集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

続・「ゆっくりしてってね!」は実戦を制する? 人体の不思議編

2021-03-24 14:07:38 | 格闘技のお話
以前、「『ゆっくりしてってね!』は実戦を制する?」として、実戦においてゆっくり動くことの意味と、ゆっくり動く鍛錬の意義について少しくお話しさせていただきました。
 今回の「ゆっくり」では、「ゆっくり動くこと」の意義を、「人体を『正確に動かす』ことを会得するための、かなり効果の高い手法であるため」という仮説を立て、これを傍証する方式でお送りしたいと思います。

 武道・格闘技のみならず、肉体を動かすことよろずに言えることですが、身体のコントロールには、以下に掲げる3つの要素があります。
① 力の調整
  自らの持つパワーを、どこでどのくらい使えばよいかを調整すること。
② 空間の調整
  身体のどの部分の筋肉を使えばよいかを調整すること。
③ 時間の調整
  どのタイミングでどの技を発揮すればよいかを調整すること。

 プロ野球の投手は140~150キロ台のスピードボールを投じますが、スピードのみならず、コントロールも実に精妙です。
 高校・大学野球レベルでも140台キロの球を投げる投手がいるにはいますが、真っすぐを投げてもストライクがまともに入らないのがゴロゴロいます。
 プロ投手と高校・大学投手の何が違うのか?これ実は、①~③を用いることで、すべて理解が可能です。
 ①に当てはめますと、プロの投手は高出力のパワーを、高次元でコントロールできているが、高校・大学の投手はパワーこそ高出力であっても、それをコントロールしきれていない、と表現できます。
 ②に当てはめますと、プロの投手は身体の自由度が高く、体をムチのようにしならせて投げることが出来る…言い換えれば、投球に必要な筋肉だけを使用し、パワーロスが少ない投げ方をしているのに対し、高校・大学の投手は、投球動作に不要な余計な筋肉をいくつも使っており、結果、パワーを無駄に出力しているため、身体の自由度がプロと比べて低い、と表現できます。
 ③に当てはめて考えますと、プロは投球のテンポや球のリリースポイントといった、時間の調整を自家薬籠中のモノとしており、リズムよく投球ができているのに対し、高校・大学の投手はリリースポイントが一定でなかったり、ちょっとしたことで投球リズムが崩れることが多く、時間の調整力がプロと比べて低い、と表現できます。

 で、実は上記①~③の調整力を高いレベルで身に着けるためには何をやればいいのか?????
 …方法論としましては…「質の高い反復練習をする」以外、何も見つかりませんでした(;^ω^)。
 「テメー!底の浅い調査でブログ書きやがって!何かのまとめサイトかコノヤロー!」という批判もあるかとは思いますが、まあ、その手の批判は以下の文章を読んでからでも遅くないと思いますので、もうすこしお付き合いください(;^ω^)。

 まず、どんな天才であっても、①~③の調整能力をよりハイレベルたらしめるには「反復練習を行う」ということから逃れることはできません。これはもう、法則性のある事実であり、議論の余地はありません。
 しかし、この反復練習という文言の意義については、大いに深堀りする必要があります。
 反復練習をしなくてはいけない、やらなきゃ上達しない具体的な理由として、以下のようなものが挙げられます。

・何事にもよらず、複雑・精密なものほど、大脳皮質への定着度が悪くなるため。
・脳は「何かが起きたあと、1から対処方法を考える」という性質より、「すでに出来上がったパターンを引っ張り出し、パフォーマンスする」という性質のほうが強く、従って、練習でたくさんのパターンを蓄積する必要があるため
 特に、瞬発的な状況判断を求められるものほど、その傾向が強くなる。
(この「出来上がったパターンを引っ張り出す」という働きを、アフォーダンス・システムと呼ぶ…らしい。)
・前出の「アフォーダンス・システム」をより高いレベルのものとするためには、各種のトライ&エラーを繰り返す必要があるため。

 なるほど、反復練習をしないといけないことは、なんとなくわかりました。
 次に、この反復練習のを行うに際しての注意事項は…「技術の習得を目的とした練習の際には、過度のパワー出力を求めることをしてはいけない」ということ。本稿ではこれを特に、大きく掲げたいと思います。

