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時の関守

予言 (6)

人間の親となるよう指名された存在は、その役目の大きさにしりごみします。
そこで、神は
ある約束をします。

「予言された将来に、子供である人間たちに、神として拝(はい)をされるようにしてあげよう。」
と、約束します。

神として人間に、拝(おが)まれるということがなぜ、
神の頼みをききいれる条件となるのか、
そこには注釈が必要でしょう。
これは私の解釈です。

天理教の創造のはなしは、
神と人間が協同して、創造するというものです。
神が一方的に、有無をいわせず、ちからを発揮するのではなく、
神の使命をうけたたましいが中心となって、
神がちからをかして、創造するというものです。
なぜ、人間が神の創造に参画(さんかく)できるのかわかりませんが、
たましいの
存在としての人間であれば、
可能なのでしょう。

人間の親の役を果たしたたましいは、つくられた人間からすれば、神ともなるでしょう。
とはいっても、
元々の神からすれば、
(親の役目を、になったたましいは)人間の身体をもち、たましいをもつ人間であることには変わりはありません。
人間と同じように輪廻転生を繰返し、
また、そのつど、
人間として、さまざまな苦悩、
悲哀も繰り返す存在です。

そして、予言されていたそのとき、
この世界に生まれ、
創造のとき幼子だった子供たちと、たましいの再会はたすということなのでしょう。

私たちが、手を合わせるというのは、
どんなときでしょうか。
神仏にも、手を合わせますが、もし、
命の恩人のような人がいれば、私たちはその人に何かあったとき、できる限り、
どんなことでもするかもしれません。
手を合わせたくなる人というのは、
そんな人であるはずです。

人間に神として、拝をされるようなるということは、
私たち人間を創造してくれた親なのだから、
(同じたましいをもつ人間であっても)私たちのいのちを産み出してくれた、
恩人でもあるということなのです。

浄土真宗の開祖、
親鸞(しんらん)は、
師である法然上人にだまされて、地獄におちてもよいから、上人(じょうにん)を信じるといったそうです。
この言葉には、たましいの
絆(きずな)の凄(すご)みのようなものを感じます。

そのような、
そして、創造のときからつながっている
たましい同士が
出会ったとき、
私たちは、それがほんとうの親であることを知り、
初めてほんとうの親に出会ったという、
たましいの震えるような経験をするのだと思います。

それは、親からしても同様でしょう。
「神として拝(はい)をされるようにしてあげよう。」
という言葉には、そんな意味があるのだと推察しています。

この創世神話については、また、べつの機会に書いてみたいと思っております。

コメント一覧

tokinosekimori-kitaiwahara
@1948219suisen こちらこそ、ありがとうございます。
私は、わからないながら、たましいについて書いてきました。
それはどうしてかといいますと、
神さまに、人が生きていくうえで、軸(じく)となるのはたましいですよ、たましいが良いことも悪いこともひきよせるのですよ、と教えていただいているからです。
私の文章は理屈っぽいところがあるので、読みづらいと思いますが、たまにのぞいてみてください。
たましいにさえ忠実であれば、きっとどんなことでも乗り越えられますよ。
えらそうに書いてすみません。
1948219suisen
ずいぶん久しぶりに天理教のお話を聞かせていただきました。私の叔母(母の妹)が天理教を信仰していましたので叔母が生きていたころはよくお話を聞かせていただいたものでした。今日は良いお話をありがとうございました。
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