集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警視庁柔術世話掛中村半助と、それを悪用した人たち(その4)

2023-03-18 09:36:18 | 集成・兵隊芸白兵雑記
【6 半助、警視庁柔術世話掛への道】
 明治15(1882)年秋、中村半助の師匠である良移心頭流・下坂才蔵師範のもとに、一通の書状が届きます。
 差出人は東京警視庁。書状の内容は「この度警視庁に、柔術世話掛を置くことになった。ついては下坂師範と、その高弟たちを招聘致したい」というものでした。
 ここで本稿を読んでいる方々は、こんな疑問を抱くことでしょう。
「剣術師範は江戸周辺の名人だけをかき集めて『世話掛』としたのに、なんで柔術はわざわざ東京から遠い、久留米のローカル柔術師範を招聘しようとしたのか?」 
 この疑問は、このころ大警視~警視総監となった面々を見ればすぐに解明します。

 警察は明治4年の発足時、3000人の邏卒から成る組織でしたが、うち2000人が薩摩人。それを統べる大警視(のち総監)も、当然薩摩人でした。これは警察の上部組織である内務省の初代大臣が、薩摩閥のドン・大久保利通だたことと無縁ではないでしょう。
(警察制度発足時の明治4年時点においては、警察は司法省隷下であったが、わずか2年後の明治6年、内務省警保寮として組織替え。以後終戦まで内務省隷下だった)
 そんな警察、特に東京警視庁のトップに座っていたのは…初代大警視川路利良(1874~1879在任)、二代目大警視大山巌(1879~1880在任)、そして下坂師範を招聘したときの総監(三代目)が樺山資紀(1880~1883。1881年に「警視総監」と改称)などなど、いずれも歴史好きが聞けば「!」と絶句する薩摩閥のビッグネームばかり。
 第2回でお話しした「中村半助VS矢野広次の激闘」が九州全域で話題となっていることは当然、薩摩閥で固められた警視庁幹部の耳に入るのも早く、剣術に次いで柔術の組織的訓練を画策していた警視庁幹部が、中村半助を擁する良移心頭流(及びその他久留米柔術)を警視庁柔術として採用しようとしたことは、ごく自然な流れでした。
 ちなみに「明治15年に警視庁が下坂師範に警視庁師範就任要請の書状を送った」ことは、柔道関係の書物に広く記されていますが「警視庁が久留米の柔術を採用した理由」に迫ったものは驚くべきことに、昭和の中期まで全く存在せず、「採用の理由は、半助VS矢野の戦いを薩摩閥の警察幹部が聞きつけたため」という事実が明らかになったのは昭和も30年代になってから。
 久留米市史を研究していたグループが、半助とともに上京することとなる同門の柔術家・上原庄吾の娘(調査当時80歳)から事情を聴き、初めて判明したそうです。

 下坂師範にとっても、良移心頭流にとっても、警視庁柔術世話掛への就任という話はこれ以上ない福音でしたが、下坂師範は久留米を空けることができない事情があったうえ、若い警察官たちにバシバシ稽古をつけるには、いささか年を取り過ぎていました。
 そのため下坂師範は、自身の柔術世話掛への就任を辞退するかわりに、久留米に所在道場の「四天王」を派遣しようと考えます。半助以外の「四天王」は以下の3名。
・関口流 久富鐵太郎(徒士。久留米藩江戸屋敷出身)
・関口新々流 仲段蔵(旧姓木戸、禄高二百石 久留米・京の隈出身)
・良移心頭流 上原庄吾(禄高二百石 久留米・櫛原町出身) 

 下坂師範が東京行きの話を真っ先に持ちかけたのは当然、一番弟子の半助。
 しかしこのとき、半助はすぐに首を縦に振りませんでした。半助の妻・おふじが貧乏生活による栄養失調と過労で病床にあり、しかも東京行きに強く反対していたからです。
 いずれは柔術で身を立てたいと考える半助にとって、千載一遇ともいえるこのチャンス…しかし、病気の妻を置いていくわけにもいかないし…このまま狭い久留米で、米搗きバッタを搗くだけの蔵男で終わるのか…半助はうつうつとした日々を過ごします。
 ところが天は、「柔術家としての半助」の才能を捨て置きませんでした。この年の暮れ、妻おふじは半助の看病の甲斐なく、あっけなくこの世を去りました。享年は数えの28歳。苦労するためだけに生まれてきたような、不遇な人生でした。
 ただ、おふじの死によって、半助を久留米に繋ぎ止めていた最後の鎖が解き放たれたことは事実。半助は警視庁柔術世話掛の話を受諾することとなります。
 半助からの色よい返事を根気よく待ち続けていた師匠・下坂才蔵の喜びようは一通りではなく、早速警視庁に対し、自らの師範就任辞退と、前出「四天王」推挙の手紙を送り、ほどなく警視庁から「受諾」の返事を貰います。

