集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その2)

2023-12-30 18:23:11 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「その2」では、講道館がついにオリンピック代表選手を仕立て上げて出場させたものの、全然ダメだったという、「黒歴史その1」をお届け致します。

 英語の原書が楽々読めるほどのインテリだった治五郎先生率いる講道館は、早い段階から「柔道の海外展開」を視野に入れていました。
 講道館が海外に対し、初めてオフィシャルの「師範」を派遣したのは1903(明治36)年。「講道館四天王」のひとり、山下義韶六段(段位は当時)をアメリカに派遣したことに始まります。
 その後は富田常次郎、前田光世、佐竹信四郎…と続くわけですが、講道館公式史では「講道館の派遣者は前田光世がそうだったように、海外でツワモノを倒し続けたから普及した!」というのは、100%のウソではないですが、話を盛り過ぎです。

 これは記録がしっかり残っているので明らかですが、講道館からの派遣師範は、勝ったり負けたり引き分けたりを繰り返しており、特に2人目の富田常次郎は、アメリカ大統領の御前でレスリング選手に手も足も出ず惨敗しており、決して「講道館柔道は、派遣師範が無敵だったから普及した」わけではありません。
 さらに言えば、「講道館が公式に人を派遣する」のは、渡航先の国にしっかりしたパトロンがついている場合のみ(アメリカの場合は、大統領閣下のヒキであったことはあまりに有名)であり、そうでない荒野に人を派遣した事例はほとんどありません。
 講道館が海外拠点を広げた戦略は以下の2パターン、
①講道館より先に外国に乗り込んで活躍し、一定の成功を収めていた柔術家を吸収合併
②移民などで海外渡航した、ある程度柔道の腕に覚えのある日本人が一定の成功を収めたところで吸収合併
に拠るところが非常に大きく、前者の典型的な事例では、講道館の海外展開に先駆ける3年前にイギリスに乗り込み、ジャケッティッド・マッチで無敵を誇っていた天真揚神流柔術の「スモール・タニ」こと谷幸雄(谷虎雄とも)や上西貞一、不遷流柔術の「タロー・ミヤケ」こと三宅多留次などの「イギリス柔術グループ」が、講道館に吸収合併されたことが挙げられます。
 
 ちょっと話が脱線しましたが、講道館がアムステルダム五輪のレスリング種目制覇を目指していたその当時は、海外展開の開始から既に20年以上が経過。吸収合併事業の成功もあって海外における拠点もそれなりに充実していたことから、「実力ある若手の高段者(だいたい5~6段)は海外に講師として派遣」という流れができていました。
 ちなみにその「実力ある若手高段者」は原則大卒、且つ、講道館の御用組織といっても過言ではない学連(この当時であれば東京高師、早大、明大、東京商船大など)所属大学出身の柔道家でなければならないことは、言うまでもありません。

 講道館は内藤選手の成功例を踏まえ、代表選手候補として、まずは「海外に講師」、次いで「小兵、業師」という方針を打ち出します。
 そのめがねにかなったのは、アメリカ滞在中の新免伊助六段(1889~1967、のち「純武(すみたけ)」と改名)。
 新免六段は福岡県出身、明大卒。身長160センチそこそこ、体重60キロ付近の小柄な体格ながら、多彩且つ鋭い投技には定評があり、特に巴投げからの押さえ込みの流麗なることは「芸術」とまで評されていました。
 新免六段は先にお話しした「講道館基準」により大正15(1926)年にアメリカへ派遣。昭和2年の秋、講道館からの命を受けてドイツへ渡航します。
 その目的につき、ウィキペディア先生には「柔道普及のためのヨーロッパ巡遊」とありますが、その「命」のうちのひとつが「オリンピックレスリングで優勝するため、レスリングの練習をしろ」というものです。
 
