「その2」では、講道館がついにオリンピック代表選手を仕立て上げて出場させたものの、全然ダメだったという、「黒歴史その1」をお届け致します。
英語の原書が楽々読めるほどのインテリだった治五郎先生率いる講道館は、早い段階から「柔道の海外展開」を視野に入れていました。
講道館が海外に対し、初めてオフィシャルの「師範」を派遣したのは1903(明治36)年。「講道館四天王」のひとり、山下義韶六段(段位は当時)をアメリカに派遣したことに始まります。
その後は富田常次郎、前田光世、佐竹信四郎…と続くわけですが、講道館公式史では「講道館の派遣者は前田光世がそうだったように、海外でツワモノを倒し続けたから普及した!」というのは、100%のウソではないですが、話を盛り過ぎです。
これは記録がしっかり残っているので明らかですが、講道館からの派遣師範は、勝ったり負けたり引き分けたりを繰り返しており、特に2人目の富田常次郎は、アメリカ大統領の御前でレスリング選手に手も足も出ず惨敗しており、決して「講道館柔道は、派遣師範が無敵だったから普及した」わけではありません。
さらに言えば、「講道館が公式に人を派遣する」のは、渡航先の国にしっかりしたパトロンがついている場合のみ(アメリカの場合は、大統領閣下のヒキであったことはあまりに有名)であり、そうでない荒野に人を派遣した事例はほとんどありません。
講道館が海外拠点を広げた戦略は以下の2パターン、
①講道館より先に外国に乗り込んで活躍し、一定の成功を収めていた柔術家を吸収合併
②移民などで海外渡航した、ある程度柔道の腕に覚えのある日本人が一定の成功を収めたところで吸収合併
に拠るところが非常に大きく、前者の典型的な事例では、講道館の海外展開に先駆ける3年前にイギリスに乗り込み、ジャケッティッド・マッチで無敵を誇っていた天真揚神流柔術の「スモール・タニ」こと谷幸雄(谷虎雄とも)や上西貞一、不遷流柔術の「タロー・ミヤケ」こと三宅多留次などの「イギリス柔術グループ」が、講道館に吸収合併されたことが挙げられます。
ちょっと話が脱線しましたが、講道館がアムステルダム五輪のレスリング種目制覇を目指していたその当時は、海外展開の開始から既に20年以上が経過。吸収合併事業の成功もあって海外における拠点もそれなりに充実していたことから、「実力ある若手の高段者(だいたい5~6段)は海外に講師として派遣」という流れができていました。
ちなみにその「実力ある若手高段者」は原則大卒、且つ、講道館の御用組織といっても過言ではない学連(この当時であれば東京高師、早大、明大、東京商船大など)所属大学出身の柔道家でなければならないことは、言うまでもありません。
講道館は内藤選手の成功例を踏まえ、代表選手候補として、まずは「海外に講師」、次いで「小兵、業師」という方針を打ち出します。
そのめがねにかなったのは、アメリカ滞在中の新免伊助六段(1889~1967、のち「純武(すみたけ)」と改名)。
新免六段は福岡県出身、明大卒。身長160センチそこそこ、体重60キロ付近の小柄な体格ながら、多彩且つ鋭い投技には定評があり、特に巴投げからの押さえ込みの流麗なることは「芸術」とまで評されていました。
新免六段は先にお話しした「講道館基準」により大正15(1926)年にアメリカへ派遣。昭和2年の秋、講道館からの命を受けてドイツへ渡航します。
英語の原書が楽々読めるほどのインテリだった治五郎先生率いる講道館は、早い段階から「柔道の海外展開」を視野に入れていました。
講道館が海外に対し、初めてオフィシャルの「師範」を派遣したのは1903(明治36)年。「講道館四天王」のひとり、山下義韶六段(段位は当時)をアメリカに派遣したことに始まります。
その後は富田常次郎、前田光世、佐竹信四郎…と続くわけですが、講道館公式史では「講道館の派遣者は前田光世がそうだったように、海外でツワモノを倒し続けたから普及した!」というのは、100%のウソではないですが、話を盛り過ぎです。
これは記録がしっかり残っているので明らかですが、講道館からの派遣師範は、勝ったり負けたり引き分けたりを繰り返しており、特に2人目の富田常次郎は、アメリカ大統領の御前でレスリング選手に手も足も出ず惨敗しており、決して「講道館柔道は、派遣師範が無敵だったから普及した」わけではありません。
さらに言えば、「講道館が公式に人を派遣する」のは、渡航先の国にしっかりしたパトロンがついている場合のみ(アメリカの場合は、大統領閣下のヒキであったことはあまりに有名)であり、そうでない荒野に人を派遣した事例はほとんどありません。