 ここまで読んで、もしかすると「ナニ~?技術というのは、キツく、つらい練習を何万回と重ねないとダメなんだ!ヌルいことを言うな!」という人もいるかもしれません。
 それはそれで、「根性をつける」という点にだけスポットを当てて考えると正しいことなのかもしれませんが、「技術を身につける」という話に及んだ場合、そういった認識は大間違いと断じていいと思います。

 筋肉は、運動強度が30%1RM(最大筋力の30パーセントの出力)にさしかかると、筋内圧(筋肉内における圧力)が上昇し始めます。これによって筋肉内部の血管が圧迫されて血流が滞りだします。
 そして、運動強度が80%1RMを超えると、筋内圧はほぼMAXとなり、血流は完全に止まります。

 技術を習得するためには、肉体のみならず、脳もしっかり活動していなければなりません。
 考える、行う、失敗する、改善点を見出す、また行う、失敗する、また改善する…という過程を繰り返すことこそが、先ほどもお話しした力・空間・時間の調整や、各種の適応能力を伸ばすことにつながってくるのです。
 しかし、ここにヘンな負荷をかけると、先ほども申し述べました通り、脳に行くべき血液が筋肉にバンバン流れるようになり、もはやモノを考えるどころの騒ぎではなくなります。
 そうなると、技術の大脳皮質への書き込みもできませんし、ただただ「ツラいことをこなす」だけの練習に堕してしまうこと請け合いです。

 繰り返しになりますが、これまで申し述べてきましたとおり、力・空間・時間の調整力を増す、各種の適応力を磨くといった「技術を磨く反復練習」にあっては、その練習が「こなすこと」が目的となるような強度のものであってはならず、脳にじゅうぶん血液が行きわたる程度の強度を持って吉としなければなりません。
 その点から勘案した場合、やはり「ゆっくり動くトレーニング」というのは、こと技術習得に主眼を置いた場合、とても理にかなっており、優れたものだと断言してよいでしょう。

 ただ「ゆっくり」を行う際に注意していただきたいのは、きちんとモノがわかった師匠に、きちんと機序を立てた合理的な方法をならったうえで「ゆっくり」を実施すること。
 聞きかじりや思い付きによるトレーニングは、「ゆっくり」のみならず、トレーニング全般を通じて絶対にやってはいけないことであり、この点、ゆめお間違いなきようよろしくお願いいたします。
 
【捨てるには惜しいネタの供養場所】
 以下は、今回の「ゆっくり」に盛り込みたかったネタですが、お話の構成上泣く泣く本編から外しました。
 でももったいないうえ、自称「ネットの武道評論家」や「神秘系」を黙らせるために非常に有益なネタでもあるので、本編とは関係のないところで書きつけておきます(;^ω^)。

・神秘系やネット評論家は「武術の表現に筋肉はいらない」みたいなことを吐(ぬ)かていますが、人体において「エンジン」に該当する箇所は筋肉しかありません。
 また、各種筋肉がパワーを発揮する際に「力点」となる箇所は、各筋肉の停止部分なのですが、この「力点」を意識する作業もかなり難しい。その感覚を身に付けるためには、やはりフィジカルのトレーニングしかありえないのです。
 以上のことから、武道・格闘技において筋肉は絶対にあったほうがよいですし、先に申し述べた「力の調整力」を早期かつ円滑に身に付けるためには、フィジカルのトレーニングは絶対にやるべきです(技術練習とは完全分離した状態で)。
 ですから、神秘系やネット評論家の言う「筋肉はいらない」という論調は、フィジカルと技術の上達機序をごちゃまぜに考えており、また、人体生理学の無知からくる傲慢に満ち溢れた虚言であるため、一顧だにする価値がないと断言いたします。