 これを遡る数年前、講道館は内藤選手を通じて「レスリング」を研究しようというポーズを取ってはいましたが…それは具体性のない、実にいい加減なものでした。

 講道館の公式資料において、オリンピック・レスリングについて記した最も古い資料は大正13年11月発行の機関誌「作興」ですが、内藤選手が銅メダルを獲得したことを紹介しつつ、「レスリングは、体重別に仕合ふのだから、日本人には有利である。それに柔道の妙手と、腰以下の強靭さと、日本人特有の敏捷さと勇悍さとを以てすれば、今後此の種の国際競技に勝利の栄冠をとることは、必ずしも難事ではないと思ふ。」などと、能天気な言葉で締めています。
 その次号(大正13年12月発行)の「作興」では、内藤選手本人が寄稿。
 このなかで内藤選手は、レスリングは略裸体の競技であるため、体力的に非常にハードであることや、その競技を勝ち抜くため、選手は猛烈なフィジカルトレに打ち込んでいることなどが詳しく紹介されており、さらには「柔道は攻撃防御の『アート』」「レスリングはごく些細な『サイエンス』の差異で勝負が決まる」と、柔道とレスリングはまるで違う競技であることを紹介しています。
 またこの時内藤選手は、講道館でレスリングの講習会を行って「柔道とレスリングは別物」ということを呼び掛けていましたが…講道館の柔道家はバカ揃いであり、内藤選手の真摯な呼びかけに全く耳を貸なかったばかりか、五段・六段クラスが柔道ルールで内藤選手をボカスカ投げ飛ばして悦に入り、「なんだ、こんな弱いヤツがメダルを取れるのなら、五段クラスが出場すれば金メダル間違いなしだ」などと、見当違いのイキリを見せる始末。
 愚かな柔道家たちが唯一耳を貸したのは、内藤選手が上記記事に於いて記載した「日本人にはグレコローマンより、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(=これは今日における「フリースタイル」のことで、イギリスの伝統的レスリングのCACCとは違うものなので注意)が向いている」ということのみでした。
 
 それに何より、マットに少しでも肩を付くと瞬時に「負け」判定をされてしまうレスリング競技の代表に、背面をおもいっきり地面に付けないと成立しない「巴投げ」の名人を選ぶというあたり、講道館がいかにレスリングというものをナメくさっていたかが、はっきりと見て取れます。
 
 話を新免六段の動静に戻します。
 ドイツに渡航した新免六段は、柔道の普及活動の傍ら、レスリングの練習を行うこととなりました。
 当時の様子については「作興」7巻2号(=昭和3年2月号)には、新免六段の自己レポートが掲載されているため、割と詳細に伺い知ることができるのですが…まず目につくのは、レスリングの練習量の少なさです。
 「一週三回修行致し、其他の日は、レスリング無之候致、水泳場に通い居り候」
 これは、一般人がちょっとやる気を出した時くらいのトレーニング量であり、とてもオリンピックレスラーの練習頻度とは言えません。今どきはジュニアレスリングでも、この倍は練習しています。
 また新免六段はレポートに「柔道を見せてくれ、教えてくれと頼まれて、ほうぼうに教えに行っていて忙しい」みたいなことや、「ドイツのボクサーに絡まれたので、得意の柔道の手…足による相手膝への当身、相手の膝へのボディアタック、タックルからの金玉掴みといった技で翻弄した」という、実にしょうもないことを自慢していますが、そんなことをして遊んでいる間に、新免六段は「同じウェイトの選手が、同じルールで、しかも国際大会で戦う」ことの重大さや大変さを、完全に失念していたのです。
 さらにいえば、新免六段はたった数か月の間にドイツ・イギリス・パリと短期間で練習拠点をコロコロ変え、腰を据えての練習をまったくしていません。この点は柔道を完全に封印し、アメリカだけでみっちり鍛えた内藤選手とは真反対であり、そのやる気を疑われても仕方がないレベルです。
 それでも新免六段は「作興」において、「自分はヘーグ原頭において、必ず優勝する」みたいなことを書いているのですから、吞気なものです。
※「ヘーグ原頭」とは要するにアムステルダム五輪のこと。
 当時の日本では、オランダの首都≒ハーグ基礎自治体という思い込みがあったので、こう書いたと思料。「原頭(げんとう)とは元々は「野原のほとり」、長じて「決戦の場」に変化した言語)