講道館が海外拠点を広げた戦略は以下の2パターン、
①講道館より先に外国に乗り込んで活躍し、一定の成功を収めていた柔術家を吸収合併
②移民などで海外渡航した、ある程度柔道の腕に覚えのある日本人が一定の成功を収めたところで吸収合併
に拠るところが非常に大きく、前者の典型的な事例では、講道館の海外展開に先駆ける3年前にイギリスに乗り込み、ジャケッティッド・マッチで無敵を誇っていた天真揚神流柔術の「スモール・タニ」こと谷幸雄(谷虎雄とも)や上西貞一、不遷流柔術の「タロー・ミヤケ」こと三宅多留次などの「イギリス柔術グループ」が、講道館に吸収合併されたことが挙げられます。
ちょっと話が脱線しましたが、講道館がアムステルダム五輪のレスリング種目制覇を目指していたその当時は、海外展開の開始から既に20年以上が経過。吸収合併事業の成功もあって海外における拠点もそれなりに充実していたことから、「実力ある若手の高段者(だいたい5~6段)は海外に講師として派遣」という流れができていました。
ちなみにその「実力ある若手高段者」は原則大卒、且つ、講道館の御用組織といっても過言ではない学連(この当時であれば東京高師、早大、明大、東京商船大など)所属大学出身の柔道家でなければならないことは、言うまでもありません。
講道館は内藤選手の成功例を踏まえ、代表選手候補として、まずは「海外に講師」、次いで「小兵、業師」という方針を打ち出します。
そのめがねにかなったのは、アメリカ滞在中の新免伊助六段(1889~1967、のち「純武(すみたけ)」と改名)。
新免六段は福岡県出身、明大卒。身長160センチそこそこ、体重60キロ付近の小柄な体格ながら、多彩且つ鋭い投技には定評があり、特に巴投げからの押さえ込みの流麗なることは「芸術」とまで評されていました。
新免六段は先にお話しした「講道館基準」により大正15(1926)年にアメリカへ派遣。昭和2年の秋、講道館からの命を受けてドイツへ渡航します。
その目的につき、ウィキペディア先生には「柔道普及のためのヨーロッパ巡遊」とありますが、その「命」のうちのひとつが「オリンピックレスリングで優勝するため、レスリングの練習をしろ」というものです。
これを遡る数年前、講道館は内藤選手を通じて「レスリング」を研究しようというポーズを取ってはいましたが…それは具体性のない、実にいい加減なものでした。
これを遡る数年前、講道館は内藤選手を通じて「レスリング」を研究しようというポーズを取ってはいましたが…それは具体性のない、実にいい加減なものでした。
講道館の公式資料において、オリンピック・レスリングについて記した最も古い資料は大正13年11月発行の機関誌「作興」ですが、内藤選手が銅メダルを獲得したことを紹介しつつ、「レスリングは、体重別に仕合ふのだから、日本人には有利である。それに柔道の妙手と、腰以下の強靭さと、日本人特有の敏捷さと勇悍さとを以てすれば、今後此の種の国際競技に勝利の栄冠をとることは、必ずしも難事ではないと思ふ。」などと、能天気な言葉で締めています。
その次号(大正13年12月発行)の「作興」では、内藤選手本人が寄稿。
このなかで内藤選手は、レスリングは略裸体の競技であるため、体力的に非常にハードであることや、その競技を勝ち抜くため、選手は猛烈なフィジカルトレに打ち込んでいることなどが詳しく紹介されており、さらには「柔道は攻撃防御の『アート』」「レスリングはごく些細な『サイエンス』の差異で勝負が決まる」と、柔道とレスリングはまるで違う競技であることを紹介しています。
またこの時内藤選手は、講道館でレスリングの講習会を行って「柔道とレスリングは別物」ということを呼び掛けていましたが…講道館の柔道家はバカ揃いであり、内藤選手の真摯な呼びかけに全く耳を貸なかったばかりか、五段・六段クラスが柔道ルールで内藤選手をボカスカ投げ飛ばして悦に入り、「なんだ、こんな弱いヤツがメダルを取れるのなら、五段クラスが出場すれば金メダル間違いなしだ」などと、見当違いのイキリを見せる始末。
愚かな柔道家たちが唯一耳を貸したのは、内藤選手が上記記事に於いて記載した「日本人にはグレコローマンより、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(=これは今日における「フリースタイル」のことで、イギリスの伝統的レスリングのCACCとは違うものなので注意)が向いている」ということのみでした。
