集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝 改訂のお知らせ

2019-05-30 21:25:12 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 第8・15・22・32回の記事を修正いたしました。修正の詳細は以下の通りです。

 第8回については、オッチャンとともに過ごした久甫侃(くぼ・かん)についての記述。
 第15回については「広島のものを買わない」不買運動勃発次期の誤記載を削除。
 第22回についてはオッチャンの1期先輩たちの進路を追記。
 第32回については、柳井中学6代目校長・本沢清一校長の就任と、その周囲で起こった野球部排斥運動等に関する事項に関する追記(ほぼ全面改訂)となります。

 毎度毎度、新資料発掘のたびに改訂でご不便をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。


(短め投稿)読書感想文的なナニか(;^ω^)

2019-05-18 18:37:30 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 本年春、「自衛隊 最強の部隊へ」(二見龍著 誠文堂新光社 「偵察・潜入・サバイバル編」と「CQB・ガンハンドリング編」の2分冊。)という本が発売されました。弊ブログを読んでいる方の中にも、同作者の前著「40連隊に戦闘技術の負けはない―どうすれば強くなれるのか!永田市郎と求めた世界標準―」とあわせ、購読している方がいるかもしれません。

 著者は第40普通科連隊(小倉)連隊長時代に、勇気をもって一流の部外講師を継続して呼び続け、文字通り世界標準の技術を兵隊に与え続けた、自衛隊幹部には珍しい知見を持つ大人物。
 自衛隊もそうですが、日本の組織は外からの血を入れるのが嫌いで、マニュアルに載っていないものを採用することを嫌います。これは私の会社も全く同じです。
 では、「組織に外の血を入れるのを嫌がる人間」は、一体いかなる理由で反対するのか?
 マニュアルに載っていることを熟知し、自信と信念を持って反対しているのか?それとも、もし部外から取り入れたものが期待に添わないものであった場合、自分の管理責任を問われたりすることが面倒だからか?それともただ単に「部外の技術を知らなくても、オレは困らないから知らなくていい」というだけの理由なのか?…これはあくまでワタクシによる弊社内調べですが、一番最初に挙げた理由で反対している人間は、まずいません(-_-;)。
 そういった意味でも著者の取り組みは極めて珍しく、だからこそ書籍化する価値があったのでしょう。

 これに付随する話ですが、近年、組織を離れて好き勝手なことをしている人間が、無責任な立場から無責任な発言を繰り返すことが多発しております。
 そういった手合いの中で特に最低なのが、10年くらい前、海上保安庁に関する暴露本を複数出版したS本祐Kなる人物。
 暴露本を出版した当初こそ、その効果によりテレビ出演に映画のアクション指導などと、人前にチャラチャラ露出しておりましたが、徐々にその低劣な人間性が炸裂。関連するあらゆる団体・個人に後足でクソを掛けるようなマネを繰り返した挙句、比較的名の通った軍事評論家にケンカを売り、その無知蒙昧ぶりを天下にさらされた挙句に逆ギレし「オレは国会議員の●●さんを知っている!議員会館に出てこい!」と吹きまくった挙句、退路がなくなり、ついにその手の業界から一旦姿を消すに至った…という、まあ、一言で言ってクソバカなヤツです。皆さんの人生において、知っていても全く役に立たない人物ですね。
 このS本ほどではないですが、知見の程度はS本と似たり寄ったりの「組織を離れた自称識者」は多く、辟易するようなことばかりを主張しています。

 「組織が気に入らないから、組織を捨てて活動する」という心境は理解できますが、ではなぜ、「組織に所属しつつ、組織に正しい知見を取り入れる」ことをしなかったのか、あるいは断念したのかを明確に語ることができなければ、「組織の中できちんと生きられなかった阿呆」ということだけで終わってしまうのではないでしょうか。
 「組織に所属しつつ、組織に正しい知見を取り入れる」ということは、明確な理由を持たないまま「組織を捨てて好き勝手なことを言う」ことよりはるかにつらく、難しいことであり、だからこそ不滅の輝きを放つ尊いものであると、ワタクシは思うのです。

 二見元連隊長の英断はその後、全国陸自部隊の戦術を一変するほどの取り組みとなり、「組織の中に正しい知見を取り入れる」の大輪を咲かせております。

(短め投稿)ネット動画VSテレビ、どっちが有害?