 しかし見る目のある人はいるもので、新免六段の心のゆるみを見逃さなかった慧眼のメディアがいました。日本~欧州航路の情報誌「日英新誌」です。
 同誌は13巻147号(昭和3年4月発行)に「柔道家西洋相撲練習」というベタ記事を掲載したのですが、新免六段の気のゆるみを、見事に看破しています。
「柔道家が柔道で西洋相撲に対抗しようといふのではなく、急にレッスリングの稽古してその競技に加はらうというふのである。その実験を試みようといふのが目下巴里(パリ)で西洋相撲を熱心に練習中である柔道大家新免伊助氏(五段)である。
 専門家の意見によると柔道の確かな素養のある者には当地のレッスリング位は俄稽古でその堂奥に達すること不可能でないといふ。そこで新免氏は四月初め来英後相撲の練習を続け、七月末アントワープ(原文ママ)で開催のオリンピックの檜舞台に出て西洋人競技者をアッといはせようとの計画である由、これは記者が武道会で聞いた噂である。」
 とくに「専門家」が「俄稽古で堂奥に達することが不可能でない」と言った点は…レスリングに詳しい谷幸雄や三宅多留次、あるいは小泉軍治といった面々がそんなことを言うはずがないですから、おそらく講道館直系の関係者であることは間違いないと思いますが…日英新誌の記者が「こいつら、レスリングをナメてる」と感じたのは間違いなく、「俄稽古」や「急にレッスリングの稽古をして競技に加はらうといふのである」という文言に、その冷ややかな目が感じ取れます。

 そして迎えたアムステルダム五輪。7月30日、フリースタイル・ライト級に出場した新免六段は、スイスのモーレ選手相手にあっさり判定負け。「アッといはせようとの計画」は、講道館の方が「アっといは」される、当然といえば当然の結果となったのです。
 まあ、ろくな練習もせずにオリンピックに出てきて、オリンピックレスラーを相手に判定まで持ち込んだ新免六段は、ある意味スゴいといえますが(;^ω^)。褒めることは全くできませんね。
 なお新免六段はオリンピックの翌年、人目を逃れるように早々に帰国。以後、レスリングと関わることは一切なく、「柔道の大家」として生き続けたのでした。

 これで懲りてレスリングから手を引けばよかったのに、この翌年、真の「日本レスリングの父」が登場したことで、講道館はレスリングを捨て切ることができず、さらなる迷走を重ねます。

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その1)

2023-12-20 07:20:28 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 前回連載「ふたりの嘉納」でも紹介しましたとおり、戦前の講道館には「帝大柔道会」という強力極まりないライバルがいたため、「ホンモノの柔道とは、高専柔道のようなモノではない!」という差別化を図るため、「柔道の武術化」という名のもとに、語弊を恐れず言いますれば「頭のおかしい柔道の多角化」事業を行っていました。
 昭和3(1928)年のアムステルダム五輪より少し前~昭和7(1932)年のロサンゼルス五輪にかけて行われた、講道館による「日本レスリング乗っ取り未遂事件」も、そんな「頭のおかしい柔道の多角化」事業の流れのなかで行われたもので、とくにロス五輪の代表選考時に行われた、「講道館レスリング部」を含む、3つの統括団体によるバトルは、凄まじいものがありました。
 ちなみにこの「講道館レスリング部」は、のちに述べるような経緯から講道館の黒歴史と化しており、公式史からは完全に抹殺されています(;^ω^)。
 今ではネットで検索してもなかなか出てこず、国会図書館蔵の古文書によって当時の状況証拠を積み重ねる以外、そのドタバタ劇を知ることができない、講道館による「日本レスリング乗っ取り未遂事件」。
 戦前スポーツ史を考えるうえでも、戦前の講道館のバカさ加減を知るうえでも、ひいては「日本人が巨大組織を作ってその上にあぐらをかくと、どんなに偉い人でもバカになる」ということを理解するうえでも、知っておいて損はない事件ですので、御用とお急ぎでない方は、お付き合いよろしくお願いいたします。

