弊ブログをご覧の皆様は、非常に教養ある方が多いので、シナの兵法の古典「武経七書」をご存知のことと思います。「んなもん、知っとるわ!」…はい、すみません。
みなさまも良くご存知の「孫子」「呉子」のほか、「尉繚子」、「司馬法」、「(太公望)六韜」、「(黄石公)三略」、「李衛公問対」という7つの兵法書ですね。
モノを知らない若かりし日、これさえ読めば!と浅はかに考え、一般人が読めるような日本語の訳書がほとんどない「司馬法」や「李衛公問対」以外を、図書館に通いつめて読んだ時期がありましたが…はっきり言ってどれもこれも、あまり人生の参考になっていません(^_^;)
日本には、大江匡房が編んだと言われる独自の兵法書「闘戦経」があります。
「闘戦経」とはどのような書物かといいますと、「(これが編まれた)当時は、中国文化の無条件取り入れ時代であり、国情の違う中国で生育した「孫子」を無批判に取り入れて心酔し、策に流れて、誠実な努力を怠る者が多くなった」ため、 大江匡房が「孫子」の欠点を指摘して、そのままではわが国に適用できないことを警告する」ために書いたものです。
(カッコ内の解説は、幻の兵書「闘戦経」 大江匡房・著伝 大橋武夫・解説 まえがき より)
そのメインの内容は、不肖私の抜粋ですが、こんな感じです。
・第一は日本の武道、第二はシナの兵法。
・孫子は詫譎「きけつ」(いつわり、あざむく)の書である。
・兵法の本来は戦いにある。
・孫子は懼字「くじ」(敵を恐れる)なり。
・未だ謀士の骨を残すを見ず(謀をする奴は責任を取らないという意)。
・疑えば、天地みな疑わし。
・智者は威をおそれ、罰をおそれず。
実に日本らしい気概であり、また、堂々と孫子を批判しているあたり、実にすばらしい。日本人による日本人の兵書たる所以です。
孫子を始めとするシナの武経七書には、私見で、大きく分けて3つの特色があります。
1・「戦う前に相手を骨抜きにする」ということに力点が置かれすぎ、実際に戦闘をすることに関する哲学やプライド、覚悟といったものが、全く読み取れないもの(孫子、六韜三略)
2・道教の影響を受け、一見すると何が書いてあるかさっぱりわからないもの
(司馬法、李衛公問対、尉繚子)
3・まあまあ観賞に堪えるもの(呉子)
また、その自出も「漢の張良が怪しげな老人に伝授してもらった(三略)」とか、「斉に伝わる秘伝(司馬法)」だの、かなり怪しい(^_^;)。
まあだいたい、シナの武術はその開祖が孫悟空とかヽ(´Д`;)ノ猪八戒とか(°д°)いうようなものがたくさんありますから、兵法書も、ミステリアスな自出の方がいい・・ということなのでしょうか。
孫子だって、もとは呉の孫武が作ったと言われてますが、注釈を加え、ほぼ現代の姿にしたのは三国志でおなじみの曹操ですし、その他のものについても、その成立は随・唐の時代というものがほとんどです。
所詮、その程度のものなのです。
本屋で投げ売りされている、無批判な孫子の賛美本には必ず、「武田信玄やナポレオンは孫子を参考にした」などという話がありますが、彼らの人生や戦いぶりを見る限り、孫子に書かれていることをそのままやったとは全く思えません。かなりのアレンジを加え、彼らは独自の成功を収めています。決して孫子を鵜呑みにして成功したわけじゃないんですよ。
おそらく、本当に真面目に、漢籍研究として武経七書を研究している人以外で、孫子に関する著書を書いている奴は、だいたい「孫子がビジネスに使える」だの、「現代のビジネス必携」だの言っているクソ野郎で、その根本は「座して儲ける」「ラクして儲ける」というふざけた思想しかなく、その腐った思想をカモフラージュするため、孫子を孫引きしているにすぎません。
で、そういうクソ野郎が奉じる著書がなぜ「孫子」かというと、そういうバカは、ほかの武経七書なんて読まないでしょう(*´∀`*)。ましてや「闘戦経」みたいな名著は、存在すら知らないのでは(*´∀`*)。
しかし、そうした腐ったヤツと同じような周波数になるシナの兵法は、それはそれで、大したもんですが…(^_^;)
んで、本日私が何を言いたいかといいますと、日本人には日本の国土と文化に根ざした兵法があるのだから、やれ「アメリカでは…」だの、「アジア(←マスコミが「アジア」という場合、シナチョンのいわゆる「特定アジア」を指す場合がほとんど)では…」というクソ野郎の言うことを、鵜呑みにしてはならないということです。
卑怯怯懦があたりまえで、まともな戦闘行為ができないシナ・朝鮮人の戦い方と、国土が丸焼けになる寸前まで気合で戦える日本人との間には、本当に大きな差があります。同じ人間という生物とは思えないほどの格差があります。
しかし、だからこそ、権力者や舌先三寸で生きる詐欺師が安逸を貪り、小手先で大きな勝利を得ようという発想に根ざす「孫子」は、日本人であって日本人でない腐ったヤツの心を捉えて離さないのでしょうが、そんなヤツの口先にだまされないインテリジェンスが、ネット社会の私たちには、否応なしに求められていると思います。