・これはネット評論家のほうに多いのですが、ネット評論家は、力のかかり方のベクトル図で理解しやすい技(突きなど)をあげつらい、「あの技の打ち方では、力積が掛かっていない」などと、知ったようなことを言っています。
 しかし、このネット評論家は、ベクトル云々以前に必要な、人体のつくりに関する基礎知識を知りません。
 まず人骨は、角材のような「直線一本」のつくりをしていません。そして、まっすぐでない骨にくっついている筋肉も、当然直線で描けるようなつくりをしていません。
 きちんとした武道・格闘技の技は、それらを踏まえて作られていますから、人体を「ただの棒」として見た場合、力積のかかっていない技と見えても、人体の機序から考えると「う~ん!」と唸るような技がたくさんあるのです。
 「物理で理解できる技は効く技、そうでないものは効かない技」というのは、頭でっかちゆえの傲慢であり、そういう主張をする人間は、自らを恥じるべきです。

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第13回)

2021-03-10 21:50:11 | 雑な歴史シリーズ
【その22 わが国における「武道試合」のかつてのありかた】
 さて、これまで長々と「武道が国内にそれなりの地位を占めるに至った過程」と「武道がスポーツ化していくムーブメント」についてお話ししてまいりました。
 とりあえず「日清戦争の結果、国内における武道の社会的地位が向上した」「日露戦争で、『武道≒柔道・撃剣』となった」「旧制高校が、武道のスポーツ化に拍車をかけた」という3点を抑えておけば、間違いないと思います。

 さて、今回のお話は「警察部内における、警官同士の試合」の勃興についてです。
 大正時代は、警察における武道の地位向上や、これまでお話ししてきた「武道のスポーツ化」のムーブメントを受け、警察部内で「スポーツ柔道」「スポーツ撃剣(剣道)」を鍛えた者同士が、お互いの腕を競うという文化が芽生え、それが定着するようになったエポックとなる年代です。
 わずか15年という短い期間ではありますが、警察武道にとっては、極めて重要となるこの時代に花開いた「警察官同士の試合」の動きについてみてみることとしましょう。

 明治時代における警察武道における「試合」のうち、記録に残っているのは「警視庁お抱え師範のA VS 同じお抱え師範のB」とか、「警視庁お抱え師範軍団 VS 滋賀県知事が送り込んできた関西師範軍団」(明治17年に実際あったそうです( ゚Д゚))といったものばかりであり、警察官同士が試合をしたという記録はほとんど残っておりません。
 理由は極めて単純で、当時は柔道・撃剣双方において、「試合」というものの持つ地位が極めて低かったこと、そのため、スポーツとしてのルール整備や、審判法が全く確立されていなかったからです。

 「ルールのあるスポーツ」全盛の現在では考えられないことですが、当時の武道の名人の皆様方、とくに武徳会側に軸足を置く先生方は、試合やその審判方法というものに対し
「武道、特に武徳会武道は武術的でなければならず、1人の優勝者だけを出して嬉しがるような、優勝試合などすべきでない」
「教士・範士の試合に審判をつけることは、試合者を冒濱することだ」
という認識を持っていました。
 大先生方は、武道の修行における「試合の勝ち負け」なんて、修行の過程においては全然重要なものではなく、むしろ勝ち負けをはっきりさせてしまうと、負けた方はプライドが傷ついて稽古をする気が失せ、勝った方は「自分は強い」と天狗になって稽古を怠るようになる、そんなことなら、最初っから試合なんかしない方がいいんだ、というスタンスであり、そのため、その審判方法は「技に対して適正にポイントをつける・反則行為を取り締まる・そのほかルールを厳正に履行する」という性質を一切持たず、「師匠が弟子の習熟度合いを見てやる」というスタイルでしかありませんでした。
 要するに明治30年代ころまでの武道界は「試合なんかしなくていい!未熟者が試合をするなんて、百年早い!」という発想が根本にあったため、ルールがどうの、試合運営方法がどうのといったことにイチャモンをつける人がいない、といった状態だったのです。

 しかし、明治も末年になりますと、前回・前々回で見ました通り、自らの腕の未熟をまったく顧みず、試合での勝敗だけを弄ぶことに主眼を置いた旧制高校柔道・撃剣部が「武道のスポーツ化」に火をつけ、全国に激増した柔道・撃剣愛好家がそれに乗っかって「試合による腕試し」を志向するようになります。
 警察武道も当然、そのムーブメントを逃れることはできませんでした。