 組織としての「講道館」が、正式にレスリングの矢面に立たされたのは、大正10年3月のアド・サンテル戦であったことと、これによって講道館が「雑巾踊りのカラに閉じこもった」ということについては、既に「ふたりの嘉納」でお話ししたとおりです。
 この後しばらく、「レスリング」という名前は本朝格闘技界に出てはこなかったのですが…大正13(1924)年のパリオリンピックレスリング競技・フリースタイルフェザー級において、日本人の内藤克俊選手が3位入賞を果たしたことで、事態は再び動き出します。

 アメリカ・ペンシルバニア州立大学農学部留学中(内藤選手の本邦における学籍は、鹿児島高等農林学校〔現・鹿児島大学農学部〕に在った)だった内藤選手は、柔道で鍛えたグラップリング力と、高潔な人柄によって、レスリング部キャプテンを務めていました。
 排日法バリバリ、日本人を見れば「キル・ザ・ジャップ!」と叫んでいた、反日に狂っていたころのアメリカで、いわゆる「トップ20」に入るエリート大学のレスリング部主将を日本人が務めるというのは異例中の異例といってよく、内藤選手がいかに立派な人格を持ち、同時に、いかに真面目にレスリングに取り組み、いかに強かったかがわかります。
 アメリカ政府は、出場すればメダル獲得は確実である内藤選手を当然、「アメリカ代表」として五輪に出場させたかったのですが、そんなことをすれば「なんでイエロ―モンキーを代表にするんだ!」という国民の反発は必至。
 そこで本邦外務省と協議の結果、駐米大使・埴原正直(はになら・まさなお。1876~1934)の推挙により、内藤選手は「日本代表」として出場することになったのです。
 ちなみにこの埴原大使は「排日法」の成立に対して猛烈な抗議を行ったところ、その強硬な抗議が却ってアメリカ上院で「アメリカへの恫喝だ!」と問題になって更迭されたという、硬骨の外交官…おお、このころの外交官はちゃんと仕事してるじゃないか!…昭和に入ってからすぐに「害務省」になったが…それはさておき(;^ω^)。

 この「内藤三段、オリンピック3位!」というニュースは、レスリングとボクシングの区別すらつかなかった一般国民(これは本当です!)の間では全く話題にも上りませんでしたが、ひとり講道館だけが、鼻息荒くなっていました。
 何しろ、講道館長であらせられる治五郎大先生はこのころ、アジア唯一のIOC委員であり、ランカシャー・レスリングから「投げてイッポン!」のインスピレーションを受けて自流「柔道」を作ったほどの、レスリング有識者なのです。喜ばないはずがありません。

 内藤選手の快挙を前に、治五郎先生は夢想しました。「内藤選手は柔道三段。であれば、内藤選手以上の段位を持つ柔道の強豪を鍛え上げれば、レスリングでの世界制覇は容易なのではないか?」
 他の高段者(=腰巾着のザコ)たちも、全く同様の意見であり、ここから約10年に亘る、講道館の「レスリング狂騒曲」が始まります。
 
 内藤選手が3位入賞を果たした当時、わが国にはまだレスリング競技の統括団体がありませんでした。それどころか、学校でも企業でも、レスリングを練習をしている部や団体は全く存在していません。
 この当時における「レスリング研究」として記録が残っているのは、サンテル戦における日本側リーダーであった庄司彦雄三段(段位はサンテル戦時)が、サンテル戦との再戦を目指して南カリフォルニア大学に留学し、併せてレスリングを研究していたというものですが、これは庄司三段の実家が、目もくらむような大金持ち(鳥取の網元の息子)だったから実現できたことであり、レスリングは当時のわが国では、全くの「ブルーオーシャン」でした。
 これはとりもなおさず、「選手をエントリーさせさえすれば、すぐレスリング日本代表になれる」ということであり、当時のわが国でこれに唯一気づいていたのは、講道館だけでした。
 