 年が明けて明治16年。上京を控えた4名は松も取れぬうちから、下坂師範の肝煎りによる強化合宿に臨みます。
 半助・久富・仲・上原の4人はずっと道場の真ん中に立ち続け、下坂門下のみならず、近在近郷の柔術道場門下生たちが立て続けにかかっていくという、現在の柔道でいう「元立ち」をひたすら行います。
 相手は次々に交代するのですが、真ん中に立っている4人は交代なしですから、疲労は見る間に蓄積し、手の力は萎え、足元はふらつき…といった猛稽古が延々と続き、特に四天王の中でも大将格の半助と「飛車角」格の上原は、徹底的に回されます。
 米搗きバッタを毎日踏み、体力の維持に多少は自信があった半助ですが、やはり柔術の乱取りに使う筋肉は全くの別物。そのうえ、毎日の肉体労働と粗食のせいで体重を20キロも落としてしまった半助、なかなか技が思うようにかかりません。
 長く苦しいスパーリングが終わると今度は、絞められても落ちないようにするための首の鍛錬。
 仰向けに寝転んだ半助の首の上に天秤棒が当てられ、その両端に3人ずつを付かせ、半助の首に力いっぱい天秤棒を押し付けるという、「鍛錬」というより「拷問」という表現がふさわしいムチクチャな鍛錬を繰り返し。それが終わると今度は、首筋を青竹でバシバシ叩かせての首鍛錬。
 全部の稽古が終わると食事。このとき、東京に赴く4人を励まそうと、各道場生から寄付が集まり、半助たちは久々にまともなメシにありつけるようになっていました。
 半助より年若の3人は、疲労のあまり飯が全く喉を通りませんが、この点半助はもともと、1食で米一升・味噌汁三升を平気で平らげるという(!)恐るべき食い力を持っており、激烈な稽古にもその食欲は衰えることはありませんでした。
 猛稽古と日々の大食により、2月半ばには、これまで以上の強さと体格を戻した半助。ほかの3人も見違えるような強さになっていました。

 3月上旬、4人は東京へ向け出発。
 師匠・下坂は壮行に際しそれぞれに金一封と、「贈下坂才蔵」の刺繍が入った取衣(=道着)をプレゼント。師匠からの贈り物を押し頂いた4人は勇躍、東京への旅路に就いたのです。

警視庁柔術世話掛中村半助と、それを悪用した人たち(その3)

2023-03-06 12:51:56 | 雑な歴史シリーズ
【5 「警察武術」が希求された、複雑切実な理由】
 ここで、明治初年における「警察制度と武術の位置づけ」を確認してみましょう。

 明治政府は「治安維持に当たる者には、武術の素養がないといけない」という点については、意外と早くから気づいていました。
 まあ当時の明治政府は、江戸に乗り込んできたばかりの「占領者」ですから、いつ反乱を起こされても文句を言えない立場。従って、江戸の治安に当たる藩兵の武力向上に理解を示すのが早かったのです。
 江戸入府直後の明治元(1868)年、明治政府は天神真揚流・磯又右衛門や揚心流戸塚派・戸塚英美といった柔術師範、一刀流・下江秀太郎、鏡心明智流・桃井直行等の剣術師範を起用し、江戸の治安維持に当たる藩兵・府兵(このころはまだ「警察」ですらない)たちを鍛えました。
 しかし明治4(1871)年、警察組織の運用が司法省の手に移り、近代警察になったことを契機にこれらの師範は解雇され、警察の組織的武術修業は一時、完全に途絶します。
 その理由ですが、当時は秩禄処分や脱刀令(廃刀令は明治9年)などをきっかけに、各地の不平士族が不穏な動きを見せており、従って当時の警察官には個人技である撃剣・柔術ではなく、「銃や槍を持っての部隊運用」が求められたからです。また初代司法卿・江藤新平がフランス式警察制度を是としていたことも、「武術離れ」に拍車をかけました。

 しかし、西南戦争が終結して内乱が惹起する可能性がほぼゼロになり、警察官の任務が「軍人のようなもの」から「市中の安全を確保する、近代的ポリス」に変わった瞬間、警察官の「悪いヤツを生け捕りにするための個人技能」の習得が、にわかにクローズアップされるようになりました。
 特にこのころの東京には、とうじの警視庁にとって「仇敵」といっても過言ではない、花のお江戸の治安を脅かす一大悪人集団が存在していました。
 その正体は、当時できたばかりの東京鎮台(のちの歩兵第1師団)や、近衛師団の兵隊…ようするに「日本陸軍」です。

