集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第31回)

2022-03-20 05:07:23 | 雑な歴史シリーズ
【その47 ついに導入!空手の「突き蹴り」】
 初代逮捕術に関する今一つの特徴は「空手の技」が正式導入されたこと。
 「なんだそんなの、当たり前じゃないか」と思うかもしれませんが、古い柔術の当身と空手の突きは、シロウト目には似ているようでも、まるで違う術理に基づく、まるっきり違うもの。
 これまで「警視庁柔道基本 捕手の形」など、警察の制圧術に使用されていた当身は全て柔術式であったところ、「初代」以後、逮捕術における打突は完全に空手テイストのものとなり、柔術式の当身は完全消滅しました。
 これは、今も昔も「柔道」と「剣道」だけで人脈が形成されているわが国警察組織にあって非常に珍しい出来事であり、わが国の武道史研究家は、どうしてこのことをちゃんと調べて取り上げないのか?とワタクシは常々不思議に思っていますが、それはさておき、初代逮捕術のどこにどう、空手が取り入れられていったのかを具体的に見ていきたいと思います。

 まずは【その46】のおさらいになりますが、基本技として「突き蹴り」が採用されます。
 突きは前突・前進順突・前進逆突の3種類、蹴りは横けり・前けり・膝けり・踏付の4種類。ちなみに、突きは現在「前突き」のみ現存、蹴りについては名称や内容がだいぶ改編されており、当時の名称・内容のまま現存しているのは「踏付」のみとなります。
 
 このうち、即座に空手由来と断定できるのは「突き」。
 初代逮捕術における「前突き」の、右で突く場合の要領はこうです(カッコ内以外は原文ママ)。
①(左手を握って前に掲げた後)右手はひぢを屈げ掌を上に向けてこぶしをつくり、体側に沿い充分後ろに引いて身構える
②(前に掲げた)左こぶしを外旋しつつ体側に強く引きつけ(相手を引きつける気持ち)ると共に右こぶしを内旋しつつ上体を崩すことなく腰を入れ体全体を利用して前方を突く
 
 実は上記のような、引手を取って捻りを加え、フィニッシュのときに手の甲が上に来る突き方は空手独特のものであり、また、拳の握り方も「四指を深くたたみこみ拇先の先(原文ママ)を人差指の第二指節骨にかけて強く握る。四指の第一節は手の甲と直角にすること」とあります、
 この握りで相手に突きを当てれば、拳の主要ヒットポイントは人差し指と中指の拳頭になります。古流柔術はこの部位を当てる当身を一切しませんので、これまた空手独特のものです。
 また、「順突」の解説にある「…体重を前足にかけ、前足を少し曲げ後ろ足はかがとを浮かさぬこと」のうち、「(前屈立ちで)かがとを浮かさぬ」という足の作りも同様に、空手独自のものです。

 古流柔術の当身は空手と違い、中指、又は人差指を曲げて突出させ、その関節部分を用いて打ち込む「一本拳」が主流で、しかもこれを、手甲を下に向けた状態、あるいは縦拳で打ち込みます。引手も取りません。
 また、当時の空手では既に確立されていた各種の「●●立ち」と呼ばれる、突きを有効に打つためのスタンスも、柔術にはありません。さらに言えば、柔術の当身は「上達方法」がほとんど整備されておらず、施術者個々人の才能や練習量に丸投げされていることがほとんどです。
 こうなった原因はもともと古流柔術の当身が、武器を使えない超接近戦での「ビックリ技」という位置づけの技であり、当身による一撃必倒を全く目指していなかったため。
 そのため柔術の当身は、窮屈な態勢からでも素早く技が出せるというメリットがあるいっぽう、射程距離が短いうえ「手打ち」になりやすく、また、スタンスやフォームを固めるための段階的トレーニング方法が何もないため、個々人の練度にムラが出やすいという欠点があります。
(「警視庁柔道基本 捕手の形」のプロトタイプとなった「講道館柔道 極の形」の当身をYoutubeなどでご覧いただきますと、最小公倍数的な柔術系の当身やそのデメリットが、とてもよくわかります)