2019-05-14 09:45:17 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 以前、渋谷の交差点のど真ん中に仲間と一緒にベッドを持ち込み、そこで寝るというバカな動画をYouTUBEにアップしたとして、バカ動画のアップ主及び馬鹿仲間が書類送検されました。
 これ以外にも、社会で問題となっている馬鹿動画や馬鹿うぷ主(←動画をアップする人間を表すネットスラング)は数多く、ネット動画の世界はまさに玉石混合なカオス…です。

 ただこれらの問題を、ワイドショーで偉そうに「ネット動画はけしからん」など、馬鹿評論家の口を借りて論評しているテレビ(地上波キー局)の方はどうかといいますと、完全な私見ではありますが、「ネット動画より余程ひどい。というか、存在しなくてもいい。馬鹿評論家とともに消えてなくなれ」というレベルです。
 
 理由は簡単、ネット動画は「石」もあれば、驚くほどすばらしい「玉」もあり、そして「石」に対する叱責や批判がダイレクトにうぷ主に届くのと違い、テレビ(地上波キー局)は原則「石」しか存在せず、叱責や批判を受け止める、自らを省みるといった態度が見受けられないからです。つまり、「自浄作用がない」ということです。
 
 人体は不要物を最終ろ過する腎臓が機能しなくなると、人工透析という非常手段に依らなければ死あるのみ、です。
 テレビ(地上波キー局)は人体でいえば、自らの作り出した「毒素」を全くろ過することができず、人工透析的なもの(ネットの動画をパクる、ネットの意見を勝手に引用する、わけのわからん評論家をどこからともなく引っ張ってくる)でかろうじて命をつないでいる状態、といっても過言ではないでしょう。そんな死に体で「玉」を生み出せるわけはありません。

 テレビなんてものは、CS放送で好きなものを選択して観ているくらいが一番いいのかもしれません。

 本日は短い投稿で申し訳ございませんでした。

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第42回・コンバートのオッチャンと、昭和4年春季リーグ「春の嵐」!)

2019-05-07 19:31:03 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 前回はオッチャンの「打撃開眼」について取り上げましたが、今回は守備を少々。
 昭和4年春、早大に「投の小川」と並ぶ大型新人が入部します。高松中学の三原修。そうです。後年「脩」と改名し、巨人・西鉄・大洋・サンケイ・近鉄と監督を歴任、特に西鉄では不滅の日本シリーズ3連覇を達成し、「魔術師」と呼ばれたあの御仁。高松中学では三番ショートとして縦横無尽の活躍を見せ、甲子園を沸かせた名プレーヤーです。
 そんな三原本人は早大に入る気などこれっぽっちもなく、第四高等学校(現・金沢大学)と神戸高工(現・神戸大学)の受験の幕間で、親類を訪ねて上京したところ、上野駅には高松中学の先輩で、当時早大の中心選手であった水原義明がなぜか不自然に(;^ω^)待ち構えており、「受験願書なら出してあるから!」と言われ(!)強引に用意された自動車に引っ張り込まれ、早大の受験会場に連行されます。
 早大に入る気のない三原は白紙で答案を提出しますが、これがなぜか「合格」の判定。しかも合格と相前後してプレスリリースまでされるという念の入れよう(;^ω^)。苦労して多くの子供を育て、息子には「学士様になってほしい」と強く願っていた三原の父・一彦は大激怒しますが、様々な工作(?)のすえ、三原は早大に進学することとなったのです。
 三原はさっそく二塁の練習を始めますが、これが実に見事なもので、早晩レギュラーを獲得するのは間違いなし…これまで決定的なレギュラーが不在であったセカンドが埋まろうとした瞬間でした。
 となると、これまでいちおう二塁要員であったオッチャンはこれと訣別し、違う守備位置で生きていくことを模索せねばなりません。オッチャンは「自分にできること、できないこと」を熟慮した末、中学4年次以来、久々に外野に戻ることを決意します。
 
