集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

通常営業・武道・格闘技の真価はここにあり

2017-08-26 10:03:03 | 格闘技のお話
 「武道・格闘技は自己修練の道であり、これを用いてむやみに人を傷つけてはならない、ましてや、ケンカの道具に用いるなどもってのほか」
 …こういうお話はよく聞くと思います。
 しかし世の中には、武道・格闘技を「ステゴロ(凶器を用いない素手のケンカ)の道具」として認知し、使用する人が尽きないのもまた事実です。

 終戦から昭和30年代頃まで、東京の富裕な不良は、たいていボクシングジムで腕を磨いていたと聞きますし、また、空手界の大立者として語られる中村日出夫・拳道会総師は朝連(のちの朝鮮総連)、大山倍達・極真会館総裁は建青(のちの韓国民団)と、互いに敵対する組織の用心棒として活躍。鉄パイプを持った十数人を素手で撃退、あるいはドスを持った敵方のヤクザ数名を空手で再起不能にするなど、恐るべき空手の腕を発揮したと伝え聞きます。
 上記の例からは場所や時代がぐっと異なりますが、シナ最大のピカレスク小説「水滸伝」に登場する108人の英雄豪傑(=言い方を変えればヤクザ)は、その多くが棒、槍、弓などいずれも武術の達人ですね。
 水滸伝の英雄のみならず、シナでは昔から、秘密結社の構成員は各種の拳法でつながっていることが非常に多い。一番認知度が高いのは「義和団の乱」で有名な義和団拳法でしょうか。そのほかにもジェット・リー主演の映画「ワンス・アポン・ア・チャイナ」で出てきた洪家拳も、そうしたピカレスク拳法のひとつです。
 まあ、日々暴力が隣り合わせにある人が、武道・格闘技を習う必要性に迫られるのは無理もないことではあると思いますが、こうした事例は「武道をケンカの道具に使うな!」と叫ぶ人にとっては、卒倒モノの事実でしょう(;'∀')。 

 とはいえ、武道・格闘技を「よくない方向」での用途に活用した人の話というのは、タテマエ論として「いけないこと」とは分かっていながら、何でこんなにワクワクし、興味を持って見てしまうのか…
 あくまでも私見ですが、その理由は…わたしたちが武道・格闘技に対し、「ルール無用の場所で力を発揮する」ことにこそその貫目があるということを、本能的に理解・認識しているからだと推察します。
 人が武道・格闘技に対して期待すること。それは「殺伐としたルール無用の場所で、適正な『威力』を発揮すること」。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、実際に武道や武術の技を相手に向かて遠慮会釈なく「発揮」する武術ピカレスクロマンに、大きな魅力を感じるのではないでしょうか。

 なお、武道・格闘技の実戦性について厳密にお話ししますと、立脚の軸足が原則、ルールのあるスポーツである格闘技の場合、こうした「実戦性」を求めるのは酷な部分があります。とはいえ、スポーツ格闘技も「実戦」のいち局面を切り取って成立したものである以上、そうしたことに無関心でいていい言い訳にはなりません。
 ましてやスポーツではない「武道」を名乗るものは特に「ルール無用の場所で威力を発揮するもの」でなくてはならないでしょう。そうでなくては「武道」を名乗る価値がありません(断言)。

 冒頭に掲げた「武道・格闘技を通じて健全な身体と精神が養われる」「崇高な精神が養われる」なんてことについては、誤解を恐れず言えば、修行の過程で得られるごく副次的なものでしかありません。ただ残念なことに、世の中にはこのタテマエ論を盾に、武道が本来常に視野に入れ、修行すべき「実戦」を考えること、教えること、鍛えることを怠り、結果として武道を冒とくしている指導者が山ほどいます。これは本当に、悲しむべきことです。

 武道・格闘技に何を求めるかは修練する方の自由ですが、その修行の指向性は常に、「戦う技術を学ぶこと」「戦いに必要な体力知力を涵養すること」そして「実戦に供する心を忘れないこと」であるべきです。
(なお本稿は、全ての武道・格闘技修行者に上記の見解を強制するものでは当然、ありません。試合の勝敗だけに価値観を見出す方は、試合用の練習だけしましょうね…(;´Д`))

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第30回 早実戦・魔物に魅入られた柳井!)