 以下は完全に推察の域を出ませんが、警察が制圧術技として空手の突き蹴りを正式導入し、これまでの柔術的当身を排した理由はまず、警察が制圧を行う第一仮想敵が使用する格闘技が、ボクシング・空手といった当身主体の格闘技であり、それを制するためには、固め技のオマケでしかなく、威力やリーチに問題が多い柔術の打撃は「威力不足」と判断されたこと。
 いまひとつは、段階的な上達が難しい柔術の当身と違い、空手の突きは、正しいやり方さえ守れば、万人がそれなりの腕に達することができるものであった、ということでしょう。

 ちなみに「初代」に書かれた突きの目的や作用ですが、なかなかスゴいことが書かれています。
「当(あて。要するに突き・当身のこと)の目的は相手の局部を打突けり等して神経の末端又は中枢に衝動を与え脳しんとう、局部のまひ、けいれん及び呼吸、血行の不調もしくは骨折、脱臼等を起こさせその機能を一時阻害し、抵抗力を制圧するにある」
 …そんなにスゴい突きを打てる人なんて、おそらく各時代に数名程度しかいませんし、警察学校の逮捕術授業程度の練度で、そうした突きは絶対に会得できませんが(;^ω^)…まあこれは、終戦直後当時における「空手というものに対する一般人の認識」を裏付ける貴重な一次資料、と受け取っておけばいいのではないでしょうか。

 つぎに、蹴り技について。
 「前けり」「踏付」は特に解説不要なのですが、「横けり」と「ひざけり」は、こんにち同じ名前で行われている技とは全く趣を異にしますので、注意が必要です。
 「横けり」は、「右(左)ももを充分にあげ、かがとを尻の近くまでもってきて足先を反らし右(左)足先で相手のひざ又はももをけり」といったもので、現在形式の「横蹴り」というより、「ジャブ的な関節蹴り」のようになっています。
 「ひざけり」は、現在の我々が思い描く姿とはずいぶん違っており、
「右(左)ももを上げつつ右(左)足裏を左右膝の内側に挙げると同時に右(左)足外側で相手のひざ(すね)を踏み折るようにしてけり…」
現代の我々が思い描く膝蹴りとは膝を曲げて、曲げた膝関節の頭を相手の腹部などに当てるというものですが、これは膝関節を蹴っ飛ばす技、つまり現在でいえば「関節蹴りの仲間」ということになります。
 なお、「初代」の基本となる蹴り技には現代の「膝蹴り」、逮捕術の世界でいう「ひざ当」(現行逮捕術表記では「ひざ当て」)が存在しません。
 「ひざ当」が基本技から外された理由ですが、まずは他の蹴り技に較べて習得が容易であり、特段、練習するほどのことでもないと判断されたことが考えられます。 
 これを裏付けるように、基本技にないはずの「ひざ当」が、応用技においてチョロチョロ登場(「抱付浮腰」「後えり捕ひざ当」など)しており、「別にこんなもの、基本技として練習しなくてもいいじゃん」という雰囲気が見て取れます。
 現在の逮捕術は、「構え」「防御技」「打撃技「制圧技」「捜検連行施錠」と5つのカテゴリ―に分かれていますが、「初代」は「基本技」「応用技」の2つだけであり、しかもその定義が、基本技については「練習しないと習得できない技」、応用技については基本技にプラス「わざわざ基本技として練習しなくても、できるだろう」と踏んだ技をいくつか組み合わせ、複合させたものとなっており、この点がずいぶん、現代逮捕術と趣を異にします。
 それもこれも、「少しでも早く強くならないとヤバい」という当時の社会情勢がそうさせたのですが、それはさておき。
 そうした「練習しなくてもできるだろ」認定された技には、「ひざ当」のほか「裏拳」「ひぢ当」などがありますが…人に当てて効かせることのできる「裏拳」はさすがに、単体での反復練習が必要なんじゃないかと、空手経験者のワタクシは愚考しちゃたりします(;'∀')。

 ともあれ、警察の正式な制圧技能に「空手の突き蹴り」が正式導入されたことは、明治21(1888)年に「警視庁柔術之形」が導入されて以降、約40年にも亘ってすべてが柔術・柔道一色に塗りつぶされていた警察武道界における、ビッグすぎるイノベーションでした。
 繰り返しになりますが、巷間のご立派なる研究家どもは、なぜこのイノベーションをもっと大きく取り上げないのか、深掘りしないのかということを、ワタクシは常々不思議に思っています。

