そこで、神は
ある約束をします。
「予言された将来に、子供である人間たちに、神として拝(はい)をされるようにしてあげよう。」
と、約束します。
神として人間に、拝(おが)まれるということがなぜ、
神の頼みをききいれる条件となるのか、
そこには注釈が必要でしょう。
これは私の解釈です。
天理教の創造のはなしは、
神と人間が協同して、創造するというものです。
神が一方的に、有無をいわせず、ちからを発揮するのではなく、
神の使命をうけたたましいが中心となって、
神がちからをかして、創造するというものです。
なぜ、人間が神の創造に参画(さんかく)できるのかわかりませんが、
たましいの
存在としての人間であれば、
可能なのでしょう。
人間の親の役を果たしたたましいは、つくられた人間からすれば、神ともなるでしょう。
とはいっても、
元々の神からすれば、
(親の役目を、になったたましいは)人間の身体をもち、たましいをもつ人間であることには変わりはありません。
人間と同じように輪廻転生を繰返し、
また、そのつど、
人間として、さまざまな苦悩、
悲哀も繰り返す存在です。
そして、予言されていたそのとき、
この世界に生まれ、
創造のとき幼子だった子供たちと、たましいの再会はたすということなのでしょう。
私たちが、手を合わせるというのは、
どんなときでしょうか。
神仏にも、手を合わせますが、もし、
命の恩人のような人がいれば、私たちはその人に何かあったとき、できる限り、
どんなことでもするかもしれません。
手を合わせたくなる人というのは、
そんな人であるはずです。
人間に神として、拝をされるようなるということは、
私たち人間を創造してくれた親なのだから、
(同じたましいをもつ人間であっても)私たちのいのちを産み出してくれた、
恩人でもあるということなのです。
浄土真宗の開祖、
親鸞(しんらん)は、
師である法然上人にだまされて、地獄におちてもよいから、上人(じょうにん)を信じるといったそうです。
この言葉には、たましいの
絆(きずな)の凄(すご)みのようなものを感じます。
そのような、
そして、創造のときからつながっている、
たましい同士が
出会ったとき、
私たちは、それがほんとうの親であることを知り、
初めてほんとうの親に出会ったという、
たましいの震えるような経験をするのだと思います。
それは、親からしても同様でしょう。
「神として拝(はい)をされるようにしてあげよう。」
という言葉には、そんな意味があるのだと推察しています。
この創世神話については、また、べつの機会に書いてみたいと思っております。