2017-08-17 12:06:53 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 大正15年8月14日。柳井対早実は大会2日目のこの日の第二試合。1回戦屈指の好カードとあって、甲子園には大観衆が詰めかけていました。
 柳井は今回で3期連続の出場とあって、この時期には、目の肥えた甲子園の中等野球ファンの中にも「柳井はキビキビした好きなチームや」と、柳井のプレー目当てに足を運ぶ人が見受けられるようになっていました。
 試合にさきがけ、その「柳井の野球」を作った立役者・鈴木監督のシートノックが始まりました。
 鈴木監督はフィールドに散った柳井ナインに対し、あるいは伸びのあるゴロを、あるいは絶妙なスピンのかかったゴロを、また外野にはラインぎりぎりのところへの大飛球と、観客が感嘆のため息を漏らす打球を縦横に放ちます。
 鈴木監督のノックのうまさについて、当時の関係者は口を揃えて「山陽球界一であった」「いや、全国でも屈指のレベルであった」と証言しており、特にキャッチャーフライの上げ方には誰もが感嘆のため息を漏らしたと言います。
 ノックの最後に特大のキャッチャーフライを打ち上げた鈴木監督。その大飛球をミットにスパン!と収めたのは…主将で正捕手の加島。加島はなんとか試合に間に合う程度までは指のケガも回復し、当日はスタメンで捕手に入ることができました。

 試合は、銀傘の影が長くグラウンドに落ち始めた午後3時、高松球審のコールで開始されました。スタメンは以下の通りです。
【先攻・柳井中学】
1番キャッチャー加島秋男・2番センター川本昇・3番ファースト久甫侃・4番サード杉田屋守・5番ピッチャー清水光長・6番レフト田中清人・7番セカンド鶴田英雄・8番ライト川近勝・9番ショート井上高明
【後攻・早稲田実業】
1番ショート岩瀬弥次郎・2番ライト牧口洋三・3番センター斎木正治・4番サード小林政綱・5番ピッチャー高橋外喜雄・6番キャッチャー加瀬喜一郎・7番レフト須藤駿三郎・8番ファースト小川定四郎・9番セカンド深田要吉
 両軍のスタメンをセンバツ時と比較しますと、柳井はセンターの阪本が川本に代わっただけでほぼ変更なしですが、早実はクリーンアップの3人以外は打順をゴッソリ入れ替え、この大事な一戦に臨んでおります。
 そのせいかどうか、両チームの先発は全く対照的な立ち上がりを見せます。
 早実エース高橋は初回を三者凡退に切って取り、快調なスタートを切ります。
 対する柳井エース清水は制球が甘く、3番斎木にヒットを許し、4番小林にはデッドボールを当て、いきなり二死1、2塁のピンチを招きます。けん制で斎木を刺して何とかピンチをしのぎますが、危うい立ち上がりとなります。
 「先取点を取った方が勝つ」と予想されたこの試合、早実は清水の不安定な制球を早期に見抜き、早いカウントから積極的に振っていく作戦に出ます。
 普段の柳井であれば、その程度の攻勢、堅い守りで切り抜けてしまうのですが…ここは甲子園。魔物がいました。
 甲子園の魔物は、柳井の守備の要・ショートを守る井上高明にとりつき、柳井を散々に振り回します。

 2回裏の早実の攻撃。この回先頭、5番高橋の打球はショート正面に転がる平凡なショートゴロ…でしたが、柳井ショート井上はなんとこのなんでもないゴロをトンネル!!!
 高橋は1塁に生き、6番加瀬のエンドランと、オッチャンのボーンヘッドで高橋は三塁まで進塁。ツーアウトながら早実は先取点奪取の好機を迎えます。
 このチャンスでバッターボックスに立つのは早実の8番小川。柳井エース清水のアウドロをひっかけた小川の打球は、ショート井上の前に転がるゆるいゴロ。井上、必死で前進して一塁に送球しますが間に合わず、小川は一塁に生きて内野安打。その間に高橋が生還、早実は早々に先制します。
 柳井はショート井上のからむエラーやアンラッキーな内野安打で先制され、早くも前途に暗雲が立ち込める展開となりましたが、「甲子園の魔物」はまだまだ井上を、その手から放してくれませんでした。

通常営業・動く元気は動くことで、使える気迫は武道で養う?