雑記・「西野カナ戦法」を取らないことについては、永久保証の弊ブログだから(;^_^A

2022-03-15 19:34:07 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 女性向けメンヘラソングの大家(←失礼(;^_^A)西野カナさんの作詞方法は、「非常に現代的」であると有名です。ワタクシは現代的ではないので、ごく最近まで知らなかったのですが(;^ω^)
 西野さんの作詞は本人の感性によるものではなく、多数の若い女性にアンケートを取りまくり、どのようなワードが若い女性の心に刺さるかということを徹底リサーチして作り上げるそうです。
 なるほど、だからどこかで聞いたことのあるようなワードと、メンタルがヘラっている世界観の歌ばかりだったのか…(←失礼)。
 本稿ではこれ以後、「アンケートやマーケティング結果をかき集め、その結果だけをもとに、メディア作品をヒネり出す」ことを「西野戦法」と呼びます。
 弊ブログの読者に、西野カナさんの曲を愛聴している方はたぶんいないと思いますが(;^ω^)、上記「西野戦法」という名称、そして本稿中における、「西野カナさんをディスってるのではないか?」という表現につきましては、周防平民珍山が西野カナさんをリスペクトしゃーげていることの裏返しでありゃーすので、悪しからずご了承してつかーさい(←怪しすぎる)。

 さて現在は、「これって、そうなんだよ」と説明されないと気付かないレベルで、多数の「西野戦法」を駆使作品が並んでいます。
 有名どころを挙げますと、数年前、「君の●臓を食べたい」とかいう作品が話題を呼んだことがありましたね。
 ワタクシはこのタイトルを見た当初、わりとマジで「焼肉屋がウマいとか、焼き鳥がウマいとかいう話かな?」と思ったんですが(;^ω^)、ネットであらすじだけ追っかけますと「ヒロインが出てきて、なんやかんやあって死ぬヤツ」という、縄文時代(;^_^Aからずっと使われているテンプレの作品であり、何の目新しさも感じませんでした。
 しかしなぜか作品は大ヒットし、映画化までされたのは皆さま周知のとおりです。焼肉屋の話なのに(←誤解がまだ解けていない)。
 同作が「西野戦法」を駆使して組み上げられたとワタクシが気付いたのは、一連のブームが完全に過ぎ去ったあとだったのですが、それを知ったワタクシは初めて「君のホルモンを食べたい」に抱いていた様々な違和感や疑問が一気に「腑に落ちた」次第です。ホルモンだけに(;^_^A。
 実は「君のホルモンを食べたい」が出てくるちょっと前あたりから、「エゴサーチをやりまわした作品は、大きく当たらないけど外れない」との仮説がかなりの精度で実証されており(ここ10年くらい、レベルが低すぎるマンガ原作映画が濫造されている理由がそう)、「君のホルモンを食べたい」はそうした無機質作品群の象徴的存在だったわけですな。

 「君のホルモンを食べたい」的な作品を作るのは、AI全盛の昨今、実は簡単にできたりします。
 現在はキーワードをいくつか入力するだけで「●●先生のような小説を書いてくれる」「●●新聞のような社説を書いてくれる」といった便利ソフトが実際に存在します。
 AIはの本質は単なる「電子計算機」ですから、エゴサーチの結果を増やせば増やすほど、出力結果に多様性が出るうえ、それをきれいにまとめる「計算」までしてくれるわけです。
 その結果「メディア作品を出す側のアホ」は、アンケートの集積とそれをAI様に入力する作業に奔走し、「見る側のアホ」は、アンケート結果だけをもとに無機質に作られた作品を見て、何も考えずに喜んでいるという形態が常態化しました。阿波踊りのお囃子「踊るアホウに見るアホウ」とは、まさにこのことですな(;'∀')。

 こうした「西野戦法」によって生み出された作品は、「売らんかな」という目的だけを達成する場合、一定の効果を発揮することは間違いないでしょう。
 しかしそれが千古に語り継がれる名作たり得るか?あるいは一定以上の審美眼を持つ人間の魂を揺さぶれるか?と考えた場合、答えは間違いなく「NO!」です。
 げんに、「本を売るならブック●フ~」の書棚を見てください。「アンケート結果が書籍に形を変えただけ」の、「君のホルモンを食べたい」的な本が、ゴッソリ捨て値で売られていますから(;^ω^)。

