そんなふうに定義できるかもしれませんね。
例えば、医療従事者が、消防士が、困っている人の、社会の役にたちたい。
一生のうちに、たった一人の人にでも、「本当にあなたには、助けていただきました。ありがとうございました。」と、お礼をいわれたい。
そんな、夢をいだいて、新しい生活をスタートする。
そんな人もあるかもしれませんね。
それは、まだ未熟な若者らしい理想だよ。現実はそんなに甘くないよ。
そうも言えるでしょう。
現実を知らない、苦労もないから、そんな理想を言っていられるのだ。
そんな理想も、一年、二年と年月がすぎ、現実に追い回されている中に、いつの間にか忘れ去られてしまうのも事実でしょう。
私は、本当にまだ若くて、何もかもが可能であると信じていたとき、新しい自分の人生を本当の意味でこころざしたとき。
そのとき、木の葉一枚、ひらひらと落ちてくるのを見て、そこに天のどんな意図があるのかと思いをはせました。
その感覚は、残念ながら、短い時間のことでしかありませんでしたが、その感覚は今でも記憶として残っています。
人間が生きていく現実というものには、二つあって、普通は物語(ものがたり)を生きている。
物語には喜怒哀楽があって、そこには人間の感情があって、その経験を楽しんでいる。
ただ、あまりにもそれにのめり込むと、それも苦痛になりますので、ほどほどにしなければなりません。
そこで、神はたまに、人間が夢から覚めるよう、揺り動かして、起こそうとすることがあります。
それが、もつ一つの現実です。
悪夢にうなされている子供を起こして、それが夢であることを知らせるのです。
そして、今も自分がそばにいて何も起こっていなかったこと。ずっと自分が側にいて、見守っていたことを告げます。
物語には中毒があるので、絶えず見守って、ときに夢から覚ましてあげることも必要なのでしょう。
また、人が新しいことをはじめるとき、まだ、物語にのめり込んでしまわないうちに、物語が悪夢で終わらないよう、人間の最初の心のなかに、本当に必要なその人の辿(たど)るべき経験のイメージを予知してくれている。
そのことが、初心(しょしん)ということの、本当の意味なのかもしれませんね…