 東京鎮台は明治4(1871)年発足。その年はくしくも、警察が司法省警保局として誕生した、まさに同年です。
 当初は徴兵制が敷かれていなかったため、維新に功績のあった各藩からの志願兵で編成(これら藩兵や、人材不足を補うために徴募された士族出身の兵士は「壮兵」と称され、徴兵の兵隊と区別化された)されましたが、明治8(1875)年の徴兵制施行以後は、徴兵と壮兵の混成部隊となります。
 ところが徴兵制施行初期のころの兵隊は、極めて倫理観の低い、はっきり言えば「人間のゴミ」みたいな連中ばかりでした。
 当時は「徴兵」という制度自体が非常に不人気であったことから、養子縁組をしたり、カネを払ってニセ戸籍を作ったりと、ありとあらゆる手を使った「徴兵逃れ」が横行していました。
 ただそうした「徴兵逃れ」術は、ある程度以上の身分、あるいはお金がないと行使できない手段であり、当時はそれすらかなわないヤツ…つまり一般社会では「ど百姓や町人、土方や人夫の部屋住みの身分」(「五代目警視総監 三島通庸」より引用)の者ばかりが、兵卒となっていたわけです。
 ところがそういった輩は、一般社会で低い身分にいた反動から「いったん兵士となれば、いやしくも陛下の兵隊であって、しかも彼らは(自分たちを)法権の武士同様の心得」(前掲著)るようになり、たまの外出日には「オレたちは国家の干城だ」などと息巻いて「無銭飲食の挙句の果て、往来の婦女子にたわむれるものがある―いやはや言語道断の沙汰であった」(前掲著)という乱暴振りを発揮したわけです。
 警察官は当然、こうした狼藉を取り締まらねばならないわけですが、不良兵隊は仲間1人が取り締まられれば、そこらじゅうにいる仲間が次々と加勢にやってくるので始末が悪い。たちまち大乱闘となります。
 こうした「乱闘」の件数は、明治中期まで毎月5~6件のペースで発生し、逆に発生しなかった月がなかったといいますから、そのころまでの日本兵が、如何にモラルが低かったかをうかがい知ることが出来ましょう。
(日本軍の軍規が厳正になり、国民から「兵隊さんよありがとう」とみられるようになるのは、日清戦争終結まで待たなければならない)
 
 明治12年、川路利良大警視(大警視=のちの警視総監)は巡査講習所に於て、このような訓示を述べました。少し長くなりますが、全文を引用します。
(原文は段落がなくて読みにくいため、ワタクシのほうで勝手に段落をつけております。悪しからずご了承ください。)
「武術について私の所見を述べておく。
 諸君は学問だけでなく、武術の方でも選抜された人々である。
 武術を知らぬ警察官ほど物足りないものはあるまい。なんとなれば、有事の際に一人前以上の腕力があって凶徒を鎮圧し得てこそ国民信頼の警察官である。私も若い時から武術をやっているが、警察武術という者を打建てねばならぬと考えている。警察官は凶賊を相手としてもそれを傷つけることなく取り押さえることが上乗である。凶賊の暴力を巧みに避けて倒す、縛るという武術が必要と思う。逆手もまた正手とせねばならぬ。
 ゆえに武術の練習にしても常にそうした心を心として修練せねばならんのである。ほんとうをいえば、一人で剣術も柔術も心得て居らねば実際の役に立たんのである。
 昔の武士は剣術に優れて居るだけでなく、柔術も相当に心得て居た。私は若い頃素面素小手の稽古を受けたこともある。又、後進にその稽古をつけたこともあるが、実に真剣な態度の練習であった。だからその技術が実践に役立って来たのである。諸君の中で目録以上の人は、素面素小手で後進に教えてやって貰いたい。
 ガチャンガチャンのなれ合いげい古だけでは見せものの約束剣術になる。凶賊と戦うのには面とか胴とかに捉われた約束はない。諸君、『剣術使いになるな』『やわらとりになるな』とワタクシは力説しておく。その内に私も道場に出て諸君とたたかって見よう。今日はこれまで。」

 いっけん勇ましい訓示であり、警察関係史書では「警察武術の在り方を明確に示した名訓示」みたいに評していることが多いのですが、ワタクシが見るところ、
「警察官のくせに武術のひとつも身に着けていないヤツがおり、いたとしても、幕末以降に発達した『試合剣術』しか修めていないヤツが多く、実戦の役に立っていない。
 だから鎮台兵とのバトルで、彼らが『二度と乱暴しません』と思い知るほどの制圧ができないし、そのせいでいつまで経っても不良兵隊の狼藉が止まらない。こんなことが続くと、東京府民が『警察って役に立たねー』という目で見るようになる。組織としてこれを何とかしないとマズい…」
という、川路大警視の苦悩と焦燥感が見て取れます。
 その苦悩&焦燥感はかなり深刻だったのか、川路大警視はこの訓示直後の明治12年10月、ポックリ亡くなっています。
 
 ともあれ生前の川路大警視は自らの死の同年、警察官を鍛えるため、まずは剣術の方から「組織挙げての武道訓練」を開始します。
 真っ先に内務省警視局(当時)に師範として入ったのは梶川義正・上田馬之助・逸見宗助。次いで下江秀太郎、柿本清吉、得能関四郎、三橋鑑一郎などなど、幕末~明治初期にかけてその名を轟かせた大剣豪が集められ、巡査教習所道場などを中心に、バシバシ稽古をつけるようになります。
 しかし、警察官の人数に対して講師の数は完全に不足していたうえ、道場の不足などから警察官の剣術の腕は遅々として上がらず、また、柔術のほうについては全くのノータッチでした。

 警視庁が柔術の組織だった訓練に着手したのは、剣術から遅れること3年後の明治15(1882)年のこと。
 本章では登場の機会がありませんでしたが、主人公・中村半助の人生はここから大きく動き出します。