 知の巨人・外山滋比古先生のスーパーロングセラー「思考の整理学」(現在はちくま文庫にて発行中)は、発想を形にする取り組み方法として「ビールのように醗酵させる」「カクテルのように混ぜ合わせる」「わすれる」「捨てる」「とにかく書いてみる」「しゃべる」など、ユニークかつ非常に説得力のある論が展開され、刊行から30数年を経た現在でも読み継がれる名著として知られます。
 このうち「醗酵」と銘打たれた項目に、こんなことが書かれており、実はこの部分はそっくりそのまま、「西野戦法」のアキレス腱を指摘しています。
「人間は、正本(せいほん)に対して、つねに異本をつくろうとする。Aのものを読んで、理解したとする。その結果は決してAではなくA´、つまり異本になっている。文学がおもしろいのはこの異本を許容しているからである。六法全書を読んでも、小説のようにおもしろくないのは、法律では異本をほんのすこししか許さないためだ。」

 上の論でいいますと、耳触りの良い単語やセンテンス、昔から使い古された筋書でガッチガチに縛り上げられた「西野戦法」作品の本質は、思考や発想の振れ幅が大きい文学作品などにおける「異本」ではなく、振れ幅が極端に小さい、法律の「異本」と同じ性質を持つと言えます。
 こう言うと、「いや、西野戦法作品だって立派な文芸だ!」という人も出てくるかもしれませんが、西野戦法作品は原則「アンケートで出てきたセンテンス以外は、絶対使っちゃダメ」なのですから、その点における融通の利かなさは「法律の異本と同質」と断じて、何の問題もないですよ。
 だから「西野戦法」の作品は深みがなく、リピーターがつかず、「1回読んだらもういい」というものしか作り得ないのです。

 このように、「西野戦法」作品を「マーケティングと売り上げがウッチャラスッチャラ」とかいう安易な視点ではなく、外山先生のいう「正本」「異本」視点から見てみますと、現在の出版不況はなんだか、ギャンブル狂いがいかがわしい「必勝法」にすがりつき、どんどん貧乏になっていく負のスパイラルを見ているように感じます。

 数十年・百年単位で読み継がれている名作は、「正本」をもとに、作者が様々なアプローチをかけて作られた「異本」であることがほとんどであり、そのアプローチの質が良ければ良いほど、大量であればあるほど、「異本」の価値が極限まで高まるわけです。
 しかしこれまで見てきました通り、西野戦法作品には「正本」に対する質量的アプローチが一切ありません。
 アンケート結果をAIくんに入力し、AIくんが電子計算した結果を、漫然と文字や映像にしているだけ。
 そんな西野戦法から生み出された「異本」が面白くない・深みがない・先がすぐ読めるというのは至極当然のことであり、ワタクシは今後も、西野戦法式の作品を目にする、あるいは耳にすることは一切ない、と断言いたします。

 弊ブログも外山先生のデンでいけば「異本」の一種になりますが、その振れ幅はご存じのとおり極端に大きく、その偏執・変態ぶりに関しては、広い広いブログ界隈においても、屈指のものと自負しております(断言)。
 この品質につきましては「♪これか~ら~もどうぞよろしくね~ (中略) 永久保証のわたしだ~か~ら~」(タイトルは全っ然思い出せないが、西野カナさんの歌より)という感じであり、永代供養…間違えた、永久保証致します。


雑記・「高齢化社会」は来ない(断言)

2022-03-07 06:19:56 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 新聞やテレビは毎日毎日飽きもせずガセ情報を垂れ流し、恬として恥じるところがありませんが、そんなヤツらの常套手段は、どこからともなく引っ張ってきた三流大学のコジキ教授や、どこの馬の骨ともわからん研究者を「●●にお詳しい専門家」に仕立て上げ、自説を代弁してもらうことです。
 近年の代表的コジキ代表選手としては、コロナの第1波~2波くらいにかけ、TBS系のニュースなどに頻繁に出てきては社会不安を煽りに煽り立てていた、岡田●恵とかいうババアがそうでしたね。
 弊ブログの読者にそういう方はいないと思いますが、中にはワタクシがこうした手合いに対し「コジキ」と呼ぶことに眉をひそめる方がおられるかもしれません。
 しかしコイツらは、自分の学者としての節度を大きく屈することによってカネを得ているのですから、コジキと呼んで何の差支えもなく、何でしたら、本業のコジキの方に失礼なくらいです。
 またこのババアは、コロナによって社会がどんどん疲弊するのに反比例して、着る物やメイクがどんどん派手になっていきました。
 その財源はすべてマスゴミから受けた汚らしいゼニであり、しかもそれをすぐさまファッションに費やすというあたり、もう、心が穢れているとしか言いようがありません。
 あるビジネス誌には、「オンナ(女の場合なら男)・ファッション・クルマ・ギャンブル」を話題にするヤツには近寄るな、とありました。理由は「どんな馬鹿でも話題に出来るから」。
 してみればこの岡田なる人物は、マスゴミに近づかれるべくして近づかれた、下劣な精神の持ち主と断定してもいいでしょう。それはさておき。