 こうして鼻息荒く「日本レスリング制圧計画」を発動した講道館でしたが、レスリングに対する基礎知識は、極めて怪しい…というより、「ないに等しい」としかいえないものでした。
 このころの講道館がレスリングに対してどのような認識を抱いていたかを示すスンバラスウィ~!資料がありますので、ここで紹介いたしましょう。
 昭和10(1935)年に刊行された「昭和の柔道」。著者は講道館本部に勤めていた松岡辰三郎という六段(当時)で、序文を治五郎先生が寄せている「講道館オフィシャル本」ですから、著書の内容はおおむね、当時の講道館の認識と理解して問題ないでしょう。
 同著には「柔道とレスリング、拳闘」というタイトルで、レスリング&ボクシングについて説明した一節がありますが、ここで現代の我々はまず「なんで『レスリング&ボクシング』なの?『レスリング』単体の解説はしないの?」という疑問を抱くと思います。
 その理由は実に簡単。当時の日本人は、レスリングとボクシングの区別が全くついていなかったからです。
 日本で初めて創設されたレスリング部は、昭和6(1931)年4月の早大レスリング部なのですが、同部が同年11月に行った日比対抗戦を報じた記事の見出しがこれです。
「世界的大選手を迎へて 国際拳闘大会 早大レスリング部主催で」
 …いちおう、一般人の中では物知りの部類に入る新聞記者がこのありさまですから、頭の中に道着しか詰まっていないような当時のポンコツ柔道家が、ボクシングとレスリングの見分けがつかないのは、当たり前といえば当たり前のことでした。
 話を「昭和の柔道」に戻しましょう。

 松岡六段(当時)は同著中、レスリングについてこのように解説しています。
「上半身は裸体で、双方立合て試合を初め(←原文ママ)、対手(あいて)を倒し対手の両肩を地に押し付け、変化のできないやうにすることを唯一条件として勝負を決する」
「この点から見れば、柔道固技中の抑込技の一種の競技である。」
 ……( ゚д゚)。
 すみません、松岡六段のバカさ加減に、ちょっと我を忘れていました。いけないいけない。
 まず「両肩を地に押し付け、変化の出来ないやうにすること」、つまり通常フォールのみが「勝利の条件」というのが、そもそも間違っています。
 当時のアマレスにおけるフォールは、通常フォール以外にも治五郎先生が大好きな「投げてイッポン!」の「フライング・フォール」と、相手のバックを取った後、マットを横回転して両肩をつけさせる「ローリング・フォール」とがありました。
 当時のレスリングは、現在のような細かいポイント設定がなかったため、現在に比して「フォールを取ることの重要性」が高かったことは認めますが、「肩を地に押し付ける」ことだけが唯一の勝利の条件とは、無知が過ぎます。
 この程度の基礎知識で「我が講道館に於ても、柔道の一部として研究を試て居る」とは、いったいどの口が喋っているのか非常に理解に苦しみますし、それによって「(レスリングは)柔道固技中の抑込技の一種の競技である。」と結論付けたあたりはもう、気が狂っているとしか思えません。

 そんな心配?をよそに、講道館は昭和3(1928)年にオランダ・アムステルダムで開催予定の第9回五輪を目指し、引き続きバカ&呑気な活動を続けます。

「鬼の柔道」を支えた?「ヤキトリ」の正体に迫る

2023-12-08 20:25:48 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 高専柔道原理主義作家・増田俊也は代表作「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の作中、木村政彦先生の好物につき、「木村の好物はヤキトリのモツであって、キャビアやフォアグラではないのだ」と書いていました。
 おそらく増田は、大衆的トリ料理である「ヤキトリのモツ」と、トリ料理のなかでは一般に最上級と言われる「フォアグラ」を並べることで、木村先生の清貧性を表現しようと試みたのでしょうが…こういう表現を用いたということは、増田は戦前の「ヤキトリ」なるものの正体を知らない可能性が非常に高いと踏んで間違いないでしょう。
 それに、木村先生が「ヤキトリのモツ」を盛んに食べていたことが明確であるのは、拓大で修行をしていた時期だけであり、生涯を通じてそうしたものを食べていたとか、生涯を通じて「ヤキトリのモツ」が好物だったという記述はありませんから、その点についても増田は「取材不足」の謗りを逃れることはできないと思います。
 そこで今回は、増田が知らない「戦前の東京における『ヤキトリ』」について語ってみたいと思います。

 まず、増田が「木村先生の好物はヤキトリのモツ」と書いたソースですが、これは木村先生の自伝「鬼の柔道」(昭和44年、講談社)しかありません。
(ちなみにもう1冊の自伝「わが柔道」には、「ヤキトリのモツ」の話は出てこない)
 ただ、いきなりソース部分を引用しても訳が分からないと思いますので、ちょっと前説を入れさせていただきます。