 「守備の人・オッチャン」のウリは、何と言ってもその強肩。
 柳井中学4年次の夏甲子園では、一回戦で対峙した釜山中学を相手に、安打で一塁から一気に三塁を狙った浅野博を見事なレーザービームで刺し、慶大監督の腰本寿に絶賛されました(第17回参照)し、翌年キャッチャーにコンバートされても難なくこなしてしまうほど。その強肩はいまだ健在どころか、早大の猛練習により、ますますその威力を増している最中でした。これは外野手として何よりの財産であり、ここはオッチャンが、他選手と比して大きくリードするところです。
 しかし人間、長所もあれば短所もあり。「守備の人・オッチャン」最大の短所は、早大レギュラー陣の中では鈍足の部類に入る足の遅さでした。
 1年後輩の伊達正男は、オッチャンの走りについてこう述べています。
「杉田屋さんは、チョコチョコ走って、足が速いように見えるが、(タイムを)計ってみるとちっとも早くない」
 そんなオッチャンは戸塚球場で、不思議な練習を繰り返します。
 打撃練習で外野を守っている際、打球の音とともにいち早くスタートを切る。そしてダイビングして捕球を試みる。
 当初はただダイビングをするだけであったところ、そのうち打球に猛然と突っ込み、そのまま地上スレスレの高さでゴロゴロっと転がる。捕れる範囲にあるタマであろうと、ないタマであろうとおかまいなし。打球音に反応してのスタートと、ダイビングキャッチの要領をひたすら繰り返します。
 その練習は正規の打撃練習や守備練習のときのみならず、時には全体練習が終わった後、自主的に日没後にまで及ぶことが多々ありました。
 仲間の中には「杉田屋はついに気が触れてしまったのか?」と心配する者もいましたが、監督の市岡は打撃に、守備に変化を見せるオッチャンに、大いなる期待の目を向けていました。

 昭和4年の東京六大学春季リーグ戦は、4月21日の日曜に開幕を迎えました。
 この大会から開会式が行われることとなり、午前11時半、陸軍戸山学校軍楽隊の演奏に乗って、早大・慶大・明大・法大・立大・東京帝大の順に選手が入場。万雷の拍手を浴びました。
 このリーグ戦は明大がアメリカ遠征中(開会式には、留守軍が参加)のため、残る5つの大学により覇権を競うという形になりましたが、明大不参加により観客動員数が落ちるなどということはなく、春を待ちわびたファンの熱気はまさに燎原の火のごとし。その燃えるような人気ぶりに「春の嵐」も便乗したのか、最大風速15mという恐るべき強風が、開幕直後の神宮球場を揺さぶります。
 第1試合の慶大―東京帝大1回戦は、この強風によりストライクが入らない、フライはおろか、ゴロすらまともに捕れないといったアクシデントが続出。1回表裏で慶大が打者15人9得点、東京帝大が打者11人5得点という草野球のような展開となり、7回裏でついに「試合中止」となったとき、「慶大29-15東京帝大」という、冗談のようなスコアになっていました。
 第二試合は、わずかに風が収まったのちに始まった早大―法大1回戦。早大にとっても、オッチャンにとっても、大事な大事な開幕試合です。
 早大はオッチャンの同級生・山田良三(根室商)を先発させ、獲得したばかりの「至宝」小川を温存。法大はのち、「七色の魔球」と称され、阪神・毎日で活躍することとなるハワイ生まれの日系二世・若林忠志を先発させます。
 若林は前年の昭和3年春に来日した邦人チーム・スタンクトンのエースで、この際スタンクトンは法大に16-2、16-3のスコアで完勝していますが、この見事な投球に法大がほれ込み、法大専門部に入学させ、選手登録を試みます。
 ところが六大学連盟は「日本の中学を修了していない人間を大学に入れ、選手とするのはまかりならん」としてこれを認めず、法大と連盟は激しいバトルを繰り広げますが、結局「国内のどこかの中学を卒業させ、そこから入学・入部するのならよろしい」という裁定となり、横浜の本牧中学に1年だけ在籍して法大に入るという、なんともややこしい手続きを経て得た、これまた「法政の至宝」でしたが…この日は8~10mという猛烈な春の嵐と、新生早大、そして新生オッチャンという別の「春の嵐」が、若林を襲います。
 