タイトルは単なるダジャレです(^_^;)
みなさまも良くご存知の「孫子」「呉子」のほか、「尉繚子」、「司馬法」、「(太公望)六韜」、「(黄石公)三略」、「李衛公問対」という7つの兵法書ですね。
モノを知らない若かりし日、これさえ読めば!と浅はかに考え、一般人が読めるような日本語の訳書がほとんどない「司馬法」や「李衛公問対」以外を、図書館に通いつめて読んだ時期がありましたが…はっきり言ってどれもこれも、あまり人生の参考になっていません(^_^;)
日本には、大江匡房が編んだと言われる独自の兵法書「闘戦経」があります。
「闘戦経」とはどのような書物かといいますと、「(これが編まれた)当時は、中国文化の無条件取り入れ時代であり、国情の違う中国で生育した「孫子」を無批判に取り入れて心酔し、策に流れて、誠実な努力を怠る者が多くなった」ため、 大江匡房が「孫子」の欠点を指摘して、そのままではわが国に適用できないことを警告する」ために書いたものです。
(カッコ内の解説は、幻の兵書「闘戦経」 大江匡房・著伝 大橋武夫・解説 まえがき より)
そのメインの内容は、不肖私の抜粋ですが、こんな感じです。
・第一は日本の武道、第二はシナの兵法。
・孫子は詫譎「きけつ」(いつわり、あざむく)の書である。
・兵法の本来は戦いにある。
・孫子は懼字「くじ」(敵を恐れる)なり。
・未だ謀士の骨を残すを見ず(謀をする奴は責任を取らないという意)。
・疑えば、天地みな疑わし。
・智者は威をおそれ、罰をおそれず。
実に日本らしい気概であり、また、堂々と孫子を批判しているあたり、実にすばらしい。日本人による日本人の兵書たる所以です。
孫子を始めとするシナの武経七書には、私見で、大きく分けて3つの特色があります。
1・「戦う前に相手を骨抜きにする」ということに力点が置かれすぎ、実際に戦闘をすることに関する哲学やプライド、覚悟といったものが、全く読み取れないもの(孫子、六韜三略)
2・道教の影響を受け、一見すると何が書いてあるかさっぱりわからないもの
(司馬法、李衛公問対、尉繚子)
3・まあまあ観賞に堪えるもの(呉子)
また、その自出も「漢の張良が怪しげな老人に伝授してもらった(三略)」とか、「斉に伝わる秘伝(司馬法)」だの、かなり怪しい(^_^;)。
まあだいたい、シナの武術はその開祖が孫悟空とかヽ(´Д`;)ノ猪八戒とか(°д°)いうようなものがたくさんありますから、兵法書も、ミステリアスな自出の方がいい・・ということなのでしょうか。
孫子だって、もとは呉の孫武が作ったと言われてますが、注釈を加え、ほぼ現代の姿にしたのは三国志でおなじみの曹操ですし、その他のものについても、その成立は随・唐の時代というものがほとんどです。
所詮、その程度のものなのです。
本屋で投げ売りされている、無批判な孫子の賛美本には必ず、「武田信玄やナポレオンは孫子を参考にした」などという話がありますが、彼らの人生や戦いぶりを見る限り、孫子に書かれていることをそのままやったとは全く思えません。かなりのアレンジを加え、彼らは独自の成功を収めています。決して孫子を鵜呑みにして成功したわけじゃないんですよ。
おそらく、本当に真面目に、漢籍研究として武経七書を研究している人以外で、孫子に関する著書を書いている奴は、だいたい「孫子がビジネスに使える」だの、「現代のビジネス必携」だの言っているクソ野郎で、その根本は「座して儲ける」「ラクして儲ける」というふざけた思想しかなく、その腐った思想をカモフラージュするため、孫子を孫引きしているにすぎません。
で、そういうクソ野郎が奉じる著書がなぜ「孫子」かというと、そういうバカは、ほかの武経七書なんて読まないでしょう(*´∀`*)。ましてや「闘戦経」みたいな名著は、存在すら知らないのでは(*´∀`*)。
しかし、そうした腐ったヤツと同じような周波数になるシナの兵法は、それはそれで、大したもんですが…(^_^;)
んで、本日私が何を言いたいかといいますと、日本人には日本の国土と文化に根ざした兵法があるのだから、やれ「アメリカでは…」だの、「アジア(←マスコミが「アジア」という場合、シナチョンのいわゆる「特定アジア」を指す場合がほとんど)では…」というクソ野郎の言うことを、鵜呑みにしてはならないということです。
卑怯怯懦があたりまえで、まともな戦闘行為ができないシナ・朝鮮人の戦い方と、国土が丸焼けになる寸前まで気合で戦える日本人との間には、本当に大きな差があります。同じ人間という生物とは思えないほどの格差があります。
しかし、だからこそ、権力者や舌先三寸で生きる詐欺師が安逸を貪り、小手先で大きな勝利を得ようという発想に根ざす「孫子」は、日本人であって日本人でない腐ったヤツの心を捉えて離さないのでしょうが、そんなヤツの口先にだまされないインテリジェンスが、ネット社会の私たちには、否応なしに求められていると思います。
タイトルは単なるダジャレです(^_^;)