一つは物語(ものがたり)を生きている。
永遠という瞬間(じかん)のなかで、喜怒哀楽を経験し、その感情を味わいつくして、その経験というものが、実は人の心に根ざしたものであるということを知る。
だんだんと、自分の周囲にいる人の心の動きが手に取るようにわかってくる。それは、つまりは自分を知るということ。
もう一つの現実は、その物語から離れて、もう一人の自分に帰るということ。
物語の主人公ではなく、物語の読み手に、作り手になるということかもしれません。
そこではもう、悪夢にうなされ、子供のころに夢見た、何かに追われるというようなこともありません。
例えば、今、世間を騒がせている殺人事件にかかわり、逮捕された若者たちは、今何を思っているのでしょうか?
それこそ(自分がやったことにはまちがいないのですが)悪夢をみているようでしょうね。
そんな悪夢のひとつを、(ある経緯から)聞かせていただいたことがあります。
あるひとりの老婦人がいました。子供はいましたが、病院、老人施設を転々としていました。
ある病院に入ると、同室に古い知り合いがいたのです。
昔、同じ町内にいて、何十年ぶりかの出会いでした。
それなりの、昔話があったようです。
その同じ町内にいたという、もう一人の老人の話し。
それは、私が聞く限り、(これが)悪夢というのかというような話しでした。