 法大は初回、強風のため立ち上がりの悪かった山田から2点を奪いますが、早大はトップバッターがいきなり火を噴きます。それは誰あろう、1番ライトに先発起用されたオッチャン。「早大の斬り込み隊長」としてのオッチャンの、新たなデビューでした。
 オッチャンは猛練習の末、自家薬籠中のものとした早大伝統の「短打法」をいきなり炸裂させ、若林のタマをはじき返してチャンスメイク。これに西村成敏(松本商)、伊丹安廣が続いて3点を返し逆転。3回裏にもワンアウト満塁から黒木正巳(相馬中)の三塁打が飛び出して5点を追加し、早大は押せ押せムード。
 5回裏、チャンスで打席が回ってきたオッチャンはここでタイムリーヒットを放ち、ダメ押しとなる11点目を奪います。
 試合は11-5で早大の快勝。神宮球場は春の嵐と「都の西北」の合唱に大いに揺れました。それはまるでオッチャンの「早大斬り込み隊長」デビューを祝い、これまでの鬱屈を祓うかのような、轟轟たる「嵐」でした。

【第42回参考文献】
・「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編
・「真説日本野球史 昭和篇その1」大和球士 ベースボールマガジン社
・「私の昭和野球史 戦争と野球のはざまから」伊達正男 ベースボールマガジン社
・「日本の野球発達史」広瀬謙三 河北新報社
・「魔術師(上) 三原脩と西鉄ライオンズ」立石泰則 小学館文庫
・「プロ野球名人伝 第15回 回転レシーブの元祖杉田屋守」大和球士(週刊ベースボール記事より) 

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第41回・早大エースの誕生と、打撃開眼のオッチャン)

2019-05-06 12:50:44 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 昭和2、3年度における早大の不振にはふたつの明確な原因が存在していました。「投手力不足」と「斬り込み隊長の不在」です。
 監督の市岡忠男以下首脳部はその問題を解消すべく、活発な動きを見せます。

 慶大の宮武・浜崎、明大の中村峯・中津川・中村国、東京帝大の東などと比べた場合、これまでの早大投手陣(源川・朝倉・水上・高橋)は実戦経験こそ豊富ではあるものの小粒感が否めず、優勝決定戦や早慶戦などの大一番を「位負け」で落としがちでした。
 どんな大試合でも平然と投げられる超弩級のエースが欲しい!早大は総力を挙げ、ついに待望の麒麟児を獲得します。その名は小川正太郎。
 紀和地区で永年無敗を誇る和歌山中学のエースだった小川は「不世出」と謳われた華麗な投球で昭和2年の選抜を制覇。大阪毎日新聞が用意した「優勝校アメリカ行き」第一号をゲットした、中等球界きっての左腕です。
 小川の1年先輩である伊達正男(市岡中)は、小川をこのように評しています。
 「182センチという中学生ばなれした長身を、鞭のように使って左腕から投げ下ろす速球にはスピードがあって、ドロップ(タテのカーブ)に一層の威力が加わり、そのドロップも、打者の手元へきて変化する。そのうえ胸元にきてホップする速球を交えての投球には手も足も出ず、沈黙させられたものであった。」
 この年は小川以外にも、昭和3年に関西学院中がセンバツを制した時の小さき大エース・悳(いさお)宗弘、オッチャンとともに柳井中学で戦った清水光長も入部するなど、早大投手陣は目覚ましい増強を果たします。