 旧制鎮西中学卒業を控えた昭和9年ころ、超中学級の選手であった木村先生の下には、国立大学以外、ほぼすべての大学柔道部からの勧誘がありましたが、ただ、それらの学校の入学条件は「食費だけは自弁で」というもの。
 赤貧洗うが如き家庭に生まれた木村先生は、その条件がネックとなって返事を渋っていましたが、そこに救いの神が現れます。
 それは同郷熊本出身の大柔道家であり、当時の拓大柔道部師範であった牛島辰熊先生。
 牛島先生は「学費・食費・小遣いのすべての面倒を見る」という破格の条件を提示。そのため木村先生はめでたく、拓殖大学に入学することとなりました(昭和10年4月)。
 
 要するに木村先生は、拓大予科入学時には完全なるオケラ状態であり、かつ「鬼の師弟」関係であった牛島先生が課す稽古は激烈の一語。よって拓大予科時代の木村先生のハラは、常に真空状態でした。
 むろん、起居していた牛島塾では相当量のメシの支給があり、かなり大きな茶碗に10数杯のメシを食べていました。しかもそのメシの量が「1日あたり」ではなく、「1食あたり」というのに驚きますが、とにかく、それだけ食っても真空状態のハラを満たすためには、飲み食いに自由に使えるお小遣いを入手する必要がありました。
 どうしてもお小遣いが欲しい際の木村先生は、牛島先生の出勤時を見計らい、「先生!」と声をかけたそうです。すべてを察していた牛島先生は
「すぐ財布を出して三円(木村先生拓大入学時の昭和10年における3円=現在の7000円くらい)くれた。先生が金をくれるときには『あんまりムダ遣いするなよ』という言葉が決まり文句だった。」(「鬼の柔道」)

 で、めでたく小遣いをもらった若き日の木村先生が真っ先に向かったのは…昭和10年代初頭の「ヤキトリ屋」でした。
「私はそれをもって、すぐヤキトリ(モツ)をくいにいった。ヤキトリ屋にいくと、いっぺんに百本くらいくった。一本一銭(昭和10年の1銭=現在の200円)だった。泡盛が一合十銭で、これを三杯くらいのんだ。」(「鬼の柔道」)

 このお店につき、木村先生は「私が後年酒好きになったのは、このヤキトリ屋の影響があったのかもしれない」と続けていますが、増田が言うような「後年においてもずっと、特別な好物だった」というようなことは書かれていませんでした。
 とはいえ、当時の木村先生は常にハラペコ、しかも毎日山のように食べるメシのおかずだって、メザシに漬物、味噌汁程度のものでしたから、形は何であれ肉が食える機会が貴重だったことは、想像に難くありません。
 参考までに、戦前のアスリートで最も大量に「ヤキトリ」を食べた記録…あくまで「文献に記録が残っている」なかでは、戦前の大阪タイガースの伝説的名選手・景浦将(1915~1945)の「160本」が最高とされています(当時の横綱・前田山英五郎と食い比べをして、圧勝した)が、若き日の木村先生も普通に100本食っており、しかもそれが常態化していたわけですから、その食い力は景浦選手に勝るとも劣らぬもの。驚くほかありません。
 おっと話が逸れた。話を「戦前の焼き鳥史」に戻します。

 これは最近までワタクシも知らなかったことであり、「現代の常識にとらわれていた…」と大いに反省したことでもあったのですが、戦前のわが国における「ヤキトリ」とは、現在でいう「やきとん」のこと…要するに豚の臓物を「ヤキトリ」と称して売ることであり、ニワトリの肉が非常に貴重なものであった当時、これはごくごく当たり前の姿だったのです。