【その23 警察武道、ついに「教養」の仲間入り!】
 「警察官同士の試合」のお話しをする前に、警察部内における武道の地位向上についてお話しします。
 明治時代の警察官は、勤務でヘトヘトになった体をひきずり、貴重なお休みの時間を使ってボカスカ殴られ、あるいはドッタンバッタン投げられ、ヘタすれば治療費も出ない…というブラックな環境での稽古でした。
 そんな毎日を送る警官が「試合を開催して強弱を決めよう」なんてことを考えるゆとりがあろうはずもありませんでした。
 しかし、「大正」はみなさまご存じ、デモクラシーの時代。そんな時代の流れに乗り、警察官の勤務形態や待遇は劇的な改善を見せ、また、武道というものの社会的地位の向上が「非番の日に強制されてやる」ものだった警察武術にも、劇的な変化をもたらします。
(お話が大正時代になりましたので、以後「武術」→「武道」、「柔術」→「柔道」、「撃剣」→「剣道」とします。「柔道」は明治時代には既に「柔道」でしたが、用語の整合性の観点からそうします(;'∀'))
 
 大正8年、訓令甲第57号「巡査勤務規程」改正により、警視庁警察官の勤務形態が、先に述べた24時間のブラック状態から
①日勤(0800~2000)・②夜勤(2000~翌0800)・③休養
という比較的時間に余裕がある勤務形態に改まり、②の任務に就く前に武道訓練が行われるようになりました。
 関東大震災を挟んで大正13年3月、訓令甲第6号により再度改正が行われ、
①日勤(0800~2100)・②夜勤(2000~翌0900)・③非番
となります。
 上記の勤務形態改正に伴い、武道訓練は以下のように変更となりました。
・夜勤の午前は教養、午後は演武(=武道訓練)に充てよ。
・演武は剣道と柔道各1時間ずつ。(どちらか片方も可)
・前日の日勤日の夜12時以降に飛び込みの仕事があった場合、翌日の教養または演武のいずれかを免除できる。
・そのほか勤務がある場合の免除もOK

 この改正に併せ、同年5月「巡査教養規程」(訓令甲第17号)が制定され、現在の警察で謂われる「術科教養制度」の第一歩が踏み出されます。
 この当時はまだ柔・剣道は「教養」の科目に入っておらず、「講学(法律や犯罪捜査など)」と「教練(礼式・操典など)」のみが「教養」科目であり、したがって勤務時間内に行うことができませんでした。
 しかし、大正13年の勤務形態改正、訓練時間の短縮、そして教養制度の発足は「演武」の地位向上や訓練環境の良化に大きく寄与し、翌14年には、さらなる進化を遂げます。
 
 大正14年3月、訓令甲第20号により勤務形態が再度変更。
①日勤(0800~1600)・②当番日(0800~翌0900)・③非番日
 これに付随して同年4月、教養規程が改正され、なんと「演武」が「講学」「教練」と並び、独立した教養科目に昇格!
 これは永く虐げられていた柔道・剣道を、天下晴れて勤務時間中に稽古できること、用具や道具が支弁ではなく官給になること、稽古中のケガがちゃんと公傷となり、治療代が出ることを意味しています。
 警視庁が明治12年に撃剣を採用してから実に苦節47年…ついに警察武道はひとつの「教養」としての地位を築くに至ったのです。

 大正の15年間に、警視庁部内において「演武」がこれほどの発展を遂げた理由は、先に述べた通り「大正デモクラシーによる個人の権利拡大」や「武道の社会的地位の向上」などの外的要因もありますが、だいぶ前にお話しした「警視庁奨武会」から進歩発展を遂げた「自警会」という互助団体の存在ぬきに語ることはできません。

【その24 「自警会」と対署試合の開始】
 「自警会」とは、大正8年7月に設置された、警視庁職員の職員互助団体で、【その11】で触れた「警視庁奨武会」に、講学や文化部門がくっついた団体です。
 自警会は「雑誌部」と「武道部」に分かれており、「雑誌部」は雑誌「自警」の発行、参考図書の出版、講演会の実施などを担当。「武道部」は「警視庁奨武会」がそのまま同部に配置換えし、演武場(=武道場)の保守管理・各種試合の開催を行っていました。
 驚くべきことに自警会は、警察部内の武道級位査定(現在でいうところの警察技能検定)まで実施しており、単なる警察官の互助団体の枠を超えた、公的な武道推進活動をも司どっていました。

