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時の関守

これからを生きるきみへ (7) この世 Ⅱ

私たちがこの世を生きるということは、まるで自分を主役とした舞台に立っているようなものだ。
私はそう思っております。

ただ、本当は(現実には)、まったくそう思っておりませんでした。
私が霊的なことを勉強していくなかで、この世のありとあらゆるものが幻だといわれても、にわかに信じがたかったのです。
自分の手をじっと見つめて、この手はまちがいなくあるし、幻のはずないのになぁと、何度、思ったことでしょうか。

でも、最近、こう思うようになりました。
私たちたましいが、この世のはじまりにあたって、神から次のように言われたのではないのでしょうか。
「人間というものを創造(つく)って、その人間が幸せに暮らす姿を見てみたい。だから、お前たちもこの神の仕事を手伝ってくれないか。」と。

そのために、人間が暮らすこの世のありとあらゆるものが創造されることになりました。
そして、だんだんと環境も整っていきます。

まず、地と天にあって。
天にあっては、さまざまなものが降り注ぎ、この(地球という)環境の材料となります。
地にあっても、泥海のようなものから、陸地や海に別れ、陸地もまた、何度も隆起をくりかえし、やっと、植物が誕生し、人間が生存できる環境、準備が整うことになります。

やっと、人間がこの世を生きる舞台ができました。
この世は、人が舞台で演じるための舞台装置でもあるのですね。
つまり、この世界が出現するまえに、まったくの(物質的には)無があって、そこには、たましい、神という存在があっただけ。
そう考えると🤔、どちらが元で、どちらが枝葉なのかがわかるはずです。

私はよく、ある人とこんな話しをしていました。
「水戸黄門で、いろんな登場人物がいるけど、悪役の代官が一番大事だよね。
助さん格さんのどちらかいなくても(休んでも)、物語は成り立つけど、悪役(の悪代官)がいないと、番組が成り立たないよね。」と。
だから、誰もがその(与えられた)役を、一生懸命演じているのにすぎないのだと。
舞台が終われば(たましいにもどれば)、みんなが控え室にきて、たばこを吸いながら、談笑してるものね…

人生の真実とは、本当はそんなことなのかもしれないよ…と。
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