 この「自社説をどっかのコジキ教授に代弁させる」ことは、新聞やテレビ各社にとってはその説が問題視されたとき、「●●教授個人の見解だ」としてシラを切りとおすことが可能であり、場合によっては●●教授を切り捨てることで、そのまま自社説を「なかったこと」にできるという、一粒で二度おいしいシステムです
 この「ヤクザの親分と鉄砲玉」のようなシステムを最初に発案・運営したのは朝日新聞を以て嚆矢とする、と、週刊新潮の名物コラム「変見自在」に書かれてありましたが、いまやこの便利システムは、様々な報道機関で悪用されております。

 そんな「新聞・テレビが、カネで買収したバカ学者を使って騒ぎ立てるウソ説」のなかでも、ワタクシが最も「そんな未来は絶対に来ない」と予想しているのは「高齢化問題」です。「少子」のほうを否定できないのは、申し訳ないんですがm(__)m。
 これはいわゆる「二酸化炭素による地球温暖化」に匹敵する大嘘であり、絶対に信用してはいけません。

 永田宏という医療経済学者(←そんな商売があること自体、知りませんでした)は、こんなことを吐かしていました。
「医療の進歩により、昭和62年生まれの人は4人に1人が男で101歳、女で107歳まで寿命が延びる。生きる定年を迎えた後も、医療の進歩によってあと40~50年は働かなければならなくなる。」
 これを受け、さらにバカな三文マスゴミはこう騒ぎます。
「近未来には、定年を迎えた後、何十年間も働かないと生きていけなくなる!」

 この永田とかいうバカ学者はおそらく、これまでのわが国平均寿命統計の数字と、それを図面化したグラフだけを見て、小学生でも言えそうな未来予想をしたのでしょうが、ほんの少しでも「人体というものの本質」を顧みれば、そんな未来が訪れないことは、すぐにわかります。
 まず元来、人体とは40~50年くらいで一度限界を迎えるようにできており(終戦直後ころまで、日本人の平均寿命は55歳くらいであり、定年年齢が永くその辺りに定められていたのはそのため)、それを解消するためには一にも二にも、トレーニングや食事によって身体の基礎能力自体を維持・向上させなればダメなのです。
 いくら医療が進歩しても、治療を施す相手の身体がガタガタだったら、薬も手術何の役にも立ちません。治療を施す前に体が限界を迎えて死ぬか、薬や手術に体が堪えられずに死ぬかの二択ですよ(;^ω^)。

 ではなぜ、これまでわが国の平均寿命が伸び続けていたかと言いますと、男女問わず「大東亜戦争の経験者」たちがいたからです。
 これらの方々は、日本の生活が機械化される前に生まれたため、物心がつくと同時に「自分の体を動かさないと何も始まらない」生活がスタートします。
 メシを食べたりフロに入るには必ず薪を割り、水を汲み、クドに火を焚かなければいけませんし、ランプを使えばホヤの掃除をしなくちゃいけませんし、移動するなら自分の足で、一里や二里は平気で歩かなくちゃいけない。
 ろくな教育も受けさせてもらえず、小学校卒業と同時に社会に放り出され、粗衣粗食でコキ使われ、男の場合は大人になったら兵隊に取られて死地に放り出され、女であれば、男がいなくなった分だけより働かないといけない…という生活で鍛え上げられた人たちが、終戦後には、急激に栄養状態や生活状態が上がった生活ができるようになったわけですし、さらに言えば同年代の連中のなかでも、平均寿命を下落させるような意識の低いヤツ…たとえばケンカやバクチで命を落とすヤツ、あるいはメチルアルコールの呑み過ぎで死ぬヤツなんかは、終戦直後の混乱時期にみんな死んでしまっているのですから、そりゃー生き残った戦争経験世代の平均寿命が、バリバリ延びるわけです。