それに何より、マットに少しでも肩を付くと瞬時に「負け」判定をされてしまうレスリング競技の代表に、背面をおもいっきり地面に付けないと成立しない「巴投げ」の名人を選ぶというあたり、講道館がいかにレスリングというものをナメくさっていたかが、はっきりと見て取れます。
話を新免六段の動静に戻します。
ドイツに渡航した新免六段は、柔道の普及活動の傍ら、レスリングの練習を行うこととなりました。
当時の様子については「作興」7巻2号(=昭和3年2月号)には、新免六段の自己レポートが掲載されているため、割と詳細に伺い知ることができるのですが…まず目につくのは、レスリングの練習量の少なさです。
「一週三回修行致し、其他の日は、レスリング無之候致、水泳場に通い居り候」
これは、一般人がちょっとやる気を出した時くらいのトレーニング量であり、とてもオリンピックレスラーの練習頻度とは言えません。今どきはジュニアレスリングでも、この倍は練習しています。
また新免六段はレポートに「柔道を見せてくれ、教えてくれと頼まれて、ほうぼうに教えに行っていて忙しい」みたいなことや、「ドイツのボクサーに絡まれたので、得意の柔道の手…足による相手膝への当身、相手の膝へのボディアタック、タックルからの金玉掴みといった技で翻弄した」という、実にしょうもないことを自慢していますが、そんなことをして遊んでいる間に、新免六段は「同じウェイトの選手が、同じルールで、しかも国際大会で戦う」ことの重大さや大変さを、完全に失念していたのです。
さらにいえば、新免六段はたった数か月の間にドイツ・イギリス・パリと短期間で練習拠点をコロコロ変え、腰を据えての練習をまったくしていません。この点は柔道を完全に封印し、アメリカだけでみっちり鍛えた内藤選手とは真反対であり、そのやる気を疑われても仕方がないレベルです。
それでも新免六段は「作興」において、「自分はヘーグ原頭において、必ず優勝する」みたいなことを書いているのですから、吞気なものです。
※「ヘーグ原頭」とは要するにアムステルダム五輪のこと。
当時の日本では、オランダの首都≒ハーグ基礎自治体という思い込みがあったので、こう書いたと思料。「原頭(げんとう)とは元々は「野原のほとり」、長じて「決戦の場」に変化した言語)
しかし見る目のある人はいるもので、新免六段の心のゆるみを見逃さなかった慧眼のメディアがいました。日本~欧州航路の情報誌「日英新誌」です。
同誌は13巻147号(昭和3年4月発行)に「柔道家西洋相撲練習」というベタ記事を掲載したのですが、新免六段の気のゆるみを、見事に看破しています。
「柔道家が柔道で西洋相撲に対抗しようといふのではなく、急にレッスリングの稽古してその競技に加はらうというふのである。その実験を試みようといふのが目下巴里(パリ)で西洋相撲を熱心に練習中である柔道大家新免伊助氏(五段)である。
専門家の意見によると柔道の確かな素養のある者には当地のレッスリング位は俄稽古でその堂奥に達すること不可能でないといふ。そこで新免氏は四月初め来英後相撲の練習を続け、七月末アントワープ(原文ママ)で開催のオリンピックの檜舞台に出て西洋人競技者をアッといはせようとの計画である由、これは記者が武道会で聞いた噂である。」
とくに「専門家」が「俄稽古で堂奥に達することが不可能でない」と言った点は…レスリングに詳しい谷幸雄や三宅多留次、あるいは小泉軍治といった面々がそんなことを言うはずがないですから、おそらく講道館直系の関係者であることは間違いないと思いますが…日英新誌の記者が「こいつら、レスリングをナメてる」と感じたのは間違いなく、「俄稽古」や「急にレッスリングの稽古をして競技に加はらうといふのである」という文言に、その冷ややかな目が感じ取れます。
そして迎えたアムステルダム五輪。7月30日、フリースタイル・ライト級に出場した新免六段は、スイスのモーレ選手相手にあっさり判定負け。「アッといはせようとの計画」は、講道館の方が「アっといは」される、当然といえば当然の結果となったのです。
まあ、ろくな練習もせずにオリンピックに出てきて、オリンピックレスラーを相手に判定まで持ち込んだ新免六段は、ある意味スゴいといえますが(;^ω^)。褒めることは全くできませんね。
なお新免六段はオリンピックの翌年、人目を逃れるように早々に帰国。以後、レスリングと関わることは一切なく、「柔道の大家」として生き続けたのでした。
