取衣(=道着)をプレゼント。師匠からの贈り物を押し頂いた4人は勇躍、東京への旅路に就いたのです。
明治15(1882)年秋、中村半助の師匠である良移心頭流・下坂才蔵師範のもとに、一通の書状が届きます。
差出人は東京警視庁。書状の内容は「この度警視庁に、柔術世話掛を置くことになった。ついては下坂師範と、その高弟たちを招聘致したい」というものでした。
ここで本稿を読んでいる方々は、こんな疑問を抱くことでしょう。
「剣術師範は江戸周辺の名人だけをかき集めて『世話掛』としたのに、なんで柔術はわざわざ東京から遠い、久留米のローカル柔術師範を招聘しようとしたのか?」
この疑問は、このころ大警視~警視総監となった面々を見ればすぐに解明します。
警察は明治4年の発足時、3000人の邏卒から成る組織でしたが、うち2000人が薩摩人。それを統べる大警視(のち総監)も、当然薩摩人でした。これは警察の上部組織である内務省の初代大臣が、薩摩閥のドン・大久保利通だたことと無縁ではないでしょう。
(警察制度発足時の明治4年時点においては、警察は司法省隷下であったが、わずか2年後の明治6年、内務省警保寮として組織替え。以後終戦まで内務省隷下だった)
そんな警察、特に東京警視庁のトップに座っていたのは…初代大警視川路利良(1874~1879在任)、二代目大警視大山巌(1879~1880在任)、そして下坂師範を招聘したときの総監(三代目)が樺山資紀(1880~1883。1881年に「警視総監」と改称)などなど、いずれも歴史好きが聞けば「!」と絶句する薩摩閥のビッグネームばかり。
第2回でお話しした「中村半助VS矢野広次の激闘」が九州全域で話題となっていることは当然、薩摩閥で固められた警視庁幹部の耳に入るのも早く、剣術に次いで柔術の組織的訓練を画策していた警視庁幹部が、中村半助を擁する良移心頭流(及びその他久留米柔術)を警視庁柔術として採用しようとしたことは、ごく自然な流れでした。
ちなみに「明治15年に警視庁が下坂師範に警視庁師範就任要請の書状を送った」ことは、柔道関係の書物に広く記されていますが「警視庁が久留米の柔術を採用した理由」に迫ったものは驚くべきことに、昭和の中期まで全く存在せず、「採用の理由は、半助VS矢野の戦いを薩摩閥の警察幹部が聞きつけたため」という事実が明らかになったのは昭和も30年代になってから。
久留米市史を研究していたグループが、半助とともに上京することとなる同門の柔術家・上原庄吾の娘(調査当時80歳)から事情を聴き、初めて判明したそうです。
下坂師範にとっても、良移心頭流にとっても、警視庁柔術世話掛への就任という話はこれ以上ない福音でしたが、下坂師範は久留米を空けることができない事情があったうえ、若い警察官たちにバシバシ稽古をつけるには、いささか年を取り過ぎていました。
そのため下坂師範は、自身の柔術世話掛への就任を辞退するかわりに、久留米に所在道場の「四天王」を派遣しようと考えます。半助以外の「四天王」は以下の3名。
・関口流 久富鐵太郎(徒士。久留米藩江戸屋敷出身)
・関口新々流 仲段蔵(旧姓木戸、禄高二百石 久留米・京の隈出身)
・良移心頭流 上原庄吾(禄高二百石 久留米・櫛原町出身)
下坂師範が東京行きの話を真っ先に持ちかけたのは当然、一番弟子の半助。
しかしこのとき、半助はすぐに首を縦に振りませんでした。半助の妻・おふじが貧乏生活による栄養失調と過労で病床にあり、しかも東京行きに強く反対していたからです。
いずれは柔術で身を立てたいと考える半助にとって、千載一遇ともいえるこのチャンス…しかし、病気の妻を置いていくわけにもいかないし…このまま狭い久留米で、米搗きバッタを搗くだけの蔵男で終わるのか…半助はうつうつとした日々を過ごします。
ところが天は、「柔術家としての半助」の才能を捨て置きませんでした。この年の暮れ、妻おふじは半助の看病の甲斐なく、あっけなくこの世を去りました。享年は数えの28歳。苦労するためだけに生まれてきたような、不遇な人生でした。
ただ、おふじの死によって、半助を久留米に繋ぎ止めていた最後の鎖が解き放たれたことは事実。半助は警視庁柔術世話掛の話を受諾することとなります。
半助からの色よい返事を根気よく待ち続けていた師匠・下坂才蔵の喜びようは一通りではなく、早速警視庁に対し、自らの師範就任辞退と、前出「四天王」推挙の手紙を送り、ほどなく警視庁から「受諾」の返事を貰います。
年が明けて明治16年。上京を控えた4名は松も取れぬうちから、下坂師範の肝煎りによる強化合宿に臨みます。
半助・久富・仲・上原の4人はずっと道場の真ん中に立ち続け、下坂門下のみならず、近在近郷の柔術道場門下生たちが立て続けにかかっていくという、現在の柔道でいう「元立ち」をひたすら行います。
相手は次々に交代するのですが、真ん中に立っている4人は交代なしですから、疲労は見る間に蓄積し、手の力は萎え、足元はふらつき…といった猛稽古が延々と続き、特に四天王の中でも大将格の半助と「飛車角」格の上原は、徹底的に回されます。
米搗きバッタを毎日踏み、体力の維持に多少は自信があった半助ですが、やはり柔術の乱取りに使う筋肉は全くの別物。そのうえ、毎日の肉体労働と粗食のせいで体重を20キロも落としてしまった半助、なかなか技が思うようにかかりません。
長く苦しいスパーリングが終わると今度は、絞められても落ちないようにするための首の鍛錬。
仰向けに寝転んだ半助の首の上に天秤棒が当てられ、その両端に3人ずつを付かせ、半助の首に力いっぱい天秤棒を押し付けるという、「鍛錬」というより「拷問」という表現がふさわしいムチクチャな鍛錬を繰り返し。それが終わると今度は、首筋を青竹でバシバシ叩かせての首鍛錬。
全部の稽古が終わると食事。このとき、東京に赴く4人を励まそうと、各道場生から寄付が集まり、半助たちは久々にまともなメシにありつけるようになっていました。
半助より年若の3人は、疲労のあまり飯が全く喉を通りませんが、この点半助はもともと、1食で米一升・味噌汁三升を平気で平らげるという(!)恐るべき食い力を持っており、激烈な稽古にもその食欲は衰えることはありませんでした。
猛稽古と日々の大食により、2月半ばには、これまで以上の強さと体格を戻した半助。ほかの3人も見違えるような強さになっていました。
3月上旬、4人は東京へ向け出発。
師匠・下坂は壮行に際しそれぞれに金一封と、「贈下坂才蔵」の刺繍が入った取衣(=道着)をプレゼント。師匠からの贈り物を押し頂いた4人は勇躍、東京への旅路に就いたのです。