 帝都東京において、串に刺さった肉をひさぐお店が登場したのは、明治20年代。
 幕末に登場し、当時の外食産業の一端を成していた軍鶏鍋の店(軍鶏屋)から出てくる廃棄物=臓物を買い取り、それを串に刺して焼いて売るという商売が、当時は下層階級の溜まり場だった砲兵工廠付近(現在は東京ドームが建っているあたり)を中心に始まりました。
 鶏肉が安値で売られている現在では考えられないことですが、昭和37年にグラムあたりの単価を牛肉に抜かれるまで、鶏肉は牛・豚・鳥のなかで最も高値を付けていた肉でした。
 ブロイラーがやってくるまでのわが国で食肉に供されていた鶏肉は、卵を産まなくなった廃鶏か、シャモなどの品種がメインでした。
 ただ、ニワトリが廃鶏になるには時間がかかりますし、シャモなどの品種を育てるにはお金がかかる。それゆえ鶏肉は貴重なものだったのです。

 それでも「高級品である鶏肉が安価で食える」ということは評判を呼び、「ヤキトリ」は帝都東京におけるファストフードとして、大いにもてはやされるようになります。
 明治42年に刊行された「立志之東京」なる、地方出身者の東京における生活マニュアルには「ヤキトリ屋開業のススメ」みたいな一項が設けられており、シロウトが簡単に起業できる簡易な商売と目されていたようです。

 ただ、シャモ屋から出てくる鶏の臓物や骨(骨は細かく砕いて、現在のつくねにして供出されていた)の下ごしらえは実に大変であったうえ、「ヤキトリ」を供与する同業他社が鶏の臓物や骨を競って買いあさった結果、買い取り価格が高騰してしまいます。
 ヤキトリ1本5厘(明治末期)という薄利多売で成り立つ「ヤキトリ屋」のお歴々は原料の供給に苦慮したあげく…「そうだ、別に鶏の臓物を原料にしなけりゃならない法律なんてないんだ」(今は違法です(;^ω^))という、あんまり良くない原則論(;^ω^)に立ち戻り、鳥以外の供給しやすい肉…つまり豚や牛、馬の臓物などを「ヤキトリ」の原材料として用いるようになります。
 
 肉食が解禁された明治以降、最も沢山流通していたのは牛肉。
 牛鍋のブームや、軍隊の糧秣として牛肉が納入されていたこともあり、語弊を恐れず言いますれば、明治30年代までの食肉の王は「牛肉」一択でした。
 しかしその様相は、日露戦争(明治37~38年)で一変します。
 わが国が近代国家となって初の大規模戦争となった日露戦争では、これまでにない兵士の大量動員が行われました。
 その大量の兵士たちに食肉を供与するためには、当然大量の牛が必要となるわけで…多くの牛肉は軍需品として差し押さえられ、民間に出回る量が大きく制限されるに至りました。
 
 牛肉は軍に奪われて品不足、鶏肉は高額であり、安価で手に入らない…となれば、最後の砦たる「豚肉」が注目を集めるのは自明の理。
 こういった事情により、帝都の食肉の王者は牛から豚に交代。その後も需要をどんどん伸ばし続けました。
 豚肉がたくさん売れるということは、それに比例して内臓もたくさん市場に出回るということ。安い豚の内臓が市場に潤沢に出回るようになった結果、豚内臓原料の「ヤキトリ屋」は店舗数が増す一方。
 また昭和初期には、「ヤキトリ屋」店主たちの「もっと早く、もっとたくさんの原料を買い付けたい」という要望に応える形で バイクの後部に荷台を取り付けた「オート三輪」が豚肉卸屋の配達の脚として登場。今までの何倍もの速さで、しかもある程度下ごしらえを済ませた豚の臓物が配達されるようになったことで、「ヤキトリ屋」の手間や負担が大幅に軽減され、さらに多数の「ヤキトリ屋」が立ち並ぶに至ります。

 ただ面白いことに、豚の内臓原料与「ヤキトリ屋」たちが「ヤキトリ」という看板を変えることはなく、それは牛馬の「ヤキトリ」を供与していた「ヤキトリ屋」も全く同様でした。
 大正末期には、飲み屋街ではそれが「当たり前のこと」として認識されるようになり、昭和に入ると「焼鳥とは、豚のレバーや腸の焼いたものと思い込んでいた者もいた」(「浅草物語」加太こうじ)という逆転現象が生じます( ゚Д゚)。
 これを面白く思わなかった警察当局は、関東大震災で帝都が灰燼と化したのち、帝都復興事業の一環として「豚や牛、馬の肉などを『ヤキトリ』と称して売るのは許さん」というお触れを出しますが、あんまり効き目はなく(-_-;)、主として豚の臓物による「ヤキトリ」はその後も帝都で大いに幅を利かせたのでした。