これで懲りてレスリングから手を引けばよかったのに、この翌年、真の「日本レスリングの父」が登場したことで、講道館はレスリングを捨て切ることができず、さらなる迷走を重ねます。
話を新免六段の動静に戻します。
ドイツに渡航した新免六段は、柔道の普及活動の傍ら、レスリングの練習を行うこととなりました。
当時の様子については「作興」7巻2号(=昭和3年2月号)には、新免六段の自己レポートが掲載されているため、割と詳細に伺い知ることができるのですが…まず目につくのは、レスリングの練習量の少なさです。
「一週三回修行致し、其他の日は、レスリング無之候致、水泳場に通い居り候」
これは、一般人がちょっとやる気を出した時くらいのトレーニング量であり、とてもオリンピックレスラーの練習頻度とは言えません。今どきはジュニアレスリングでも、この倍は練習しています。
また新免六段はレポートに「柔道を見せてくれ、教えてくれと頼まれて、ほうぼうに教えに行っていて忙しい」みたいなことや、「ドイツのボクサーに絡まれたので、得意の柔道の手…足による相手膝への当身、相手の膝へのボディアタック、タックルからの金玉掴みといった技で翻弄した」という、実にしょうもないことを自慢していますが、そんなことをして遊んでいる間に、新免六段は「同じウェイトの選手が、同じルールで、しかも国際大会で戦う」ことの重大さや大変さを、完全に失念していたのです。
さらにいえば、新免六段はたった数か月の間にドイツ・イギリス・パリと短期間で練習拠点をコロコロ変え、腰を据えての練習をまったくしていません。この点は柔道を完全に封印し、アメリカだけでみっちり鍛えた内藤選手とは真反対であり、そのやる気を疑われても仕方がないレベルです。
それでも新免六段は「作興」において、「自分はヘーグ原頭において、必ず優勝する」みたいなことを書いているのですから、吞気なものです。
※「ヘーグ原頭」とは要するにアムステルダム五輪のこと。
当時の日本では、オランダの首都≒ハーグ基礎自治体という思い込みがあったので、こう書いたと思料。「原頭(げんとう)とは元々は「野原のほとり」、長じて「決戦の場」に変化した言語)
しかし見る目のある人はいるもので、新免六段の心のゆるみを見逃さなかった慧眼のメディアがいました。日本~欧州航路の情報誌「日英新誌」です。
同誌は13巻147号(昭和3年4月発行)に「柔道家西洋相撲練習」というベタ記事を掲載したのですが、新免六段の気のゆるみを、見事に看破しています。
「柔道家が柔道で西洋相撲に対抗しようといふのではなく、急にレッスリングの稽古してその競技に加はらうというふのである。その実験を試みようといふのが目下巴里(パリ)で西洋相撲を熱心に練習中である柔道大家新免伊助氏(五段)である。
専門家の意見によると柔道の確かな素養のある者には当地のレッスリング位は俄稽古でその堂奥に達すること不可能でないといふ。そこで新免氏は四月初め来英後相撲の練習を続け、七月末アントワープ(原文ママ)で開催のオリンピックの檜舞台に出て西洋人競技者をアッといはせようとの計画である由、これは記者が武道会で聞いた噂である。」
とくに「専門家」が「俄稽古で堂奥に達することが不可能でない」と言った点は…レスリングに詳しい谷幸雄や三宅多留次、あるいは小泉軍治といった面々がそんなことを言うはずがないですから、おそらく講道館直系の関係者であることは間違いないと思いますが…日英新誌の記者が「こいつら、レスリングをナメてる」と感じたのは間違いなく、「俄稽古」や「急にレッスリングの稽古をして競技に加はらうといふのである」という文言に、その冷ややかな目が感じ取れます。
そして迎えたアムステルダム五輪。7月30日、フリースタイル・ライト級に出場した新免六段は、スイスのモーレ選手相手にあっさり判定負け。「アッといはせようとの計画」は、講道館の方が「アっといは」される、当然といえば当然の結果となったのです。
まあ、ろくな練習もせずにオリンピックに出てきて、オリンピックレスラーを相手に判定まで持ち込んだ新免六段は、ある意味スゴいといえますが(;^ω^)。褒めることは全くできませんね。
なお新免六段はオリンピックの翌年、人目を逃れるように早々に帰国。以後、レスリングと関わることは一切なく、「柔道の大家」として生き続けたのでした。
これで懲りてレスリングから手を引けばよかったのに、この翌年、真の「日本レスリングの父」が登場したことで、講道館はレスリングを捨て切ることができず、さらなる迷走を重ねます。