 自警会が行った業績は数々あれど、特筆すべきは、「試合の開催」です。

 【その22】で取り上げました通り、自警会が発足したころ、柔道・剣道は非常な試合ブームとなっていました。
 このころ旧制高校柔道部は既に大会を開始して互いに優勝を争っており、その動きは柔道・剣道という種別、組織の老若大小を問わず各方面に飛び火。「試合における勝ち負け」は、全国の武道修行者の興味の中心となっていました。
 自警会も、警察官の中から湧き上がる「試合をやりたい、腕試しをしたい」という声に呼応する形で、「自警会武道部細則」の中にこうした一条を盛り込みます。
「第三条 本部(=警視庁本庁)ニ於テハ毎年春秋二回(剣道柔道各二回)武道大会ヲ、毎月二回(剣道柔道各一回)武道方面会ヲ開催スルモノトス、方面会ノ定日ハ毎月第一(剣道)、第二(柔道)火曜日トス」
 毎年春と秋に、各署の代表を一堂に集めた警視庁剣道・柔道大会を開催し、毎月第一火曜日には剣道、第二火曜日に柔道の方面会(=各方面限定の稽古会)を行うぞ!というわけです。
 試合参加にはきちんと資格が必要で、「演武資格ハ剣道五級以上、柔道五級以上トス(第5条)」とあり、誰彼見境なくエントリーできるものではありませんでした。このあたりは【その22】で見て頂いた「ヘタクソが試合するな!」という発想が色濃く反映されています。

 こうして開始された各署代表試合ですが、当初は試合に不慣れな審判や選手ばかりであり、緊張感のない、どうしようもない試合が続出していました。
 
 「自警」大正10年6月号に、とある幹部が代表試合を観戦した感想として、次のような苦言を呈しています。
「大正10年4月22、23日の両日、自警会主催の春季武道大会があった。出場の剣搏士(剣道・柔道選手の意)は緊張を欠き、気力も節度もなく、なかには試合前に飲酒しているものもあった。観る方も観る方で試合中にも選手の動作技術を嘲笑するような態度であった。」
 現在では信じられないことですが、各署代表試合は、顔なじみの選手が多かった(剣道五級・柔道5級以上の資格を保有する警察官が少なかったためと推察)関係から「年に2回のお祭り」みたいな雰囲気があったため、試合は狎れ合いに陥り、しかも出場選手に対し、もれなく酒肴が配布されていたことから、試合そっちのけでドンチャン騒ぎをするヤツが普通にいたのです。前出の苦言を書いた幹部は、さぞかしご立腹だったことでしょう(;^ω^)。
 上記の苦言を呈した幹部は、たるみにたるんだ各署代表試合の改善に関し、こう提案します。
「(代表試合を)署対抗または組合署対抗とし、出場選手は署または組合署の代表選手であるという責任と誇りを持たせる…(中略)…また優勝の栄誉を表彰するために優勝旗をつくり、これに授与すべきである。」
 これを書いた「幹部」なる者がいかなるエラい人だったのかは不明ですが、この提案はなんとその翌年、さっそく「対署試合」というかたちで実現します。
 大正11年、自警会は「武道対署試合準則」を出し、毎年夏に対署試合を行うこと、優勝は柔道・剣道ごとに決定し、優勝署には優勝旗・賞状・商品を授与すること、選手は柔剣道それぞれ25人戦とすることなどが定められます。
 
 第1回大会は大正11年7月27日に開始されましたが、なにしろ各チーム25人という驚くべき多人数団体戦ゆえ、当然のごとく1日だけでは決着がつかず、その後も延々と試合が行われ、優勝が決定したのがなんと約1か月後の8月23日というから驚きます。
 なお、自警会が準備した栄えある優勝旗(柔道・剣道1本ずつ)を獲得した第1回優勝署は…柔道の部は麹町警察署、剣道の部は神楽坂警察署、でございました。