 では、ここまでお話しした「ヤキトリの歴史」をふまえ、昭和10年ころの木村先生が食べていた「ヤキトリ(モツ)」について考えてみましょう。
 永く庶民の味だった「ヤキトリ」は、昭和に入ると味や栄養価が注目され、その結果上・中流階級も賞味するところとなり、「ホンモノの鳥を食わせるヤキトリ屋」が出現します。
 当時誕生した「ホンモノの鳥を食わせるヤキトリ屋」のうち、現在ものれんを守っている老舗焼鳥店「江戸政」では昭和5年当時、鳥モツを1本5銭で提供していました。木村先生が食べていた「ヤキトリ」の5倍の値段。貧乏をこじらせていた当時の木村先生には、手が出ない高級品です。
 となればやはり、木村先生が食べていた「ヤキトリ(モツ)」とは、豚の内臓によるものであった可能性が極めて高い。
 木村先生が言っていた「1本1銭」という価格は、どの資料を見ても、大正末期~昭和初期における「豚の臓物ヤキトリ」の適正価格であり、ここが完全に合致しているあたり、ほぼ間違いないと見ていいでしょう。
(ちなみに牛馬の臓物は「ヤキトリ」にしたとき、豚に比べて味が劣ったことから1本5厘が相場だったようです。)

 現代と違ってろくな副食物がない昭和初期、甘辛いタレで焼いた豚の「ヤキトリ」は庶民の味であったと同時に、貴重なタンパク源でもありました。 
 また、木村先生がおそらく豚の「ヤキトリ」をガツガツとかじっていた当時、わが国では豚の内臓や睾丸などから抽出された各種栄養素が「ホルモン」と総称され、滋養強壮・勢力増大・回春効果を狙う一般人を中心に大流行。その余波からこのころ、豚の内臓を食べる人口が上流階級や若い女性にまで拡大したのですが…「強くなること」と「腹減った」だけが頭の中に渦巻いていた若き日の木村先生、そんなことは全く頓着せず食っていたのでしょう。
(ちなみに若さや栄養の象徴としての「ホルモン」という言葉は、昭和中期まで死語になりませんでした( ゚Д゚))

 その数年後、木村先生は鬼の師弟による鬼の稽古を乗り越え、日本選手権や天覧試合で幾度も優勝を成し遂げ、世界柔道史上最強の男として君臨するに至りました。
 「鬼の柔道」によると、初の日本一になったあと、木村先生行きつけの「ヤキトリ屋」は、「うちのヤキトリを食って日本一になるとは、スゴい宣伝になる」と、木村先生だけ、いつもタダで食わせてくれるようになったそうです。
 めでたし、めでたし…????

 あ、余談をもう1つ。
 若き木村先生が豚の「ヤキトリ」とともに賞味していた「泡盛」とは、沖縄の銘酒である泡盛のことではなく、ジャガイモからデンプンを生成する過程で出てきた粕を連続蒸留し、それを水で薄めた甲類焼酎のこと。スーパーのお酒コーナーに行くと、4リットルの巨大ペットボトルで売られている「ビッグマン」とか、「俺とお前と大五郎~♪」なんかが、往時の「泡盛」の姿を最も忠実にとどめる酒だったりします。
 当時の「ヤキトリ屋」では、ニセウイスキー(甲類焼酎とサッカリン、バニラエッセンス、カラメルなどをまぜたもの。「ウエスケ」などと呼ばれていた)やニセブランデー(「ウエスケ」と同じようなもの)に飽きたヤキトリ屋の常連は好んで「泡盛」を飲んでいたようです。

【本稿参考文献】
「鬼の柔道」木村政彦 講談社(昭和44年)
「東京ワンニラ史中編 焼鳥の戦前史 第二版」近代食文化研究会(令和3年第二版)