 次に解決すべきは「切り込み隊長の不在」。
 当時の早大は伊丹安廣・伊達正男・森茂雄・矢島粂安と、ロングヒッターは多士済々でしたが、1・2番打者を任せられるような、選球眼がよく、確実に出塁してくれる選手がなかなか登場しませんでした。
 いくらロングヒッターが後に控えていても、その前にランナーとなる人間がいなければ得点力の増強には結びつかない。明治の銭村、慶應の楠見に比する、パンチ力のある切り込み隊長がぜひ欲しい!そんな思いを抱いていた市岡監督の前に急浮上してきたのが、ある打撃方法に開眼しつつあったオッチャンの姿でした。

 前年度までのオッチャンは、柳井中学で四番を打っていたころの打撃をやめられず、バットをやや立てて構えてフルスイングする、一発狙いのスイングが多く見受けられました。
 現代では当たり前に行われている「バットを立てて構える」打法ですが、当時は余程のパワーヒッター以外は絶対にやらない打法でした。
 戦前のボールは、芯となるゴムや毛糸の質が悪かったために飛びにくく、ほとんどの打者はバットを担いで寝かせて構え、打点を前においてミートする短打法を採っていました。
 従って、当時はかなりの強打者でもバットを寝かせて構えており、宮武三郎や松木謙治郎といったロングヒッターであっても、バットを寝かせていました。右打者である宮武は右ひじの上にバットを持たせかけるような寝かせ方、左打者である松木は完全に左肩に担いだ構えです。
 オッチャンは当時のスタンダードであった短打法を窮め、確実に出塁できる打者への脱皮を遂げようとしていたのです。
 幸いオッチャンにはもともと、鋭い選球眼、野球選手としては並外れたリストの強さがありました。これらは全て、岩国中学時代に野球とともに熱中し、人並み以上の腕を持つに至った剣道によって培われたものですが、意外なところで意外なものが役に立ったわけです。

 後日オッチャンが自著で「私独特の打法」と称したこの打法がいかなるものであったのか?これはのち、オッチャンの「直弟子」といっていい存在となる岡村寿(岩国高-早大中退、東洋紡岩国)が、自伝「青春・神宮くずれ異聞」(防長新聞社)に詳しく書き残しています。ちょっと長くなりますが引用します。
「打撃指導は徹底した右翼打ちで、バットを肩にかついで、バットの先端が見えるほど上体をねじってかまえる。」
 そんなことをしたら内角のタマが打てないのでは…という懸念は無用。
「内角球がかんたんに打てるような投手が相手なら、練習などしなくてもいい。近目は注文をつけて振らず、外角球一本に狙いをしぼる。こうすれば、逃げるカーブなどにはひっかからない。相手投手は苦しくなり、コースは甘くなる。それを右翼に狙い打つ。」
 オッチャンの放つ打球は、日増しにその鋭さと確実性を増していきます。その打撃を、切れ者と名高い市岡監督が見逃すはずはありませんでした。
 
【第41回参考文献】
・「杉田屋守 私の野球生活」杉田屋守著 杉田屋卓編 私家版
・「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編
・「私の昭和野球史 戦争と野球のはざまから」伊達正男 ベースボールマガジン社
・「真説日本野球史 昭和篇その1」大和球士 ベースボールマガジン社
・「新聞記者が語り継ぐ戦争9 戦没野球人」読売新聞大阪社会部 
・「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」大島遼(岡村寿) 防長新聞社