2017-08-07 20:46:15 | 格闘技のお話
 永年、武道・格闘技をやっている管理人・周防平民珍山でございますが、これまで「なぜそんな、痛くてキツくて、ゼニにもならないことを永年続けているんだ」という質問を、升で計って車に積んで売れるくらい受けてまいりました。
 中年になった今ではそんなこともなくなりましたが、若い頃には、心無いクソのような同僚職員から、あからさまに「武道や格闘技?何それ?社会人にもなって再開?バカじゃないの?」という悪意丸出しの質問も散々されたものです。まあ、当時は私も若かったので(;´・ω・)そうした悪意ある質問をした方には、サバキの実験台になって頂き、体で分かってもらいましたが…(-_-;)。
 ただ私がその質問に、武道未経験の素人さんが心底から「なるほど!」と納得するような答えを出せていなかった、ということもまた事実です。
 その時々で気の利いたことを言ったつもりではあるのですが、回答後に「…なんか違うよなあ…それにうまいこと言えてないし…」と罪悪感に捉われることもしばしばございました。
 そんな最近、とある筋トレの啓発本で、こんなフレーズを発見し、心に斧を打たれたような衝撃に襲われました。
「動く元気は、動くことによってしか得られない」
 人間の生活は体を動かすことが基本。体を動かすには、人体唯一のエンジンである筋肉を何らかの形で刺激し、鍛えることが必要。休養や気晴らしも当然重要なのですが、それはあくまでも生活の彩やツケタシであり、決してメインにはなりえない。体を鍛えることはすなわち、動く元気を獲得する唯一にして最短の道である。
 非常に腑に落ちる名言でした。
 
 この論法でいきますと、格闘技や武道を修練し続ける理由は、こんな感じになるでしょうか。
 「良質の気迫は、相手を倒す実力と自信がないと生まれない。」
 ちなみに上記の言葉には源となるテキストがあります。岐阜県は士心館館長・林悦道先生の著書です。
「気迫を出すには、実際の打ち合いで相手に勝つ技術が必要です。それが相手に伝わるから、相手が引き下がるのです。」(「誰でも勝てる!実証済完全ケンカマニュアル」【林悦道著、東方出版】より抜粋)
 林先生の言葉は武道・格闘技を修練する原意をまさに端的に描き出しており、万人の納得するものです。
 良質の気迫は、実際に人間を害する実力なくして生まれないというのは、本当に真理だと思います。しかしそれは、チンピラやバカヤンキーの振るう暴力とは違う。日常生活とは全く違う空間の中で、きちんとした師匠に就き、きちんとした機序の中で「倒す」「殺す」ことを学ぶ。これこそがちゃんとした気迫を養成できる唯一の道といっても過言ではないでしょう。

 私は今の仕事を20年少々し、並行して武道・格闘技をしてきました。
 その間、実力行使の有無を問わず、様々な形の諍いやケンカらしきものを見てきましたが、その諍いの原因を見ますと、当の本人たちにとっての認識はさておき、第三者から見れば本当にちっぽけで、くだらないことばかりでした。また、そうしたレベルの低い諍いをする人間は、その人間性自体が本当にちっぽけでもありました。
 そう、「相手に伝わる気迫」がないヤツ同士がいがみ合うと、すぐ目に見える諍いに発展するのです。ダメ人間同士が伝わらない気迫でキャンキャン吠え、最後には無駄で無益な諍いを起こす。ろくなもんじゃありません。
 対して、一定以上のレベルで武道や格闘技を修めた人には、全てがそうだとは言いませんが、かなりの確率で「静かな気迫」がありました。それは間違いなく真に他を圧するものであり、ヘナチョコに付け入るスキを与えないものでした。

 武道・格闘技で練られる気迫は社会に有益なものであり、もっと多くの研究や論文を俟ちたいところではあるのですが…とりあえずワタクシのショボい主張は、このくらいにしておきたいと思います。