 翻って現在、団塊世代以後のいわゆる「戦争を知らない」人々は、ちょっとしたことでコロコロコロコロ死んでいます。
 理由は簡単で、戦中派が生活のために「やらざるを得ない」ものであった「運動」がなくなってしまったから。
 これは雰囲気や思い付きで言っているのではありません。ちゃんとエビデンスがあります。
 これを証明してくれるのは、沖縄県の平均寿命。
 一例を挙げますと、沖縄県は戦後永く「平均寿命日本一」を誇っていましたが、数年前にその座を滋賀県に明け渡して陥落、今では3位以下に後退しています。
 この最大の原因は、沖縄県では戦後、生活全般がわが国のどこよりも早くアメリカンナイズされたこと。
 アメリカンナイズされた生活とはこれすなわち、「極端な味付けをした、脂質糖質タップリ食料のバカ食い&車社会」。
 戦前までの沖縄県は内地以上に粗衣粗食の生活を強いられ、それに堪え得る強いDNAを持った人々が暮らしていたわけですが、そうした人々が戦後、脂肪&砂糖100%のアメリカンフード(;^ω^)を常食し、さらに沖縄の暑さを避けるため、車にガンガン乗る生活が常態化した結果…沖縄県では団塊以降の世代における肥満率や生活習慣病罹患率が増大し、それら戦後派世代の死亡率もうなぎ上り。その結果、全体の平均寿命も下落したというわけです。
 沖縄の地方新聞に毎日山ほど掲載されているお悔み欄(本島の新聞ともなると、毎日中央の2面ブチヌキで掲載されている( ゚Д゚))を見れば、オジーやオバーを残し、60代や70代になりたての息子・娘がコロコロ死んでいるのが実感としてわかりますし、健康診断の受診や運動を促すテレビCMがこれでもか!と垂れ流されている地域をワタクシ、沖縄県以外に知りません。

 また、わが実家近辺に目を転じましても、ここ3~4年の間に出た死人は、90代を大きくオーバーして天寿を全うした戦中世代と、その息子・娘にあたる60代ばかりで、しかもその比率は3:7くらいであり、7割を占める「戦争を知らない世代」が死んだ状況を聞きますと、判で押したように「気候がちょっと悪い(暑いとか寒いとか)日に、少し根を詰めて作業をしていたら突然死んでしまった」というものばかり。
 余談ながらワタクシの母方祖母が60~70代の頃といえば、当時中学~高校生くらいだった孫どもを圧倒するパワーであり、毎日根を詰めて農作業をしていたのですが…やはり鍛え方が足りないと、人間は簡単に死んでしまうのです。ここに医療の進歩がどうこうという話は、介在する余地がありません。
 「戦争を知らない」第一世代である団塊からしてかくの如き状態なのですから、それ以降に生まれた人間は、おそらく加速度的に「人間としての根幹の強さ」が失われていることはもう、疑いようがなく、これ以上わが国の平均寿命が延びるとは、とても考えられません。ワタクシども「戦後最大の負け組世代」の寿命は当然、もっともっと下落するでしょう。

 ですんでワタクシは「医療が発達すれば寿命が延びる」などというのは、患者を薬漬けにすることで儲けている医者や薬屋、医療器具屋の世迷いごとあり、同時に、定年後の経済不安に付け込む悪徳金融関係者のアオリ文句でしかない、と結論付けており、今後もその手の話には一切乗らないし、賛同しません。
 ですんで、少子高齢化問題における「高齢化」の弊害…「多数の高齢者の年金を少数の若者が支える」という点については、今後わが国の平均寿命はどんどん落ちますし、もし落ちない場合は、有名なトマス・ロバート・マルサスの「人口論」にあるように、伝染病と飢饉によって老若問わず、大量の死人が出るから大丈夫ですよ(←ひどい言い方(;^ω^))!!!!

 最後の余談ですが、いわゆる「専門家による未来予想」というヤツの正答率はだいたい5割ちょいであり、これは素人が思い付きで予想したものとほぼ変わらないそうです(ちゃんとした研究結果があります)。
 このことだけでも、マスゴミの説なんて聞くに値しないものであり、そんな世迷いごとに踊らされることが、いかにバカげているかと言うことがわかります。
 
 とりあえずワタクシは「寿命を延ばす」ためではなく「悔いなく生きる」ため、トレーニングを継続します。